アネモネ

ミントのママ

 暑い夏の午後、ばくはハンモックで昼寝をしていた。誰かが体をゆする。

 「月彦、ねえ、月彦ったら」

 ぼくを起したのはアネモネだった。アネモネは、二つ年上の姉さんだ。母が死んで三年目の夏に、父さんは新しい母さんを連れてきた。アネモネは、新しい母さんの連れ子だった。

 「ほら、これね、カラスウリの花よ」

 ぼくは眠けまなこで、白い花を見た。

 「カラスウリって、花が咲くのか・・・」

 「山に咲いてたの。秋になると、赤い実をつけるのよ。カラスウリが言っていたんだけど、『ぼくの実はしもやけにきくよ』って。けっこうおしゃべりなんだ、あいつ」

 アネモネは、毎日のように山や森へ行く。アネモネが不思議な力の持ち主だと知ったのは、ぼくの家に来た始めての夏だった。

 

 カシの木の下に寝そべって、地面に耳をあてているアネモネ。

 「何か聞こえるの?」

 「しーっ、静かに」

  アネモネは、ひとさし指をそっとくちびるにあてる。何時間もずっと寝そべったままだ。

 夕方になった。地面の穴から、一匹の幼虫が現れた。幼虫は、カシの木によじ登っていく。ぼく達は目をこらして、じっと幼虫を見つめていた。

 「さあ、もういいよ。でておいで」

 アネモネが呼びかけると、幼虫の背中が割れて、でてきたのはセミだった。セミは、まだ鳴くことができないようだった。

 「『あしたの朝、仲間のところへ飛んでいくよ』って言ってるわ」

 「セミの言葉がわかるの!?」

 「うん。最初は、土の中から声がしたの。カシの木の汁を、土の中ですってたのよ」

 シカの木の汁って、どんな味がするんだろう。ココナッツジュースみたいな味かな。ぼくはこの時、アネモネのことがうらやましくてたまらなかった。アネモネみたいに、セミと話ができたらどんなにワクワクするだろう。

 

 アネモネが庭のすみっこで、うずくまって泣いている。

 「アネモネ、どうして泣いているの?」

 のぞきこむと、アネモネの掌にアゲハチョウがのっかっている。羽が少し破れていて、くだけ散ったステンドグラスのようだった。

 「『まだ夏なのに、死んでしまうのは悲しいよ』ってチョウは言ったの。・・・最期のお願いを訊いてみたらね、『野原で死にたい』って」

 セミのように殻を割って、幼虫から進化していく虫もいれば、こうして死んでいく虫もいる。もちろんセミだって、いのちは短いけれど・・・・・・。

 「ぼく達が、野原へ連れて行ってあげよう」

 ぼく達は手をつないで、土手を歩いて野原へむかった。しばらく歩くと、赤い斑点模様の浴衣を着た女の人が見えた。女の人は手招をして、ぼく達を呼んでいる。

 「こんにちは。今日はとても暑いわねえ」

 女の人に話しかけられて、ぼくたちはマジマジとその人を見つめた。手にはうちわを持って、パタパタとあおいでいる。ツンと鼻をつく匂いがしたどこかでかいだことのある匂いがした。クンクンと犬のように鼻をふくらませていたぼくは「ハッハッハックショーン」おもいっきりでかいくしゃみをしてしまった。

アネモネは、クスクス笑っている。

 「花粉が月彦の鼻をくすぐったのよ」

 よく見ると女の人の体から、粉のようなものがうちわにあおられて、あたりに飛び散っていた。

 「花粉だって!?」

 「そうよ。ね、カノコユリさん」

 アネモネにカノコユリと呼ばれた女の人は、うちわをあおぐのをやめた。

 「ちょっと刺激的だったかしら。でも、いい匂いでしょ」

 ああ、そうだ。このツンとした匂いは、母さんが庭に咲かせているユリの匂いといっしょだ。

 「君は、ユリの花の妖精なの?どうして人間の姿なの?」

 カノコユリは、なまめかしくほほえんだ。

 「あたしは、野生のユリのなかまなの。人間が種をまかなくても、花をさかせることができるのよ。野生の花や木は、いろいろな姿になって、人間の子供の前に現れたりするってこと、知ってた?もちろん見える子もいれば、なにも見えない子もいるけどね」

 アネモネは掌をそっと開いて、アゲハチョウのカノコユリに見せた。カノコユリはとても大切な宝物を受け取るように、アゲハチョウをうちわの上に乗せた。ぼく達はカノコユリに別れを告げて、また歩きだした。

