顔が映るまで靴を磨かせることに何の意味があるのか?

 校内暴力、家庭内暴力の主役だった落ちこぼれが、自衛隊の理不尽な規律に腹も立てずに従っているのはなぜか?

 現役の教師が、軍隊と学校の教育システムを「規律訓練という側面から」比較分析する!

 

諏訪哲二(高校教諭) <インタビュー・構成>別冊宝島編集部

 

 すわ・てつじ 41年千葉県生まれ。

 東京教育大学文学部卒業。高校教諭。

 荒廃する学校の現状と闘う「プロ教師の会」の思想的リーダー

 著書に『反動的!学校、この民主主義パラダイス』(小社刊)などがある。

 

-------憲法論議や自衛隊の是非については、これまでいろんなところでいろんな人がいろんなことを語ってきたわけですが、そういう抽象的というか、どこか虚しい議論は膨大にあっても、実際の自衛隊でどのような「教育」が行なわれているのか、大衆社会の子どもたちがどのような過程を経て「自衛官」に育っていくのかということについては、どういうわけか、これまでほとんど語られることがなかったと思うんです。

そこで、語られざる自衛隊の教育システムについて、同じ教育に携わる者として、現役の高校教師である諏訪さんの評価をおうかがいできればと考えたわけです。

諏訪 最初に断っておきたいんですが、ひと口に「教育」と言っても、自衛隊と学校では目的も置かれている状況ももちろん違うし、それに応じて組織やシステムも異なっているわけです。ただし、学校というところは「学習の場」であると同時に「規律訓練の場」でもあるわけですから、そういう異質性をとりあえず捨象して、規律訓練という側面だけから両者を比較するということであれば、私の体験やこれまで考えてきたことの延長線上で話をすることは可能だと思います。それ以外のことを発言する資格は私にはないわけですから、必然的に、限定された場面での議論にならざるを得ないということは理解しておいてください。

 

「管理」は魂を傷つけない

---------さっそくですが、僕がこの数カ月、多くの自衛官たちとつきあい、また自衛隊そのものにも体験入隊したなかで、もつとも興味を持ったのは、高校で教師を殴って退学になったり、家庭内暴力をふるったりしていた、いわゆる落ちこぼれや不良少年たちが、自衛隊のなかでは見事に規律を守れるようになっているという点でした。僕は最初、軍隊というものは体罰によって規律を守らせている組織だと思っていたんですが、自衛隊は体罰を禁止していますし、実際にほとんど体罰はありません。それでも彼らは、黙って、ほとんど自主的に規律に従っていました。学校には耐えられなかった子どもたちがなぜ、より厳しい自衛隊の規律に耐えることができるんでしょうか? そのことだけを見れば、自衛隊のほうが学校よりも優れているような気もするんですけど。

諏訪 自衛隊では規律を、どう教えるんですか?

----------教える、というより命令です。ただ「やれ!」と言うだけ。命令は絶対であり、反論はありえない。それに上官はいちど出した命令は、たとえ後でそれが間違っていたとわかっても、やすやすと撤回してはならないという心得があるんです。

諏訪 命令や指示ということで言えば、学校でも一貫した態度を続けている教師は、めったに校内暴力の標的にはなりません。たとえどんなに管理的な教師であっても、あるいは逆に、極端に放任的な教師であっても、その態度が一貫していれば、生徒はあまり反抗しませんね。殴られるのは、あるときは右と言って、あるときは左と言う教師。そのときに、その教師の欺瞞性に鋭く勘づく生徒というのがいて、その生徒が学力が高い場合はしょーがねー先生だなあと思って黙っているけど、下のレベルの生徒は、怒って反抗するわけです。 だから教師は言葉が多過ぎてはいけないんです。完璧に首尾一貫してる人間なんていませんから、たくさんしゃべれば、必ず矛盾するところが出てくるに決まってるわけです。それに対して自衛隊のように命令一喝で規律の意味なんかもごちゃごちゃしゃべらないという場であれば、校内暴力のようなかたちでの反抗はまず起きないでしょうね。

----------僕が体験入隊したときも、「〇〇が××だから、こうしろ」というような意味や意義の説明はいっさいなかったですね。まあ、口べたな人が多いんですけど。

