ぼくはだれだ


「おはよう」と言ったとたんに気づいた。ぼくはその人を知らなかった。
 その女の人はニコ ニコわらっている。ベーコンエッグを食べる? なんてぼくに聞いてる。だあれ? と聞くのはちよっと勇気がいる。その人はぼくが自分のことを覚えてないなんて、夢にも思ってないみたい。
「さあ、もう出かけなくちゃ 間に合わないわ。ほら、早く早く」
 その人は、ぼくにカバンを背負わせた。ぼくはどこに? とは聞かないで、外に出た。こまった。ぼくはいったいどこに行くんだろう。
 道はとてもゆるやかな登りだった。大きさも形もよく似た家が両わきにずっとならんでいる。
「おはよう。つかさ君」
 後ろからおさげに結んだ髪の毛をふって、女の子が早足で追いこしていった。
「ぼくのことをつかさ君と言ったぞ」
 ぼくは考えた。自分はつかさ君じゃないと思ったが、じゃあなんて名前だっけと思うと、どうしたことかまるでおぼえてなかった。
 十字路に出た。さっきのおさげの子の後ろすがたが左の道に見えたので、ぼくも左に曲がった。
「やあ、おはよう。あいかわらずのんきだな。ちこくするぞ」

                                    一

 道のわきのパン屋から出てきたおじさんが、ぼくに声をかけた。今日のおすすめ『かぼちゃパン百円』、と書いた紙を入り口のガラス戸にはりつけて、そうそうとエプロンのポケットに手を入れた。

「これお父さんにわたしておいてくれ。今度釣りに行く所の地図だ」
 ぼくはしかたなしに受け取って通りすぎた。行く方向から、だれかがすごいいきおいで走ってきた。ハァハァ言いながらぼくの前で立ち止まった。
「つかさ。おまえハサミとのり持ってきた? 今日学校でいるんだよ」
 そう言うなり、またすごいスピードで走りさった。ぼくはいちおうカバンをおろして、中を見た。教科書やノートやペンケースとまじって、のりとハサミが入っていた。
 ぼくはまたカバンをせおって、歩き出した。
 細い路地から、毛むくじゃらの大きな犬が出てきた。ぼくはびっくりして立ちすくんだ。でもその犬はぼくにむかってクンクンあまえてなき、そうっと頭をなぜてやると喜びすぎておしっこをもらした。犬の後ろにいたメガネのおばさんが、ごめんごめんとぼくにあやまった。
「ムクはつかさ君が大好きなの。ゆるしてね」
 ぼくはムクのおしっこで少しぬれたくつを見た。くつしたまではぬれなくて、よかったと思った。
 それにしても会う人がみんな、ぼくのことをつかさ君と呼ぶなんて。ぼくは本当に、つかさという名前なのかな。

                                    二

 考えながら歩いていると、後ろから背中をドンッとつかれた。さっき、のりとハサミを持 ているかと聞いた子だ。
「遅刻だぞ、走れよ」           
そうどなって、追い越していく。ぼくは少しムカッときて、追いかけた。角を曲がったら、三階だての建物が見えた。どうやらあれが学校だ。たぶんぼくが行くところ。
 門の前まで来て、ぼくは迷った。入ろうか、やめようか。その時チャイムが鳴り始めた。その音を聞いて、ぼくの胸はドキドキしだした。
「おーい、つかさ」
 建物の二階、一番左はしの窓からさっきの子が顔を出した。
「遅刻、遅刻」
その声を聞いたとたん、ぼくは走る気をなくしてしまった。このまま走って、あの教室に入ったらどうなる。ぼくはいやおうなしに、遅刻したつかさ君にされてしまう。そうじゃないかもしれないのに。
 ぼくは方向転換した。そしてさっさと学校を後にした。
「どこに行こう」             
うんと遠くへ、とぼくは思った。だれもぼくのことを、つかさ君と呼ばないところ。

                                    三

 駅についたけど、ぼくはお金を持っていなかった。だから線路ぞいの道を歩いていった。一度だれかに声をかけられた。自転車に乗ったおばさんで、じろじろと失礼にぼくをながめた。
「あら、あなた田村さんとこのぼっちゃんでしょ。どうしたの、こんな時間に。学校は?」
「ぼくは田村さんなんて知りません」
 正直にぼくは答えた。その人は首をひねっていたが、ぼくはさっさと通りすぎた。それきりぼくを呼び止める人はいなかった。にぎやかな通りに出て、すぐ近くを大勢の人が通ってい たけれど、だれもぼくを知らないようだった。
 たとえばぼくはあきら君でもいいわけだ、とぼくは思った。けんじ君でもまもる君でもかまわない。ちがうだろうと言う人はだれもいないからだ。
「君、どこの学校?」
 ふいに声をかけられた。ふりかえると、おまわりさんだった。ぼくはせいいっぱい平気な顔で、でたらめな方向を指さした。
「そこの学校、ついそこの」
 おまわりさんは、ふうんとうなずいた。
 まぐれで当たったのならいいけど。
「学校、どうしたの。もう終ったの?」

