ホンダF1ヒストリー 64〜68
ホンダ RA302 1968年6月 (ラジエターがないために、ノーズは極度に細く低い)
エンジン 空冷120°V8 DOHC 4バルブ 88×61.4mm 430HP/10000rpm
排気量2987.5cc 圧縮比 11.5:1
燃料噴射 セミ・トランジスター点火 変速機 ホンダ製コンスタントメッシュ5段シャシー モノコック構造
ホイールベース2360mm 燃料タンク 200g 車両重量 500s 最高速 360km/h以上
6月29日早朝、ヨーロッパへ空輸。
7月7日のフランスGPに出場したが、急に降り出した雨が原因でクラッシュし、初めてホンダに乗った
フランスのベテラン、ジョー・シュレッサーは死亡するという悲劇的なデビューであった。
63年3月 モーターサイクルGPで世界を征覇したホンダは、次のステップとしてフォーミュラ1の進出を企図していた。(本田社長、中村良夫氏が中心)まず
クーパー・クライマックス(1.5リッターF1初期の4気筒型)を輸入し、荒川や村山テストコースを使って、F1の研究が始まった。
ホンダは最初、エンジンのみを製作し、ヨーロッパの既製シャシーに載せて(ロータスホンダ、ブラバムホンダの形で)まずF1レースに参加する計画であった。
英国の各社は大いに関心を示し、特にロータスは熱心であったが、ロ−タスはジャガーとの関係で(ジャガー傘下にあった)ホンダのエンジンを使うことができなくなり、
ホンダは独自にF1コンストラクターへの道を断固として進む決意を固めたのだ。
64年3月 開発責任者:中村良夫
自らハンドルを握って、暮夜、ひそかに鈴鹿(サーキットの照明設備はまだなかった)で試走をくり返しホンダF1のプロトタイプが製作された。
7月に完成したRA271は、日本で本格的にテストする暇もなく(F1に乗れるテストドライバーがいなかった)ヨーロッパに運ばれ、
まずザンドボォールトで初めて高速試走を行なった。ドライバーはF1には全く未経験の、アメリカのスポーツカー・ドライバー、ロニー・バックナムが起用された。
(なぜヨーロッパのF1ドライバーでなく、無名のアメリカ人を選んだかについて、ホンダの意図は、一流のドライバーでは、逆にドライバーのペースに引き回される
恐れがある)GPレースは「走る実験室」であり、生産車にフィードバックされねばならない。
第一段階として技術者の自由になるような、無名の新人の方が望ましいということにあった。
ホンダF1のデビュウー戦は64年8月2日、ニュウルブルクリンクのドイツGPであった。
※RA271の1号車はデビュウー戦でクラッシュ!
※第2戦モンザ・プラクティスでは、ラップ12までに5位に進出するという、めざましい走りっぷりを見せたが、
エンジンのオーバーヒートとブレーキ トラブルでリタイア!
※第3戦ワトキンス・グレンU.S GPでは、ノーズカウルをこわし、旧型でレースにいどみラップ51にオーバーヒートでリタイア!
1965 RA2721.5リッター 60°V12
横置き230HP/12000rpm
メキシコGPに優勝!
65年5月のモナコに、ホンダチームは2台の新しいマシーン(RA272)を携えて現れた。
ドライバーはバックナムに加えて、BRMから移ったリッチー・ギンサーの2人になった。
※第1戦 2台ともミスファイアに悩み、ギンサーは1ラップめに、バックナムは34ラップでリタイア!
※第2戦 ベルギーGP ヒルとスチュワートのBRM、クラークのロータスに次いで速いタイムを出し、一時4位にまで進んだが、
結局6位でフィニッシュ!
※第3戦 フランスGP 2台のホンダはトランジスター・イグニッションの故障でリタイア!
※シルブァーストーン、ザンドブォールト、オランダGP リタイア!
ドイツGPは休み、急拠東京へ送って大改造を施した。
そして舞台はメキシコに移る。 1.5リッター・フォーミュラー最後のレースである。
ホンダチームは中村マネージャー以下背水の陣を敷き、細心に試走をくりかえしてエンジンのチューニングを現地の条件に合わせていった。
2列めからスタートしたギンサーは大コーナーで早くもポールポジションから飛び出したクラークを抜き、7周めまでに2位との差を200m以上
開けて独走態勢に入った。56周めには1分56秒のラップレコードを樹立、しかし次のラップにはガーニーのブラバムが1分55秒8を出して
記録を更新し、猛烈に追い上げてきた。だがこの日、運命はホンダに味方した。
ギンサーはガーニーに3秒の差をつけてみごとに優勝!!(バックナムも5位に初入賞)
日本のホンダは遂にグラン・エプルーヴに勝ったのである。通算11レースめであった!
