シルビナ・オカンポに
くだんの小説家が残した明らかな仕事は容易に短く列挙できる。それだけに、アンリ・バシュリエ夫人のいい加減な目録にある脱落や追加は許しがたい。プロテスタント偏向を露骨にみせるある新聞が、哀れな読者をその侮辱的なやり方に巻き込んでいるのだ (たとえそれがわずかなカルヴァン主義者ばかりで、フリーメイソンや割礼者達とは無縁にしても、である)。メナールの親しい友人一同は目録に遺憾を憶え、ある種の悲しみすら感じている。墓所の大理石の前、こけた糸杉の下に集ったのはつい昨日のことだというのに、早くも「過誤」が彼の「追憶」を曇らせようとしている...断固、少々の是正が必要だ。
わたしの乏しい権威などは一蹴するに容易い。しかしながら、二つの高貴な証言について言及させて頂きたい。ド・バクール男爵夫人 (その忘れ難い「金曜日のサロン」で今は亡き詩人と知遇を得る光栄に与った) は下記の一覧について同意して下さった。デ・バニョレッジオ伯爵夫人は、モナコ公国で最も洗練された精神の持ち主の一人であるが (今はペンシルバニア州ピッツバーグにお住まいだ。最近、国際的な慈善活動家であるサイモン・カウチと結婚されたことで、彼の無私な活動の信徒から大いに誹謗(!)されておられる)、威厳ある慎み深さを犠牲にしてLuxe誌上の公開書簡で同じように了承を与えていただく厚遇を得た。これらの御墨付きに不足はないと信じる。
すでに述べたように、明らかなメナールの仕事は容易に列挙できる。細心の注意で彼個人の記録を調べた結果、下記の物から成る事がわかった:
ここまで (不明確な即興ソネットは除いた。それらはアンリ・バシュリエ夫人の大らか(もしくは貪欲)なアルバムの為のものだ) が明らかなメナールの作品で、それを年代順に並べてある。さていよいよ以上とは違った作品に移ろう。それは地の下に潜みどこまでも英雄的で並ぶものなく、加えて人間の可能性に挑む(!)未完の作品である。恐らく同時代で最も重要な意味を持つこの作品は、『ドン・キホーテ』第一部の第九章と第三十八章、及び第二十二章の断片で成立している。私もこんな主張がナンセンスに聞こえる事は知っている。が、その「ナンセンス」を立証する事こそこのメモの最優先の狙いなのである。2
問題の企図は二つの対照的な価値をもつテキストにインスピレーションを得ている。一つはノヴァーリスのあの文献学的断章 (ドレスデン版では番号2.005にあたる) で、特定の作家との「完全な同一化」のテーマが描かれている。もう一つはある種の寄生的書物の手法、つまりキリストを並木の大通りにすえたり、ハムレットをカヌビエール通りにおいたり、ドン・キホーテをウォールストリートに配したりするようなやり方である。趣味の良い人間皆に共通する思いとして、メナールもそういう空しいカーニバルを嫌悪していた。曰く、そこから生まれるのは時代錯誤の卑俗な娯楽だけである、(もっと酷ければ)全ての時代が同じとか違うとかいった思いつきだけの着想を弄ぶのみだと。彼が面白いと思っていたのは、例え矛盾していようが表層的だろうが、有名なドーデーの試みの方であった (タルタランという一人の役に、才気あふるる郷士とその従者をまとめてしまう...)。 メナールが現代版ドン・キホーテを書くために生涯を捧げたなどという輩は、鮮明な彼の記録を貶めているのである。
別のドン・キホーテを組み直すのではなく(それは簡単だ)、まさにドン・キホーテそのものを組み上げる。もちろんオリジナルの機械的転写ではない。コピーを企図した行為ではないのだ。その驚嘆すべき狙いとは、段落と段落、行と行がミケル・デ・セルバンテスのものと一致するページを生み出そうとすることであった。