                                    四

「ううん、ぼく。ぼくおなかが痛くて早引けしたんです」
 ぼくは手でおなかをさすって、顔をしかめてみせた。
「だいじょうぶかい。一人で帰れるかな?」
「ぼくの家、すぐそこだからだいじょうぶです」
 おまわりさんは信じたのかどうかは知らないけれど、笑顔でうなずいて行ってしまった。ぼくはほっとして、ひたいのあせをぬぐった。おまわりさんがどこかでかくれて見張っているかもしれないと思って、ぼくはおなかをさすりながら歩いて行った。そのあたりは大きな公園と、銀行や会社の背の高いビルばかりがならんでいて、ふつうの家はどこにもなかった。家がすぐそこなんて言わなければよかった、とぼくは思った。おまわりさんはぼくのうそを、とっくに見ぬいていたかもしれない。        
 ぼくは公園のうえこみのかげにかくれた。おまわりさんはだまされたふりをして、じつはぼくのあとをつけていたりするかも。
 あせがだらだらと、首すじをつたって流れる。のどがかわいて、舌が上あごにくっついた。砂場のむこうに水飲み場がある。用心しながら歩いていって、飲もうと栓をひねったら、だれかがぼくの半ズボンのすそを引っぱった。
「お兄ちゃん」
 まだ幼稚園にも行かないような、小さな女の子だった。まわりを見回したけど、親らしい人は見えない。

                                    五

「まぁちゃんも、水飲む。まぁちゃん、先に飲むの」
 そうは言うけど、背が低いので水飲み台にとどかないのだ。しかたなく抱き上げて飲ませてやると、二口ほど飲んだだけで小さな手で水の出口をふさいでしまっ た。水はいきおいよくななめに飛んで、ぼくの顔からTシャツの胸までしぶきが飛んだ。
 まぁちゃんという子は自分もぬれているのに平気でクスクスとわらう。
 まぁちゃんはとてもおしゃれな、ヒラヒラがいっぱいついた黄色のワンピースを着ていた。小さなお姫様みたいだ。こんな服をだいなしにしてしまったら、この子のお母さんはとてもがっかりするだろう。
「お母さんは? だれとここまで来たの?」
「まぁちゃん、一人で来たの」
「お母さん、きっと探してるよ。お家はどっち」
 まぁちゃんはきょろきょろして、それからふいに手を目におしあてた。
「わかんない」
 べそをかきだした女の子の前で、ぼくはとほうにくれた。交番をさがして連れていくことも考えたけど、そこでさっきのおまわりさんに会うのはこまる。
「ぼくが探してあげるよ。だから、思い出して。お家からここまでどうやって来たか」

                                    六

 まぁちゃんは公園の外に出て、道の向こうを指差した。
「あのね、犬とねこのとこ通って来たの」
まぁちゃんが指さす通りの向こうに、ペットショップがあった。公園の前に横断歩道がある。ちょうどその横断歩道をわたった所だ。たぶんまぁちゃんは、そこを通って公園に来たんだろう。ペットショップの前で、まぁちゃんはぼくの手を引っぱった。
「あのね、この犬とスキップとなかよしなの」
 そう言って、ペットショップのガラス窓にへばりついた。そこには白っぽい茶色の、耳のたれた子犬がいた。
「スキップって?」
「おとなりのお姉ちゃんの犬」
 前にもここ来たことあるのと聞くと、まぁちゃんはたよりなげに首をかしげた。
 でもどうやら、まぁちゃんのとなりの家には、スキップという犬を飼っ ているまだ若い女の人がいるらしい。たぶんその人といっしょにまぁちゃんは、このペットショップに来たことがあるんだろう。
 ぼくはまぁちゃんの手を引いて、店の中に入っていった。鳥カゴのそうじをしていたおばさんがふりむいて、ニコ ニコ した。
「あの、この店にスキップって名前の犬をつれた人がよく来ませんか。若い女の人だと思うけど」

                                   七

「スキップねえ。どんな犬かしら」
「あのね、スキップね。ガラスの向こうのちっちゃい子とおんなじよ」
 まぁちゃんはわざわざ店の外に走って出て、ガラスをツンツンつついた。店の中側は格子になっていて、まぁちゃんの指をガラスごしに追いかけている子犬が見える。     
「ああ、ラブラドール・レトリーバーという種類の犬よ。スキップという名前かどうかは知らないけど、散歩のついでによく来られる人がいるわ」
「その、スキップに用があって…」
「犬に?」
「いえ飼い主に。そのスキップのことで。家がどこか知りたいんです」
「さあ、家がどこかまではわからないわ。でもいつも、そこの横断歩道を公園の方から渡って来られて、右へ行かれるわ」     
「じゃあきっと、家は右の方向だ」
「どうしてそう思うの」         
「散歩に行く前に、ここで荷物になる買い物をするわけないもの。帰るとちゅうだよ」
おばさんは感心して、声をあげて笑った。

