ニドムの星祭り

あらすじ

ミントのママ

 モスキートー()と呼び名をつけられ、学校でいじめに苦しんでいた星児は、登校拒否をする。東京を離れ、母の生まれた町ニドムへやって来た。ニドムの町では、三十年に一度という星祭りが、さそり座が最も美しく見える夜に開催されようとしていた。星祭りは、ギリシャ神話の世界をモチーフにした祭りである。星児は現実世界とギリシャ神話の世界とが交錯するなかで、赤毛でそばかすだらけの青年トリスタンと出会う。美声の持ち主であるトリスタンは、星児の伯父に気にいられ、家族の一員となる。星児とトリスタンの間にも友情が芽ばえるのだが、家のヤギやニワトリが食い殺されるという事件がおこる。犯人はトリスタンだった。半身半獣の姿になったトリスタンは、星児にうちあける。自分がギリシャ神話にでてくるケンタウロス族の生き残りであることを。人間の心と同時に獣の心を持っているという悲しいさだめを背負ったまま、何千年も生き続けていたのである。

人間の欲望によって聖なる森を破壊された森の神フンババは、トリスタンの中に怒りと悲しみの心をふうじこめ、永遠の命を与えた。星児の前から姿を消したトリスタンは星祭りの夜、「アヴェ・マリア」を歌う。音楽が好きで、歌っている時が一番優しい気持ちになれるというトリスタンの歌声に、星児は「人間も自然の一部なんだ」というメッセージを感じる。歌い終わると、トリスタンは雷にうたれたまま、再び姿を消してしまう。

夏の終わりに、星児は母とともに東京へ帰っていく。「自分に自信を持つんだ」そう言って励ましてくれたトリスタンの言葉を胸にいだいて。

 主役は星児とトリスタンだが、星児の伯父やいとこの百音、トリスタンの友達であるシャモア(ニホンカモシカに近い動物)のエレナも登場して、物語ではいじめで傷ついた星児の心が、力強く再生していくプロセスにして焦点をあてて描かれてある。

最後のほうで、星児は母に「あなたはもしかしたら死にたいとか、そこまで思いつめていたのかしら?」と問われる。それに対して星児は、死を考えなかったと答える。だが星児は、夢の中でさそりにおそわれ、流れ星となり死んでしまうんだ、いじめられない世界へと旅立っていくんだと実感している。「死と再生」の意味、「生まれ変わるためには死ぬしかない」ことを星児のたましいは気づいていた。実際の死ではなく、象徴的に「死ぬこと」を体験しようとしたのである。

 トリスタンの存在は、星児の影であるともいえる。影は必ずしも悪ではないし、かといって星祭りの伝説として語りつがれるようなヒーローでもない。優しい心の裏に獣の心も持っているトリスタンを、星児の心が受容したことによって、心の再生はより確かなものへとなっていく。


ニドムの星祭り

ミントのママ

(東京での暮らし)

 ぼくは、学校で「モスキートー」と呼ばれている。モスキートーというのは、英語で「蚊」のことをいう。

 やせっぽちで弱々しい奴だって、クラスのみんなから思われている。ぼくは、この呼び名が嫌いだ。

 たしかにやせっぽちで、ヒヨロッとしてはいるけれど、蚊みたいに皮膚に針を刺して、血を吸ったりはしない。モスキートーと呼ぶクラスのみんなのことも嫌いだ。

 ぼくは、学校に行くのを、ある日、突然やめてしまった。

お母さんは、

「星児、家でゴロゴロしてて、どうするつもりなの。あなたは、まだ中学一年なのよ。今からそんなんじゃ、高校に行くのだって、とうてい無理になってしまうわ」 とあたりまえのおとなが言うことを、あたりまえの顔つきで言う。

 ぼくが学校に行きたくないわけを、お母さんに話してはない。話したくないんだ。つまらないことで悩んでいるって、いわれてしまいそうだし、いじめにあっていることも知られたくない。

 お母さんは、困っているみたいだった。だれにも心を開こうとしないぼくを、どうやって扱ったらいいのかわからなくて、担任の先生だとか、いろいろな専門科の人のところへも、相談に行っているようだ。

 本当はお父さんとじっくり相談したかったのかもしれないけれど、お父さんは外国に行っていて、めったに帰ってこれない。

 商社に勤めているお父さんは、ひとりで外国で暮らしている。

 「星児は、私ひとりの子供じゃないのよ。父親であるあなたも、もっと真剣に考えるべきだわ。仕事が大切なのはわかるけど・・・」

 国際電話をかけているお母さんが、イライラしているのがわかる。

 「もう、いいわ。わかったわ。私ひとりで、なんとかするから」

 とうとうお母さんは、ガチャーンと電話をいきおいよく切ってしまった。乱暴に扱われた受話器が、おびえているように、ぼくには思えた。

 けっきょく、ぼくは学校をしばらくの間、休学することになった。お母さんの生まれた町で、ぼく達は暮らすことになった。

 東京を立つ朝、お母さんはマンションの近くの自然食品の店で、パンと野菜を買ってきた。お母さんは、サンドイッチを作ると、ホットミルクといっしょにテーブルの上に置いた。

 「お母さんのいなかに行ったら、とれたての野菜もたくさんあるし、おいしい牛乳も飲めるわ」

 お母さんは、三重県の小さないなか町で生まれた。御在所岳という大きな山があって、その山のてっぺんに、家は建っている。

千二百メートルという背の高い山なので、冬になると大雪が降って、気温は零下二十度にもなってしまう。

 どうしてそんなところに家があるかっていうと、カモシカセンターを経営しているからだ。ニホンカモシカは寒い国の生き物なので、夏でも北海道と同じ気候だという御在所岳のてっぺんは、住むのに適している。

 

 (ニドムの町に着く)

 ぼく達は、東京駅から新幹線に乗って名古屋に着いた。それからまた電車に乗って四日市に行き、四日市からはローカル線に乗りかえた。

 「終点の駅で降りるのよ。覚えているでしょ。家に帰るのは、何年ぶりかしら。おばあちゃんが死んだ時に帰ったきり、すっかり帰ってなかったわね」

 ぼくは、黙ったまま窓の外の景色を見ている。田んぼと畑の中に、点々と家が建っている。東京と同じ日本とは思えない、のどかなながめがずっと続いている。

 電車は、終点に近づこうとしていた。この小さな町にも、夏がこようとしている。

 稲穂は、青いきらめきをいっそう強くし、セミの鳴き声が、少しだけ開けた電車の窓から聞こえてくる。

 町の名前は、「ニドム」といった。アイヌ語で「豊かな森」という意味だと、前にお母さんに教えてもらった。

 駅には、おじさんが迎えにきていた。お母さんのお兄さんにあたる人で、奥さんとカモシカセンターをきりもりしている。

 おじさんは、いとこの百音も連れてきていた。百音という名前は、音楽好きのおじさんの思いがこめられた名前だ。若い頃、オペラ歌手になりたいという夢を、おじさんは持っていたという。

 百音は、ぼくより一つ年上の中学二年で、ロープ―ウェイのふもとの中学校に通っている。

 おじさんは、ぼく達のスーツケースをワゴン車につめこむと、ぼくにニコニコしながら話しかけてきた。

 「星児、元気にしとったか?おっちゃんとこのカモシカの世話をてつだってくれるんやろ」

 ぼくは、おじさんの日焼けした顔をちらっと見ただけで、何も返事をしなかった。ここには山だけで森なんてないのに、どうして町の名前がニドムとついているんだろうと、よそごとを考えていた。