諏訪 学校の教師というのは、民主的にやれば生徒は従ってくれるはずだと思っているから、生徒とやたら話し合おうとするんです。たとえば、自衛隊の場合とは逆に自分の指示や命令の意味を、「あなたのために言ってるんですょ」というかたちで延々と説明するという習性が教師にはあるんです。ところが、話し合いというのは、一見なごやかに見えるけど、本質的にはすごく抑圧的なことなんですよ。自分の考えに相手を同意させようとすることは、相手の内面を支配しょうとすることですから。それが教師と生徒の関係では特にそうですね。自分の考えのほうに生徒を導こうとするのが教師の「指導」だとすれば、それは相手の思想信条を改めさせることであって、人間の内面にまで踏み込む行為なんです。逆に、ただ「やれ」とだけ言われた場合、人は型にだけ従っていれば、腹の中では「くだらねえな」と思っていたっていいわけです。つまり魂は自由なんですね。この逆説を理解している教師は本当に少ないんですけど、「指導」や「説得」が子どもたちの魂を傷つけるのに対して「命令」や「管理」は、たとえそれが理不冬なものであっても、個人の内面までは侵さないんです。そのように考えれば、教師の「指導」に従えなかった子どもたちが自衛隊の「命令」に従えるのも、理解できるんじゃないでしょうか。

 

前期教育の意味

---------理不尽といえば、自衛隊ではまず三カ月の前期教育期間がありまして、そこで理不尽きわまりない生活規律をたたき込むことから始まるんです。たとえばベッドの毛布は直角に畳まなければいけない。シーツは十円玉が弾むほどピンと張らなければいけない。床にはゴミひとつ落ちていてはならない。考えてみれば、それは本業の戦争とは無関係ですね。そういうことが、なぜ必要なんでしょうか。

諏訪 それは、学校でなぜ子どもたちに掃除をさせなければならないのかということと同じ問題でしょうね。学校では、今は誰もあまりまともに掃除をやろうとはしません。子どもたちの理屈では、掃除なんて勉強とは関係ないじやないか、ホウキじゃなくて掃除機でやればいいじやないか、ということになるし、やりたくないことを子どもに強制するな、業者にやらせろと言う親もいます。そしてそれは、市民社会の論理としては圧倒的に正しいわけです。学校が子どもに掃除を強制する根拠など、どこにもないわけですから。学接は勉強だけをやる場所だと思っていれば、なおさらそうですね。

 しかし、ある意味では、子どもたちが掃除なんかやりたくないと思っているからこそ、そしてそれ(掃除)がどう考えても不合理なことであるからこそ、やらせるわけです。つまり、人が社会の関係性のなかに入るためには、自我が許容できないようなこともあるんだと学ぶ必要があるということです。

 だから自衛隊での最初の三カ月の期間は、個人を自我の固執から離して、自分自身と対峙させるためのものなんじゃないでしょうか。いわば自分を分裂させることによって、自我の思うとおりにはいかないんだということを悟らせる儀式といってもいいでしょう。たとえ不条理な規律でも、従えなければその集団の責任、自分の責任になるから、その子の自我は、規律に従えない自分というものと闘わざるをえなくなる。そのとき初めて、人は社会のなかに入っていくきっかけを見出せるんじゃないでしょうか。

-------でも理不冬な世界ですよ。汚れて当たり前の戦闘服も毎日洗濯してビシッとプレスの線が入ってないとならないし、軍靴もいつも顔が映るほど磨いてないとならないし。

諏訪 つまり、服がメチャクチャだって戦争できるじゃないかって言うわけでしょう。今の生徒や親がそう言っているわけです。アクセサリーを着けたって、髪にパーマがかかっていたって、机の上に落書きしたって授業の邪魔にはなりませんとか、おしゃべりしてたって、大きな声じゃないからいいでしょということと同じですね。

 人間はその欲望のすべてを自由に実現していい、というメッセージが社会全体にあふれているから、自衛隊員は洗濯屋や靴磨きじやないって考えるのも、制服なんか勉強に関係ないって考えるのも、当たり前なんです。しかし、私たちが学校に制服は必要だと言っているのは、制服を者ないと生徒が自我丸出しの、ただの個人になってしまうからなんです。逆に言えば、制服を着ることによって初めて、子どもは、自分は生徒なんだと自我を限定することができるようになるんです。

 そのように考えれば、自衛隊における理不尽な規則や命令はすべて、そのことによって自我を限定させるという側面を持っているんじゃないでしょうか。そして自分を限定するということは、学校や自衛隊だけではなく、社会のあらゆる人間関係の場で必要とされるものなんです。自我を限定できないと他人との距離を全然測れないし、測る必要もないということになる。自分は自分でしかないんだからまわりがどう見ようと関係ない、と。しかしみんなが互いに自分の自我を限定しないでむき出していったら、学校だって軍隊だって社会だって、それこそ恋人同士だって関係は成立しないんじゃないでしょうか。

自由ということ

--------自衛隊はその前期教育を、枠にはめる、型にはめる期間だって言うんですが、それは自衝隊に特徴的な教育方法なんでしょうか。

諏訪 それは学校だって同じですね。学校における「管理」というのも、枠にはめること、画一化することなんですから。

 たとえば、服にプレスするとかベッドメイキングをするというような、それまで無意味だったことが、自衛隊ではすごく重大な意味を持つことになるわけでしょう。そのとき初めて、個人が自衛隊の枠組みと直面させられる。そして、自衛隊という枠の中に自分を限定することを覚えていくわけです。そしてこのような過程を経ることは、学校であれ企業であれ、人がある関係のなかに入っていくときには必然なんじゃないですか。