 マンジュシャゲが、花火のように群れになって咲いている。秋がそこまで来ているんだ。

 「月彦、土の中へ行ってみない?」

 「えっ!土の中だって?!」

 アネモネが突然、不思議なことを言いだした。虫でもないぼく達が、土の中に行くなんてできっこないのに。 

 「土の中の世界って、どんなところなのか見てみたいと思わない?」

「そりゃあ見てみたいよ。虫になって、土の中をもぐってみたらおもしろいだろうね」

 「虫になろうよ、月彦」

 アネモネの目は、キラキラと星のように輝いている。アネモネとなら、虫になることだってできるんじゃないか。そんな気がした。

「虫になってもいいよ。・・・でも、また人間に戻れるのかな」

「だ・い・じょー・ぶ!呪文をとなえれば、またもとに戻れるから。呪文のことは、カラスウリが教えてくれたのよ」

 「カラスウリって、アネモネが山で見つけたとかいう?」

 「うん。カラスウリのそばに、カプセルが埋めてあるんだって。そのカプセルの中に、虫になる呪文が書いてあるそうよ」

 ぼく達は、さっそく土の中へ探検の準備にとりかかった。懐中電燈、水筒、それにビスケット。いろいろつめて準備OKというところで、

「おーい、月彦。いるかぁー」

 ドカドカと二階へあがってきたのは、クラスメイトのエイスケだった。

 「あっ、そうか!エイスケと映画見に行く約束してたっけ」

 「まったくやんなっちゃうな。忘れんなよ」

 エイスケは、黒豆のようなちっちゃな目をクリクリさせて口をとがらせた。

 「ねっ、エイスケ君もいっしょに行かないかな。月彦とあたし、探検に行くの」

 アネモネの突然の誘いに、エイスケはますます目をクリクリさせた。

 「探検かあ。映画もいいけど、月彦の姉ちゃんと、探検ってのも悪くないよな」

 虫になるのには、相当な覚悟がついているっていうのに・・・。泣き虫のエイスケには、絶対無理だよ。

 「どんな探検なのか、教えていいの?」

 アネモネの耳元でささやいた。アネモネは、フフッと笑っただけだった。

 

 アネモネはぼく達の先頭にたって、グングン山道を進んで行く。

 「どこまで行けば、カラスウリがあるんだ?」

  ぼくが、アネモネに尋ねた。

 「もっともっと山の奥よ」

 「こんなとこまで来ちまって、帰りに道に迷ったらどうするんだよう」

 エイスケは涙声になっている。それでもアネモネは、エイスケの言葉なんか耳に入らないみたいに、どんどん山の奥に入って行った。

 ベソをかいているエイスケの横顔を、ぼくはちらっと見た。虫になって土の中を探検すると知ったら、エイスケはぶったまげて、腰をぬかすかもしれない。ところがエイスケは、虫になる前に早くも腰をぬかしてしまった。

 「やあやあ、アネモネのおでましだね。今日はおともを、ふたりも連れてきたのかい」

 ぼく達に話し掛けてきたのはろくろ首だった!ろくろ首の顏は、細い巻きひげで胴体つながっている。

 「ひぇーっ!おっおっおばけー!!」

 エイスケは気絶してしまった。ぼくだってびっくりした。「うわぁー!」と叫ぶとアネモネの後ろにとっさにかくれた。

  「あんたって、本当に化けるのがじょうずねえ」 

 アネモネは、ろくろ首の巻きひげをひっぱった。ろくろ首の顏は、赤くてテカテカしていて、よく見ると、愛嬌がないこともないけど。

 「カプセルを探しにきたの。土の中を探検するのよ」

 ろくろ首は、首をくるりと一回転させて、巻きひげである場所を、指さしてみせた。

 「モグラには用心するようにね。あいつらの牙にかまれたら、もうおしまいだよ」

 「うん。気をつけるわ。ありがとう。カラスウリさん」

 えっ、カラスウリだって!?このろくろ首がカラスウリ・・・・!

