青の掌話*手のひらの小説*


          その一
     青いTシャツの三つの話

 通学路の途中にある自動販売機で、ユキは冷たい緑茶を買った。早速開けて、一息に半分ほど飲み干した。
 里緒奈は何を買おうか迷っている。なかなか決まりそうもないので、後ろから紀恵が割り込んだ。彼女はコーヒーを買い、一口含む。
「あのアパートのベランダに、毎日青いTシャツが干してあるの、知ってた?」
 ユキが狭い路地の向かいにあるアパートを指差した。
「知ってるよ」と紀恵が言い、自動販売機のそばの不動産屋の軒先に入って他の二人を手招きした。
「ほら、いい日陰だよ座るとこもあるし」
 やっと買ったミルクセーキを手に、里緒奈が店先の植え込みのふちに腰掛けた。
「怒られない?」
 ユキはそう言いながらうれしそうに二人のそばに腰掛ける。
「そんなにしょっちゅう客が来る店でなし」
 紀恵はそう言って、向かいのアパートに目をやる。
「あのTシャツ、三ヶ月以上前からあそこにあるのよ」
 ユキが言う。
「ええ! そんなに前からなの。私、最近気がついたばかしよ。洗濯物の取り込み忘れかと思ってたわ」

                                    一

「だって他の洗濯物が干してあったことなんかないよ。あんたそんな甘い物ばかり飲んでるから、気がつかないんだよ」
 紀恵がそう言い、里緒奈が手にしたミルクセーキを見て顔をしかめた。
「関係ないでしょ。それなら紀恵のコーヒーだって」
「これはブラック」
「はい、それまで。あんたたちの喧嘩ごっこはきりがないんだから。それより考えてみて。青いTシャツがずっとあそこにある理由を」
「実はあれは単なるTシャツじゃないとか」
 里緒奈がなにか思いついたらしく、笑いながら紀恵とユキを見る。
「どう見てもTシャツでしかないけど」
「紀恵、茶化さないで聞いてよ。里緒奈、話して」
「あれは生き物なの。外見は人間と、とてもよく似ている。でも彼の食べ物は日光なの。日光がエネルギー源なのよ」
 紀恵がいつでも笑い出せるといった顔で、里緒奈を見つめる。里緒奈は自分も笑い出しそうになったので、ユキだけを見て話し出した。

                                    二

「昼間はああやって物干し竿にぶら下がり、日光を吸収しているの。夜になると彼は人目をしのんで竿から降りる。Tシャツの袖口から腕が出、すそから足が伸びる。そろそろと這うようにしてベランダから部屋に入る頃には、首口から頭が出て手足も伸び普通の人間と変わらない。ずっとぶら下がっていたせいでこわばった手足を風呂の湯の中で揉みほぐし、彼は仕事に出る準備をする。今日は曇りで日光量が少なかったので、腕も足も肉付きが悪い。『今日は重労働ができないな』彼はつぶやき部屋を出る。繁華街でいつも仕事を世話してくれる男に会った。そしてビラ配りの仕事をもらった。このぐらいの仕事でちょうどいい。何しろ食費はいらないし……」
「じゃあ無理して働かなくてもいいんじゃないの」と紀恵が茶化す。

                                    二

「そんなわけにもいかないわよ。まあ食べないから出すこともないので、トイレットペーパーはいらないわね。夜は働きに出るので電気代もいらない。青いTシャツにはこだわりがあるけど、そんなに値段の高いものでもない。要するに家賃分だけ働けばいいのよ」
「天気が続くとすごく元気になるのか。じゃあ別に毎日物干し竿にぶら下がらなくても良いんじゃない。三日に一回ぐらいで」
 さっそく紀恵がつぶしにかかる。
「そうね。それに日光を吸収するだけなら、普通に外で歩いていてもいいし、公園で寝転んでいてもいいし」
 ユキもそれに便乗した。
「でも彼にとっては物干し竿にぶら下がることは、エネルギー補給のためだけではないの。普通の人間の睡眠にあたるのよ。いいと思わない? 寝ながらご飯を食べられるのよ」
「ものぐさだねぇ」
「彼の楽しみは何なの? 物干し竿にぶら下がること? 働くこと?」
「本当に必要なこと以外は、しなくてよいことよ」                
 里緒奈らしい、と紀恵が嘆息するように言う。
「ほめてるつもり?」          
 紀恵は笑いながらまあねと言い、里緒奈は彼女をぶつまねをする。
 路地に犬を連れた人が入ってくる。三人は口をつぐんでそれを見る。
「足の短い犬は暑苦しそうだね」
 こそっと紀恵が言う。
「でもあれ、いい犬よ。なんて犬だっけ、ユキ知ってる?」
「コーギーよ。あれ、伯父さんも飼ってるわ」
「飼い主に似るってほんとだね」
「似てきたんじゃなくてああいう犬種なの」

