あの時の事情


 苗村は色のない雲のような物になっていた。
 ふらふらと中空をさまよい、自分の意思とは無関係にどこかに流されていくこともあっ た。時には意識さえもなくしているようで、ふと気づくと風の通らない路地の隅で、空き袋とからまってうずくまっていたこともある。
 なぜ自分がこんなところに居るのか、理解に苦しむことが多かった。あるいは覚えていないだけで、昔に何かしら関わりがあっ た場所なのかもしれない。今いるこの場所も、たぶんそうなのだろうと苗村は思った。彼にとってはもはや時間の感覚もないに等しかったが、ふと意識が戻るたびにここにいたので、相当長い間ここに留まっていたに違いない。
 車が時おり走り去る他は、人通りのほとんどない道路だった。その道路から、上に伸びる坂があった。あまり登って行く人もないようすで、木々が両側から深く覆いかぶさっている。
( ここを登って行った事がある )
 苗村はそう思った。何度もそう繰り返しているうちに、それは言葉になって口から出た。

 もし通りかかる人がいてそれを聞いても、風に鳴る葉擦れと思っただろう。そんなあいまいな声ではあった。だが苗村は自分の声に驚いて奮い立ち、とうとう坂を登りだした。
 坂は大きくカーブしている。曲がりきった頃、上の方から地響きが伝わってきた。
                                    一

それは激しく地面を叩き空気を乱して、苗村の頭上を走り去る。あの音の正体を苗村は知っていた。が、なかなかそれの名前が出てこなかった。もはや気体に近い体の中を探り、探りしてやっと『 デンシャ 』という言葉を見つけた。苗村はほっとして、その言葉を繰り返した。
「電車、電車」
 その言葉に連なって、引き出される記憶がある。坂の上には電車の線路があるのだ。そしてそこには家がある。
「ああ、思い出した。僕の家だ」
 どんな家だったかは思い出せない。いつ頃そこにいたのかも分からない。いったいそこに、まだ家はあるのだろうか。
 坂の上には通り過ぎていった電車が残した空気の乱れと、熱気がかすかに留まっていた。
 家はまだそこにあった。右隣と左隣りの家と一緒に、回りの木々の緑にうもれるように。いや本当にうもれかけている。蔦が壁を伝って、ほとんど二階の窓まで届いていた。
 坂の上にあるのは三軒の家と線路だけ。登ってきた道路は、そこで終わっている。家たちは誰にも住んでもらえないまま、その場所で朽ちていきつつあった。
「どうして、こんな所に家を建てたんだろうか」 

                                    二

 苗村はその思いを、また口にする。幾分かまともに声が言葉をつないでいく。長い間喋っ たことがなかったので苗村は不思議に思って自分の体を見下ろすと、何だかうっすらと元の形を取り戻している。苗村は目の前に手をかざした。それは透けていて、その向こうに家が見えた。見かけも間取りもほとんど同じだろうと思える、三軒の家の真ん中が苗村の家だ。玄関のドアのあたりは特に、びっしりと蔦が覆っていた。苗村はしばらく荒れた道路に座って、家を眺めた。
「僕の家なのに、何にも覚えていない」
 壁も窓も覆いつくしている蔦のせいかもしれないと、苗村は思った。何しろ壁の色さえはっ きりとは見えないのだ。それでやっと腰を上げて、苗村は家と家の間の狭い路地に入っていった。どこかの窓から、中が見えるかもしれないと思った。
路地を入っていくうちに、裏に勝手口があったことを苗村は思い出した。
 裏側は意外に蔦が少ない。日当たりが悪いせいだろうか。
勝手口の辺りは特に少なかった。鍵がかかっているだろうと思っていたのに、よくみるとドアは細くあいていた。
「不用心だな」
 空き家なのだから、無用心も何もないのだが。
 一体あれから何年たったのかよく覚えていないが、今でもまだ苗村の家であるはずはない。