 「せいちゃんって、全然外に出たことないんやないの? 肌の色が真っ白や。勉強ばっかりしとるんやろ」

 車が動き出すと、横に乗っていた百音が、ぼくの腕をつっついた。ぼくは腕をひっこめると、亀のように首をすくめた。

 「いつもこんな調子なのよ。ほとんど何もしゃべらないの」

 お母さんは、両手の掌を上にあげて、おてあげといったポーズをとってみせた。

 「まあええやないか。気長にのーんびりしとったらええんや。ここは空気もおいしいし、住んどる人間もせかせかしとらんし、星児の気持ちもなごむやろで」

 おじさんはそう言うと、「アルプス一万尺」と歌いだした。

 「お父さんのテノールは、もう聞きあきたで。時々、本物のオペラ歌手になったつもりで、なんやわけのわからへん歌、歌いだすんよ。耳ざわりやで」

 「こら、百音! わけのわからへん歌やない。あれは『アヴェ・マリア』いうすばらしい歌なんや。耳ざわりはないやろ」

 言い合いをしながらも、おじさんと百音は楽しそうだった。

 ぼくがお父さんと最後にしゃべったのは、いつだっただろう。日本にいた時も、お父さんはめったにぼくに話しかけてこなかった。

いつも帰りが遅かったし、たまにかわす言葉は、

 「星児、勉強のほうはどうなんだ」

とか成績のことが多かったように思う。

 ぼく達の乗ったワゴン車は、山道をぐんぐん登っていき、山のてっぺんについた。七月だというのに、空気は冷蔵庫のようにひんやりしている。

 おじさん達の家は、でっかい山小屋みたいな家だ。家の敷地内に、柵でしきった広場があって、そこにカモシカが数頭飼われていた。

 家の隣には小さなみやげもの屋があって、おばさんが観光客相手に開いている店だった。

 「せいちゃん、いらっしゃい。ずいぶん背が伸びたみたいやね」

 ちょっぴり太めのおばさんが、エプロン姿でぼく達の前に現れた。ぼくは、ぺこんと頭をさげた。

 「こら、星児!ちゃんとごあいさつしなさい。お姉さん、しばらくお世話になります」

お母さんがぼくの頭をこつんとこづきながら、おじぎをした。

「おなかがすているんやない? お昼ごはん、作っといたから。ささ、こっちへどうぞ」

おばさんは、畑でとれたてのじゃがいもで、コロッケを作っておいてくれたという。

丸太でできたテーブルの上に盛られたコロッケに、ぼくは、はしをつけなかった。

「星児、どうしたんや。食べへんのか?」

おじさんが、ぼくの顔をのぞきこんだ。

「おなか、すいてないんです。疲れたから、横になりたいんですけど・・・」

ぼくは、小さな声でぼそっと言った。

 

(ギリシャ神話の世界)

 百音が、二階へ案内してくれた。

「せいちゃんの部屋、ちゃんと用意してあるよ。ちょっと干し草の匂いがするかもしれへんけど。少し前まで干し草をお父さんが置いてたんやけど、せいちゃんが来るっていうんでどけたばかりなんや」

ベットと小さな木の机があるだけの部屋だったけれど、何もなくてすっきりしているところが、ぼくにはここちよかった。

教科書も参考書も置いてない部屋。このがらんとした殺風景な部屋は、からっぽのぼくの心に似合っている。

小さな机の上には、ガラスの花びんが置いてあり、赤いバラが一輪さしてあった。

ぼくは指を伸ばして、バラのとげにそっと触れてみる。

「東京って広いんやろ。東京のどこに住んどるの?」

「天沼」

 「てんぬま・・・。どんな文字を書くの?」

 「天は天気の天、沼はどろ深い大きな池のこと」

 「天沼かあ。ロマンチックな名前やなあ。天の川みたいや」

 「そんないいもんじゃない。ニドムのほうがいいところだよ」

 ぼくは、あいかわらずバラのとげをつついていた。

 「私ね、高校を卒業したら、東京へ行こうと思ってるんや。デザイナーになりたいの。 こんないなかにずっとおったら、夢なんかかないっこないもん」

「・・・・」

「せいちゃんのお母さんかて、東京の大学へ行ったんやろ。東京の会社に勤めて、そこで出会った人と結婚して。もうすっかり、東京の女の人ってかんじするもんね。うちのお母さんとえらい違いやわ」

 ぼくのお母さんもニドムを出る時、百音のように夢を持っていたのだろうか。

 ぼくには、お母さんのこともお父さんのこともよくわからない気がする。

 「そやけど、せいちゃん、いい時にこの町へ来たわ。今年の夏は、三十年に一度の星祭りがあるんよ」

 「星祭り!?」

 「お父さんが子供の頃にも、星祭りがあったんやて。今でもその時のことをよく覚えとって、時々話を聞かせてくれるんやけど。南の空に、さそり座がいちばんきれいに見える夜に星祭りをするんやて。お父さんはアポロンの役をするんや言うて、はりきってるわ」

 「アポロンって何?」

 「ギリシャ神話に出てくる神様のことや。町でいちばん大きな広場がこの近くにあるんやけど、そこでアポロンに扮したお父さんは、楽器の演奏に合わせて歌うんやて」

「ふうん。君は何の役をするの?」

 「アルテミス。月と狩りの女神なんや。あっ、そうや。ちょっと待っといて」百音は部屋をバタバタと出て行き、またすぐに入って来た。手には、一冊の本を持っている。

 ギリシャ神話の本だった。百音が開いて見せたのは、アルテミスについて書かれているページだった。

<アルテミス ― アポロンの姉で、月と狩りの女神です。若く美しい娘ですが、いつも狩人の姿をして、山野をかけまわっていました。人間や獣達の守り神でもありました>

 「狩人の姿をしてるって書いてあるやろ。私、自分でふくをデザインして、星祭りの日にはそれを着るんや」

 おてんばで活発な百音が狩人の服を着て、山や野原をかけまわるのは、とても似合っているけど・・・女神というのは、どうもしっくりこないなあと思った。

ぼくは、百音が部屋を出て行ってからも、ベットに寝そべってその本を読んでいた。

<アポロン ― 光の神、太陽の神様です。太陽の光をあびて、草木は花を咲かせ、実をむすびます。また、占いと牧羊の神でもあり、家畜を保護していました。音楽、建築、医者の神でもあって、アポロンは神の中でも特に尊敬されていました。>

カモシカの世話をしながら、音楽を愛するおじさんに、アポロンの役ははまり役だ。

でも、どうしてさそり座がいちばんきれいに見える夜に、星祭りをするのだろう。

ぼくは、本をそっと机の上に置くと、目を閉じた。とたんに眠けにおそわれて、泥のような深い眠りにおちた。

「あっ、そっちへ行っちゃだめだ!」

その声で、ぼくははっと目をあけた。

 四頭の白い馬が、馬車をひいているのが見えた。どの馬にも、白い羽が二つずつついている。 

声をあげたのは、馬車に乗っている男の子だった。馬は、男の子の言うことなんかおかまいなしに、高くのぼったり、低く降りたりした。

山のてっぺんに馬車がふれると、火がついて山の草木がめらめらと燃えだしてしまった。かと思うと、馬車は平野に近づき、田畑も町も燃えようとしている。

「たすけて! 誰かたすけて!!」

いつのまにか、叫びをあげている男の子の姿は、ぼくの姿になっていた。ぼくは火の馬車に乗って、空を走りまわっている。

あっ! ぼくの背すじが、すーっと冷たくなった。

 大きなさそりが、八本の足を広げて、毒のある尾をぴんとたてて、つかみかかってこようとしていた。あまりのおそろしさに、手に持っていたたずなを落としかけた。

「モスキートー」

さそりは、おそれおののいているぼくに、ぞっとするような声で呼びかける。

「モスキートー、おまえは虫けらだ」

ぼくは耳をふさいだ。

「やめろ! やめてくれ!」

「モスキートー、モスキートー」

さそりの尾がぼくに近づいてきて、ああ、もうだめだと思った瞬間、突然天空に閃光が走った。

それは雷だった。馬車に雷は落下し、ぼくも馬もみんな長い光の尾をひいて、ゆっくりと落ちていった。

ああ、流れ星になるんだと思った。ぼくは死んでしまうんだ。

もう誰にもいじめられない世界へと、旅立っていくんだ。あきらめと悲しみが、ぼくの心をぎゅっとしめつけ、涙があとからあとから流れた。

 

 

(不思議な星祭り)

「せいちゃん、せいちゃん、」

誰かぼくを呼んでいる。誰だ? ぼくの名を呼ぶのは。

声のぬしが百音であったと気づいた時、ぼくははっと目をさました。

心配そうな百音の顔がうつった。どうやら夢を見ていたらしい。

汗で、Tシャツがびっしょりとなっていた。

「どうしたん? ものすごくうなされてたで。お母さんが、晩ごはんを部屋へもってったって言うから来てみたら、せいちゃん、『うん、うん』うなってるんやもん」

机の上には、牛乳とオムレツが置いてあった。

「のどがかわいた。変な夢を見てたんだ」

 百音が牛乳を手渡してくれ、それをゴクゴクと飲み干した。

「どんな夢やったの?」

「火の馬車に乗っている夢だよ。馬車をひいていたのは、天馬だったのかもしれない。馬がめっちゃくちゃな走りかたをするもんだから、あっちこっちが火の海になってしまった。大きなさそりも出てきて、おそわれそうになった。それから、突然空に光が走って・・・・」

