関川 夏央 司馬遼太郎 没後5年の喪失感(13.2.20中日夕刊)
・・・・・・・私は七○年代が終わるころまで、司馬遼太郎を読んだことがなかった。売れる小説はできれば軽んじたいという青年の客気ゆえだった。そのうえ、当時の私は愚かにも、日本近代史と近代文学は無関係であるという偏見の持ち主であり、文学など男の仕事ではないと考えていた。では何が男の仕事かと問われると、困るのだが。
しかし、ふとしたはずみで『坂の上の雲』を読み、衝撃を受けた。そこには私がひそかに退屈しつつ、そのことを口には出しかねていた「人間の内面」などというものは、少しもえがかれてはいなかった。ただ、ある目的のために合理的に行動し、行動に際しては名を惜しんでも命を惜しまぬ人々の姿がおった。そういう人々をあらしめた歴史的時間があった。
日本海海戦に勝利した戦術の天才・秋山真之は、猛炎に包まれるロシア戦艦、スワロフやオスラ−ビアを目のあたりにする。目的は遂げられた。しかし、秋山は安堵とともに、ある悲しみを味わう。・・・・・
『坂の上の雲』を読まずして日本の近現代史を語る無かれ。
その時代の空気を嗅ぐこと無く
日清・日露までをも侵略の一言で片付ける自虐史観に陥る無かれ。
秋山真之になりたし、されど我に戦略・戦術の才乏しく・・・