                                    三

だがずっと空き家だったのだと思うと、やはりまだ自分の家であるように苗村には思えた。
「ただいま」
 苗村は家の中の何者とも分からぬ者に向かって声をかけ、ドアの細い隙間を通り抜けた。       
 勝手口から中に入ると台所がある。左に流し台があり、その前の格子の入った窓は雨戸がないので少し光が入る。流し台のステンレスは曇ってはいたがゴミもなく、一枚のタオルが広げられていて、その上に湯飲みと茶碗と皿と、そして箸が一膳置かれている。苗村はいぶかしく思い、しみじみとそれらを眺めた。どれもきれいに洗われて伏せられている。どう見ても長年そこに置かれたままでいたものとは思えない。
誰かがここに住んでいるのだ。
 引き戸が開いたままの次の間を覗く。そこは六畳の和室だ。ここの窓は雨戸が閉まっているので暗い。がこの部屋も台所と同じ位、思ったよりもきれいに見えた。畳は湿気を含んでぼこぼこしていて柔らかかったが、そう不潔な感じはしない。一階にはあとひと部屋六畳の洋室があり、二階に六畳の和室が二つあるが、それらは長年人の入った形跡がなく、蜘蛛の巣と埃に厚く覆われていた。
 苗村は一階の和室にもどり、押し入れを覗いて古びた寝袋があるのを見つけた。他にも大きめのスポーツバッグがあり、中には衣類が入っ ているようだ。男物のポロシャ ツが覗いている。
色合いからみて持ち主はそう若い男とは思えない。

                                    四

 部屋の隅には段ボール 箱がある。みかん箱ぐらいの大きさだ。中を見てみようとした時、勝手口で物音がした。苗村はあわてて、押し入れに身を潜めた。別に隠れる必要はなかったかもしれないが、誰かの生活の場所に無断で入っているという思いで気がとがめた。
 半開きだったドアがきしんで、大きく開いたようだ。風が流れてくる。履物を脱ぐ気配がして、誰かが台所に足を踏み入れた。苗村がいる場所からはその姿は見えない。聞こえてくる音から想像するに、流し台に何か重そうな物を置いたようだ。そして密やかな足音が和室に近づく。
 白髪を短く刈り込んだ男だっ た。薄茶色の作業着をぬぐと、部屋の隅にたたんで置き、流しで何かやり始めたようだ。ビニ ー ル袋のがさがさという音、食器の触れ合う音がする。
 どうやら食事の用意をしているらしい。
 和室に戻ってくると、段ボール箱の中から水玉模様のビニール風呂敷を出した。進物品を買った時に包んでくれるような薄手の風呂敷だ。それを段ボールの上に敷き、流しから皿を運んできた。皿の上には店で買って来たらしい総菜が何種か並べられている。まだほんのりと湯気が上がっているのは、店で温めてもらったのだろうか。パック入りのご飯もまだ暖かそうだ。男はそのパックから丁寧に飯茶碗にご飯を盛り付け、両手を合わすと静かに食べ始めた。

                                    五

 男にとっては食事は楽しい事ではないのかもしれない。
無表情なまま、急ぎもせず手を止めることもせず、ご飯を口に入れ惣菜を口に入れ、たぶん決められた回数噛み続けるらしい。苗村なら喜々として味わうだろう。口の中に唾がわいてくるのに気づいて、苗村は大切にそれを飲み下した。食事など何年もしていないのに奇妙な事だっ た。
 あらためて自分の体を見下ろすと、あきらかにさっ きより体の密度が増していた。
 いっ たいどうしたことだろう、と苗村はいぶかしんだ。
 男は食べ終えて、また手を合わせた。食器を流しに運び、大きなペットボトルに入れた水でそれを洗っているようだ。大切に水を使っているらしく、控えめな水音がする。苗村は耳を澄ませて、男のしぐさを想像していた。
 男は片付け終わったらしく、首にかけたタオルで手をふきながら、和室に戻ってきた。
 外はすっかり日が落ちたようで台所も薄暗くなった。男は段ボール 箱の蓋を開け、小さなランタンを取り出した。それに灯をともす前に、台所との境の戸をピタリと閉めた。和室は目の前の壁も見えぬほどの暗闇に包まれる。外の道を通る人もないし、下の県道側には深く木々が茂っているので、万が一にも灯の漏れる心配はなさそうだったが男はそれを恐れているようだった。ランタンはごく小さい物だが、明るかった。苗村は押し入れのより奥の方へといざった。だが男のすることが気になってしょうがない。
「一体何者だろう。どこかで見たような気もするが」

