教科書問題の発端「世紀の大誤報」の真実
今回の教科書検定が大詰めを迎えた三月十二日の参院予算委員会で、民主党の竹村泰子氏は昭和五十七(一九八二)年の中国や韓国が日本の検定を批判した教科書問題について、「侵略を進出と書き直したことによって、アジア諸国から猛烈な批判を浴びたのではないか」と質問した。これに対し、町村信孝文部科学相は「当初、(文部省の検定で)侵略を進出に書き直させられたと報道があった。しかし、誤報だったこと、(侵略を進出に)書き換えた教科書はその時点ではなかったことが後々判明し、訂正報道がなされた」と答えた。
竹村氏はその後の産経新聞の取材に対し、「町村文部科学相の答弁には驚いた。誤報という話は聞いたことがないので、何が真実であるのか調べてみたい」と話している。竹村氏だけではない。多くの日本国民はこの事実を正確には知らされていない。
その意味では、竹村氏の質問は図らずも、今日の教科書問題の原点を再び浮き彫りにしたといえる。
「内政干渉」という認識していたが…
「あの年の教科書問題はどういうわけか、二十六日に縁があった。六月二十六日の教科書検定に関するマスコミ報道に始まり、七月二十六日に中国政府がこの報道をもとに抗議してきた。そして、宮沢(喜一)官房長官談話が八月二十六日に発表され、九月二十六日に鈴木(善幸)首相が訪中した」。当時、文部省初等中等教育局長として首相官邸や外務省との折衝にあたった鈴木勲氏(七六)は、昭和五十七年夏の教科書誤報事件をこのように振り返った。鈴木氏は現在、国民道徳を提唱する日本弘道会の第九代会長を務めている。
まず、同年六月二十六日付の新聞各紙の報道を検証してみる。
朝日は一面で「教科書さらに『戦前』復権へ」「文部省 高校社会中心に検定強化」「『侵略』表現薄める」と報じ、社会面の「こう変わった高校教科書」と題する検定前と検定後の記述を比較する表で、「日本軍が華北を侵略すると…」が「日本軍が華北に進出すると…」に変わったとした。
毎日は「教科書統制、一段と強化」「“戦時”におう復古調」「明治憲法を評価」「中国『侵略』は『進出』に」、読売は「高校教科書厳しい検定」「自衛隊成立の根拠を明記」「明治憲法の長所も記述を」「中国『侵略』でなく『進出』」などと報じた。
産経は翌二十七日付で「新しい高校教科書ここが変わった」「国民の合意得られる表現 文部省」「検定こまかく厳しすぎる 執筆者」「中国侵略→進出」「天皇の『死』→『没』」と報じた。
この中の「侵略→進出」という各社共通の報道が独り歩きすることになる。文部省の検定によって、日本軍の華北への「侵略」が「進出」に書き換えられた―とする部分である。後に判明するが、いずれも誤報であった。
なぜ、このような一斉誤報が起きたのか。それは、当時の文部省記者クラブ(文部記者会)で、手間のかかる教科書取材については「各社分担・持ち寄り制」という数年来の慣行が続いていたためであった。
昭和五十六年度検定に合格し、五十八年度から全国の小学校と高校で使われる教科書の見本本が記者クラブに配布されたのは、報道の十日前の五十七年六月十六日だった。教科書の総点数は全教科合わせて五百九十三点にのぼった。
このうち、高校の日本史と世界史各十点、地理四点、倫理三点、政治経済五点と国語、及び小学校国語について、検定前の記述にどんな検定意見がつき、検定後どう変わったか―を各社が分担して取材することになった。当時、記者クラブには、全国紙やテレビ、通信社など十六社が加盟していた。
六日後の六月二十二日、各社が取材結果を持ち寄った。そこで、実教出版の「世界史」を担当した日本テレビの記者は「『日本軍が華北に侵略すると…』という記述が、検定で『日本軍が華北に進出すると…』に変わった」と報告した。これをもとに、各社が「侵略→進出」と一斉に報道したのである。
だが、実際は、検定前も検定後も「進出」と書かれ、検定で記述は変わっていなかった。取材が甘かったのか、それとも執筆者側がミスリードしたのかは分からない。いずれにしても、日本テレビだけの責任ではなく、記者クラブの安易な慣行に安住し、裏付け取材を怠った全社の責任といえる。
この一斉誤報から約一カ月間は、中国や韓国の新聞が散発的に日本の教科書検定を批判する程度で、外交問題に発展する気配はなかった。文部省も誤報に気づいていなかった。