「雷が落ちたんやろ」

「えっ!?」

 ぼくはびっくりして、百音の顔を見つめた。どうしてぼくの見た夢の話を、百音が知っているんだろう。

「ギリシャ神話に、せいちゃんが見たのと同じ話があるんや。馬車に乗ってたのはアポロンの息子で、アポロンの反対をおしきって、火の馬車に乗ったんやけど・・・・、大さそりにおどかされたりして、最後には雷が馬車に落ちて、死んでしまうんや」

「・・・・・」

ぼくは言葉をなくしていた。現実の世界に、ギリシャ神話の世界がはいりこんできたような、とても変な気持ちだった。

百音は、部屋にある小さな天窓をそっと開けた。

「ほら、見て。ここからさそり座がよく見える」

ぼくも窓のそばへ行って、星をながめた。

「Sの形をした星が並んでるやろ。まんなかの星が、さそりの心臓。ずっと下の低いところに、ふたつななめに並んで光っている星が、さそりの毒針や」

モスキートーって、さそりはぼくを呼んだ。学校から逃げたってだめなんだ。世界のどこに行ったって、誰かがぼくのことをばかにしている。

「星祭りのせいやね」

百音がつぶやいた。

「えっ、何のこと?」

ぼくは、さそり座をじっと見つめたままの百音の横顔を見つめた。

「星祭りが近づいてくると、ギリシャ神話の夢を見る人が、いっぱいいるの。

三十年前も、ニドムの町では、そんな夢をたくさんの人が見たんやて。この町には不思議な言い伝えがあってね、ずっとずっと昔は、町全体が森やったそうや。妖精とか、神様とか、魔女とか、空想の世界の生き物が住んどったって言われているんや」

ニドム、その名のとおり、この町はかつては豊かな森でおおわれていたのだろうか。

ぼくは、机の上に飾ってある赤いバラに手を伸ばした。真っ赤なバラが、サソリの毒針のような気がした。

― ぼくは、モスキートーなんかじゃない。

いつかそれをわからせてやる。

バラの花びらを、一枚一枚ちぎってしまうと、とげだらけの細いくきが残った。 とげに、ひとさし指を押しあててみた。小さな痛みが指先に走って、赤い血がまるでバラの涙のように、一粒ひとさし指のてっぺんにのっかっていた。

 

(赤毛のトリスタン)

翌朝、ニワトリの鳴き声で目をさました。

一階へ降りていくと、おばさんがパンを焼いているところだった。

「おはよう。手作りのパンなんやけど、せいちゃん、食べるやろ?」

「はい、いただきます」

ぼくがかしこまった答えかたをすると、おばさんはフッフッフッと笑って、

「ニワトリの産みたての卵なんて、東京では食べたことあらへんやろ。卵焼きか目玉焼きか、どっちか作ったげよか?」

とたずねた。

卵焼きと答えると、おばさんは慣れた手つきで、卵を割ってボウルにさっと入れ、あわだて始めた。

「百音は、朝早くから踊りのけいこに行っとるんよ。近所の女の子達と、星祭りの日に踊ることになっとるとかでねぇ。ちょっとは上達したんやろか」

「星祭りのことは、百音ちゃんから聞きました。三十年に一度っきりの大変なお祭りのようですね」

「そうやの。ニドムの町も、この星祭りを機会に町おこしをしようということになってカモシカセンターにも、変わった動物が外国から送られてくることになったんやの。今日も、町役場の人が、打ち合わせに来てるんやけど」

「その変わった動物を目あてにした観光客が、これからはふえるんですね。」

ぼくは、おばさんと話しながら、自分の口からスラスラと言葉が出てくるのが不思議だった。最近では、お母さんとでもこんなふうにしゃべったことはなかったから。

おばさんは、焼きたてのパンと卵焼き、それに牛乳をテーブルの上に置いた。いい匂いがした。おなかがグーとなった。

「その変わった動物っていうのは、『シャモア』っていう動物やの。ニホンカモシカに近い種類なんやけど、え―っと、なんやったかな。そうそう思いだした。ウシ科ヤギ亜科に属するそうや」

「ウシカヤギアカ? それって牛に似てるんですか?」

おばさんは、またフッフッフッと笑った。

「私もまだ見たことないやけど、牛には似てへん思うわ。四メートルも跳躍力があるそうや。なかなか、すばしこい動物やと思うんやけど」

朝ごはんをすませると、外に出てみた。カモシカの柵のところに、長靴をはいて作業着を着たおじさんと、スーツ姿の男の人が何やら話しているのが見えた

― あのスーツを着ている人は、きっと町役場の人だ。シャモアのことで、相談をしてるのかな。

ぼくは、カモシカセンターと反対の方向へむかって歩いていった。原っぱを過ぎ、土手を渡ると、ロープウェイの乗り場が見えた。

「御在所ロープウェイ」と書かれた看板の前に、しばらく立っていた。乗ってみたい気がしたけど、あいにくお金を持ってきてなかった。

「あんた、カモシカセンターのとこへ、きとる子やないんか?」

受付の男の人が、声をかけてきた。もうずっとロープウェイで働いている人で、七十歳くらいのおじいさんだ。

ぼくは、そのおじいさんに見覚えがあった。むこうも、ぼくのことを知っているようだった。

「ロープウェイに乗りたいんやないのか?はようお乗り」

「ありがとう」

ぼくはお礼を言うと、四角い箱のようなロープウェイに乗り込んだ。

ぼくひとりかと思ったら、中にはもうひとりお客さんがいた。赤い髪をした、ソバカスだらけの若い男の人だった。

― 外国の人だ。どこの国の人だろう。

ぼくがじろじろながめていると、その人はひとなつっこいほほえみをうかべて、

「君はこの町の子なの?」

ときいてきた。

なんだ。日本語がしゃべれるんだ。

ぼくは小さな声で、

「ちがいます。この町は、お母さんの生まれたところなんです」

と答えた。

それっきり、ぼく達の会話はとだえた。

ロープウェイは、ぐんぐん上へ昇っていく。

ニドムの町並みや、そのむこうの四日市のコンビナートまで、はっきり見ることができた。

樹木の間を抜けて、野生のシカが一頭、さっと走り去っていくのが見えた。

「あっ、シカだ」

ぼくが声をあげると、若い男の人も、

「ほんとうだ」

と言って、窓からのぞいている。

ぼくたちは、また顔を見合わせた。

「いいところだね、この町は。ぼくの名前はトリスタン。君はなんてなまえなの?」

「星児。ぼくの名前は、漢字で星の児童、えっと、星の子供って意味なんです」

「セイジ、星の子供・・・・。いい名前だ。ぼくは、星を見るのがとても好きだよ。この町に来たのも、星祭りがあるからなんだ」

ニドムの星祭りって、そんな有名なお祭りなのかな、とぼくはちょっと不思議な気がした。

「きれいな山だな。ほら、あの岩のすきまに、花が咲いているよ」

「あなたの国にも、あんな岩はあるんですか?」

「ああ。キノコのような、変わった形の岩もあるよ」

ぼくは、トリスタンにコンビナートを指さした。

「あそこに、コンビナートが見えるでしょう。たくさんの工場があって、煙突からけむりがでているところです。ニドムの町の人も、たくさんあそこで働いているそうです」

トリスタンはちょっと首をすくめて、それからゆっくりまばたきをした。

ぼくのほうをじっと見つめているトリスタンの瞳は、なぜか寂しそうだった。

「森は神々の住みかだったと、そう言われていたんだよ。人間は森をきり開き、大地のうえに人間のみの王国をつくろうとしてきた。君は、森の神フンババの話を知っているのかい」

「フンババ?知りません。聞いたこともないです。」

「それなら、君にフンババの話を聞かせてあげよう。ロープウェイの終点まで、まだじゅうぶん、時間があるしね」

ぼくは、こっくりとうなづいた。

 

 

(森の神フンババ)

「かつて、かぐわしき森があった。その森は、レバノンからトルコの地中海沿岸にまで広がっていた。森の中には、樹齢六千年以上のレバノンスギの巨木が、天空高くそびえ立っていた。

