水沢茶とあなたを結ぶ−−緑茶ライフメッセージ
ひとときVOL3
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缶緑茶とリーフティー
今の時代は、便利(簡単)と心の余裕の両者を求める時代のようで、一方では缶緑茶が急激に筈及し、また一方ではゆとりを持ってじっくりと本物を味わうお莱もまだまだ根強い人気を保ち続けています。
いつでもどこでもプルトップを開ければ気軽に楽しめる缶のお茶。最近では、ペットボトルも増えています。
ウーロン茶に始まったお茶の缶ブームは今も続いています。
夏は冷やして、また冬は温めてホットで一年中味わえる缶のお茶は、その便利さと手軽さが時代のニーズにマッチし、若者にもウケている状況です。
ただ、緑茶本来の味わいと香りが損なわれやすいため、各社独自の製法で開発かなされているようです。
本格派のじっくり緑茶を味わいたい方には、やはり茶葉を使用する従来の急須と湯呑みで楽しまれることをお薦めします。入れたてのあの香りは、何とも応えられない気分ですね。
焼き物にこだわって自分の好きな茶器で味わうなど個性的な時間を過ごしてみるのも良いでしよう。
規格化された缶緑茶と、専門店で楽しみなから選ぶリーフティ。
どちらも日本緑茶です。それぞれの良さをその時のシチュエイションに合わせて使い分けるのか、私たち消費者の『賢い選択』と言えそうです。
茶の歴史
きょうこう
伊勢茶の礎を築いた中川教宏
すいざわ
(水沢郷土史稿)
中川教宏は文化三年(江戸時代)十月十日、現在の三重県四日市市水沢に生まれ、天保三年に水沢の常願寺の第九世住職となりました。
教宏氏は、教師として京都の東本願寺に在る時、山城宇治の茶業を目にし、有益な産業として茶栽培を水沢に薦める決心をしました。
嘉永二年二月、水沢に帰ると宇治から茶種を取り寄せ、三町あまりの茶園を開き住民に茶栽培を奨励しました。(今でも常願寺畠と言う)ところが、檀家の人々は茶栽培を僧侶の仕事として喜ばず、檀徒総代は仕事の中止を強請しました。
茶業の有益なことを熱心に説明しましたが聞き入れられず、農作業の暇な時期に檀徒の手によってやむなく茶樹は掘り起こされてしまつたのです。
教宏氏は、それでもくじけず、当時山中にあった冠山『茶の木原』のお茶を摘み収って製造し、茶栽培が住民にとつて利益あることを広く知らせようと啓蒙宣伝を行いました。
その甲斐あってか徐々に熱意が住民に受け入れられ、明治に入ると鎖国が解け、お茶は輸出産品として脚光を浴びるようになりました。そして、お茶は海外貿易の重要な役割を果たすことになったのです。
かへい
お茶の輸出に頁献した大谷嘉兵衛
(伝記から)
大谷嘉兵衛は、弘化元年(1844)十二月二十二日に三重児飯南郡飯高町大字宮本に生まれ、二十四才の時に横浜第一の製茶輸出商「スミス・べ−カー商会」にてお茶の買い入れを担当し、お茶の輸出に尽力しました。
その頁、日本は江戸から明泊に代わり、海外との貿易をますます増大しでいた時代でした。農業国であった日本は、輸出産品としてお茶を位置付け、アメリカに大量に緑茶を積み出していたのです。
大谷氏は、明治二十四年に全国茶業組合中央会議所の議長となって海外茶貿易の増大を図り、販路をアメリカ、カナダ、ロシア、フランスなどにも広げ、出張所を置きました。
明治明三十二年十月にはアメリカに渡り、万国商業大会に日本代表として参加し、茶関税の廃止を大統領マッキンレーに要請しました。その四年後、ついにアメリカの茶関税は廃止されました。
三重児出身の大谷氏は、全世界舞台にしてお茶の振興に冬力し貢した茶業界の大恩人です。