                                    六

 もう一度顔を確かめたくて、苗村はこっそりと押し入れからはい出た。男は暗い窓の方に向かって座っている。しかも正座だ。うつむいて膝の上の何かを見ている。本でも読んでいるような感じだ。
 苗村は男のすぐ後ろまで近づき、覗き込んだ。男はまだ気づかない。男の膝の上にあるのは、経本だった。男は声こそ出さないものの、口の中で経を唱えているらしく唇が動いている。どうもこういう類いのものはいけない、と苗村は思った。体が妙に不安定になる。目の前の男の体が斜めになるが、実際は苗村が傾いているのだ。苗村は畳にしがみつくようにして、男の前に回りその顔を覗きこんで言っ た。
「どなたですか。あなたは」
 苗村の声にやっと男は顔を上げ、ヒッと息を飲んで後ろにのけぞった。
「見覚えがあります。その顔に。あなたも、僕を知っているんでしょう?」
 鼻も唇も薄い肉の男だった。若い時は目が鋭く危なげな印象だったが、年月が顔全体に堆積し、人畜無害の小動物の顔に仕上げていた。
 あお向けにのけぞっていた男が、思ったより素早く起き上がったので、そのまま逃げ出すのかと苗村は思った。が、違った。男は身を伏せ、額を畳みに擦り付けた。
「ここに居れば、いつか会えると思っていました」
「会ってどうするつもりだったんです?」

                                    七

 苗村は男の痩せた肩を見ていた。昔この男を知っ ていた時は、確か同じ位の年頃だった。
 だが今は苗村の父親ぐらいの年齢に見えた。実際はもう少し若いのだろう。白髪頭だが皮膚にはまだ張りがあった。
「許してくださいとは言わない。そんなに簡単に許せるようなことでないのは分かっている」
「だから、会ってどうするつもりだったんです?」
「聞きたかったんだ。あの時あんたはどうして抵抗しなかったのかを。あんたが抵抗すれば、私はきっと途中で逃げていた」
 その男の顔を見ているうちに、雨だれが落ちるように苗村の頭の中にぽつぽつと溜まってくる物があった。そうだ、こいつだと苗村は確信する。
( こいつが僕を殺した )
 抵抗すれば逃げていたって? と苗村は男の言葉を繰り返した。
「毎日、びくびくして暮らしていた。誰かが私の方を見ただけで、ばれたのかと胸が騒ぎその場から逃げ出さずにおられなかった」
男は言った。
「私はもともと、そんなに悪いことができるような人間ではないんだ。どうしてあんな事になってしまったのか…」

                                    八

( 自分が殺人犯になったのは抵抗しなかった僕のせいだと、この男は言いたいのか )
 苗村の中に今まであまり経験したことのない感情が湧き上がってきた。
 気配を感じ取っ て顔を上げた男を、苗村はいきなり突き飛ばした。確かな手ごたえがあって、男は部屋の隅にまでふっ飛び後頭部を激しく壁にぶつけて白目をむいた。家がゆれて、埃がランタンの明かりのなかを舞った。
 苗村は生まれてからこのかた、他人に向かって手を上げたことがない。いや死んでからもと言うべきだった。誰かに理由なく理不尽な目に合わされても、怒るより悲しくなるだけだった。母は気持ちのやさしい子だと言ってくれたが、年の近い叔父はいつも苗村を意気地なしと馬鹿にした。
( 何だろう。この気分は )
 苗村は初めて味わう気持ちにとまどった。息が詰まる程の、激しい悲しみに似た快感。
( 人に危害を加えるというのは、こういう気分のものか )
 男はすぐに息を吹き返した。目の前の苗村を見て、また畳に頭を擦り付けた。
「何をされてもいい。あんたはそうして当然だから。でも聞かせてほしい。どうして、あんたは抵抗しなかったのか。あの時のあんたの顔がずっと頭から離れない。この部屋だった。この部屋のあの辺り。あんたは窓から外を見ていた。開いていた裏口から入り込んだ私に気づいて、あんたは最初確かにびっくりした顔をした。あんたの首に回した私の手に、あんたは自分の手をあてた。でもそれは、引きはがす為にではなかった。そんな気がした」