 半身半獣の森の神フンババは、レバノンスギの森を、数千年の間守ってきた。人間の欲望によって、森が汚染され、破壊されるのを防いできたんだ。

 だが、ある日、ウルクの王ギルガメシュがやってきた。

 キルガメシュ王は、レバノンスギの森のあまりの美しさに、

「この森を破壊し、ウルクの町をりっぱにすることが、人間の幸福につながる」

と思いこんでしまった。

 そして、聖なるレバノンスギをかり始めた。

 フンババは怒り狂って、ギルガメシュと戦ったけれど、最後には頭を切られ、殺されてしまった。

「えっ、殺されたんですか!?」

「そうだよ。やがて、森はなくなり、地上には人間と、人間によって飼育された動物、植物だけしか残らなくなる。それは、人間の滅亡につながるんだよ。

そこでトリスタンの話は終わった。

ぼくはしばらく黙ったまま、コンビナートをじっと見つめていた。

やがて、ロープウェイはくだりにはいり、ニドムの町もしだいに見えなくなっていた。もうすぐ終点だ。

「ねえ、トリスタン」

ぼくは、トリスタンの瞳を見つめた。

「森の神、フンババは半身半獣って言ってたけど、それはどんな姿なんだろう」

 この時、トリスタンの瞳が、少し光ったように感じた。

「ケンタウロスって知っているかい? ギリシャ神話に出てくるんだけど、ケンタウロス族は上半身が人間で、下半身が馬の姿をしているんだ。山のほら穴に住み、たけだけしく乱暴なのもいるけど、たいていは優しい性格で、アポロンやアルテミスから、音楽や狩りなどを学んでいたというよ」

トリスタンの口から、ギリシャ神話の話がでたので、ぼくはあれっと思った。

― 昨年から、ギリシャ神話の世界にまよいこんだみたいだ。これも星祭りのせいかな

ロープウェイが終点につくと、ぼく達はいっしょに降りて、しばらく並んで歩いていた。

「君はこれからどうするの?」

トリスタンが聞いた。

「商店街のほうへでも、行ってみようかと思っています」

「そう、じゃあここでお別れだ。さよなら、せいじ。星の子供」

トリスタンは右手をあげて、軽く手を振りながら、商店街とは反対の方向へ歩いていった。

ニドムの町の商店街は、小さな商店街だった。

ぼくは、あてもなくぶらぶらしながら、森の神のフンババのことを考えていた。トリスタンのしてくれた話が、作り話には思えなかった。フンババは、空想の神ではなくて、実際に存在したのかもしれないという気がしてくるのだった。

夕暮れになって、ぼくはまたロープウェイに乗って、家にもどった。

「せいちゃん、どこへ行ってたんよ。おばさんが、心配しとったのに」

ぼくを出むかえた百音は、

「おばさん、おばさん、せいちゃんが帰ってきたで」

とお母さんを呼びに行った。

「星児、心配してたのよ」

お母さんが出てきた。おばさんも出てきて、

「せいちゃん、お昼ごはん、食べとらへんのとちがう?」

と言って、ぼくの背にそっと手を置いた。

「シャモアがあした、カモシカセンターへ運ばれてくることになったんよ。トルコの山の中にいたのを、つかまえたそうや。メスのシャモアやて」

おばさんが言った「トルコ」という言葉にぼくは驚いた。トリスタンが語ってくれた物語の最初の部分を、思い出したからだ。

「かつて、かぐわしき森があった。その森は、レバノンからトルコの地中海沿岸まで広がっていた」

 

(新しい家族)

メスのシャモア、エレナは他のカモシカとは、別の柵の中で育てられることになった。エレナのために、十メートルほどの広さの柵が作られ、おじさんはスコップで土をもりあげて、小さな山のかたちをいくつも作っていた。

「ほんとうの自然に近いかたちで、育てるのがええそうや。エレナを見にきてくれるお客さんが、ひとりでも増えてくれたらうれしいんやけどな」

仕事が終わると、ビールを飲みながら、おじさんが語るエレナの話はつきなかった。

ぼくは、おじさんには悪いけど、柵の中でしか生きられないエレナがかわいそうだった。トルコの山を、仲間達と走っていたはずのエレナは、ここではひとりぼっちだったからだ。

エレナが来て、三日目の朝がきた。

ぼくは、外に出て、おじさんの仕事を手伝っていた。

とても暑い日だった。

― 御在所岳のてっぺんでも、こんなに暑かったら、きっと東京なんて蒸し風呂みたいだろうな。

タオルで、ふいてもふいてもふきだしてくる汗をぬぐいながら、どうでもいいはずの東京の風景が、ふっと頭に浮かんだ。天沼には、物心がついた時から、ずっと住んでいる。

おじさんが、「アヴェ・マリア」を歌いだした。この家に来て、もう何度も聞いている「アヴェ・マリア」だ。

おじさんが、歌い終わった時だ。

ぼくは、初めそれを小鳥のさえずりかと思った。高い高い澄んだ声だ。

ぼく達は、仕事の手を休めて、その声に聞き耳をたてた。

「アヴェ・マリア」だ。誰かが「アヴェ・マリア」を歌っている

おじさんの歌うテノールの「アヴェ・マリア」とはちがって、ずっと高いトーンの歌声だった。

「誰が歌っているんだろう。おじさん、この声はソプラノっていうの?」

「いや、ちがう。テノールより高い声で、カウンター・テノールというんや」

やがて、声のぬしはぼく達の前に現れた。

「あっ!」

ぼくは、ほんとうに驚いてしまった。トリスタンだった。ロープウェイで出会ったトリスタンが、ぼくの前に立って歌っている!!

おじさんは、しばらくめんくらっていたように、ぼうぜんとしていたのだけれど、はっと我にかえると、拍手した。

「すばらしい声や。心がゆさぶられる声や。あんたの歌う『アヴェ・マリア』は、たいしたもんやなあ」

トリスタンは、てれくさそうにほほえむと、軽くおじぎをした。

その日の晩ごはん、トリスタンもいっしょだった。おばさんがシチューを作り、お母さんはピザを焼いた。

百音は、トリスタンの顔を、何度も不思議そうにのぞき見している。

「星児とあんたが、顔見知りやったとは知らんかった。そうか。星祭りを見にきたんか。どうやろなぁ。見るだけやのうて、あんたも参加してみたらどうや。『アヴェ・マリア』あの曲を歌ってくれたら、町のみんなも喜ぶで」

「気がついたら、自然に声がでて、それが歌になっていた。鳥は歌おうと思って、鳴いているわけでもないでしょう。ぼくも、いつのまにか鳥のように、歌うようになったんです」

トリスタンは、もう一度「アヴェ・マリア」を歌ってくれた。

その歌声を聞いて、ぼくの胸はキュンとなった。心をふるわせる声っていうのは、きっとこういう声をいうんだろう。

お母さんもおばさんも、歌声に感動し、涙を流した。

「あなたの歌声を聞いていると、とっても不思議な気持ちになるわ。悲しげでせつない声なのに、心がとてもあたたかくなる。」

お母さんがそう言うと、トリスタンは少しはにかみながら、

「ありがとう」

とお礼を言った。

その日から、トリスタンは家族の一員になった。自然に、家族のみんなにとけこんでいった。

トリスタンはとても働き者で、朝早くから牛の乳しぼりをしたり、ニワトリやヤギにエサをやったりした。

とりわけ、エレナの世話をしている時のトリスタンは楽しそうだった。

エレナは、おじさんよりもトリスタンになついているようにみえた。

「トリスタンって、まるで動物の心がわかるみたいや。トリスタンがエレナの柵の中に入っていくと、エレナのほうから走り寄ってくるんやで」

百音は、ぼくのところへやってきては、トリスタンの話をした。

星祭りの日も、一刻一刻と近づいていた。さそり座は、夜空でますます輝きを増していっているようだった。もうニ、三日後には、星祭りの夜がくるだろう。

その準備に、町中のおとなも子供も忙しそうだった。

お母さんは、ミシンで百音が星祭りの日に着る衣装をぬっていた。

「お母さん、その衣装のデザインは、百音ちゃんがしたんだろう?」

ミシンのそばに寄って話しかけると、お母さんは手を休めて、ぼくのほうを見つめた。

「そうよ。すてきなデザインだわ。百音ちゃんには、才能があるみたいね」

「百音ちゃんは東京へ行って、デザイナーになりたいって夢をもっているんだって。お母さんにも、何か夢はあるの?」

お母さんは、ふうっと小さなため息をついた。

「夢ねえ・・・。そうね。若い頃はあったかもしれない。今では、忘れてしまったわ。百音ちゃんくらいの年頃に、どんな夢を持っていたかってことも。この町を出て、大学に行って、会社に入って、お父さんと知り合って恋をしたの。そうして結婚して、星児が生まれた。幸せだったわ。それが、いつのまにか歯車が狂ってしまって・・・・」