「私の目標は素晴らしいの一言に尽きます」そう手紙に書いてきたのは1934年9月30日、バイヨンヌからである。「神学的、形而上的証明の最終目的 - 外部世界、神、因果律、宇宙の諸形態 - は私の暴き出した小説に劣らず目の前にありふれたものなのです。唯一の違いは、哲学者たちなら仕事の途上の段階を楽しい本にして公表するところを、私は段階の喪失を決心した点にあります」事実、彼は草稿一つ残さず、何年にも渡る仕事の痕跡を消した。
当初考えられたのは比較的素朴な方法だった。スペイン語に熟達する事、カトリックの信仰を取り戻す事、モーロ人やトルコ人に敵意を抱く事、1602年から1918年までのヨーロッパの歴史を忘れる事、ミケル・デ・セルバンテスと化す事。ピエール・メナールはこれらの手続きを検討し (十七世紀のスペイン語をかなり正確に使いこなせるようになったのは分かっている)、しかし簡単に過ぎるとして放棄した。無茶だからだろ、と読者は思われるだろう。それには同意するのだが、そもそも企ては端から無茶なものなのだし、半ば到達不可能なあらゆる方法のなかでも、そうしたやり方はいささか面白みを欠いている。二十世紀にあって十七世紀の人気作家となる事は落魄なのである。セルバンテスとなりドン・キホーテに至る行為は、いかなる方法であれその困難さを減じてしまう (またそれゆえ面白みも薄れる)。ピエール・メナールであり続け、ピエール・メナールの経験を介してドン・キホーテへと至る方がより挑戦的なのだ (ついでに言えば、この確信が故にドン・キホーテ第二部の自伝的プロローグは取り除かれた。プロローグを含めば別の人物 - セルバンテス - を創造する事にはなっただろうが、同時にドン・キホーテがメナールでなく彼を表現する役割を担ってしまう。もちろん、そのような安易な方法は拒否された) 「私のもくろみは本質的に難しいものではないのです」手紙の別の箇所にこうあった。「私が不死でありさえすれば完了するのですから」告白するべきだろうか。私はいつも彼が仕上げたのだと心に思いながら、ドン・キホーテを、全てのドン・キホーテをメナールの意志を受けたものとして読んでいる。昨日の夜も、第二十六章 (彼が手を付けていない章) をめくっていて、「川のニンフたち、惨めに濡れたエコー」という並外れた一文の上に彼の文体、彼の声のようなものを認めた。その心理の形容と肉体の特徴が効果的に結びついた表現は、シェイクスピアの詩の一節を思い起こさせる
そこへ、敵愾散らすターバン姿のトルコ人が...
何故ドン・キホーテなのか、と思うかもしれない。この選択は、スペイン人ならば説明不能なところなどない。が、確かに彼が、エドモンド・テストの、ヴァレリーの、マラルメの、そしてボードレールの源流たるポーにとりわけ傾倒するニーム在住の象徴主義者とあっては事態は不可解である。上述の手紙はこの点にも触れている。「ドン・キホーテは」とメナールは弁明する。「大変興味深くはあるのですが、何といいますか、逃れられぬという感じではないのです。森羅万象を想うとき、どうしても思い起こすのはポーの感嘆なのです
この園は、なんと魅入られた姿様なのか
あるいは『酔いどれ舟』や『老水夫行』などもそうなのですが、しかしドン・キホーテの場合、なくても想いは広がります。(もちろん、これは私の個人的能力を言っているのであって、これらの作品の史上の価値のことではありません)。ドン・キホーテは偶然的な本です。あのドン・キホーテでなくてもよいのです。類語反復に陥らないような構想で書けるのです。私は十二か十三のころに、たしか全編を読みました。何章かは丁寧に読み返しもしましたよ。今はそんな気はありませんが。また寸劇、喜劇、『ラ・ガラテア』、『模範小説集』、まさしく労作だったろう『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』、『パルナソ山への旅』も学んでいます。私のドン・キホーテに関する全般的な記憶は、忘却と無関心とで単純化されているのですが、未だ書かれていない本の曖昧なイメージととてもよく一致するのです。