                                    三

「そうよ。話そらさないで、紀恵の番でしょ。青いTシャツの話」
 里緒奈がにらむと紀恵は頭を抱えてうなった。
「うーん、後にして」
「じゃあ、私が言ってもいい?」
「ユキは言いだしっぺなんだから、中途半端じゃだめよ」
「あのTシャツは目印なの。別れた男に対する」
 ありふれてる、と紀恵は出鼻をくじく。
「まだこれからよ。聞いて」
「そうよ。自分はまだ話してないのに、けちつける権利ないわよ。私はもう済んだからね。言ってもいいでしょ。だってもう見当がつくんだもん。要するに別れた男に未練があるのね。私はあなたをまだ待っているのよ、と言うメッセージでしょ」
「やめてよ里緒奈、先走りするの」
「似たような映画があったじゃん。黄色いハンカチを木の枝に結びつける」
 紀恵がまたちゃちゃを入れる。
「あれとは違うわよ。やな人たちね。黙って聞いてよ。あの部屋の彼女は、三ヶ月前に彼と別れたの」
 紀恵はコーヒーを飲み干して身を乗り出した。
「あれ、すごい具体的な話になってきた」
「三ヶ月前にさかのぼるわ。彼と彼女はいつもの待ち合わせ場所の公園にいたの。彼は会った時から暗い顔をしていた。『何かあったの』と、彼女が聞くと彼は言い渋った。『黙って行ってしまおうかと思っていたけど、辛くてできない。本当は絶対に明かしてはいけない秘密だけど』と、前置きして彼は話し始めた。『実はぼくはこの星のものじゃない。ぼくの実家は別の星にあるんだ』」
「実家!」
「シッ!」

                                    四

「彼女も実家という言い方がおかしかったので、冗談だろうと少し笑った。でも彼は真剣だった」
 ユキは真面目な顔でひるまずに続ける。
「『実家のほうでは最近、相続問題でもめている。伯父が亡くなり彼の後を誰が継ぐかで、戦争でも起こりかねない騒ぎになっているんだ。ぼくが帰ればおさまる。だから帰らないといけない』彼は足元に目を落としたまま、そう言う。『もう帰ってこないの?』と、彼女は聞いた。『帰ってきたいとは思う。でもぼくの星は地球から何万光年も離れているんだ』」
「じゃあ、自分の星に帰るのも大変じゃない。帰り着いたころには戦争でみんな死んでたりして」
「やめてよ、紀恵ったら。最後まで話させて。そうして彼は彼女の部屋に来なくなったの。パジャマ代わりに着ていた
青いTシャツ一枚残しただけで、きれいさっぱり消えてしまった。彼女は人ごみの中に出られなくなった。別の星に帰ったはずの彼に、出会うのが怖いからね。仕事に行くときは顔を伏せて歩き、机に突っ伏して働いた。どこにも遊びに行かず、テレビを見ることさえできなかった。何かの加減で、画面の片隅に彼の姿を見つけることがあるかもしれない。私が悪いわけではないのに、どうしてこんなにびくびくとして暮らさなければならないんだろう、と彼女は悔しかった。彼女は彼の残したTシャツをベランダに干した。それだけが彼女にできた彼への抗議だった」
 里緒奈がため息をついてしみじみと言った。
「何だかみじめね」
「SFと見せかけて、実はシリアスなドラマってわけ?」
「もし彼がそのTシャツを目にしたら、どう思うのかな」
「自分のシャツだとは気づきもしないよ」
「そんなとこでしょうね。さあそろそろ、紀恵の準備はいいかしら」