                                    九

 あの時の事情がすっかり蘇っ た。苗村は過去の自分を痛ましく思い出した。
 男は土下座したまま、話しだした。
「私はあの時、何にも持っていなかった。仕事も友人も、恋人も。親も居ず、たった一人の兄も冷たかった。何をやってもうまくいかない。もう生きていく気力もなくしていた。電車に飛び込もうかと思って、でもなかなか決心がつかず線路伝いに歩き続けていたんだ。
 そしてここに来て、三軒の建ったばかりの家を見つけた。まだ建築会社の幟が立ててあった」
「一週間後に引っ 越す予定でした」
 結婚式まではまだひと月あったが、苗村だけ先にここで住む予定だった。
「年も余り違わないあんたが、こんな立派な家に住もうとしている。おまけにかわいい彼女と一緒に。妬ましかったけど、最初からあんたを殺そうと思って家の中に忍び込んだわけじゃない」
「僕はカーテンのサイズを計りに来たんだ」
 苗村の記憶は次第に蘇る。
「途中で彼女だけ車で出掛けて行ったな。私が薄く開いたままだった裏口から覗いた時、あんたはこの部屋の窓からぼうっと外を眺めていた。隣の家の壁しか見えないのに」 
「ああ、そうだった。彼女は帰ってくるまでに、全部の窓のサイズを計っておいてと言った。彼女はどこに行くと言ったっけ」

                                    十

「私は、あんたの首に手をかけた」
 そう言って男は本当に苗村の首に手を回した。影のように頼りなかった苗村の体が、首の辺りから急にしっかりとした形を取り出した。男はその首をじわじわと絞めた。
「おかしいな。僕はもう死んでるはずなのに苦しい」
 苗村は呻いて、男の腕に爪を立てた。
「抵抗してほしかったって? こんなふうにやればいいのだろうか」
 苗村は爪を男の腕にさらに強く、突き立てた。
男は悲鳴を上げて、苗村の首から指をはがそうとする。
「抵抗してほしいと言ったじゃないか」
 苗村は不服そうにつぶやく。男は腕を引き抜こうともがき、何とか成功するが腕に長い蚯蚓腫れができた。血が伝い落ち、男は女々しくそれを舐め取って苗村をにらんだ。
「やっぱり、恨んでるんだ。そうだと思った。私の妻と娘の命を奪ったのもあんた、おまえだな」
「妻と娘だって?」
「あの時、誰も私を見た人はいなかった。私は指紋も何も残さなかった。私はつかまらなかった。それでも三年位は人目を忍んで何とか生きぬいた。そんな中で妻と出会ったんだ。一緒にいて本当にしっくりと落ち着く女だった。あんな気持ちになったのは初めてだった。私のために産まれてきてくれた女だと思った。私はそれから希望を持ち始めたんだ」

                                    十一

「希望?」
「私は小さな酒屋で働き始め、その女と所帯を持った。娘が生まれ、綾と名付けた。いい娘に育った。私は殺人犯なのに、それをすっかり忘れるほど幸せな八年間を過ごした」
「幸せ、だって?」
 苗村は混乱して、繰り返した。
「幸せだって?」
 急に強い風が吹いたように、苗村の目の前の物が吹き縮れて見える。
「綾は八歳になった。学校での成績も優秀だし、担任の先生も特別に目をかけてくれていた。私はやたらと甘やかさず、きちんとしつけたからな。素直でいい子だった。あの子は私が仕事から帰ると、必ず私のそばへ来て、その日学校であったことを小さなことまで洗いざらい私に報告した。それが済むまでは私から離れなかった」
 男は今自分の前にいるのがわが子であるように微笑んでいた。
 苗村は体がばらばらに崩れていくのを感じて、何とかそれを留めようと口を開いた。
「僕だって、子供のころは優秀で…」
 途中で声が消えてしまった。上げてみた手も、透けてほとんど見えない。
 男は骨ばった手で、顔を覆っている。