このイメージを仮設 (これには誰も正当な反論はできません) した以上、私の問題がセルバンテスの場合よりも難しいということに議論の余地はありません。大らかだった先駆者は運との共作を受け入れました。不朽の名作は少々「やんちゃな」やり方で組み立てられ、言葉と発想の慣性に任せて成し遂げられたわけです。私は彼の天衣無縫な作品を逐語的に再構成するという不思議な義務と向かい合うことになります。この孤独なゲームを支配するのは二つの両極端のルールです。一つは形式的、心理的な異文を試みさせるものであり、いま一つはそれら異文を『原典』のための生贄とし、なおかつそのような消尽行為を反駁を許さぬ形で正当化するというものなのです。人為的な縛りに加え、根本的な問題もあります。十七世紀初頭にドン・キホーテを書く事は、理にかなう、必然的な、また恐らくは宿命的な試みであったでしょう。二十世紀初頭では、およそ不可能なことです。三百年の歳月はなにも虚しく過ぎたわけではなく、とても複雑な物事をはらんでいます。その中の一つが、まさしく『ドン・キホーテ』なのです」
これら三つの障害にも関わらず、メナールによる断片的ドン・キホーテはセルバンテスのものよりも精緻にできているのである。先者は、騎士道物のフィクションと自分の故国の現実の辺鄙さそのままとを対峙させている。一方メナールはその「現実」に対してカルメンの故国、レパントがありロペがいた時代を選択的に当てた。スペインびいき丸出しのやり方こそが、モーリス・バレスに、ロドリゲス・ラレッタ博士にああいう選択をさせたのではないか!と。メナールは全く当然にそれを回避したのだ。彼の作品にはジプシーも征服者も神秘主義者もフェリペ二世もスペイン異端審問もでてこない。地方色は軽視し、無視する。この見切りは歴史小説の新たな意味を示すものだ。この見切りは『サランポー』を徹底的に断罪するものなのだ。
個々の章の検討も驚くべきものだ。例えば、第一部第三十八章、「ドン・キホーテが文武両道に渡って行なった興味津々たる演説を扱う」章を見てみよう。周知の通り、ドン・キホーテは、 (ケベードがやや時代を下った『万人の時間』の同様の章でも触れたように) 文芸を告発し武勇を支持している。セルバンテスは老兵を自任していたから、自分自身の考えを書いたということだ。一方ピエール・メナールのドン・キホーテ (作者は『聖職者たちの反逆』やバートランド・ラッセルの同時代人だ) がそのようなうやむやな詭弁を繰り返すとは!バシュリエ夫人はそこに作者の、英雄志向への驚くほど典型的な帰属を見ている。多くは (全く浅い読みだが) ドン・キホーテの単なる複写を見る。ド・バクール男爵夫人は、ニーチェの影響を認める。三番目の解釈 (反論の余地が無いといえる) のあとに第四の解釈を加えるべきかは悩む所である。ピエール・メナールの聖人のような慎ましさには非常によくなじむ。なにしろ言いたい事を完全に正反対の意見にするという諦念じみた皮肉な癖の持ち主なのだ (ジャック・ルブールのシュールで儚い覚え書きにある、ポール・ヴァレリーへの酷評を思い出してほしい)。 すなわち、セルバンテスとメナールのテキストは文字通り同一であるにも関わらず、後者の方がほぼ無限に豊かなのである (より漠然だという批判もできるが、漠然さは豊富さでもある)
メナールとセルバンテスのドン・キホーテを比較すると新たな発見がある。例えば、セルバンテスはこう書いていた (ドン・キホーテ第一部、第九章):
...真実、その母は歴史にして、時の好敵手、所行の保管所、現在への模範と訓戒、来るべきものへの序文
十七世紀に書かれた、「無学の天才」セルバンテスの書いたこの列挙は、歴史の単なる衒った賛辞にすぎない。それにひきかえ、メナールはこう書く:
...真実、その母は歴史にして、時の好敵手、所行の保管所、現在への模範と訓戒、来るべきものへの序文