                                    五

「あんたたち想像力はあるけど、観察力はないね」
 紀恵が他の二人をすっぱりと切り捨てる。
「どうして」              
 里緒奈がむくれると、紀恵は得意げに言い放った。
「ほかに洗濯物が干してあったことがないって、言ったでしょうが。異性人の彼に捨てられた彼女は自分の服は洗濯しなかったわけ?あのアパートにはベランダはひとつしかないよ」
「乾燥機を持っていたとか、ね?」
 里緒奈がユキに同意を求める。
「女の一人暮らしだから、部屋干ししてたってこともあるでしょ」と、ユキも言い返す。
「まあ百歩譲って、彼女は部屋干ししてたとしよう。でもTシャツお化けは? 結構青いTシャツにはこだわりがあったって、里緒奈は言ったよね」
「言ったけど、そのTシャツお化けってのやめてよ」
「だってなんて言えばいいか分からないもん。とにかくこだわりがあるTシャツの割にあれはあまりに色あせて古びてる。本当に三ヶ月前からかどうかはしらないけれど、その間一度もほかのTシャツに代わったことはないはずだよ」
「じゃあ、紀恵のお話は?」
「そうよ、始めて」
「あのTシャツはあの部屋の住民のものであることは間違いない事実。何ヶ月前かはしらないけど、彼はあれを洗濯して干した。たぶん彼だよね。男物を着る女の人もいるけど、あれはサイズが大きすぎる。Tシャツ一枚だけ洗濯することはないからたぶんほかのも干したけど、あのTシャツだけ乾かなかったのかもしれないね。結構厚地のTシャツだから。なぜ次の日に取り込まなかったのか。それは次の日に彼は洗濯物を取り込めるような健康状態でなかったからよ」

                                    六

「病気にでもなったの?」
「病気になって入院しちゃったとか?」
「よっぽど急病だったらそうかもね。でも前の日は洗濯するほど元気だった」
「具合が悪くても、もう着る物がなければ洗濯するでしょ」
「女の人だったら少々気分が悪くても洗濯するかもしれないけど、男の人だったら?」と、希恵は里緒奈とユキに自信ありげに微笑みかける。
「よっぽど精神的にも体力的にも元気でなきゃ洗濯しようとは思わないんじゃないかな」
「じゃあ、いったい彼はどうなったの」  
 里緒奈は身を引きながらも、聞かずにはいられない。紀恵はわざと、声をひそめるようにして言った。
「たぶんもう生きてはいないだろうね」
「死んでるの!」
「あの部屋で?」
「部屋でだとすると、色んな問題が出てくるよ」
 気味悪そうにアパートの部屋を見上げる里緒奈を、紀恵はニヤニヤしてみている。
「そう、だって三ヶ月もですものね」
 ユキも部屋を見上げて、納得したようにうなずく。里緒奈は気持ち悪ぅ、とうなった。
「隣の部屋の人も管理人さんもなんの異常も感じてないとすれば、彼はこの部屋の外で死んだのかもしれない。それに誰も彼がいなくなった事に気づかないってことは、彼はどこの組織にも所属して無いってことね。つまり学生でもなく、会社員でもない」
「アパートの家賃はどうなの。この三ヶ月の間も払い続けられていたの」
「そりゃそうでしょう。でなければ管理人はあの部屋のドアを叩くよ。でも彼には収入がない。払っていたのはたぶん親だね」

                                    七

「彼はいったいどこで死んだの。死体が出れば、親に連絡が行くでしょう」
「身元が分からなかったとか、うんと遠くの山の中で死んでるとか」
 自分で言って、里緒奈はまた気持ち悪そうに胸をさすった。
「彼はお金がないんだよ。親もこんな安っぽいアパートの家賃ぐらいしか援助できないくらいだから余裕はないんだよ」
 紀恵はためらいもなく決めつける。
「遊びになんか行ってられないし、出かけるとしたら求職活動以外に考えられないよ」
「仕事探しにいって、どうして死ぬの?」
「しかも面接にいって、身元不明の死体になんかなりようがないし。履歴書を持っているはずだもの」
 紀恵は芝居づいて、あたりを見回しながら二人に耳打ちする。
「だから殺されたの。彼は面接に行った会社で見てはならないものを見たの。それで彼の死体はその会社で処理されたの」
「いったい何の会社? 彼は何を見たの」  
「食肉業者。牛や豚の肉を解体している所。その会社は牛や豚以外の肉も解体していた。彼はそれを見てしまったんだ」
 里緒奈は身震いした。
「いやだ! 聞きたくない」
「あんた、行き当たりばったりでしゃべってるでしょ。必然性がないわ」
と言いながら、ユキも少し青ざめている。
「でも、事実ってそんなもんじゃない?」
「あっ」