当時の文部省教科書検定課長で現在は財団法人教科書研究センターの常務理事を務める藤村和男氏(六五)は「最初は『侵略』から『進出』への書き換えがあったかもしれないと思っていた。それまでの検定で、『侵略』にはずっと改善意見をつけ、直した社も直さなかった社もあったからだ」と話す。当時の検定意見には、必ず直さなければならない修正意見(A意見)と、直さなくてもよい改善意見(B意見)があった。「侵略」には、強制力の弱い後者の検定意見がつき、判断は教科書会社に委ねられていたのである。
「侵略」に改善意見をつけた理由について、当時の主任教科書調査官で現在関東短期大学名誉学長の時野谷滋氏(七 六)は、こう説明する。「欧米列強が中国で行ったことを『進出』とし、日本だけ『侵略』ではバランスがとれないので、表記の統一を求めた」
日中・日韓関係が険悪なムードになるのは、七月二十三日の文部省と日教組のトップ会談以降である。例年、予算の要望という形で行われていた会談だが、この年は日教組の槙枝元文委員長が教科書検定問題を取り上げた。そのやり取りの中で、小川平二文相が「教科書検定は内政問題だ」と発言した―と槙枝委員長が記者会見で語り、この文相発言に中韓両国のマスコミが反発した。もっとも、小川文相は「そのようなことは言っていない」と槙枝委員長を批判しており、真相は分からない。さらに、一部閣僚が「内政干渉ではないか」と発言し、韓国マスコミはこれを「妄言」として批判した。
七月二十六日夜、東京・深沢の小川文相の私邸に、三角哲生文部事務次官や鈴木初中局長らが呼ばれ、その対応策が話し合われた。「中国から公式抗議」の一報は、そこへ外務省からの連絡によってもたらされた。
中国外務省の肖向前第一アジア局長が在北京日本大使館の渡辺幸治公使を呼び、日本の新聞報道をもとに、次の四点の検定について「歴史を改ざんした」「日中共同声明の精神に反する」などと善処を求めてきた―という内容であった。
(1)日本の華北「侵略」を「進出」に書き換えた(2)中国に対する「全面的侵略」を「全面的侵攻」としたB九・一八事変(満州事変)について「日本軍が南満州鉄道を爆破した」としたC南京大虐殺について「中国軍の激しい抵抗を受け激怒した日本軍が…」とした。
Bは満州事変を単なる局地的事件とし、日本の中国侵略の始まりという歴史的な視点が欠落している―という意味らしかった。Cは南京虐殺を中国軍の抵抗のせいにした―と抗議しているように思われた。
鈴木局長は急ぎ文部省に引き返し、記者会見でこう述べた。「現段階では、中国側の意見が外交上、どのような意味をもつのか、はっきりしない。今後、外務省とつめて、慎重に対応したい」
「実は、あのとき、小川文相も私も、中国からの抗議は『内政干渉だ』という認識で一致していた。しかし、それを口に出しては言えなかった」と鈴木氏は当時の心境を打ち明ける。日本の政府関係者が少しでも、中国や韓国の意に沿わないことを言えば、両国から非難を浴びた時代だったのである。
一方、藤村課長は中国からの抗議を受け、省内に若手数人を集め、検定前の白表紙本と検定後の見本本の違いを徹底的に調べた。その結果、中国が問題にしてきた昭和五十六年度検定では、『侵略』から『進出』への書き換えの例は見つからなかった。
七月二十九、三十の両日、衆参両院の文教、内閣、外務委員会で、鈴木局長と藤村課長はこの事実を繰り返し説明したが、マスコミや野党の理解を得られなかったという。
当時、私(石川)も社会部遊軍記者として教科書問題取材班の一員だった。そのころのメモ帳には、鈴木局長が七月三十日の衆院文教委員会で「『侵略』を『進出』にしたケースは五十六年度検定では見当たらない」と答えたことが、はっきりと記されている。しかし、この時点では、鈴木局長の答弁のもつ重大な意味に気づかなかった。
ただ、マスコミ各社はこのとき、報道の微修正を行っている。
「今年の検定で『侵略』を『進出』と変えた例はいまのところの文部省調査では見当たらない」(七月三十日付朝日)。「これまでの調べでは今回の検定で『侵略』が『進出』に言い換えられた例は見つかっていないという」(同日付毎日)。「検定前も『日本軍が華北に進出すると…』であり、『中国への全面的侵攻を開始した』である。検定で変わってはいないのだ」(七月二十八日付産経)。
いずれも、目立たない箇所に書かれ、読者にはっきり伝えられたとはいえない。
封じられた文部省の最後の抵抗
