戻る

現在私が、心奪われている方です。京極堂(主人公だと思う)は何でもお見通しなのです。
この人の小説は何なんでしょう。僕が今まで読んだ中では特異な存在です。
単なる小説ではない何かがあります。
どうにか、絡新婦の理を読み終わりました
感想ですから、読んだ人でないと解りにくいかもしれません。あしからず。

いつも京極夏彦を読むと京極堂のクールさが引立ちます。
京極堂の無類の読書家で論理的なところが好きです。一見スーパーマンみたいにおもえます。
昔の映画で、木枯らし紋次郎が、「わっしには関わりのねえこって」といいながら関わっていくのに似ているような気がします。それにしてもみんな、結構厚いので読むのに手間がかかります。
そのくせ、取り付かれるはなぜでしょうか。
私は、京極堂がいいんでしょう。
わたしもキットなにかに憑かれているのでしょうから、おとしてくれないでしょうか。
表紙ギャラリー
姑獲女「うぶめ」の夏

らぬ間に薬物に犯されている女性と因習に縛られた家族を題材にしてはいるものの、本題は、認識できない(認識しようとしない)人間の神経とか感性に重点がおかれているように思う。
狂骨「きょうこつ」の夢

真言宗立川流と出雲神話をもとにして、古くからの言い伝えを守りとおそうとするものたちの悲劇
魍魎「もうりょう」の
         はこ

いまいちよくわからん。
塗仏の宴「宴の支度
京極夏彦の小説は長いということもあるし、結構難しい。
なかなか前へ進まないのです。
鉄鼠「てっそ」の
     檻「おり」

禅僧の話
わらう伊右衛門
東海道四谷怪談を再構成した小説。
時代劇に舞台を置いて様々な不思議を題材に事件を解決していく短編集です。
絡新婦の理
じょろうぐもことわり

京極堂が教える座右の銘
彼の小説こそ詭弁そのものなのです。
言葉は総て詭弁なのです。しかし・・・・・・・
人の口から発せられる言葉には、詭弁じゃない言葉などない。
真剣に話しているつもりでも、それが真実であるとの保証はない。
言う言葉が、そのまま、言ったひとの意図そのままに伝わることもない。
ことばは、常に受け取る人の、心のフィルターを経て受容される。
だから、いつもことばは、詭弁である。
僕は今、京極夏彦の詭弁に翻弄されているのです。
関口君は、頼りない人の代表のように描かれる。
でも、実は人間というもの皆そういうものである。
自分の我執にとらわれ、何も見えていないものである。
不思議とは、不可解で理解の限界を超えた状態。
しかし、現実に起こることは、なにも不思議なことはない。
ただ、認識する側の許容量を超えているから不思議なだけである。
世の中に起こりうる事柄で、不思議なことなどなにもない。
人は、自分はいつも正しいと思いこんでしまう。
あるいは、自分はどうしょうもないほどいい加減なやつだと思いこんでしまう。
人のことは、冷静にみられるひとでも、いざ自分のこととなるとからっきし判断力を発揮できないのが、ひとというもうのらしい。
どんなあいてのどんな行為でも、たとえ相手がどんな気持ちでいようとも
好意をもって臨めば好意としてとれるものである
逆に嫌悪感を以ってみれば大抵の者は悪意を発している
作品に関する僕の一言(単なる感想)
馬耳東風とかいいますが、聞こえているのに脳みそには伝わっていないことって多いですよね
聞きたくないことは、聞こえていないものです。というよりも、聞きたいことだけ聞いている。
そうしないと精神に異常を来すのが人間の弱さなのでしょう。

色彩のない絵をみて人は、色を感じる
白黒のテレビをみても人は、色を感じる。
目に入った映像は、脳に伝わるあいだに、情報処理されて、色のないものにも色を付加する。

その逆もあって、目に入っているのだけれども、脳には伝わらない事もある。

筺の中に、人の首が入っていて。にっこりと笑う。
筺の中で人は、生命を保っている。

身の毛もよだつとは、こういうことをいうのではないだろうか。
箱根の山奥にある名も知れない寺院でおこる殺人事件。
宗教家でもやはり人間の業から逃れなれず、何物かにとらわれている姿の描写が生々しい。
僧侶は、一般の人間とは違うとおもいがちですが、実は、いっしょの人間である。
そんなことに気づかされます。
禅宗は、日本の文化の中でも、比較的よく紹介されている。
鈴木大拙が、禅を世界に紹介したため、禅は結構有名な宗教であり、哲学である。

禅では、悟りを座禅などの瞑想を通して得る。
何度も何度も悟るのだそうだ。
その時々に悟るのだそうだ。

しかし、悟った禅僧であっても、生身の人間である限り、逃れられない性「業」により何ものかにこころをとらわれている。

ここにでてくる禅僧が良い。
はじめは、2重人格の話しかと思いながらよんでいるとまったく違うことに気づく。
邪教とか、失なわれた宗教に目をむけながら、人間の執念ぶかさをおもいしらされる。
「詭弁ならぬ言葉などない」ぐさっとくる言葉である。でもこれも言葉である。
言葉はなくてはならないが、言葉は真実をなかなか伝えられない。
鶴屋南北作東海道四谷怪談は、江戸時代のお話
これは、現代の小説家が史料をもとに作ったお岩さんと伊右衛門の恋の物語です。

気丈なお岩さんが印象的です。お岩さんをきっと愛しているのであろう伊右衛門の心がいじらしくもけなげにうつります。最後に、伊右衛門が死んでいく様はなんとも言えません。
小豆洗い
白蔵主
舞首
芝右衛門狸
塩の長者
柳女
帷子の辻
宴の支度と宴の始末の2冊になっています。
1.宴の支度
滋賀県のいたるところに天台宗の寺院があって現在でも隆盛を保っている。
そこで、私はそれらによく出かける訳であるが、この小説に天台宗の元三大師の角大師庚申信仰のことがでてくる。
庚申信仰にこんな深い意味があったなんてびっくり。
謎解きのおもしろさと言うより京極夏彦の小説は、民俗学や宗教学の知識がいたるところにでてきて、ああそうなのかと教えられる。なんだか、教科書のようである

真実なのか、小説家の虚構なのかははっきりしないが、それでも心の暗闇をのぞこうとすると、今までに行われてきた俗信などを例だして話を進める手法はうならせるものがある。

1.宴の始末
結末は、何ともあっけない。
榎木津礼二郎が主役といいますか、暴れると言いますか。
この小説は、何となく破天荒です。
それと、この小説と巷説百物語は、にています。
当然登場人物などは全く違いますけどね。
鳴釜
瓶長
山嵐
の中編だ。
普通だったら、この中の一編で一冊だと思うんだけどな。
絡新婦の理
じょろうぐものことわり
事件の網をはったのはだれか
網というよりは蜘蛛の糸をはったのは。
真犯人と後ろにはまだ真犯人がいる。
まったく関係がないように思われた事件が絡まりあう。
男と女しかいないのになぜこんなに人の行動を規制するのか。
だれも気づいていない真実の理由は・・・・
夜這いは、健全な恋の姿なのにいつのまにか、かわってしまった
万葉集には、妹(いも)のもとに通う背(せ)の歌がいっぱいあるのに。
百鬼夜行−陰 これは小編集です