                                    八

「何? 里緒奈、びっくりさせないで」
「あれ、見て」
「おばさん?」
「Tシャツの主は男だと思ったんだけどな。でかいおばさんだったか」と、紀恵が残念そうに舌打ちする。
「ベランダで歯ブラシしてるわよ。あっ、汚い。下にうがいの水、吐いた」
「Tシャツで口拭いてる。あれ、タオル代わりなの! 信じられなーい」
 ベランダの女性はうんざりした顔で三人を見下ろした。
「こら、そこの女子高生。いつまでそんな所で喋ってるつもり。おかげでいつもより早く目がさめちまった」
「今頃起きたの。午後の四時だよ」
「シッ、紀恵。聞こえるよ」
「アーア、ちっと早いけど今さら寝るのもなんだし出勤するか」
「えっ? まさか夜のお勤め」
 おばさんは大あくびをし、部屋の中に消えた。首をすくめていたユキは立ち上がり、咳払いをして後ろの二人に言い渡した。
「今日の宿題。あのおばさんの生態。明日発表ね」
「ええっ、明日は英語のテストがあるのよ」
 里緒奈はうんざりした顔だが、紀恵はもうアイデァがひらめいたらしい。
「私、今日は不発だったから明日は頑張る」
 ユキは期待してるわと、腰を上げ歩き出した。
「待って」
 里緒奈は残りのミルクセーキを飲み干し、甘ッ、と顔をしかめて二人の後を追った。


                                    九

          その二
青いカーテンの家

 その家は、電車の窓から見える。ぼくが通っている私立中学のある駅から、ひと駅目を過ぎてすぐ、右側に。小さな交差点の角の家だ。しゃれた造りの二階建てで、結構目を引く。  電車の線路に向かって大きな窓が、一階に二つと二階にひとつある。その窓はいつも、夜も朝も昼になっても青いカーテンが閉じたままだ。
 留守勝ちなのかと考えてみた。でも窓はいつも閉まっているわけではない。風のある日に、カーテンがゆれているのを見たことがある。 
 ぼくはある日、その駅で電車を降りた。線路沿いに歩いて行けば、迷うことなくその家に行き着く。
 低い生け垣のその家の回りを、ぐるっと回ってみた。怪しまれないように、いかにも用事ありげにせかせかと歩いた。横目でくまなく観察する。家中のどの窓も青いカーテンだった。しかもどれもぴったりと閉じられていた。つい立ち止って見上げてしまった時、後ろから声をかけられた。
「どなたですか? うちに何か御用?」
 うちの母親よりは少し若そうな女の人だった。買い物帰りらしく、大きく膨らんだスーパーの袋を下げている。パッケージされたサンマの頭が袋の口から覗いていた。
 その人は顔色が白いと言うよりは青白い。体の具合が良くないのだろうか。だがたるみのない滑らかな肌をしていた。
 喪服のような黒いワンピースはすそが長く、わずかに見える足首も青白かった。
 ぼくはあわてて、いいえと言った。そのまま通り過ぎて行ってしまおうとしたけれど、その人の目はぴたりとぼくにすえられていて、何か言い訳をしなければ離してもらえないような気がした。

                                    十

 その時はまだ、女の人はぼくを捕まえていたわけではなかったのに。
「聞きたかったんです」と、僕はついそう言ってしまった。
 その人は表情を変えないまま、首をかしげた。
「どの窓も青いカーテンだから、いや、そんなことは別に好きずきだと思うけど。いつもカーテンが閉められたままなので、いや、それもぼくには関係のないことだけど」
 うろたえるぼくをその人はじっとまっすぐに見詰め、唇の端さえ動かさない。
 そしてその人はすうっと腕を伸ばして、今度は本当にぼくの腕を捕らえた。冷たくてぬれているような感触があった。少しも力は入っていないのに、もう逃げられないとぼくは思った。自分でも意識しないまま、太ももが細かく震えだしている。
「どうぞ、入って」
 その人はぼくの腕をつかんだまま、ぬらりとからだの向きをかえ、玄関の方へ歩き出した。
「いえ、ぼくは、早く帰らないと」
 無駄なことは分かっていたけど、黙ってそのまま連れ去られるわけには行かなかった。なのに足はぼくの思い通りにならない。水の流れに巻き込まれたように、家の門を通り抜け玄関ドアの前に立っていた。女の人は片手でどこからか鍵を探り出し、ドアを開けた。重そうなスーパーの袋を、その間一度も手放さなかったのは奇妙なことだった。
 家の中は青かった。きっとカーテンのせいだろう。家具調度もみんな青く染まっている。空気はぬる冷たく、ぼくは服の中まで鳥肌がたった。
 女の人は居間にぼくを誘い、タンスの上の写真たてを指差した。
 五歳くらいの男の子が釣りざおを手にして、顔いっぱいで笑っていた。