お母さんの両手が、ぼくの手をそっとつつみこんだ。

「でもね、やっとわかったの。今まで、仕事ばかり一生懸命なお父さんとか、学校に行かなくなってしなった星児のこととか、まわりの人ばかり責めてばかりいたってことを。お父さんの気持ちも、星児の気持ちも、少しも私はわかってあげようとしなかったのよ。かけがえのないふたりのことを・・・」

お母さんの手は、とてもあたたかかった。

お母さんの目から、ひとすじの涙が流れて、その涙はぼくの手の上に落ちた。

「ニドムに来てよかったわ。忘れていた大切なものを、ひとつずつ取りもどしていけそうな気がするのよ。ここにくるまでは、ほとんど口もきいてくれなかった星児も、少しずつ心を開いていってくれてるし」

貝のようにとざされていたぼくの心は、この町で少しずつ開かれていっているんだろうか。

でも、東京に帰ったら、また弱虫のぼくにかえってしまうんじゃないか。そう考えたら、不安な気持ちになった。

― ずっとニドムにいるわけにはいかないんだ。おとなになるまで、ここにい続けることなんて、できないことなんだ。

その時、入り口のドアが開いて、血相を変えたおじさんが入ってきた。

「大変や! ニワトリがやられた。何匹も殺された」

「えっ、どういうこと? お兄さん」

お母さんが立ちあがった。

「ニワトリだけじゃない。ヤギも一頭、やられている。みんな、食いちぎられて、死骸になってころがってたんや。昨日の夜に、やられてしもうたみたいや」

「まあ! 野犬か何かのしわざかしら。トリスタンが朝、小屋へエサをやりに行った時は、どうだったのかしら」

「トリスタンは、今朝は小屋のほうへは行っとらへん。星祭りが近いんで、昨日の夜から、徹夜で屋外ステージを作りに行ってるんや」

野犬のしわざだとか、おおかみが出たのかもしれないとか、みんな大さわぎしていた。

トリスタンは、その昼も帰ってこなかった。

夕暮れになって、口笛を吹きながら帰ってきたトリスタンを見て、

「トリスタン、大変なことがおこったんだ」

と、ぼくは走りよった。

「ニワトリやヤギが殺されたんだ。牙のようなもので、食いちぎられたあとがあるんだって」

トリスタンの表情は変わらなかった。

「やっとステージが完成したよ。大勢の人で作ってたんだけど、今までかかったんだ。よかったら見にこないか?」

― なぜトリスタンは驚かないんだろう。ニワトリやヤギのことなんか、まるでどうでもいいみたいじゃないか

ぼくは、ぶすっとしたまま、トリスタンに案内されて屋外ステージにやってきた。

大きな木の切りかぶを、いくつも重ねて作られたステージの中央に、トリスタンは立っている。

「ここにライトをあてて、ぼくらは歌を歌ったり、芝居をしたり、女の子達は踊ったりする。一晩中、祭りは続いて、セイジ、嫌なこともつらいこともみんな忘れてしまえるさ」

嫌なこと、つらいことと言われて、ぼくは学校でずっといじめられていたことを思いだした。今まで誰にも話したことのないことだけど、トリスタンになら話せる気がした。

「ねえ、トリスタン。君は誰かにいじめられたことってある?」

「うーん、そうだなあ。ぼくは顔中ソバカスだらけだろう。それで、ニジマス、ニジマスってからかわれたりしたことがあるよ。もっとも、ぼくはそんなことを気にもとめなかったけどね」

ぼくは、ニジマスという魚を知っている。

斑点だらけのその魚は、なるほどソバカスだらけのトリスタンの顔に似ているかもしれない。

長い間、胸につかえていたものが、少しだけすっきりしたような気分になった。

「ぼくは、学校でモスキートーと呼ばれているんだ。やせっぽちでヒョロヒョロしているから、蚊にそっくりなんだって」

トリスタンはアッハッハと豪快に笑うと、ほくの肩を抱いて言った。

「そんなことを気にすることないさ。言いたい奴には、言わせておけばいい。君は、ちっとも弱々しくないよ。もっと自分に自信を持つんだ」

トリスタンに励まされて、ぼくはもっと強い人間になれるかもしれないと思った。

つまらない呼び名へのこだわりを、捨てることができる気がしてくる。

「そうだよね。ぼくは今まで臆病すぎたのかもしれないよ」

「セイジはセイジなんだ。世界でたったひとりのかけがえのない存在なんだ」

「ぼくは、いつか東京へ帰る日がくると思うんだ。君だって、ずっとニドムにいるわけじゃないんだろう。離れ離れになっても、ぼく達、ずっと友達だよね」

ぼくは、ほんとうはトリスタンにずっとニドムにいてほしかった。そうすれば、会いたい時にいつでも会いにこれるから。

「もちろんずっと友達だよ」

トリスタンは右手をさしだし、ぼく達はかたい握手をした。

 

(ケンタウロスになったトリスタン)

星祭りの前の夜は、とても静かな夜だった。明日は町中の人が仕事を休んで、祭りが始まるまで、家の中にいることになっている。日が暮れて、さそり座が姿を見せると、みんながいっせいに夜空の下に集まって、いよいよ星祭りの開幕だ。

アポロンの役をするおじさんも、アルテミスの役をする百音も、ここのところギリシャ神話の夢をよく見るという。

― ギリシャ神話の世界に、町全体がすっぽり入ってしまうみたいだ。本物の妖精や魔女までが、現れるなんてこんなことはないと思うけど。

ぼくはあんまり眠れないので、羊を数えることにした。羊が一匹、羊が二匹。

百匹くらいに羊を数えたところで、ガタンという音がした。誰かが、まだ起きているのだろうか。

ピーンとはりつめた空気の中で、カチャカチャという音が、はっきりと聞こえた。

この音は、小屋の鍵をはずしている音だとっさに思った。

 ぼくは、飛び起きると、急いで階段を降りていった。懐中電灯を捜して、それを手に持つと、ニワトリやヤギのいる小屋をめざして走った。ハアハアと息がきれた。心臓が自分より先に走っているみたいだった。

小屋の中に人影が見えた。いや、人じゃない。

馬のような足が四本、懐中電灯のあかりにてらしだされた。

深呼吸してから、こわさをこらえて小屋の中に乗りこんでいった。

「誰だ! ここで何をしている!」

カラカラになったのどから、しぼりだすように呼んだぼくの声は、闇のしじまの中にひびいた。

その時、ぼくが見たものは・・・!

「トリスタン、なんで君が・・・・!」

半身半獣の動物がそこにはいた。

上半身は人間で、下半身は馬だった。人間の顔は、赤毛でソバカスだらけのトリスタンの顔だった。

トリスタンの、くちびるには血がほとばしり、足元にはニワトリが一羽、むざんな姿で見えていた。

ぼくに見られてしまったことで、トリスタンは初め動揺しているようだった。やがて落ちつきを取りもどすと、ぼくのほうへ近よってきた。

ぼくは、じりじりと後ずさりした。

「近づくな! あっちへ行け!!」

ぼくの叫びに、トリスタンはそれ以上近づくのをやめて、じっとそこに立ちつくした。

「見られてしまったね。大丈夫だよ。ぼくは、君のことを食べたりはしないから」

トリスタンは、いたずらを見つかった小さな子供のように泣きそうな顔をしていた。

「ぼくだって、こんなことはしたくないんだ。どうしても本能にはさからえなかった。ぼくは人間の心と同時に、獣の心を持っているんだよ。獣の心がさわぎだすと、こうやってニワトリやヤギを食べてしまう」

ぼくの体は、ブルブルふるえていた。恐怖だけでなく、怒りがぼくの中で爆発しそうだったのだ。

「友達だって言ったじゃないか。ずっと友達だって。もっと自分に自信を持てって言ったのはでまかせだったんだろう。おまえなんか、おまえなんか、モスキートー! そうやって血を吸って、蚊みたいに血を吸って、汚らしく生きていけばいい」

