異なる悲劇 日本とドイツ (数年前に書かれたものです)
朝日新聞はこの論文が出てからドイツに見習え式の論調をしなくなったとのことです。
ナチスドイツと戦時中の日本という、二つの体制のあまりに自明な相違点を、日本ののマスコミはきちんと区別しないで、国家賠償や戦後保証の問題を漠然としたムードだけで扱っているのを、かねて疑問に思っていたからである。
1〜2の新聞は戦後のドイツに比べ日本は謝罪に不誠実で、反省が足りないと国民を責め立てた。
国民がマスコミに脅されるのは民主主義の試練の一つで、必要悪ともいえるが、なんとこの国では総理大臣と衆議院議長という三権の長の中の二人までもが、この問題について基本的知識を欠くまま、ドイツに見習え式のことをいつている。
実を言うと、日本人は知らないのだと思うが、ドイツはこれまでいかなる国家賠償も行っていないのである。
戦争犯罪に対するいかなる戦後責任も果たしてこなかったのだ。
そういうと、え,そんなバカなと読者は思うであろう。
といってもそれは事実なのである。
そもそもドイツはまだ旧交戦国と講和を結んでいない。
対戦中には戦勝国も敗戦国も戦争犯罪を犯すがそれを互いに水に流すのが講和条約である。
最近ドイツは統一したので、これから講和を結ぶかもしれないが、賠償を支払うことはないであろう。
いわゆる戦争犯罪の責任を取ろうとする意思はもともとドイツになかったし、旧交戦国側もいまさら責任を要求しないであろう。
それならドイツはいままでいったい何に対して、いわれるところの巨額の補償をしてきたのであろうか。
戦争犯罪とは別件の何に対してしてきたのか。
そしてそれは日本にも求められる義務なのだろうか。
日本人は責任感が足りない、ドイツ人は立派だ、という論調をよく見かける。
国民が全員で道徳的責任を感じることを集団の罪という。
戦後の日本人は少なくとも一度はそれを自ら認めたわけだが、ドイツ政府は最初から今にいたるも集団の罪を自らに認めていない。
読者はまた、オヤ、そんなバカなと思うかもしれないが、敗戦国民がこういう罪を認める恐ろしさをドイツ人は骨の髄までよく知っているのである。
ドイツ憲法第139条は、ドイツ国民はナチズムから解放された、という見地に立っていて、ナチズムとドイツ国民との同一視は避けられている。
解放という見地に立つなら、ドイツ国民はナチズムの協力者でも、参加者でも、推進者でもなく、犠牲者にすぎなかったことになる。
すなわち、現在のドイツ国民はナチズムとは別であるから、道徳的責任は負わない(集団の罪は認めない)
戦争犯罪は戦勝国も犯す。捕虜迫害、民間人虐殺、一般居住民地への絨毯爆撃、病院船の撃沈、原爆などの無差別殺戮などがいわゆる戦争犯罪に当たるが、ナチスの行為は殺人自体が目的で戦争行為とはいえない部分が大きくその犯罪もまた戦争犯罪とはいえない。(一部略)
けれども、貿易立国として生きていくためには、政治的責任は背負わざるを得ない、政治的責任はすなはちお金による償いである、という公式的立場を、ドイツ政府は一貫してとりつずけてきた。
<おまけ>
韓国訪問中の日本の若者が韓国の若者に向かって、
「日本って国は、力の差もわきまえずにアメリカに無謀な戦争を仕掛けてコテンパンにやられてしまい、アジアの人達にも耐えきれない苦しみを与えた本当に愚かな国なんですよ。私も日本が大嫌いなんです。」と述べたという。
これに対して韓国の若者はこう切り返したそうである。
「私は確かに日本帝国主義の植民地支配を恨んでいます、でもあなたのように自分の国をこきおろして相手にへつらうような卑怯な人間が一番嫌いです。」
見事な答えである。こんなことが言える若者が隣国には育っているのである。
それにひきかえ自国に対する嘲笑と相手国へのお追従に終始する日本の若者の醜悪な姿は哀れと言わずしてなんと言いえようか。
自虐とはこういう感覚と態度を言うのである。