                                    十一

「息子よ」
 女の人はその時初めて微笑んだ。
 大丈夫だ。ちょっと変わってるけど普通の人だと、ぼくは気を抜いた。次の瞬間、「去年魚になってしまったけど」と、その人は確かにそう言った。
「魚って言いましたか」
 聞き間違いならいいと思ったけど、女の人ははっきりと頷き、また笑った。
「そうよ、魚。だから私も魚になって、息子と一緒にいようと思ったのに、主人が無理だと言うの。そんな事ないわよね?」
 ぼくは返事するべきなのだろうか。
「どう?この部屋。海の中みたいでしょう。私は毎日、海藻と魚しか食べないわ。そのせいだと思うけど」
 女の人はいきなりワンピースのすそをたぐり上げ始めた。
「ここに、うろこが……」
 ふいに部屋の空気が重くなり、頭が痛くなるような潮の香りがした。
 ぼくは闇雲に走った。
 居間の飾り棚に足をぶつけドアに体当たりし、跳ね返って転び、それでも這うようにして走り続け、ようやく外に出た。それでも安心できず走り続けて駅に着き、どっちにいく電車か確かめもせず乗り、電車の中でも立ち止っていられず、一番前の車両に来てそこでやっと息をついた。

 それからも長い間、ふとした折りに耳の中で『ここにうろこが……』と、あの人の声が聞こえた。
 青色の物を見ると鳥肌が立つ。
 電車の中では、絶対にあの家が見える方向には立たなかった。

                                    十二

 それでも一年たち二年たつうちに記憶が薄れ、何かの加減で電車の窓の外にあの家を見てしまった。窓は全て開け放たれていて、カーテンは赤い花柄に変わっていた。


          その三
青い石の中に見えるもの

 祖母の絹は出かけていた。親戚の家に行ったのだったか、親戚の者と一緒に出かけたのだったか。
 当分は帰ってこないと思われた。
 孫の紗江は何気なしに祖母の部屋に入って、座敷に針箱が置かれたままなのを見た。
 祖母の針箱は、小さな引き出しが幾つもついている木箱だった。人形のたんすのようでかわいらしく、紗江は昔からそれを触りたくてたまらなかった。でも祖母は、怖いものがいっぱい入っているんだよと言ってすぐに隠してしまう。それがうそなのを、紗江は知っていた。
 小学校五年になって学校で裁縫を習うようになり、紗江は赤い針箱を買ってもらった。針や糸、握りバサミ、裁ちバサミ、針山や巻尺までついている。祖母の針箱だって似たようなものが入っているに違いない。
 それにしても祖母の針箱には引き出しが七つもあった。どれに何が入っているのか、紗江は見たい気持ちを押さえられなかった。
 一番上の横に長い引き出し、ここには針と糸が入っていた。その下に深い引き出しが二つ並んでいる。片方には糸の切れ端が、十センチくらいのからもう少し長い物まで丁寧に結んでつながれ厚紙に巻き取られている。着物を解いた時に出た糸や、短くて使えなかった糸の切れ端を祖母はつないで無駄にせず全部使った。

                                    十三

 巻くのを手伝った事があるので、紗江はその事を良く知っている。
 その隣の引き出しを開けて、紗江は思わず声をあげた。そこには色とりどりのボタンが入っていた。どれも買った物ではなく、着られなくなった服から取り外したものだ。
 丸いものだけでなく三角の、花の形をしたもの、金色に光るものもある。紗江は夢中になって引き出しをかき回した。
 一つくらいもらっても、祖母は気づかないだろう。二つ三つ取っても大丈夫かもしれない。好きな物を選びだした。二つ三つではおさまらず、片手に一杯になった。それでも飽き足らず引き出しの奥を探っていると、なにやら薄紙に包まれた物を見つけた。手に持ったボタンを下に置いて、薄紙を開いた。その中にあったのは青い石だった。
 ボタンではない。糸を通す穴がなかったから。爪の先ほどの大きさなのに、その中にいろんなものが見えた。海の中のあぶく、青空に吹き千切れる雲のようなもの。
 ずっと見ていると、それらは動いているような気がした。
 石の中をいきなり鳥や魚が横切ったとしても、紗江は驚かなかっただろう。小さなその石の中に、紗江がいるこことはまるで違う世界が封じ込められているようだった。
 夢中になって見入っていると、玄関の方で祖母の声が聞こえた。紗江は畳の上に散らばっているボタンを大慌てでかき集め、引き出しに入れた。祖母の部屋を出て自分の部屋の机の前に座るまで、手に握ったままの青い石に気付かなかった。              
「どうしよう」
紗江はドキドキする胸を押さえてうろうろした。この石は祖母がとても大事にしている物にちがいない。見つからないうちに返さなくちゃ。紗江はそう思いながらも、手を開いて石を眺めていると引き込まれてしまう。

