黒いかりん
ミントママ
美紀の家の庭には、美紀が生まれるずっと前からかりんの木がある。
地面に落ちた青い小さなかりんの実を、美紀は、一心に拾った。
全部拾うと、両手一杯になった。
ガラス瓶にかりんの実を入れると、少しだけ水を注ぎ、勉強机の上に置いた。
夏が来て黄色いたわわな実となる前に、枝から落ちてしまった実を見ると、寂しさがこみあげてくる。
(真っ黒になっても、枝から落ちない実もあるのに)
冬が来ても、落ちない実が一つだけあった。
黄色かった実は黒く変色し、冬を越した。晩春には、淡い紅色の花が咲いた。
夏が近づくと、新しい実が少しずつ大きくなっていく。
黒い実は、絶対に落ちまいと言う強い意志で、枝にかじりついているかのようだった。
新しいいのちが死んでしまっても、老いぼれががんばっていることが、美紀には納得いかなかった。
そんなふうに感じてしまうのは、おととしの冬、肺炎で死んでしまった妹のことがあるからかもしれない。妹の由紀は、まだ九歳だった。
四つ年下の妹を、美紀はとてもかわいがっていた。
ぜんそくの持病があった由紀の発作がおきないように、いつも気をつけていた。
ふたりが写っているアルバムをみていると、母さんが美紀を呼んだ。
「ちょっと手伝ってくれない。おばあちゃんを部屋へ連れて行くのに、手を貸してほしいの」
おばあちゃんが、老人ホームのショートスティを終えて、家に帰ってきたのだ。
おばあちゃんは、数年前から痴呆症になっている。
「おばあちゃん、昨日からきげんが悪いんですよ」
老人ホームの若い職員が、ワゴン車からおばあちゃんを降ろしながら言った。
「まあ、そうでしたか。
すみません。お世話をかけました。」
母さんは若い職員にていねいにおじぎをすると、おばあちゃんの体を支えるようにして歩いた。
美紀も反対側から、おばあちゃんの体を支えようとした。
「ひとりで歩けるよ。ほっといとくれ」おばあちゃんは、美紀の手をピシャッとたたいた。
美紀は、頭がカッとなった。
「何すんのよ! おばあちゃんなんか嫌い!!ずっと老人ホームにいたらいいのに」どなるようにそう言うと母さんが「美紀、ちょっと待って」と止めるのも聞かずに、家へかけこんだ。
自分の部屋にこもったままでいると、母さんがやって来た。
「ねえ美紀、聞いてほしいの。おばあちゃんに、もう少し優しく出来ないかしら」
おばあちゃんの世話、由紀の死、いろいろなことが母さんを老けさせてしまったのだろう。
しらががめだつ母さんの髪を見ていると美紀は悲しくなった。
「おばあちゃんを、どうして老人ホームに預けたままにしておかないの。
ぼけたおばあちゃんが家にいるなんてはずかしいよ。友達も呼べやしない」「おばあちゃんね、老人ホームできげん悪くなったでしょ。職員の人に聞いたんだけど、戦争の話をしたお年寄りがいたんですって。おじいちゃんが戦死したこと、心の傷になっていたのよねえ。それでもずっと愚痴ひとつこぼさないで、女手一つで働きながら子供たちを育ててきた・・・。母さんは、おばあちゃんを見ていると思うの。どんな人だってみんなそれぞれ頑張って生きてるんだなって」「変だな。おばあちゃんはぼけているんでしょ。おじいちゃんが戦死したことも、忘れてるのかと思ってた」
翌日、美紀が学校から帰ると、おばあちゃんがかりんの木の下に立っていた。
おばあちゃんは何を思ったのか、竹竿をもってくると、黒いかりんの実をつつき始めた。
「おばあちゃん、何をしてるの?」「ああ、由紀かい。
おかえり」この頃は、いつも美紀を由紀と呼ぶようになった。
「ほら、みてごらん。
腐ったかりんがなってるよ。
見苦しいねえ。こいつを落としてしまうよ。
そうそう、あとでおまえにかりん酒を作ってあげよう。
ぜんそくによくきくからね」「かりん酒っていったって、まだ実が塾しきってないよ。
それに、私は由紀じゃない」おばあちゃんには、
美紀の言葉などまるで耳に入ってないようだ「エイエイ」とかけ声をかけながら、黒いかりんめがけて竹竿を振り回したが、バランスを崩した体がよろけた。「あぶない!」美紀が叫んだのと、おばあちゃんが尻もちをついたのは同時だった。「あいたたた」おばあちゃんは腰をこすりながら、顔をしかめた。「おばあちゃん、大丈夫?母さんを呼んでくるよ。」美紀は、あわてて家に入って行った。
おばあちゃんは、腰を痛めて入院してしまった。
どうしておばあちゃんが、あんなにもむきになって黒いかりんを落とそうとしたのか、美紀にはわからなかった。おばあちゃんの入院は、長くなりそうだと言うことだった。
つくつく法師が鳴き始めた頃、とうとう黒いかりんは地面に落ちてしまった。
美紀は、それをそっと手に取った。
おばあちゃんはもしかしたら、自分自身と黒いかりんを重ねて見ていたのではないか。
青い小さな実のまま地面に落ちたかりんを見て、美紀が由紀のことを想いだしていたように。
悲しみや怒りが、おばあちゃんの心の中には、一杯つまっているのかもしれないと思った。
小さな頃から、自分達姉妹をかわいがってくれていたおばあちゃん。
それなのに、年老いたおばあちゃんのことをうとましく思っていたんだ。
美紀は、そんな自分がはずかしかった。
年をとっていくってどういうことか、それでも一生懸命生きていくってことを、死んでしまった由紀の分まで私がしっかり見ておこう。
美紀は、そう決意した。
夏が終わろうとしている。
柔らかな澄んだ陽ざしが、かりんの実を黄金(きん)色に輝かせていた。
美紀ははしごを持ってきて、その実をもぎとろうとしていた。
「美紀、かりんをとるつもりなの?」いつのまにか、母さんがそばに来て見ていた。
「うん。入院しているおばあちゃんに、
かりん酒にして持ってってあげようと思って」「そうなの・・・。きっとおばあちゃん、喜ぶわ」母さんは、うれしそうに目を細めた。
美紀も、おばあちゃんの笑顔が見たいと思った。
「ほら、見てごらん。腐ったかりんがなってるよ。
見苦しいねえ」あの時言ったおばあちゃんの言葉を、美紀は時時思い出す。
黒いかりんは、はたして見苦しいものなのか。
いのちの限り生きることが、見苦しいなんてことがあるもんか。
今の美紀には、はっきりそう言いきることができた。