当時の鈴木善幸内閣には、中国からの抗議に毅然とした対応をとれない事情があったとされる。小川文相がその年の九月上旬に訪中し、次いで九月下旬に鈴木首相が訪中するという外交日程が組まれていたからだ。
実際、中国政府は八月一日、「教科書問題での対抗措置」として、小川文相の訪中招請を取り消してきた。
八月三日、中国に続いて韓国政府も、日本の教科書検定に公式抗議し、記述の是正を求めてきた。韓国からの抗議は、日本の植民地統治に朝鮮の独立運動家らが反発した大正八(一九一九)年の「三・一独立運動」について日本の教科書が「暴動」という表現を用いたことなどに対し、書き換えを求めてきたものとみられる。
しかし、いったん検定に合格した教科書の記述は、そう簡単には書き換えられない。書き換えれば、それは検定制度の崩壊につながる。これが文部省の基本姿勢であった。
これに対し、首相官邸と外務省は、日中・日韓の友好のためには教科書の書き換えが必要であるという考えであった。
文部省と官邸・外務省のつばぜり合いが始まった。「当時は、自民党も田中派を中心に『日中友好』を重視する考え方が強く、文部省は孤立無援の状態に近かった」と鈴木氏(元文部省初中局長)は回想する。
八月九日、桜内義雄外相は衆院外務委員会で、「国交回復後、日本の立場を明確にしているが、損害を与え、迷惑をかけたことを反省するとともに、(教科書問題が)両国の感情を刺激していることを認め、冷静に対処しなければならない」と述べ、間接的な表現ながらも、教科書の書き換えを希望した。
同じ日、日本政府は教科書問題の打開策を探るためとして、橋本恕・外務省情報文化局長と大崎仁・文部省学術国際局長を中国に派遣した。中国側は重ねて教科書記述の改訂を要求した。
両局長の帰国後、私は外務省に橋本情文局長を訪ねた。その取材結果は記事にしなかったが、当時の取材ノートによれば、橋本局長はこう語っている。
「日本が中国で行ったことについて教科書は『進出』と書いているが、高校野球で池田高校が決勝に『進出』したという表現と同じでいいのか。日本が国際的に孤立してもいいのなら、『進出』でもいいだろうが、日本だけで通用する議論ではだめだ。逆に、あなたに聞きたい。あれ(日本が中国で行ったこと)が『侵略』じゃないと言うんですか。世界に通用する議論をしなければならない。あれが『アドバンス(進出)』では、世界に通用しない」
その年の夏の全国高校野球は、徳島県代表の池田高校が決勝に進出し、広島商業高校を「十二対二」の大差で破って初優勝した。その話題を例にとり、分かりやすく説明しようとしたのかもしれないが、私にとっては、当時の外務省の姿勢を分かりやすく伝えた言葉として、今も記憶に残っている。
八月十九日、文部省は外務省が求める教科書書き換えについて、譲歩案を示した。三年ごとに行われる改訂検定(部分書き換え)の周期を一年早め、二年後の五十八年度に実施するという案である。これなら、検定制度の枠内で何とか可能だった。しかし、外務省はなお、「一年繰り上げが可能なら、なぜ二年繰り上げられないのか」と文部省に迫った。改訂検定には、一年前に対象科目の告示が必要であるという検定制度の仕組みを、外務省は全く理解していなかった。文部省はいったん、「一年繰り上げ」案をひっこめた。
二十日深夜、宮沢喜一官房長官と須之部量三外務事務次官、三角哲生文部事務次官らの協議が行われた。宮沢氏は両省の調停役だったが、質問はもっぱら三角次官に向けられた。「検定繰り上げができないというのは、法律で決まっているのですか」「それじゃ、予算で不都合でも…」「どこに問題があるのですか」。言葉は丁寧だが、真綿で首をしめるような質問だったという。
二十二日、自民党教科書問題小委員長の三塚博氏と同文教制度調査会副会長の森喜朗氏が韓国に派遣された。だが、「検定制度は守りたい」とする日本側と、「記述の即時書き換え」を求める韓国側との溝は深かったようだ。帰国後、森氏らは宮沢官房長官に韓国側の厳しい姿勢を伝え、「直すべきは直し、できるだけ早い対応が必要だ」と進言した。
二十三日、鈴木善幸首相は内閣記者会との会見で「検定制度は守る」としながら、「中国、韓国の納得できる形で処理したい」と述べ、記述変更で決着を図る意向を示した。
改訂検定の時期については、「教科書記述の即時修正」を意味する外務省の「二年繰り上げ」案には、小川文相や三角次官ら文部省幹部が辞任してでも抵抗するという意志を示したこともあって、十九日に文部省が提示した「一年繰り上げ」で決着した。