                                    十四

 いくら見ても見飽きない。

「紗江ちゃん、今日、おばあちゃんの部屋に入ったかい?」
 夕食の時、祖母が紗江に話しかけた。あんまり急にそう聞かれたので、紗江はうまく返事ができなかった。ポケットに入れたままの青い石の紙包みを押さえて、顔を上げられないでいた。祖母はそんな紗江に花の形のボタンを見せた。
「これが畳の上に落ちていたよ。紗江ちゃんはこれが欲しい?」
 紗江はううん、と首を振った。祖母は微笑んで、じゃあ青いボタンをあげようかと言った。
「海と空の色のボタンだよ」
「あれはボタンじゃないでしょ」

 祖母はその夜、昔の話をしてくれた。五十年以上も前の話だ。祖母の絹はまだ若い娘で、大きな病院の院長の家で働いていた。奥さんの家事の手伝いだった。
 ある日台所から出たごみの始末をしているとき、野菜くずの中に何か光る物を見つけた。拾い出してみると、それは小さな青い石だった。水で洗い流すと、ますます青く輝いた。絹はその光に心奪われ、後先のことも考えずにそれをエプロンのポケットに入れてしまった。
 奥様が騒ぎ出したのはその日の夜だった。『大事な指輪がない』と。
 絹は自分のエプロンのポケットの物が、その指輪と何かかかわりがあるとはしばらく気付かないでいた。あれは石であって指輪ではなかったからだ。その指輪はご主人のお母さんの形見で、とても値打ちのあるものだった。奥様はそんな大事な指輪をはめたまま家事をし、石をなくしてしまったのだろう。
                                    十五

 ご主人にはとても本当のことを言えない。何と責められるかわからないからだ。院長はとても怒りっぽい人で、何か気にいらないことがあると誰にでもすぐ手を上げた。実際に絹もなぐられかけたことがある。院長が家にいると絹は緊張して、かえって何かしら失敗するのだった。そんな絹を奥様はいつもかばってくれた。
 奥様が石だけでなく指輪がなくなったと言った時、そういうより仕方がなかったろうと絹も思った。でも奥様は続けて、盗られたに違いないと訴えた。
 外から誰も入った形跡がない以上、盗ったのはこの家の誰かという事になる。
 院長の家には当時お手伝いが二人と、病院の方も手伝っている看護助手の人が一緒に住んでいた。
 絹と一緒に働いていたもう一人のお手伝いの人は、すぐに部屋に行って自分の荷物を取ってくると奥様の前に全部ぶちまけた。
 そしてもうこんな所にいっときだっていられませんと出て行ってしまった。看護助手の人は昼間ほとんど病院の方にいるので、自分は関係ないとそっぽを向いている。絹はただブルブルと震えていた。
 今更、この石を差し出すわけにはいかないと思った。もしそうしたら奥様の立場がなくなるだろう。そう思う傍ら、良い人だと信頼していた奥様が、平気であんな嘘を言った事で裏切られたような切なさもあった。
 絹は着物の襟にその石を縫込み、口をつぐんだ。その家で二年働いて、出入りの酒屋に嫁入りした。二十二歳の頃だった。
 そして今までその石の事を誰にも言わずに、その時々に違った場所に隠して持ち続けてきたのだ。
「その石を欲しいかい。本当はおばあちゃんの物じゃないけれど、欲しいなら紗江ちゃんにあげるよ」

                                    十六

 紗江は首を横に振った。祖母がその石をどんな思いで持ち続けていたかと思うと、それを受け取ることはためらわれた。
 祖母は微笑み、紗江の差し出した石をまた針箱の引き出しにおさめた。
 早々と秋の虫が鳴き出した夜のことだった。


























                                    十七


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