 「さあ月彦、今からカプセルを掘りおこすから手伝ってちょうだい」

 「わかった。でも。エイスケはどうするつもり?気絶したままだよ」

 「あのままにしておくしかないでしょ。あたし達だけで、土の中へ行くのよ」

 土を三十センチくらい掘ると、透明なカプセルが見えてきた。

 「あった! あった!」

 ぼく達は、飛びあがって喜んだ。カプセルの中には、茶色の紙が一枚入っている。紙には、呪文らしきものが書かれていた。

 虫に変身する時は

 『マッタケブリブリミンミンベーダ』

 人間に戻る時は

 『シイタケブリブリシーシーイーダ』

 なんだかまぎらわしい呪文だ。ぼく達は口をそろえて、虫に変身する呪文をとなえた。

 「マッタケブリブリミンミンベーダ」

 あれれ、体がモゾモゾしてくるぞ!今度はクネクネしてきて・・・・・・。いつしか僕たちは、ミミズになってしまっていた。

 「なんだようー!ミミズになっちゃったじゃないか。虫になるなら、カブトムシかクワガタがよかったのに」

 「あたしだってびっくりしたよ。どんな虫になるか、カラスウリに聞き忘れたんだもん」

 

 文句をいっていてもしょうがないか。とりあいず探検に出発することになった。ふたり、いいえ二匹のミミズは、土の中へもぐっていった。

 土の中には、見たことのない不思議な世界だった。セミの幼虫や、コガネムシの幼虫が見える。小さな卵も見つけた。

 「トノサマバッタの卵よ。赤ちゃんが生まれるのは、来年の春ね」

 ぼくは、ミミズになったアネモネに尋ねた。

 「あっちにも卵があるよ。あれも虫の卵なの?」

 「うん。あれはね、キリギリスの卵よ」

 もっと土の中深くへといってみることにした。アリが巣を作って、草の実をたくさん集めている。アリの部屋は、いくつにもわかれていた。草の実の部屋。卵の部屋。幼虫の部屋もあった。

 「あそこにも部屋があるわね。なんの部屋かしら。ちょっとアリに聞いてくるわ」

 アネモネは、忙しそうに動きまわっているアリに声をかけた。

 「あの部屋は、なんの部屋なの?小さなアリが、たくさん集まっているみたいだけど」

 「学校だよ。子供のアリの先生が勉強を教えるのさ。先生は女王アリだよ」

 ミミズになったぼくにも、虫の言葉がわかるようになってきた。

  ぼく達は、また土の中をクネクネと進んで行った。毛むくじゃらで大きなものが、こっちへむかってくるのが見えた!

 「あっ!クマだ!!」

 「ちがう、ちがう。クマなんかいるわけないでしょ。あれは・・・モグラよ!大変だ、月彦!!急いでにげるわよ」

 二匹のミミズは、必死でにげようとしていた。モグラは、すごいスピードで、こっちへ走ってくる。ミミズは、モグラの大好物なのだ。このままでは食べられてしまう。

 「だめだ。もう食べられちまうよ」

 「そうだ!呪文よ。人間に戻る呪文を。今すぐとなえるのよ」

 「マッタケブリブリミンミンベーダ」

 「ちがうわ。それは、虫に変身する呪文よ。えーと、なんだっけ、シイタケブリブリシーシーベーダ。あれっ、だめだわ」

 呪文を思いだせないぼく達は、ミミズのままだ。モグラの牙がかじりそうなところで、やっと呪文を思いだした。

 まにあった。危機一髪だった。人間に戻った僕たちを、土の中からひっぱりあげてくれたのは細い巻きひげだった。ろくろ首に化けたカラスウリが助けてくれたんだ。

 「だからアネモネ、言っただろう。モグラには気をつけるようにって」

 「ありがとう。あぶないところだったわ。でも、土の中はとてもおもしろかったわよ。ねえ、月彦」

 アネモネはぼくにウインクした。やれやれ、こんなめにあっても、ちっともこりてない。気絶していたエイスケが、目をさましたのだ。

 「大変だ。ろくろ首を見たら、また気絶しちゃうよ」

 ろくろ首は、首をクルクルと何回もまわした。赤くてテカテカしていた顔がなくなって、朱色の実をぶらさげたカラスウリになった。目をあけたエイスケは、とても興奮している。

「ねっねっ、見ただろ。ろくろ首のおばけ」

 「夢でも見たんじゃないの。エイスケ君」

 「それよりおなかペコペコだよ」

 ぼくのおなかが、グーと鳴った。モグラからにげられてホッとしたせいか、食欲がわいてきた。ぼく達三人は、カラスウリの横でビスケットを食べた。

 