二十六日午後四時、こうした日本政府の見解を盛り込んだ宮沢官房長官談話が発表された。「政府の責任において(教科書の記述を)是正する」「検定基準を改め、前記の趣旨(アジアの近隣諸国との友好、親善)が十分実現するよう配慮する」。これが、その後の教科書検定に大きな影響を与えることになる。
この宮沢談話には、文部省にとって承服しがたい言葉が含まれていた。それは「是正」という二文字である。文部省は「改善」という言葉を望んでいた。改善は「よりよくする」という意味で、今までの検定が間違っていたことにはならないからだ。
この文部省の最後の抵抗が封じられたいきさつについて、当時自民党文教部会長だった故石橋一弥氏は生前、私にこんな舞台裏を明かしてくれた。
宮沢談話が発表される三時間前の八月二十六日午後一時前、石橋氏は同じ自民党文教族の有力議員である三塚氏とともに、東京・永田町の自民党本部へ呼ばれた。
そこには、二階堂進幹事長、田中六助政調会長、田中龍夫総務会長ら党三役をはじめ、池田行彦官房副長官が集まっていた。なぜか、宮沢官房長官の姿はなかった。池田氏は一枚の文書のコピーを五人に配った。
池田氏「文教部会長、どう思われますか」
石橋氏「『これではダメだ』と言ってよろしいでしょうか」
池田氏「すでに、外交ルートを通じて、両国(中国と韓国)政府に事前に通告済みです」
石橋氏「それをわれわれ(自民党文教族)にのめ、ということですか」
二階堂氏「まあ、まあ」
三塚氏「理不尽だ」
このとき配られた文書が「宮沢官房長官談話」と呼ばれる政府見解だった。
石橋氏はなおも、「『是正』とは何ですか。今までの検定が悪かったと認めるようなものではないか」と池田氏に迫ったが、聞き入れられなかった。
そのころ、文部省では、三角次官や鈴木局長らが「政府見解について、官邸や外務省と文部省案をすりあわせる余裕はまだある」と踏んで、石橋氏ら自民党文教族の報告を待っていた。文部省案は「是正」でなく、「改善」であった。だが、やがてやってきた石橋氏は「残念だが、時すでに遅い」と三角次官らの前で涙を流した。
その夜、三角次官は同じ自民党文教族の西岡武夫氏(政調副会長)から「『政府の責任において是正する』と誰が決めたのか」と怒鳴られたが、答えようがなかった。文部省内は通夜のような雰囲気に包まれた。
「新聞が大きく育てた小さな誤報」
そのころ、東京・紀尾井町の文藝春秋社では、外交問題に発展した教科書問題がマスコミの誤報に端を発していたとするスクープ記事の取材が最終段階を迎えていた。
同年九月二日発売のオピニオン誌「諸君!」の十月号は、「萬犬虚に吠えた教科書問題」というタイトルで、渡部昇一・上智大学教授の論文を掲載し、「『侵略』を『進出』に書き換えた!?そんな例は今回の検定では一つもないではないか。それをあるかのごとくに報じて、隣邦諸国を憤激させ、国民を惑わせた元凶は誰だ?」と書いた。
同じころ発売された「週刊文春」の九月九日号は「意外『華北・侵略→進出』書きかえの事実なし!」「歴史的大誤報から教科書騒動は始まった」という見出しで、「これが一体信じられるか。近隣の国々を憤激させた教科書騒動の端緒は、文部省記者クラブのささいな不注意にあったのだ。そもそも今回の検定に『侵略→進出』の書きかえの事実などなかった。ついには外交問題までも招来させた『誤報』のメカニズムを克明に追い、新聞の責任を問う」と書いていた。
この二誌のスクープ記事が新聞界に与えた衝撃は大きかった。
産経新聞では、読者にはっきりと分かる形で謝罪記事を出すことになった。それが、九月七日付朝刊の「読者に深くおわびします」「教科書問題『侵略』→『進出』誤報の経過」という七段の囲み記事である。本文では、「日本テレビ」という実名を出さず、「X社」としたが、文部省記者クラブの「各社分担・持ち寄り制」という慣行が全社の一斉誤報につながったことを詳しく書いた。さらに、翌八日付でも、「教科書問題 中国抗議の土台ゆらぐ」「発端はマスコミの誤報からだった」という七段の囲み記事を掲載し、中国が日本の新聞報道をもとに抗議してきた四点の“検定結果”について、いずれも根拠がないことを説明した。