                                    十二

 再び苗村を見た時、その表情はさっきとは打って変わって苦渋に満ちていた。
「妻と娘は二人で買い物に出掛けて、事故に遭った。トラックに轢かれて。あまりに、むごい。運転手がちゃんと前を見ていなかったんだ。なのにそいつは、妻が信号無視をしたと言い張った。そんなことあるわけないのに。妻はいつも注意深かった。その一瞬で私の幸せは、それまで積み上げてきた物のすべてが、幻だったように消え失せてしまった。なぜそんな目に合うのか、私には理解できなかった」
 男は激しく歯噛みした。身震いし、また畳に頭を擦り付けた。
「私はあまりの幸せに、忘れていた。自分が犯した罪を。血の気が引いて。そして、すっかり合点がいった。これは私の罪にたいする報いだったのだと。そうだろう。おまえがした事なんだろう?」
 男はすがる目で、苗村を見た。
「そうだと言ってくれ。呪っていたのだと。でないと納得できない。妻と娘が、何で死ななければならなかったのか。理由なくそんなひどい事が起こるとは思えない」
 男はさっきまでのしおらしい態度とは打って変わって、ギラギラと目を光らせ苗村に飛びかかると、首に手を掛け再び容赦なく絞めあげた。苗村の目玉は飛び出し、血の混じった涎が散った。( ああ、血だと苗村は心の中で喝采をあげた )苗村は再び形を保った手で、男の指に触れた。
「もっと絞めろ。ゆるめちゃだめだ」

                                    十三

 その言葉にかえって怯んで、男の指がゆるむ。
あの時苗村は切羽詰まっていた。この家の頭金が用意できず、彼女にせっつかれ堪らなく高金利の金貸しから借りてしまったのだ。
 彼女は親に出してもらえばいいでしょ といったけど、田舎でカツカツの暮らしをしている親に頼めるはずはなかった。安い給料で家のローンと借金の利息を払えば、とても暮らしてはいけない。

「彼女は、食器棚と食卓を見てくるといって出掛けた。見てくるだけじゃない、たぶん買ってくるだろう。僕のカードで。当分帰ってこないよ。ゆっくり僕を殺して、指紋を拭き取って逃げていける」
 苗村はゆるんでくる男の指が不安で、なおも言い募る。
「さあ、もっと強く絞めなけりゃだめじゃないか」
 男は必死で、苗村の手を振り払った。
「だめだ! それではいけない。私の妻と娘はどうなるんだ。おまえが自分の命を奪った私を恨んで、呪ったんでなきゃ 私はどうすればいいんだ。どうやって諦めればいいんだ」
 苗村は泣き出した男から目を背けて、雨戸のしまった窓を見た。あの時ここから隣の家のクリーム色の壁が見えた。苗村が結婚することになっていた女と、最初に会った時彼女が着ていた服の色だ。

                                    十四

 淡い色は彼女を優しげに、おとなしげに見せた。

「私、どうやって帰ればいいの?」と、彼女は苗村に言った。半泣きの顔だった。
 数が合わないから頼む、と会社の同僚に誘われ苗村は飲み会に行った。女の子が三人来るのに男は二人しかいなかったらしい。いつもなら断るが、その時は行ってみてもいいかという気になった。魔がさしたと言うべきか。
 三人のうちの一人は、優しげな美人で少し心惹かれたが、帰る方向が同じだからと同僚が連れて帰った。
 もう一人もいつの間にか消えており、苗村はクリーム色のワンピースを着た彼女と二人だけ残されていた。
 苗村も帰ろうとすると、その彼女が少し涙ぐみながら言ったのだ。
「どうやって帰ればいいの?」と。
 終電はもう出てしまっていた。苗村は歩いて帰るつもりでいた。電車二駅ぐらいたいした距離ではない。だが聞けば、彼女の家はとても歩ける距離にはなかった。
「タクシーしかないね」と苗村は言い、本当はそのまま行ってしまいたか た。だがそんな事をしたら、この子はどうするだろうと想像してしまうともういけない。
 苗村に追い討ちをかけるように、彼女は「私、お金をあまり持ってないの」と言った。