「セイジ、ぼくの話を聞いてほしい。ぼくは、ケンタウロス族の生き残りなんだ。ロープウェイにいっしょに乗った時、君に話したことがあっただろう。乱暴な奴もいるけど、たいていは優しくて、アポロンやアルテミスから音楽や狩を学んでいたという、ギリシャ神話の中にでてくるケンタウロスだよ」

「君は乱暴な奴にはいるんだね。そうじゃなきゃ、こんなひどいことできっこないよ」

「それは・・・・、ぼくにもわからない。ぼくは音楽がとても好きだし、歌っている時がいちばん優しい気持ちになれる。ぼくは、もう何千年もこの地上に生き続けている。森の神フンババによって、永遠の命を与えられたんだ。聖なる森を、人間のおろかな欲望によって破壊されたフンババの怒りと悲しみの心を、ぼくの中にフンババはふうじこめた」

「・・・・・」

「シャモアが、ここへ連れてこられただろう。エレナは、トルコの山でぼくの友達だった。ぼく達は、いつもいっしょにいた。エレナは、ぼくの心の怒りも悲しみのも、ぼくの心の痛みをいちばんよく理解してくれるかけがえのない友達だった」

トリスタンとエレナが、柵の中でじゃれあうように寄りそっている姿を、ぼくは思いだした。

「君は、エレナに会いに来たの? 町おこしのために利用している人間達を、君はうらんでいるんだ」

「初めはそうだ。でも、セイジやこの家のみんなと知り合って、ぼくは人間がだんだん好きになっていったんだ。だけどエレナは・・・、エレナはここにいるわけにはいかない。星祭りの日に、生まれた山へ帰っていくんだよ」

「君も帰るんだね、トリスタン」

ぼくの声は、涙声になっていた。

トリスタンはうなづくと、すっとぼくの横を通しぬけて、外へ出ていこうとした。出口のところで、ぼくのほうをふりむいて言った。

「君のおじさんには悪いことをした。ぼくに獣の心が宿ってなかったら、こんなむごいことはしなかった。君に、モスキートーだと言われてもしかたないよ」

小屋を出たトリスタンは、山のほうへむかって歩いていった。あとを追って外に出たぼくは、トリスタンの後ろ姿を小さくなるまでみつめていた。

― ニジマス、君はニジマスだよね、トリスタン。ソバカスだらけの君は、愛嬌たっぷりのニジマスにそっくりだよ。モスキートーなんかじゃない。

 

(ぼくのついた嘘)

星祭りの日がやってきた。

ニワトリの死骸を見つけたのはおばさんだった。朝早く、畑のトマトを取りにいって、ニワトリの卵もついでに取りにいこうとして、血まみれのニワトリを目にしたのだった。

おばさんの知らせを聞いたおじさんは、しばらくもどってこなかった。

おじさんが家に帰ってきた時、ぼく達は、そろって朝ごはんを食べているところだった。おじさんの顔は、あおざめているようにみえた。

おばさんが心配そうに、おじさんの顔をのぞきこんで言った。

「なあ、お父さん。警察へ連絡したほうがええんやないの」

「今日は星祭りの日や。あんまりさわぎにならんほうがええやろ。パトカーでもきたら、近所のみんなもびっくりするさかいな」

ぼくは、ずっとうつむいたままだった。

自分だけがほんとうのことを知っていながら、それをかくすのはうしろめたい。だけど、トリスタンをかばいたい気持ちのほうが強かった。

何千年もの間、傷ついた心を持ったまま生き続けてきて、これからもひっそりと生きていくさだめを背負ったトリスタン。自分だけでも、味方になってあげたいと思ってしまう。

「トリスタンはどうしたんやろう」

百音が、ぽつんとつぶやいた。

「今朝から姿が見えへんの。まさか、黙ってここを出ていくなんてことあるやろか」

おばさんが首をかしげてそう言うと、おじさんは、

「あいつは風みたいな奴やな。急にひょっこり現れて、あいさつもなしに、またどこかへ飛んでってしまう。まあ、ええんやないか。気がむいたら、もどってくるやろ」

と言いながらも、顔には寂しさがにじみでていた。

トリスタンがいなくなってしまったことを、なんでもないことのように言っているけれど、トリスタンの歌声を誰よりも好きだったのはおじさんだった。

毎日、ふたりで歌いながら仕事をしていたのだから。

朝ごはんをすませると、ぼくはエレナのそばへ行った。

エレナには、人間の言葉がわかるかもしれない。ふとそんな気がして、エレナのふさふさした毛をなでながら、ぼくは話しかけてみた。

「ねえ、エレナ。君は生まれた山へ帰ってしまうの?」

心なしか、エレナの耳がピクンと動いたような気がした。

「おじさんも、百音もぼくも、みんな君のことが大好きなんだよ。君のことを大切に思っている。だけど、人間の住む町で暮らすことが、君にとって幸せじゃないとしたら・・・君は山へ帰ったほうがいいのかもしれない」

もちろん、エレナは何もしゃべらない。ただぼくの胸に、顔をすり寄せてくるだけだ。

ぼくは、エレナをそっと抱きしめた。エレナの体はあたたかい。

こうしていると、学校でいじめられてたことなんか、ちっぽけなことのように思えてくる。

「自分に自信を持つんだ」と言ったトリスタンはもしかしたらぼくだけじゃなくて、自分自身に対しても、あの言葉を言っていたんじゃないだろうか。

 そんなことを考えていたぼくの背中を、誰かがポンとたたいた。ふりむくと、おじさんがそこに立っていた。

「星児、ちょっと話があるんや。こっちへきてくれへんか?」

どきどきしながら、おじさんのあとをついていった。おじさんの足は、ニワトリ小屋の前でぴたりと止まった。

「ニワトリがまたやられてしもうたと聞いて、すっとんでったやろ。初めは、ニワトリにばかり気をとられとったんやけど、そのうちに小屋の中で、あるものを見つけたんや」

ぼくの心臓の鼓動が早くなった。

「足あとや」

「足あと・・・・」

「四本足の動物の足あとと、もうひとつ、運動靴の足あとや。運動靴は、星児、おまえがはいとった靴とちがうんか?」

ぼくは、くちびるをぐっとかみしめた。手がブルブルふるえてきて、それをかくすために両手で握りこぶしをつくった。

「なあ、星児。おまえはなんか知っとるんやないのか?かくしとることがあったら、おっちゃんに言うてくれへんやろうか」

ぼくは、うつむいたままだった顔をあげて、おじさんの顔を見つめた。

おじさんの目は優しそうな、いつものおじさんの目だった。ぼくが何かをかくそうとしているのを知っていながら、少しも怒っていない。そのことが、かえってつらかった。

だけど、ぼくはほんとうのことを言うわけにはいかないと思った。

おじさんに心の中であやまりながら、

「ぼくは何も知りません」

と、はっきりとした声で答えた。

おじさんは、それ以上何も言わなかった。

「そうか。わかった。」

そう言ってうなづくと、くるりと背をむけて、カモシカの柵のところへ歩いていった。

 

(ニドムの星祭り)

やがて日が暮れて、夜のとばりがおりた。

夜空に、さそり座がまたたいている。

あちらこちらの家の中から、人がひとりふたりと外に出て、星祭りの会場となっている屋外ステージのほうへとむかっていった。

町のふもとに住んでいる人々は、ロープウェイに乗ってやってきた。今夜は、一晩中ロープウェイが動いている。

ぼく達も早めのごはんをすませると、屋外ステージへつれだって出かけた。町中のおとなも子供も、この日のために用意した特別の服を着ていた。

アポロンに扮したおじさんは、太陽の神らしくオレンジ色の衣装を着ていたし、アルテミスに扮した百音は、草色の衣装を着て、狩人の姿をした女神になりきっている。

お母さんもおばさんも、ピンクのレースのついたドレスを着て、おしゃれしていた。

ぼくは、ポセイドンというギリシャ神話の神に扮していた。

海の支配者であり、水の神であるポセイドンは、馬の神様ともされているという。また、すべての生物をふとらせ、成長させる神ともみなされているんだと、ギリシャ神話の本には書いてある。