一方、朝日新聞は九月十九日付の「読者と朝日新聞」という中川昇三社会部長名の四段の囲み記事で、「『侵略』→『進出』今回はなし」「教科書への抗議と誤報」「問題は文部省の検定姿勢に」と報じた。「一部にせよ、誤りをおかしたことについては、読者におわびしなければなりません」としながら、「ことの本質は、文部省の検定の姿勢や検定全体の流れにあるのではないでしょうか」「侵略ということばをできる限り教科書から消していこう、というのが昭和三十年ごろからの文部省の一貫した姿勢だったといってよいでしょう」と書いていた。
毎日新聞は九月十日付「デスクの目」で、この問題に触れ、「当初は、これほどの問題に発展すると予測できず、若干、資料、調査不足により読者に誤った解釈を与える恐れがある部分もあった」「不十分な点は続報で補充しており、一連の報道には確信を持っている」と書いた。
朝日も毎日も、読者への謝罪というより、弁明に近い記事であった。
いずれにしても、文春二誌のスクープをきっかけに、中韓両国からの批判は弱まり、鈴木首相は予定通り、九月二十六日に中国を訪問した。ただ、産経新聞記者にだけは中国から入国ビザ(査証)が発給されず、同行取材を拒否された。
「諸君!」の渡部論文は、後に南京事件研究家として知られるようになる板倉由明氏(故人)の調査や世界日報の記事などを参考にしている。
板倉氏は中国の外交ルートを通じた抗議が一斉に報じられた七月二十七日、朝日や毎日、NHKなどに「『侵略』が『進出』に変わった例はあるのか」と電話をかけた。「いま調べている」(朝日)、「騒いでいるからには、あるでしょう」(毎日)、「間違いなく、実例はある」(NHK)という返事だったという。文部省の教科書検定課に直接、電話をして確かめたところ、五十六年度検定では「侵略」から「進出」への記述変更がないことが分かり、その後のマスコミの不誠実な対応も含めた検証記事を「諸君!」十一月号に「新聞が大きく育てた小さな誤報」というタイトルで書いている。同時期の新聞週間の標語「新聞が大きく育てる小さな意見」を皮肉ったタイトルであった。
世界日報は全国紙やブロック紙のような日本新聞協会加盟の新聞ではなく、記者クラブ制度の恩恵にも浴していない。渡部教授の目にとまった八月六日付「テレスコープ」は「実際は変わっていない“教科書”」「一部を誇大に報道」「『侵略』記述は、逆に増加」と報じている。「侵略→進出」がないとはっきり分かるようには書かれていないが、教科書会社が実名で書かれ、検定前と検定後、従来の教科書と五十八年度使用開始の教科書の記述が表で比較されている。この記事を書いた恒崎賢二氏は四年前の産経新聞の取材に、こう話した。
「あのころ、私は入社二年目で、自民党文教族の議員などを回り、検定の詳しい資料を入手した。原稿本(検定前)と見本本(検定後)を比べてみると、『侵略』から『進出』に変わったところはどこにもなかった。教科書センター(東京・市谷)にも行って、過去の教科書を調べたが、『侵略』の記述はむしろ増えており、マスコミが伝える『検定強化』とは逆だと思った。私の記事が出た日、『諸君!』のデスクと『週刊文春』の記者が来たので、資料を提供した」
流れを変える新しい教科書
一方、宮沢官房長官が中韓両国に約束したことは三カ月後に実現した。
同年十一月十六日、文相の諮問機関「教科用図書検定調査審議会」は(1)社会科の検定基準に近隣諸国との友好・親善に配慮した新たな一項目を設ける(2)中韓両国が問題とした五十六年度検定(五十八年度使用開始)の高校教科書については、改訂検定(三年周期)の時期を一年繰り上げ、五十八年度に行う―の二点を骨子とする答申をまとめ、小川文相に提出した。
新検定基準の文言は「わが国と近隣諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに当たっては、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていることとする」という内容で、後に「近隣諸国条項」と呼ばれる。
審議の過程で、新基準を具体的にどう適用するかについて詳細な方針を示した次のような「具体的事項についての検定方針(案)」が文部省から示された。
【侵略】主として満州事変以降における日中関係の記述については、とくに不適切と認められる場合を除き、「侵略」「侵攻」「侵入」「進出」「進攻」などの表記についての検定意見を付さない。
