


秀吉が近江長浜城主だった頃、鷹狩途中に在る寺を訪れた。
「羽柴筑前じゃ、茶を所望致したい」
後頭部が突き出た少年が持ってきた大きな茶碗には、ぬるめの茶が
はいっていた。
鷹狩でのどが渇ききっていたので、秀吉は一気に飲みきった。
「小気味よし!さらに一服所望じゃ」
二杯目の茶碗は前に比べると小さめで、湯はやや熱めで量は半分く
らいであった。
秀吉はそれを飲み干し、もう一服を命じた。
三杯目の茶碗は高価な小茶碗で、湯は舌が焼けるほど熱く量は
ほんのわずかであった。
秀吉はこの少年の気配りに感心して長浜城へ連れ帰ったと云う。
この後頭部が突き出た心利いたる少年が幼名佐吉、ついで三也と称し
後年に石田治部少輔三成となるのである。
1522〜1591、大永2〜天正19室町後期・安土桃山時代の茶道家.千家流茶の湯の開祖。侘茶の大成者。初名は田中与四郎、法号は宗易、号は不審庵・抛筌斎。祖父は千阿弥。父は田中与兵衛。堺の人はじめ 茶を北向道陳に学ぶ。のち武野紹鴎の門に入り、奥義を極め、能阿弥系・珠光系の両茶道を併せて利休流茶道を樹立した。紹鴎が樹立した侘茶は利休によって大成され、書院的貴族的な茶に代わって草庵的平民的な侘茶が成立した。はじめ織田信長に仕えて500石を受け、後に豊臣秀吉に仕えて2000石を受けたが、1590(天正18)年秀吉の怒りを買い、翌年自刃した。
「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた人、栄西禅師。現代、あらためて健康によいと注目されているお茶の効能を、はじめて日本人に知らせた人物です。日本の茶の歴史は栄西の伝法とともに始まりました。栄西は日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、承元5年(1211)『喫茶養生記』を著します。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されています。また、森鹿三氏の解説によると、喫茶養生記には初治本と再治本があり、再治本は、この3年後の建保2年(1214)1月に書写し終ったといいます。
お茶の効能について記した最古の記述は、鎌倉時代の記録書として有名な『吾妻鏡』。建保2年2月の条に、将軍実朝が宿酔(二日酔い)の際、栄西禅師から茶とともにこの書を献ぜられ、喫したところたちまち治癒されたと伝えられています。このことによって、上流階級の間で茶がもてはやされたことは言うまでもありません。
栄西は、再治本を記した翌年の建保3年(1215)7月、寿福寺にて没しました。