海を象徴するような青い衣装を着せられて、ぼくはちょっぴりはずかしかった。

「せいちゃん、よう似合うよ。やっぱり私がデザインしただけのことはあるな」

百音は、ぼくの衣装を見て満足そうだ。

「なんか子供の頃にかえったみたい」

お母さんもおばさんも、てれくさそうにしながらも、無邪気に祭りを楽しもうとしているようだった。

大きな花火があがった。打ちあげられた花火は、夜空で赤いさそりのかたちになった。

ワ〜と言う歓声があがった。

いよいよ星祭りの開幕だ。

でぶっちょの町長さんが、ステージであいさつをした。

「え―、わたくしはこよいはギリシャ神話の神、ゼウスに扮しております。空のすべてのものの神であります。風、雲、雨、雷、を支配し、また王としての平和と秩序を守る神なのであります。わたくしたちの愛する町ニドムのますますの発展を祈って、こよいの星祭りをおおいにもりあげようではありませんか」

町長さんのあいさつが終わると、コーラスにあわせて、百音達女の子による踊りが始まった。曲名は「ニドムの星祭り」だった。

 

「輝く夜空のお星さま

私は森の妖精

樹々の間から

こっそりと忍び出て

神話の世界への

旅が始まる

こよいはニドムの星祭り

魔物でさえも

さふらんの香りに

酔いしれてしまう

さあ みんなで輪になって

踊りあかそう

こよいはニドムの星祭り」

美しいコーラスにあわせて、百音達はかれんな蝶のように踊った。

踊りが終わると、ギリシャ神話の劇がいくつか演じられた。

おり姫とひこ星の劇は、ぼくもよく知っている話しだった。

 ぼくが、ニドムにきた最初の日に見た夢、火の馬車に乗って、サソリにおどかされ、最後には雷にうたれて死んでしまうかわいそうなアポロンの息子の劇もあった。

その劇を見て、アポロンの息子の名前がパエトンという名で、最後は流れ星のように、エリダノス川に落ちていったことを、ぼくは初めて知った。

川に落ちていく場面では、観客の間からすすり泣きがもれた。

いくつかの劇が終わると、ステージに登場したのはおじさんである。

おじさんはバッハの「G線上のアリア」という曲を歌った。

心のこもったテノールの歌声に、おしみなく拍手がおくられた。

おじさんの次に、トリスタンが「アヴェ・マリア」を歌うことになっている。いなくなってしまったトリスタンに代わって、おじさんが歌うんだろうかと、ぼくは思った。

 ところが、おじさんがおじぎをすると、ステージから降りてしまった。

「アヴェ・マリア」は、トリスタンのために用意された曲だと、おじさんは思っているのかもしれない。また劇が始まった。ギリシャ神話の劇は、数限りなくあるらしい。

「おじさん、すごくよかったよ」

ステージからもどったおじさんに、ぼくは声をかけた。

「おう、ありがとう」

おじさんは満足そうだった。

「オペラ歌手にはなれなかったが、生まれた町で、星祭りの日に歌うて、こんな幸せなことはない」

おばさんが、おじさんの顔をみながら、うれしそうにうなずいている。

 

(アヴェ・マリア)

夜もふけていき、小さな子供達はあくびをし始めた。

ぼくも、ふぁ―とあくびした。

昨日の夜は、馬の姿になったトリスタンが、エレナに会いにきた夢を見た。ニワトリ小屋で見たトリスタンは、上半身は人間の姿だったけれど、夢の中では完全な馬になっていた。馬になったトリスタンの瞳は、あやしくきらめいて、野生のたけだけしい動物のようにみえた。

― トリスタンは、完全な獣になってしまったのかもしれない。

やるせない気持ちになって、夢の中でぼくは叫んでいた。

「トリスタン、エレナを連れていってしまうのかい・お―い、トリスタン!」

そこではっとめがさめて、時計を見ると、まだ朝の四時だった。ニワトリの声をベットの中で聞いた。ゆうべの睡眠不足がたたったのか、ついウトウトしてしまったらしい。

「せいちゃん、せいちゃん」

百音が、肩をゆすってぼくを起した。

「ほら、見てみなよ。雲がでてきて、星も見えへんようになってしもうたで」

空を見あげると、今にも雨が降りだしそうだった。

「こりゃ、あかんな。ひと雨きそうや。あっちのテントへ行こうか」

おじさんは立ちあがって、広場のあちこと作ってあるテントのほうへぼく達を誘った。

雨がポツポツふりだした。

祭りは中断され、人々はテントのほうへと走りだした。雨はますます激しくふり、まるで空が泣いているようだと思った。

ピカッ! 空が光った、いなびかりが夜空をオレンジ色に染め、雷がゴロゴロとなりだした。天空の神、ゼウスに扮した町長も、雷をどうすることもできないんだ。あたりまえのことだけど。

雷は地の底までとどろくようなうなり声をあげた。

その時だ。屋外のステージの中央に、誰かが突然に現れた。

「まあ、誰かしら。あぶないわ、あんなところに立っていたら。雷にうたれるんじゃないかしら」

お母さんが心配そうにそう言った。

「あっ、あれは!」

おじさんが叫んだ。

雨にぬれたステージで、スポットライトの中に立っていたのは・・・。

「トリスタンだ!」

ぼくも叫んだ。

お母さんもおばさんも百音も、「まあ」とか「え―っ」とか口々に驚きの声をあげた。

トリスタンは白い衣装を着て、頭には葉っぱで作った冠をかぶっていた。白い衣装は、天馬の羽のように輝いている。緑の葉っぱの冠は、赤い髪によく似合っている。半身半獣の姿でもないし、昨日の夢で見た馬の姿でもない。人間の姿で立っていた。

雨の中で、トリスタンは歌い始めた。とたんに、雷がぴたりとあばれるのをやめてしまった。曲名は「アヴェ・マリア」だ。

美しいカウンター・テノールの声が広場じゅうにひびきわたり、人々の間に深いため息がもれた。

ぼくには、トリスタンが森の神フンババのようにみえた。

レバノンスギの森をこよなく愛し、最後まで自然を守ろうとしたフンババの想いをこめて、トリスタンが今、歌っている。

自分勝手な人間を責めているのではない。

「人間も自然の一部なんだよ」そんなメッセージを、ぼくははっきり感じることができた。

町中の人々多くが、歌声に涙を流していた。ぼくの胸もあつくなり、自然に涙がこぼれた。かたわらにいるおじさんも、

「あいつ、今までどこへ行っとんたんや。心配かけよって」

と言いながら、目を真っ赤にしている。

トリスタンが歌い終わった時、人々は拍手することも忘れ、しばらくぼう然としていた。歌声のあまりにのすばらしさに、圧倒されたのである。

しばらくたって、われんばかりの拍手かっさいとなった。

「すばらしい!なんてきれいな声なんや」

「アンコール!アンコール」

トリスタンは、アンコールにこたえようとはしなかった。軽くおじぎをすると、ステージから去っていこうとしていた。

歌のあいだはやんでいた雷が、また鳴りだした。

ピカッ!ものすごいいなびかりだ。

ステージが、いなびかりで昼間のようにパッと明るくなったかと思うと、次にガガガガ―ンという音がした。

「ああ―!」

人々がいっせいにひめいをあげた。

ぼくは、思わず目をおおった。

いなびかりが、トリスタンを直撃したのだ。

そのあと、雷はぴたりとなりやんだ。

百音がわぁ―っと泣き声をあげた。

ぼくは、おそるおそる目を開いて、ステージのほうを見た。そこには、トリスタンの姿はなかった。雷にうたれたはずのトリスタンがいなくなっている。

「どうしたんやろ。体ごと、飛ばされたんやろか」

「倒れとらへんで。どこへ行ってしもたんや」

トリスタンの安否を気づかう声が、あちこちでもれた。

「トリスタ―ン!」

おじさんが叫び声をあげながら、ステージへむかって走っていくのが見えた。

 

(新しい旅立ち)

「星児、早くしなさい。電車に間に合わなくなるわよ」

お母さんが、ぼくを呼んでいる。

ぼくは、エレナに別れのあいさつをしているところだった。今日、ぼくとお母さんは東京へもどることになったのだ。

星祭りから一ヶ月が過ぎて、外国にいるお父さんから手紙が届いた。また、いっしょに暮らそうという内容の手紙だった。

今日は八月三十一日。八月最後の日に、ぼくとお母さんはニドムを去ろうとしている。

おじさんがそばにきて、ぼくの肩をたたいた。

「星児、またいつでもこいや。エレナも、おまえがくるのを待っとるやろでな」

ぼくは、エレナのやわらかい毛なみをそっとなでた。エレナは、鼻先をぼくの顔にひっつけてくる。

あの星祭りの夜、「アヴェ・マリア」を歌ったトリスタンは、雷にうたれたあと、姿を消してしまったままだ。

ぼくはあの時、トリスタンといっしょにエレナも消えてしまったじゃないかと、とっさに思った。みんながトリスタンのことで大さわぎしているあいだに、急いでエレナのところへ走っていった。