【南京事件】原則としては、同事件が混乱の中で発生した旨の記述を求める検定意見を付さない。死傷者数を記述する場合には、史料によって著しい差があることに配慮した記述をし、その出所や出典を明示することを求める検定意見を付す。
【三・一独立運動】同運動が「暴動」の状況にあったとの記述を求める検定意見を付さない。
【神社参拝、日本語使用、創氏改名】「強制」などの表記については、検定意見を付さない。
【強制連行】朝鮮人が強制的に連行された旨の表現については、検定意見を付さない。強制的に連行された朝鮮人の人数を記述する場合には、その出所、出典を明示することを求める検定意見を付す。
【沖縄戦】日本軍による沖縄住民の殺害については、沖縄戦の記述の一環として、その原因、背景を正確に表現している記述については、検定意見を付さない。日本軍により殺害された沖縄住民の人数を記述する場合には、信頼性のある資料に基づいて記述することを求める検定意見を付す。
要するに、「侵略」や「強制」という記述には一切、検定意見をつけず、南京事件などの犠牲者数については、出所・出典さえ示せば、それが不確かなものであっても、検定をパスさせる―という趣旨である。
この方針は同審議会の歴史小委員会では認められたが、社会科全体を担当する第二部会では正式に決定されなかった。しかし、その後の検定で、この文部省の検定方針案が活用されたことは間違いない。
近隣諸国条項が初めて適用された昭和五十七年度検定の結果について、五十八年七月二十九日付「文部広報」はこう書いている。
「『侵略』という用語を使用することについては、取り扱い及び表記・表現からみて不適切な場合を除き、意見を付さなかった」
「南京事件の背景について短い語句で記述することは誤解を生じる恐れがあるので、これに関する説明を求める意見は付さなかった。『二十万人』の数字について、著作者側から洞富雄氏の説に基づく旨の説明があったので、同氏の最近の著書である『南京大虐殺』(一九八二年、徳間書店)を掲示し、同書においては、『二十何万人かの犠牲者のすべてが被虐殺者であったわけではない。…一般市民の犠牲者数を十万人と推算するのは、あるいはやや大量にすぎるかもしれない』と記述されていることを指摘した」
「土地調査事業、神社参拝、日本語使用、創氏改名及び強制連行については、表記・表現からみて不適切な場合を除き意見を付さなかった」
その後、日本の歴史教科書は、特に近現代の部分について自虐の度を強める。それが極端な形で現れたのが、平成八年六月末に発表された中学歴史教科書の七年度検定の結果であった。
教科書を発行する全七社が一斉に「従軍慰安婦」を載せた。いずれも、「強制連行」の一環として書いていた。平成五年八月、河野洋平官房長官が発表した「従軍慰安婦の強制連行」を認める政府見解(河野談話)の影響であった。しかし、九年春、当時の官房副長官、石原信雄氏の証言によって、河野談話の信ぴょう性は失われた。
石原氏によると、日本政府が集めた公的資料には、日本の軍隊や警察が慰安婦を強制的に連行したという証拠はなく、談話発表の直前に行われた元韓国人慰安婦の証言のみに基づいて強制連行を認める河野談話が発表されたのである。
また、大原康男・国学院大学教授らの調査により、「従軍慰安婦」という言葉は戦前・戦中は使われず、戦後の造語であることも明らかになった。
慰安婦に関する記述だけではない。南京事件の被虐殺者数についても、東京裁判の判決が認定した「二十万」や中国側が主張する「三十万」といった誇大な数字が教科書に書かれ、文部省の検定をパスしていた。
だが、ようやく、その流れが変わろうとしている。今回、従来の教科書とは歴史認識や歴史観を全く異にする教科書が検定をパスした。「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが執筆に加わった扶桑社の教科書である。子供たちが日本に生まれたことに誇りをもてるような教科書づくりを目指したとしている。
この扶桑社の教科書の影響を受け、既存の七社の中にも、慰安婦の記述を削除したり、南京事件の犠牲者数の誇大な数字を避けるなど、記述のバランスをとる傾向が見られるようになった。
十九年前の誤報によって歯車を狂わされ、政治や外交に翻弄され続けた日本の歴史教科書がようやく、われわれ日本人の手に取り戻されようとしているのである。