                                    十五

 苗村はその時、たまたまいつもより余計に現金を持っていた。仕方なしに一万円札を彼女に差し出した。
「これで足りるだろうか」
「ちょっと不安だけど、何とかなると思うわ」
 彼女はためらうそぶりもなく苗村の差し出した札を受け取った。苗村は自分の札の行方を不安な気持ちで見送った。それは彼女の財布に、当然のような顔をして収まった。
 彼女がそれきり何も言わないので、苗村はあわてて紙切れに電話番号を書いて渡す。
 彼女が不審そうにそれを眺めるので、苗村はいつでも返せる時でいいからと言い、心の中では一刻でも早く返してもらわなければ困ると思った。決して余分な金ではない。十日間の食事代だ。だが連絡がないまま五日間が過ぎて、苗村が飲み会に誘ってくれた同僚に連絡先を尋ようと決心した矢先、やっと電話がかかってきた。
 お金を返してもらいがてら、一緒に食事をすることになった。苗村はお金が返ってくるというだけですっかりほっとして、それまでの不安や腹立ちを忘れた。それどころか、少し楽しみに思い始めていた。
彼はもう三十歳を過ぎていたが、今まで一度も女の子と付き合っ た経験がなかっ た。
「あの子は美人ではないが、かわいい」と、苗村は涙ぐんでいたあの夜の彼女の顔を胸に描いた。どの店に行こうかと、胸を躍らせて頭をひねった。
 その時はまだ、自分の意思で人生は進んでいっていると思っていた。

                                    十六

 それが崩れたのは彼女と会ってすぐのことだった。
 苗村が行こうとした店の名を彼女は聞こうともしなかった。
「この間、雑誌で見た素敵な店に行きたい」
と言い張った。それはたかがオムライスに法外な値をつけるレストランだった。しかもそこでコース料理を食べたいと言った。
 食事代はもちろん苗村が払うことになる。
 二人分の食事代は彼女から返してもらったお金では到底足りなかった。苗村は自分をけちだとは思わなかったが、自分のもらう給料に見合った生活をしてきた。
 今月は仕方がない、と苗村は無理やり自分を納得させた。「貯金を少し引き出す事にしよう」
 苗村はそれで元通りの生活に戻れると思っていたのだ。あの時にもし戻れたなら、彼女に貸した一万円はあきらめただろう。
 彼女はそれからというもの、毎日のように電話をしてきた。会社の同僚がどうしたこうしたとつまらない噂話を延々と聞かされたり、どこそこの店にほしい服があるとかないとか、苗村には何の関心もない話を一時間以上も続けたりする。苗村は電話を切るタイミングがつかめなかっ た。早く切りたくていらいらしながら、それでも相手が返事を期待していると黙っていることができなかった。

                                    十七

 週末には苗村の都合を聞くこともなく、一方的に待ち合わせ場所を決められる。
さんざん悩んだ挙句何とか理由をつけて断ると、いつの間に調べたのかアパートの前で苗村の帰りを待っている。初めて会った時のように、涙ぐんで。
 苗村は追い返すことができなかった。心の中では言いたい言葉が次から次へとあふれた。
 だが相手が傷つくような強い言葉は、どうしても口から出すことができなかった。その夜、苗村は自分の部屋への彼女の侵入をくい止めることがとうとうできなかった。
 そんな苗村の気弱さを見て取 た女は、ますます強引になる。たまりかねて逆らうと、彼女はすぐヒステリーを起こした。手が付けられなかった。電車の中でもレストランでも甲高い声でわめき続け、苗村を打つ。通りかかった人達は、苗村を嘲り笑って通り過ぎる。ぶたれる痛さより、それが辛かった。悶着を起こすのがいやで、苗村はできるだけさからわず言いなりになるよりしかたがなかった。
 ボーナスが出た日だった。苗村の会社はまだ現金支給で、たいした額ではなかったが苗村はずっと以前から写りが悪くなっているテレビを買い換えるつもりで居た。
 今度の休みに早速電気屋に見に行こうと、楽しみに会社を出るとそこに女が居た。
勤め先はうまくはぐらかして、教えていなかったのに。
「ずいぶん、待っ たわ」