 学校からの帰り道、アネモネに出会った。

 「呪文の入ったカプセルを、もとの場所に埋めに行くところなの」

 「ふうん、カラスウリにさ、助けてくれたお礼、言っといてよ」

 アネモネはうなずくと、ひとりで山へ行った。アネモネといっしょにいると、これからもたくさんの不思議なことがおこりそうだな。そんなことを考えながら歩いていた。

 「助けて! 助けて!」

 小さな声がする。アリジゴクの穴に落ちたアリが、助けを求めていた。アリジゴクというのは、ウスバカゲロウの幼虫だ。落ちてきたアリの血を吸ってしまう。ぼくが急いで、アリを拾いあげると、アリは「ありがとう。君のおかげで命拾いしたよ」とお礼を言った。

 「えらいわね」とナデシコの花に声をかけられ、「たいしたことじゃないよ」とてれながら返事をした。あれれ! いつのまにか、虫や花と話をしている!!アネモネとふたりでいる時は、虫や花が話しかけてくることもよくあった。ぼくがひとりの時には、虫も花もただの虫や花でしかなかったというのに・・・。アネモネが帰ってきたら、さっそくこのことを教えてあげなくちゃ。ぼくの胸は、ゴムマリみたいに弾んでいた。

 ぼくのこの力は、十八歳になるまで続いた。アネモネは何も言わなかったけれど、アネモネのほうが先に力をなくしてしまったようだ。いつのまにか、アネモネは少女から大人の女の人に成長していた。あいかわらず、虫や花は好きみたいだ。 だけど、もう山へは行かなくなった。

 森で時々、アネモネの姿を見かけることがあった。ひとりではなく、長身の男の人といつもいっしょだった。ふたりは手をつないでいることもあったし、男の人がアネモネの肩を抱いていることもあった。

 ぼくは遠くから、ふたりを見ているだけだった。声をかけることができなかった。子供の頃のように、ぼくとアネモネはもう手をつながない。

 ぼくが二十歳になった夏の日に、アネモネは嫁いでいくことになった。結婚式の日、モンシロチョウのような純白のドレスとヴェールをまとったアネモネに、ぼくは訊いた。

 「何年か前の夏の終わりに、山に行った日のこと覚えている? カラスウリが教えてくれた呪文・・・・」

 アネモネはほほえんだ。

 「もちろん覚えてる。月彦といっしょにすごせて楽しかった。新しい町に行って落ちついたら、手紙を書くわ。返事ちょうだいね。月彦」

 「・・・・・」

 ぼくには、アネモネがまぶしかった。教会へむかうアネモネが乗った車を見送りながら「どうしてぼく達は、きょうだいになってしまったんだろう」そんなことを頭の中でグルグル考えていたのだ。なぜ月彦は結婚式に出席しないんだ、とまわりの人に言われたけれど、どうしても式に出る気にはなれなかった。「姉さんがいなくなるのが寂しいんだろう。おまえ達は、血のつながったきょうだい以上に仲がよかったからな」

 お父さんが言った。

 「あなたの姉さんであることに、ずっと変わりはないものよ。会いたくなったら、いつだって会えるんだから」

 母さんが言った。

 ぼく達が子供の頃、虫や花と話をしていたなんて、誰が信じるだろう。大人になったぼくには、今日もあしたもあたりまえの日常が待っているだけだ。

 誰もいなくなった家の中にひとりでいると、エイスケが訪ねてきた。エイスケがやって来るのは久しぶりだった。

 「ここへ来る途中で、アネモネの花嫁姿を見かけたよ。妖精みたいにきれいだった。おてんばでさ、探検ごっこが好きだったアネモネがって思うと、不思議な気分だよなあ」

 エイスケの黒豆のようなちっちゃな目は、今も変わっていない。

 「エイスケ、山へ行ってみないか」

 ぼくの誘いに、エイスケは「えっ?」といった顔をした。

「おまえ、まだ山へなんか行ってんの? そういえば子供の頃、三人で山奥へいったことがあったよな。オレさ、その時におかしな夢を見た気がするんだ。おばけの夢」

 気絶してしまったエイスケのことを思いだして、ぼくはクスッと笑った。夢・・・子供時代の夢だったとしたら、夢のかけらを探してみたい。ぼくは、ひとりで山へ行くことにした。

 すぐに、カラスウリを見つけることはできた。実はまだ青い。たしかこのへんだったはずだ。土を掘ってみた。カプセルは見つからない。どれくらい掘っていただろう。ぼくは、とうとうあきらめた。地面に寝ころんで、目を閉じた。と、その時だった。

 「月彦、土の中へ行ってみない?」

 アネモネの声が聞こえた!それは、あの時のアネモネの声だった。はっとして、耳をすました。聞こえてくるのは、風の音だけだった。チョウが一匹、舞っているのが見えた。