※65年のホンダRA272は当時の1.5リッターF1のなかで230HP/12000rpmという最強のパワーを持ち、特に高速サーキットでは
常に優位に立っていたのである。もし1.5リッター・フォーミュラがもう1年存続したなら、それはチャンピオンになり得るマシーンになった
だろうと惜しまれる。
1966 RA273
最初の3リッター・ホンダF190°V12
400HP+/10500rpm
66年から3リッター、500sミニマムのフォーミュラが始まる。(世は多気筒大馬力時代となる。
3リッターF1ホンダは66年7月に完成! 8月に鈴鹿で本格的なテストを行い2分11秒という好タイムを出してまず実力の一端をのぞかせた。
RA273のデビューは66年9月4日のモンザであった。ギンザーのホンダは全く快調で、ラップ13までにぐんぐん追い上げ、一時は2位にまで
進んだ。ところがなんと不幸なことに250q/h以上でストレート終わりの高速カーブに進入していった時、左後ろのグッドイヤーがバーストし、
立木に激突してしまったのである。車は大破したがギンサーは奇跡的に軽傷を負っただけで助かった。
このころが、ホンダとして総力をあげてF1と取り組むことができた時期ではなかったかと思われる。その後はN360などの生産車のために
技術者が引き抜かれ、またレースに対する上層部の方針もぐらついたりして、ホンダF1の戦力に影響を及ぼした。
※66年はモンザの後、ワトキンスとメキシコでギンサーとバックナムが乗り、久々に2台の白いホンダの姿がサーキット上に見られたが、
ワトキンスではともにリタイア、メキシコではギンサーが1周おくれの4位、バックナムが5周おくれの7位にとどまった。
1967 RA300 90°V12420HP+/10500rpm
英国ローラー・カーズと
協力し、6週間で製作
イタリアGPに優勝!
67年ギンザーはホンダを去り、代わってジョン・サーティースがホンダチームに加わった。(超一流のドライバーであると同時に、類まれな開発エンジニアであった。)
第一戦の南アフリカで3位になったほかは、モナコ、オランダ、ベルギーではいずれも、エンジントラブルでリタイア。
ドイツGPではトラブルこそなしに走ったが決して速くはなく4位に食いこむことができたのは、ひとえにサーティースのねばりの賜物だった。
(ホンダのパワーは最強であったが、車重は650sもあり、パワー/ウェイト・レシオではロータスに歩があった。
クラーク、ブラバム、サーティースの順で最終段階を迎え、もはやレースは決着がついたと思われた時、サーティスはブラバムを抜く決意を固めた。
独特のコクピットにからだを低く埋めた姿勢で猛追に移った。そしてあと3ラップという時にブラバムを抜いた!
最終ラップ、ブラバムは4速のままオーバーレブを承知でスロットルを踏みつづけた。ブラバムは最後の瞬間、スリップストリームより左へ出て抜きにかかったが、
サーティースのホンダはわずか2m先にラインを超えて勝った!67年イタリアGPにおけるサーティスの劇的な勝利だった!!
※この年サーティースとホンダは20ポイントの勝点をあげて、チヤンピオンシップ・ランキング第4位となった。
1968 RA301
90°V12 450HP+
シーズン半ぱから
ウィングがついた。
68年シーズン到来。元旦の南アフリカGPは、5周遅れの8位にとどまった。(RA300のキャリアは短く、南アフリカGPを最後に、レース出場をやめた。)
68年4月ホンダは従来の習慣を破って、限られたジャーナリストを鈴鹿に招いて、新しいF1ホンダ(RA301)の公開試走を行なった。
発表されたデータによれば60sも軽減され、530sでエンジン出力は450+に向上したと公表された。(鈴鹿のテスト中に、サーティースは2分9秒まで
タイムを縮めたが、出力は正直なところ370HP程度にすぎなかった。)
68年シーズンを通じて、スペインでは一時3位に上がりながら、ギアシフト・リンケージのボルトが脱落、モナコでは2位を走っているとき、ギアボックスが割れた。
高速コースのベルギーではスタートから早く、3ラップにわたってリードを保ったが、リアのアッパーウィッシュボーン取り付け部がこわれ、オランダでは
雨のレースになりイグニッションが不調、さらに操縦性も不安定になってラップ51で退いた。
68年フランスGPは悲劇的だった。サーティースにさえ事前に知らされなかったが、レースの数日前になって、突然全く新しい空冷120°V8エンジンを積んだ
ホンダF1(RA302)の新型が、フォード・フランスのジョー・シュレッサーの操縦で出場することになったのである。
フランスGPは雨であった。シュレッサーがラップ2にコントロールを失い、コースを飛び出して火災を起こし、焼死するという痛ましい事故が起こった。
(ひとつには悪天候が原因であった。しかし車自体の操縦性にも難があったといわれ、シュレッサーはプラクティス中に2度もスピンした。)
皮肉な事に、水冷RA301で出場したサーティースは、空冷ホンダの残骸を踏んでパンクが続出したということにも助けられ、2位でフィニッシュできた。
イタリアGPには、2台の水冷RA301と、1台の空冷RA302を持ってきた。(サーティースはここで初めてRA302でプラクティスに出たが、タイムは
RA301より10秒もおそかった。)
レースでは、サーティースは一時はトップに立ったが、ラップ9、スピンしたエイモンのフェラーリを避けきれず、ガードレールに激突して、最も勝ち目の濃かった
イタリアGPを失った。次のカナダGPではファイナル・ドライブを壊し立往生し、ワトキンス・グレンでは1周遅れながら3位にフィニッシュできた。(この時点でサーティースはホンダを去る決心を固めていた。)
外誌には、そのころからホンダは69年からレースに出ないだろうとか、サーティースはBRMへ移るだろうというニュースがチラホラ載りはじめた。
結局それが事実となったわけで、まことに残念至極というほかない。
※ゼロから出発して、暦年の強者、ロータスやフェラーリを向こうに回して互角に戦えるまでに成長し、
65年メキシコ、67年モンザで2回の優勝を遂げHONDAと日本の名を世界に轟かした5年間であった!!