                                    十八

 約束もしていないのに、彼女はそう言って苗村の腕をつかんだ。
「何か用だった?」
 苗村のおずおずとした質問にはいっさい答えず、彼女は自分の行きたい方向に引っ張っていく。
 彼女は駅前のデパートに入り、いやな予感がして何とか逃げ出せないかと、わざと鞄を落としたり知人にあった振りをして立ち止まろうとする苗村の腕を強引に引いた。
 彼女が苗村を連れて行ったのは宝石店で、そこで指輪を物色した。
「ねえ、どれがいいと思う。これ、似合うかしら」
 その時にはまだ、苗村はただ意見を聞かれているだけだと思っていた。だが散々迷った挙句ひとつの指輪を選び、彼女は包んでもらったそれを大切に抱え、自分の財布を出す気配はなかった。
 店員は苗村を見ている。こんな場合、払うのはお前しかいないと店員も思っているのだ。
「本当はあっちの大きい石のが欲しかったんだけど」と、彼女は言った。
「あんたって、ボーナス思ったより少ないのね。婚約指輪にはちょっと安っぽいけど、しょうがないわ。結婚指輪はもっとがんばってね」
 ちょっと待ってくれと、言いたかった。だがそう言ったら、彼女はどんなに怒るだろう。
 大勢の人が行きかうこの道で、彼女は泣き叫ぶに違いなかった。

                                    十九

 苗村は結局何も言わず、その時点で二人は婚約者になってしまったらしい。否応もなく。
 一度思い切って、別れようと言い出したことがある。すぐに彼女の父親が怒鳴りこんできた。どう見ても堅気には見えない人だった。母親は母親で、苗村の会社の社長に電話し、アパートに乗り込んで大家に訴えた。大事な娘を傷物にされたと。むろん苗村に言い返せるはずもない。
 苗村はその女と暮らす将来に何の希望も見い出せないでいた。だが何も言わず、ひたすらがまんした。その他にいい方法を思いつかなかったからだ。苗村を置き去りにしたままどんどん事は進んでいっ た。式の日取りが決まり、アパートでは嫌と言う彼女に逆らえず長期ローンで家を買った。
 
 死にたかったんだと、この男に言ってやろうかと苗村は思った。でも「呪ったんです」
と苗村は言った。
「あなたは幸せになる権利なんかなかったんですよ」
 男は泣きやんで、そうだなと言った。
「おまえの幸せを奪っといて、自分だけ幸せになれると思うなんてばかだった」
「さあ、だからやってください。今度はちゃんとうまくやりますから」
「何を?」

                                    二十

「絞めるんです。あの時と同じように。今度はあんたの気に入るように、ちゃんと抵抗しますから」
男はおそるおそる苗村に近づき、首に手を掛けた。次第にその指に力がこもる。クソッ、クソッと男は声を上げた。
 あの時は体中から次第に生気が抜けていったのに、と苗村は思った。今は反対に力がみなぎっていく。
 首に巻き付いた男の指を握った。少し力を入れると、グジグジとどうやら骨の砕ける音がする。だが男はひるまなかった。一本のこらずへし折られた指をぶらぶらさせたまま、今度は腕を苗村の首に回す。肘の内側でぐいぐい絞めつけ始めた。
「全部おまえのせいじゃないか。私は殺人なんかしたくなかった。おまえが死にたいからって、どうして私が手伝わなきゃならんのだ。そのくせ私の幸せを妬むなんて」
「僕が死にたかったなんて、どうして分かる?」
「死にたかったに決まっている。あの時の私がそうだったから、よく分かるんだ」
「僕だってあなたの事が分かる。あなたの妻や娘はきっと、あなたが思うほど幸せじゃなかった」
「何だって!」
 男は僕が期待した以上に逆上し、さらに腕に力を込めた。苗村の目は血走り、つり上がる。色を失った唇から、舌がだらりと流れ落ちる。だが反対に苗村の体には益々生気がみなぎってくる。