「エレナ、エレナ」

ぼくが叫ぶと、雨にうたれたエレナが走り寄ってきた。

「君はいたんだね。トリスタンといっしょに、行ってしまわなかったんだね」

雨の中で、ぼくはいつまでもエレナを抱きしめていた。

トリスタンのいない寂しさも、エレナとすごすことで忘れることができたような気がする。だけど、そのエレナとも別れる時がやってきた。

― さよなら、エレナ。ぼくはまた会いにくるよ。ぼくのことを、どうか忘れないでいておくれ。

ぼくは、エレナに心の中で別れを告げると、うしろをふりかえらずに、足ばやに歩いて行った。

お母さんが、スーツケースを持って待っていた。おばさんが家から出てきて、

「はい、これ持ってって。おにぎりや。新幹線の中で食べるとええわ」

と言って、包みを渡してくれた。

「ありがとう、おばさん。百音ちゃんはどこにいるの?」

おばさんはくすっと笑って、

「捜しとるんやけど、姿が見えへんのや。せいちゃんとお別れするのが、つらいんやわ、あの子」

と言った。

ぼくとお母さんは、ロープウェイの乗り場まで歩いた。ニドムにきた時には、おじさん達がワゴン車で迎えにきてくれたけど、帰る時にはロープウェイでふもとまで降りることにした。

ロープウェイに乗りたいと言いだしたのは、ぼくだった。トリスタンとの最初の出会いはロープウェイだった。そのロープウェイに、どうしてももう一度乗ってみたかったのだ。

「あら、あそこにいるのは百音ちゃんじゃない」

ロープウェイの看板の横に、百音は立っていた。ぼく達の顔を見ると、今にも泣きだしそうな顔になった。

「楽しかったよ。またニドムに来るから」

「私も、東京へ遊びに行ってもええやろか。天沼ってとこやろ」

「その時は、星児とふたりで東京駅まで迎えに行くわ。百音ちゃんは、まだ東京へきたことなかったわよね。いろいろと案内するわ。ディズニーランドとか、おもしろいわよ」

「うん・・・・。私はせいちゃん達が住んどる町を見てみたいんやけど。天沼ってきっといいところやと思うの」

ぼくは、百音が天沼のことを「天の川みたい」と言っていたことを思いだした。

東京の夜空で、まだ一度も天の川を見たことなんてない。だけど、東京にだって空はある。ニドムの空と同じひとつの空なんだ。そうだ。ぼくは、いつだって星を見ることができるんだと思った。

ぼくとお母さんを乗せたロープウェイは動きだした。

百音は手をふっている。ぼく達もふりかえした。百音の姿がだんだん小さくなって見えなくなるまで、ぼくはずっと手をふっていた。

「ねえ、星児。お父さんは明日、日本へ帰ってくるのよ。空港までいっしょに迎えに行ってくれるかしら?」

お母さんが、ちょっと心配そうにぼくの顔をのぞきこんだ。

「迎えに行ってもいいよ。でも、明日から学校が始まるんじゃない。二学期だよ」

ぼくの言葉に、お母さんは目をまるくした

「えっ! 学校へ行く気になったの?」

ぼくはこっくりとうなずくと、

「行くよ。いつまでも逃げてたってしかたないってわかったんだ」

と、はっきりとした声で答えた。

「そう・・・。お母さんね。とうぶん休むだろうって思ってたのよ。星児が行きたいと自分から言うまで、気長に待つつもりだったの」

「トリスタンに言われたんだ。『もっと自分に自信を持って』って」

「まあ、トリスタンがそんなことを・・・」

お母さんも、トリスタンのことを思いだしているようだった。

ぼくとトリスタンがロープウェイに乗った日は、とてもいい天気で、ニドムの町並や四日市のコンビナートまでよく見渡すことができた。

今日は霧が多くて、景色はほとんど見えなかった。ぼくは、霧でくもったロープウェイがいちばん高いところへきた時、ほんのわずか霧のきれめがあった。

「あっ!」

ぼくは、小さな声をもらした。

樹木の茂みに、動物がいたのがちらっと見えた。それは馬のようにも見えたし、シカのようにも見えた。

もっとよく見ようと、座席の上に立ちあがってのぞきこんだ。

赤い髪の毛が見えた。トリスタンだ!

すぐにまた、ロープウェイは霧におおわれてしまった。

「どうしたの? 急に立ちあがって」

「なんでもないよ。きっと見まちがえたんだ」

― トリスタンは、トルコの山へ帰ったんだと思っていたけれど・・・・。まだ御在所岳にいるってことも、考えられなくない。この山のどこかにいてくれたら、どんなにすてきだろう。ぼくを、どこかで見送ってくれているのかもしれない。

「ずっと友達だよ」

そう言って右手をさしだしたトリスタンのことを、ぼくはずっとずっと考えていた。

「ねえ、星児。トリスタンのことだけど、彼のことは星祭りの伝説になると思うのよ。次の祭りにも、また何か新しい伝説が生まれるかもしれないじゃない。とても楽しみだわ」

次の星祭りは、三十年後だ。その時には、ぼくはおじさんくらいの年齢になっているだろう。百音はお嫁に行って、ニドムの町にはいなくなってるかもしれない。

― だけど、トリスタンには時間というものがないんだ。なにしろ、森の神フンババから永遠の命を与えられているのだから。ぼく達がみんな死んでしまったあとも、トリスタンは生き続けていくんだ。

「ねえお母さん、永遠に生き続けるってことは幸せなんだろうか? 不幸なことかもしれないよね。」

「えっ!?」

お母さんは、不思議そうにぼくをみつめた。

「人間は、限られた命を精いっぱいに生きようとする。いつか心臓が止まって、ぼくもお母さんも死んでしまうよね。だけど、絶対死なないとしたら、ぼくはかえって不安になってしまうかもしれない」

「命」だとか「死」だとかについて、お母さんに語ったことはこれまで一度もなかった。お母さんはしばらく絶句していたが、やがてゆっくり口を開いた。

 「あなたはもしかしたら死にたいとか、そこまで思いつめていたのかしら?学校に行こうとしなかったことも、今にして思えば、あなたから必死のサインだったとしたら・・・・・・・・。私は、鈍感すぎたのかもしれない」

 「まさか・・・・・・!死にたいなんて、ただの一度も思わなかったよ。お母さんの考えすぎさ」

 「そう・・・・・・」

 お母さんは、やさしい顔でほほえんだ。

 「死を考えなかったのは事実だ。ぼくは陰湿ないじめにあってはいたけれど、あんな奴らのために死ぬなんて考えてもいなかったのだ。でも、今のぼくは自分がつまらないプライドにとらわれていたと思う。自分の特別な人間だと考えて、いじめたクラスメイトをつまらないとるにたらない人間だとばかしていたんじゃないだろうか。

 人間は、誰でも矛盾をかかえているんだ。人間だけじゃなくて、存在するものすべてそうかもしれない。あのトリスタンだって、ニワトリやヤギを食い殺した。それが絶対悪だっていえるのだろうか。トリスタンが伝説になるにしたって、他の人間が勝手に創りあげた伝説にしかない。トリスタンの苦しさや寂しさを共有できるわけないんだ。

 やがて、ロープウェイはふもとに着いた。ぼく達はロープウェイから降りると、駅にむかって歩きだした。

 ニドムの駅に着く頃には、霧もうすらいでいた。

 霧のベールがゆっくりはがされて、太陽が姿を見せた。太陽は、もはや真夏のギラギラした太陽ではなく、おだやかな日差をふりそそいだ。

 ニドムの町にも、もうすぐ秋がやってこようとしている。

 

 

                                                

(参考文献)

・夏の星空 星座と神話 山主敏子著

   ()ポプラ社出版

・秋の星空 星座と神話 山主敏著

   ()ポプラ社出版

 ・星座ものがり 瀬川昌男著

    小峰書店出版

・森と文明の物語―環境考古学は語る

           安田善憲著

     ()筑摩書房出版