--------しかし、最初に言ったように、自衛隊の枠の中では、学校の枠にはまらなかった子どもも我慢できているわけです。先ほどの説明では、なぜ自衛隊ではそのようなことが可能なのか、いまひとつわからないんですが。

諏訪 自衛隊の枠は、学校よりも確固としているから、逆に彼らの精神は安定するんじゃないですか。もともと、自分の衝動に揺さぶられて不安定でいたいなんて思ってる人間はいないでしょう。でも、学校で教師がちゃんと枠をはめなかったり、家で親が枠をはめなかったりするから、本人が自分で自分をコントロールするしかなくなってしまう。ところが、自分で自分をコントロールできる人間なんて、実はいないんですよ。人間は皆、何かの力を借りて自分をコントロールしているんです。それがないと安定したくてもできないわけです。

でも自衛隊のように枠が限定されてしまえば、「俺はここにいる。ここにいるからにはここのルールに従うしかないんだ」と思うことで、“荒ぶる魂”を安定させることができるんでしょうね。つまり場の規制力のなかで、人は初めて安定したアンデンティティを獲得できるんです。

---------でも一般には、枠にはめるということは人間性を抑圧することだと言われますよね。

諏訪 だから、それが間違っているんです。さっきも言ったように、枠にはめられても内面は自由でいられるんです。生徒は生徒の役を、決められた枠の中で演じていさえすればいいし、自衛隊員は自衛隊員の役を演じていればいいんです。そこで求められているのは、全人格を自衛隊に捧げろということではないわけですから。

-------そういえば、ある自衛官も、芝居のつもりでやるのがコツだって言ってました。

諏訪 生徒だって、授業中座っていられないとか、先生の言うことをきけないとか、規律を守れない自分と闘うわけでしょう。そこで自分を限定して、限定した部分だけ枠にはめれば安定できるし、個人の魂の自由は留保されるわけです。人が規律を守れるのは、自分の心は自由だと思っているからです。だからプライドを持てる。自衛官だって、自分は抑圧されていて、自由じゃない、なんて思っていたら、規律なんか守ってないですよ。

--------軍人にとってプライドというのはいちばん大切ですからね。特に世間から認知されていない自衛官なら、なおさらでしょうね。「戦艦大和ノ最期」の吉田満も、人間は自由であればこそ、死地に赴くことができる、と言っていますし。要するに外枠というのは、その内面の自由、つまりプライドを尊重するシステムなんですね。

諏訪 そうです。だけど今の社会には、人間は自己のすべてを実現するべきだとか、個人の意思だけで生きるのが本当の自由だ、というイデオロギーが満ち溢れているでしょう。「指導」という方法で、生徒の内面に踏み込んで全人格をコントロールしようとする教師も、実は同じイデオロギーに支配されてるんです。そして、生徒を本質的に抑圧しているんですね。

 

近代国家の要件としての軍隊と学校

---------諏訪さんは、人間というものはもともと限定的なものだとおっしゃるわけですね。

諏訪 それはそうでしょ。「人間」なんてものはあくまで抽象的な概念であって、具体的にはみんなそれぞれまったく違うわけですから。それなのに今は、学校は人間を育てるところだとか、すべての子どもは等しく向上するべきだとか言うわけです。バラバラの個人を「人間」なんて言葉でひとくくりにして、ある価値観を一律に押しっけるほうが本当はずっと抑圧的なんですよ。

 自衛隊、あるいはもつと一般化して軍隊でもいいんですけど、そこでは人間を育てるなんて言いませんよね。いろんな地方から、いろんな階層から、勉強できるのもできないのも集まって来るんだから、全員の人格をひとつにできるわけがない。それは学校も軍隊も同じです。だから内面の自由を尊重したまま外枠だけを押しっけるという以上のことはできないし、やってはいけないと思うんです。

 さらに言えば、近代市民社会の成立期に、軍隊は学校と同時に発生したんです。だからそこで考えなければならないのは、近代において、あるいはい国民一国家において、イニシエーション(通過儀礼)が学校や軍隊に担わされたという問題なんですね。

 先ほども言ったように、自我のままに許されていた親のもとから切り離し、自我が通用しない場面もあるんだということを教えなければ、子どもは社会の一員にはなれないわけですが、その現れ方が近代以前と以後とでは決定的に違うわけです。社会といっても地域の共同体しかなかった時代には、村のおじさんや近所のおばさんとかに叱られながら、子どもは大人になっていった。しかし近代国家ができたときに、こんどは「国民」というものを育てなければならなくなって、通過儀礼を学校や軍隊がやることになったわけです。それは善悪の問題ではなく歴史的な事実なんですから、議論をするにしても、そのことをまず認めてもらいたいと私などは思いますね。