歴史、真実の「母」。この着想は驚くべきものだ。ウィリアム・ジェイムズの同時代人であるメナールは、歴史を現実の探究物ではなく、源と定義する。歴史的真実は彼にとって、かつて起った事ではない。かつて起きたと判断されるものなのだ。最後の項目「現在への模範と訓戒、来るべきものへの序文」などは、ふてぶてしいまでにプラグマティズムそのものである。
文体もまた対照的だ。(結局外国人である)メナールの擬古的な文体には気取った所が感じられる。先駆者にはそれがなく、当時の普通のスペイン語をのびのびと操っている。
いつまでも無に帰さない知的営みなどあり得ない。始めは信憑性ある宇宙論でも、年月を巡り、哲学史の単なる一ページ (一段落とか名前だけとは言わぬまでも) となってゆく。文学ではそのような衰えは一層甚だしい。ドン・キホーテは (とメナールが私に言った事だが) 何よりもまず痛快な本だった。それが今日では、愛国者たちの乾杯の、文法屋の高慢の、猥雑な豪華版のための口実でしかない。栄光とは無理解であり、それも恐らくは最悪の形のものなのだ。
こんなニヒリズムの立証には何も新しい事はあるまい。特記すべきはピエール・メナールがそこから導いた決意である。彼は人のあらゆる苦難に待ち受ける空虚さを乗り越える事を、複雑で、最初から下らないと分かっている試みに挑むことを選び取った。既存の本を外国語で反復することに細心の注意を払い、不眠の夜を捧げたのだ。下書きを積み重ねた。校正を繰り返し、何千枚もの原稿を破り捨てた3。それが何人の目にも触れる事を許さなかったし、後に残る事の無いよう気を配った。私は再構築を試みたが無駄だった。
私は最終的なドン・キホーテを重ね書きされた羊皮紙と見るのが正しいと思う。その上には、かすかだが判読できなくも無い痕跡が、我々の友人の「前の」筆跡が透けて見える。残念ながら、ただ一人第二のピエール・メナールだけが、同じ仕事を通してこのトロイを発掘し、蘇らせる事ができるのだ....。
「考えること、調べること、創造することは」と彼はまた書いている「特別な行為ではなく、ごく普通の知的な呼吸作用なのです。その作用のたまさかの遂行を称賛する事、他人の手になるカビの生えた思考をため込む事、『普遍博士』の考えた思想をにわかに信じがたいといった驚きを持って思い出す事、何れも我々の無気力と野蛮さを告白するに等しい。全ての人間はあらゆる思考が可能でなければなりませんし、将来はそうなると考えているのです」
メナールは (恐らく意図せずして) 未熟なまま止まっていた読書技術を豊かなものにした。故意のアナクロニズムと誤読に基づく新技術の持ち込みである。無限に応用できるこの技術は、我々に『オデュッセイア』が『エンネアデス』以降に書かれたように、アンリ・バシュリエ夫人の『ケンタウロスの園』をアンリ・バシュリエ夫人が書いたように読ませてくる。この技術はどんな静かな書物ですら冒険に満ちたものにする。ルイ=フェルディナンド・セリーヌかジェイムズ・ジョイスが『キリストのまねび』をものしたと考える事は、霊性の薄れた説教を適切に刷新する事にはならないだろうか?
ニーム、1939
[1] アンリ・バシュリエ夫人は、フランシスコ・サレジオの『信心生活入門』をケベードが逐語訳したそのまた逐語訳も挙げている。ピエール・メナールの蔵書にはそのような仕事はない。恐らく我々の友人の冗談をそのまま受け取ったのだろう。
[2] ピエール・メナール像を描き出すという第二の狙いもあった。しかしド・バクール男爵夫人が用意していると聞く金色のページやカルロス・ウルカドの繊細で精緻なペンさばきに挑むことなどできようか。
[3] 方眼入りのノート、黒い抹消線、独特な印刷上の記号、虫のような文字の事を思い出す。彼は夕暮れ時、ニームの場末に出かけていくのが好きだった。一冊ノートも持っていき、焚き火を楽しんでいたものだ。