伊勢国「土生(はぶ)」 姓調査について

 「土生」姓は、四日市市に2軒、津市に2軒、一志郡香良洲町に1軒、多気郡明和町に8軒、度会郡小俣町に2軒あります。このうち、四日市市の1軒と小俣町の2軒は明和町の土生氏の流れと考えられます。また、香良洲町の1軒は津市の土生氏の流れと考えられ、四日市市の1軒(他県の出身)を除き、明和町の土生氏の流れと津市の土生氏の流れに大別できます。

1.土生姓について
  「土生」は、「羽生」「埴生」とも表しますが、土生姓の本貫地は、和泉国南郡土生郷(現在の大阪府岸和田市土生町)とされ、延元2(1337)年の岸和田侍軍忠状に「土生彦次郎義綱」の名が見え、また、久米田寺文書によりますと、土生氏は同郷の開発本主であり、同郷の地頭職であったとされます。室町時代に入り、南朝の衰退とともに(一説に、土生氏は南朝方で、楠木氏に従っていたとされる)土生氏も没落し、安芸国に去ったとされます。その後、戦国時代末期の小早川隆景軍忠状には、土生太郎左衛門時治の名が見え、その子孫は安芸国豊田郡本郷(現在の広島県豊田郡本郷町)に現在も居住してみえます。また、同じく戦国末期の和泉国に土生城(織田軍に攻められ落城)の名も見え、その子孫は紀州藩に仕え、江戸時代末期には、和歌山町奉行、大御番頭等を勤めております。
 さて、明和町の土生氏ですが、ある家の口伝では、先祖「土生三右衛門」は、和泉国南郡土生郷で「仁役人(?詳細不明)」であったが、その後伊勢に来た、とするものがあり、同郷の土生氏の流れを印象づけています。また、文字の判別できる墓石で最も古いものは、寛保2(1742)年の土生加兵衛と刻まれたものが残されております。(俗名不明のものは、天保3(1683)年のものがあります)

(参考) 土生氏が小早川氏に従った経緯 〜大阪毎日新聞備後版(昭和十年五月二十四日付)による〜
 土生氏が豊田郡本郷町に来住するに至ったのは石山合戦の結果である。土生惣右衛門尉俊治は楠木正具とともに石山本願寺を援け毛利一族も本願寺に兵糧を送った。これが縁となって本郷に来り小早川隆景の寵をうけるに至ったもの。
 土生太郎左衛門時治、同子息時澄は小早川隆景に随って朝鮮征伐(ママ)に参加し文禄二年隆景から諱の景の一字を賜って景晟と改め後代々これを通字とした。
 土生氏は三浦泰村に属し寶治元年六月五日鎌倉法華堂に死んだ千葉次郎時常の後裔で芸藩通誌にも載せられた名族。土生福山系図によれば、父とともに鎌倉攻めに参加した土生弾正左衛門忠常の室は和田伊豆守宗勝の女で忠常の孫俊正の妻は橋本正時の女である。和田、橋本の両氏はともに楠氏一門であるから土生氏もまた楠氏一統といわれる。(以下略)

2.津市の土生氏について
 津市の土生氏は、江戸時代、一志郡雲津島貫村(現在の津市島貫町)で郷士であり、元禄5年の無足人の書付を所持しておりました。現在、菩提寺(円福寺)には、墓石は宝永4(1707)年以降、過去帳は元禄2(1689)年以降のものが残されております。
 ところで、島貫町に隣接する香良洲町には「土性(どしょう)」姓が多い(香良洲町に55軒、津市に29軒を始め伊勢で97軒)のですが、香良洲町の古老からの聞き取りの中に、土性について、「明治になり苗字を届ける際に、土性は土生の分かれであったが、土生は国司家の分かれであったので、本家に遠慮して、棒を1本増やして土性とした」というものがあります。その他に、香良洲町の土生氏が小学校時代に郷土史を研究していた教師から「土生は北畠の分かれだ」といわれたというものもあります。
 土生氏の由緒書(明治5年元津県提出のもの)によりますと、「先祖土生三郎太夫は木造左衛門尉具政の与力にて、地方70石賜り一志郡元村に居住す。戸木乱の砌、一志郡矢野村(現在の香良洲町)に退身、5代目三郎左衛門島貫村に来たりて書付(無足人)を賜った」旨が書かれており、香良洲町は土生氏にとって縁の地といえます。

 *無足人=足すこと無き人の意。転じて、禄を藩から受けない武士階級を指す。俗にいう郷士の
      ことであるが、藤堂藩では、支配の一つの方策として、無足人を制度化していた。農兵と
      もいう。当初は、領国内において、旧勢力を支配者側に取り込み農村支配を強化するた
      めの為の施策として(この場合は、北畠氏の残存勢力を藤堂藩に取り込む為)積極的に
      活用されたが、支配体制も安定した江戸末期になると、上層農民の藩への忠節(献金等)
      の対価として活用されることとなる。同様のものとして紀州藩の地士制度がある。

 また、土生氏が北畠氏の分かれという説については、国立国会図書館蔵の諸系図(鈴木真年編)の北畠系図の中の木造系図があります。

(参考) 伊勢の源姓土生氏 〜日本家系協会刊「土生・埴生・波生一族」より〜
 伊勢の北畠氏は、南朝の柱石北畠親房の子孫が代々国司として系を伝え、戦国時代末期に及びたる名家なり。
 此の北畠氏は、室町戦国の頃には諸流に分れ、夫々に在所の地名を己が氏号として用いたり。その一に木造氏あり。一志郡木造庄の地名によるものなり。早くより室町幕府に接近せし流れにて、戦国時代の後期、此の族人に土生氏を号する人ありき。(以下略)
 
 
・・・・・系図を載せようとしたのですが罫線がうまく引けませんでした。どなたかうまい表し方を教えていただけませんでしょうか・・・・・
    このページは作成途中です。まとまり次第続きは掲載します。どうか、温かい目で見守ってください。