 そういう認識のない人が、学校と軍隊は違うとか、学校は肯定するけど軍隊は否定すべきだとか言うわけですが、それは明らかに矛盾してるんです。軍隊を否定するなら学校も否定するべきだし、近代国家そのものも否定すべきですね。しかし未来にどんな社会を目指すにせよ、まずは国民国家を経過しなければならないわけでしょう。そのことにきちんと決着をつける必要があるんじゃないでしょうか。ところが日本は、爛熟した大衆社会状況までも享受していながら、その前段階の国民国家形成の過程で不正義な戦争をやってしまったから、そこを混乱のまま通り過ぎて知らんぷりしてるわけですね。

 さらにもう少し言ってしまえば、明治期の学校や軍隊は、その役割が非常に限定されていたんです。要するに「天皇の赤子」をつくるということであって、それは外枠にすぎないんです。それ以外の人格は、依然として地域共同体や親が教育していた。学校が人間を育てるという「全人数育」になったのは戦後であって、それ以前はそういう発想すらなかったわけですから。だから、教育が抑圧になったのは、戦後なんです。

 

対大衆社会戦における、撤退

---------僕は先ほどから自衛隊、自衛隊と言ってますが、実はそこで行なわれていることはどこの国の軍隊でも同じなんです。ただ、自衛隊と旧軍がもつとも違うのは精神教育なんです。僕が取材していて驚いたことのひとつは、自衛隊の精神教育の無内容さでした。いちおう、各隊でも防大でも「使命」とか精神教育という座学の時間は義務づけられてはいましたが、実際は昼寝の時間だと言われています。

諏訪 それは旧軍では精神講話と呼んだものでしょうね。日本というのは神国だぞとか、天皇陛下は偉いんだぞ、とか話したわけです。今はどういうことを教えてるんですか?

---------せいぜいソ連は危ないとか、朝日はアカだとか言うくらいで、「精神」じゃないですね。教えるほうも何をどう教えたらいいかわからないってこともあるようですけど。

諏訪 それはそうでしょ。だって社会全体に精神性がないんだから。世の中にないものを、自衝隊の中だけでやろうとしたって無理です。自衛隊といったって市民社会から完全に隔離されてるわけじゃないんですから。だからこそ、思想教育はしないで、枠だけはめるというシステムで、かろうじて組織を維持してるんでしょうね。

--------自衛隊に入ってまともになった子も、辞めて実社会に出るとまたうまくいかなくて、再び自衛隊に戻る例も多いんです。

諏訪 彼らは自衛隊という枠の中で安定していただけで、全人格的な変革があったわけじゃないから、それは当然でしょうね。自衛隊と違って、人間性を全開して生きることが正しいとされている現実社会、つまり欲望は全部充足していいんだよというメッセージを与え続けるこの社会では、必然的に内面は傷つけられるわけですし。

 軍隊というのは現実社会ではなく、教育をするためにつくられたフィクショナルな場所なんです。それは学校だって同じなんですが、そこに現実社会がどんどん侵攻してくるわけです。だから学校でも、枠の中だけで生徒の役を演じさせることすらできなくなっている。それを私は、大衆社会との闘いでぎりぎりの撤退戦をしていると言うわけですが、自衛隊もまた、同じような問題を抱えているんでしょうね。

--------実は自衛隊の組織維持も最近は危うくなってきているんです。新兵に雑用やらせると不満を持つからといって、草むしりなんかも古参兵がやってる。業者にやらせようという案まである。体罰しようものなら逆に訴えられちゃうし。髪型もパーマとか増えてきている。とにかく、新隊員が入ってこないし、入ってきても辞めちゃうからといって大衆社会のほうにどんどん迎合しつつあるんです。

諏訪 それじゃ、やっぱり戦争はできないですね。今の日本にはそれでちょうどいいんでしょうが。

-------でも、彼らはほとんど一〇〇%、やれと言われたらやると言ってますよ。

諏訪 それは自衛隊という枠にはまってるからそう思えるだけであって、現実に殺し、殺されるという場面では、社会全体のコンセンサスに支えられた精神性がどうしても必要になってくるんじゃないですか。普通の人間は、外枠だけで命を賭けたりできませんから。命令されれば中東にだって行くでしょうけど、向こうで初めて、自分を支えるものが何もないということに気がついて、それこそ第一次大戦後のロストジェネレーションやベトナム帰還兵みたいなことになるんじゃないかと思いますよ。

 

(別冊宝島133 [1991年5月発行] 「裸の自衛隊」より)