「板取村史」から

 瀧波山、白木峠を境に板取村(岐阜県武儀郡)に隣接していた越前大野郡穴馬村は九頭竜ダム建設によって
離散しましたが、江戸時代から明治初期にかけて板取村と交流のあった村で、離散直前には上半原区39戸、下
半原区77戸、荷暮(にぐれ)区41戸、池ケ島区17戸、箱ケ瀬区21戸、持穴区28戸、大谷区74戸、野尻区30戸、
影路区27戸、米俵(とめどうろ)区29戸、市布区18戸、下伊勢区15戸、中伊勢区13戸、上伊勢区18戸、久沢区
27戸、鷲区10戸、長野区19戸、東小谷堂区15戸、三面区9戸の19区527戸の村でした。
 このうち上半原区は三島氏草創の地であり、次いで周戸氏が混入し、後世に落人の長谷川氏が入村した集落
で、長谷川氏12戸、美濃島氏6戸、三島氏5戸、田中氏4戸、周戸氏3戸、洞戸氏2戸、その他小松、宮腰、石神、
小椋、安藤、志摩、平瀬各1戸ずつでしたが鎮守は三島氏の信奉する神明神社(石器神像)でした。ただし、こ
の神明社は長谷川島に鎮座していたと伝え、後来者が社を占拠していたようです。落人原初住居をコモリ洞と伝
承し、ここは下半原に近い位置にあたります。
 三島氏の多いのは荷暮区で、41戸中18戸が三島氏でした。この集落は平家の落人集落といわれて八幡社を
祀っていました。その他三島氏は箱ケ瀬区に6戸、米俵区に1戸、大谷区に4戸、野尻区に2戸、下伊勢区に2戸
ありました。
 板取北部の三島氏は江戸時代初期に穴馬村上半原或いは荷暮から板取へ渡ってきたものと思われ、江戸時
代野口村の上の原は島口の畑で、そこに島口の神明神社があったことから、上の原を開拓したのは三島氏に違
いありません。
 明治45年(1912)その宮木を伐採しましたが、年輪が152あったといいます。するとこの宮木は宝暦12年(1762)
頃植えたことになり、三島氏はこの頃野口に入植していたことがわかります。文化文政の頃野口村には島口分耕
地が石盛7斗4升5才ありました。
 穴馬の三島氏は石器神像を祀る神明社系の一統であったことから、円石を神体とする老洞の神明神社は老洞
三島氏建立のものと推察されます。
 老洞三島氏源流の地白鳥町(岐阜県郡上郡)は油坂を越えて穴馬村と隣接しており、轆轤師研究の権威であ
る杉本寿博士は、遠く中世に遡ると二日町の三島氏も越前穴馬の轆轤師三島一統の分流であるといっておられ
ます。
 穴馬村の下伊勢神田の神明神社は旧太神宮御厨子で鎌倉以前のものであり、神主の野村新右衛門家伝承に
よると、この社の一の鳥居は武儀郡にあったといい、往古の武儀郡との交流を物語っています。