                                    二十一

 血がドクドクと脈打ち、体中に熱いそれをめぐらせる。腕や胸や足の筋肉は厚みを増し、熱を持って別の生き物のように動き始めた。
 苗村は思わず、笑い声を上げた。そして男の腕を難なくつかみ引き寄せると、そこに歯を立てた。獣のようにとがっ た犬歯が、男の腕に深々と食い込んだ。苦しむ男の顔を盗み見て苗村は歯を何度も噛み合わせ、より効果的な場所を探った。あまりの痛みに男の闘志が薄らぐことのないよう、時々はわざと力を抜き様子をうかがった。
 男は傷ついた腕をかばって、両足で苗村の首をはさむ。
「綾は即死だった。妻は一昼夜、苦しんで死んだ。私はまた1人になった。全部お前のせいだ」
 男は苗村の首をはさんだまま、体をねじった。苗村の首がよじれて変なふうに曲が た。
 苗村はまた笑ったが、口からは笛のような細い声が漏れただけだった。苗村が動きを止めたので、男は足をほどき苗村の顔を覗き込んだ。
「もう、逝ったのか」
 苗村はすかさずその目に指を突きたてた。指はどこまで行くのかと不安になるぐらい、奥深く入った。
 この男はいったい何を勘違いしているのだ、と苗村は思った。逝ったも何も苗村はとっくの昔に死んでいる。
「しかも殺したのはお前じゃないか」

                                    二十二

 笑いは止まらず胸が苦しくなった。苗村は自分が泣いているのだろうかと疑った。
それ程笑い声と泣き声はよく似た息遣いだった。
 男が間違えると嫌だと思い、苗村は息を押さえて目のつぶれた男に顔を近づけ「もっと完全に、やってくれ。そうしたら終われるから」と言った。男は傷ついた腕の痛みも忘れて苗村を捕まえようと振り回した。
「お前は悪魔だな。もっと早くに気づくべきだった」と、いかにも憎々しげに吐き棄てる。
「私は騙されたんだ。最初からお前が仕組んだことだったんだな」
 どうしてこの男はこんなにも他人を憎むことができるのだろう、と苗村は不思議でならない。苗村の中には怒りがない。
 きっとこの男は、彼なりに妻子を愛していたんだろう。だからこんなに激しく他人を憎めるのだ。
 苗村は自分を哀れんだ。
「僕はとうとう誰も愛さなかった」
 他人を愛せないから憎むこともできない。
 苗村は男の肋骨の間に手を滑らせ、心臓をつかんだ。
暖かく震えるそれを静かに握りつぶす。それは怒りではなく哀れみであり、もしかすると羨ましさであったかもしれない。

                                    二十三

「そろそろ、終わりにしようじゃないか」
 男は息を止めたがすぐに苗村と同じ者になったらしく、より超人的な力で向かってきた。まだ終わりにするつもりはないようだ。男の怒りはまっすぐ苗村に向かってくる。苗村は打ち据えられ、引き裂かれ、握りつぶされる。激しさに空き家は震え、積もった塵が舞い上がり、腐りかけていた根太が落ちた。壁に細かい亀裂が入り、長年住んでいた小さな生き物達が逃げ出した。

 ひと月ほどたって男の死体が発見された。新聞の地方版の片隅にのった小さな記事は、事の顛末を実に簡潔に記した。
『 ○市○町の廃屋で死体発見
十五日の午後三時頃、△鉄道の線路の点検をしていた作業員が線路脇の廃屋の中で男性が死んでいるのを見つけた。死後ひと月は経過していると思われる。この男性は所持品から×町に在住していたAさんとみられる。○署は目だった外傷がない事から病死とみて調査している 』

 今でもそこに、空き家はある。いつの間にか玄関のドアがはずれ、空き家は黒い口を開いていた。蔦はその部分だけほぐれて落ちている。

                                    二十四

 電車で通ると、一瞬その場所が見える。
だが、いくら目を凝らしていても見えないことがある。忘れ去られた家も道路も、苗村のように色のない雲のような物になってしまったのかもしれない。








                                    十八


本棚に戻す