                                    八

「なかなかの推理ね」
 僕たちは店を出て、右へ歩いた。
「まぁちゃん、ずうっとまっすぐに来た?」
 まぁちゃんは、自信なげに首をかしげる。
「ねえ、何でもいいから思い出してみて。お家の近くに何があった? 来るとちゅうに見た物でもいいけど」
「ゴミの車、見た! グワォーグワォーって、大きな口開けてゴミ食べてたの」
「ふうん、すごいなぁ。そのほかには何か見なかった?」
「ブランコとすべり台。お兄ちゃんとお姉ちゃんが、いっぱいいた」
 それはきっと小学校だ。小学校の場所なら誰に聞いてもたぶん知っているだろう。でもどう見ても小学生であるぼくが、小学校の場所を聞くのってちょっとあやしい。
 まぁちゃんはこことちがうとむくれたけれど、ぼくは横道に入りこんだ。道は入り組んでいた。何度か曲がると、方向が分らなくなった。うんざりしてしゃがみこんでしまったぼくを、まぁちゃんはのぞきこんだ。そしておでこをぼくにくっつけんばかりにして言った。
「お兄ちゃん、かわいそー」
 少し茶色っぽい、まだ赤ちゃんみたいなうすい髪の毛がくすぐったかった。

                                   九

「かわいそーはまぁ ちゃ んだろ。帰るお家がわかんなくて」
 その時、チャイムの音が聞こえた。いつのまにか小学校のすぐ近くまで来ていたのだ。 まぁちゃんの手を引いて校門の前に立った時、まだチャイムは鳴り終えていなかった。
「ぼくの学校のチャイムといっしょの音だよ」
 思わずそう言って、ハッとした。ぼくは何もかも忘れてしまったはずだのに。
「ああ、そうだ。今朝、聞いたんだった。チャイムの音」
 あの時走っていたらまだ間に合ったのかもしれないな。
「お兄ちゃん」
 まぁちゃんが、ぼくのズボンを引っぱった。
「ほらすべり台、ブランコ。あったよ」
 しっかりとした足どりでしばらく歩いたと思ったら、とちゅうからへいの上の猫を追いかける。
 庭先のアサガオの花のしぼんだのをつんで、手のひらですりつぶす。アリの行列に見とれる。なんだかぼくの小さい時に似ていると思った。
 すぐに何かしらほかのものに気をとられて、どこに行こうとしていたか忘れてしまう。でもそれでこまることは何もなかった。あのころ、時間はとてもゆっくり流れていた。

                                   十

 ぼくの小さい時! ぼくは自分の小さい時を、覚えている。
 ふと気づいてふりむくと、まぁちゃんはまた帰り道を見失っていた。
「もう一度思い出して。お家の近くにあるもの。何でもいいから」
「あのね、えーと。あっ、そうだ。エプロ ンしたクマさんがね、パンのお店にいるの」
 エプロンをしたクマって、何だろう。パン屋のおじさんがクマに似ているのか、クマのぬいぐるみでもかざってあるんだろうか。
 歩きつかれてぐずりだしたまぁちゃんを、ぼくは背中におぶった。ぼくのカバンはまぁちゃんに背おわせた。カバンがカタカタ鳴るので、まぁちゃんはおもしろがってぼくに走ってもらいたがった。ぼくはくたくたにつかれた。おまけにもうれつにおなかもすいてきた。そのせいか、においに敏感になる。どこからかやきたてのパンのにおいがしてきた。ぼくはパンが大好きなんだ。とくにメロンパンが。外側の甘いところばかりを先にめくって食べる。
 ゆっくり、ゆっくりと味わって食べる。それはぼくの小さな楽しみの一つだ。
 犬がほえた。スキップか?
 その時背中のまぁちゃんが、さけんだ。
「エプロンのクマさんだぁ」
本当だ。店のかべにパンで作った大きなクマがかかっていた。そのクマは、本物の白いエプロンをしていた。

                                   十一

 その店から着物のよくにあう女の人が、まぁちゃんとさけんで飛び出てきた。
「今、パン屋のおじさんにまぁちゃんを見なかったか聞いていたところよ」
 まぁちゃんはぼくの背中からすべりおりて、しゃがんだその人の胸にだきついた。
「ありがとう。つれてきてくれて」
 まぁちゃんのお母さんは、少しなみだをためた目でぼくにほほえみかけた。
「まだ間に合うわ、よかった。今日は私の弟の結婚式なの」
 まぁちゃんのお母さんは、立ちあがって背すじをのばした。
「ありがとう、本当に。後でかならずお礼にうかがうわ。あなたのお名前を教えて」
 ぼくはまぁちゃんの背中のランドセルをはずしながら、ちょっとこまってくちびるをかんだ。
 まぁちゃんのお母さんの後ろから、パン屋のおじさんが顔を出して、あれあれと大きな声を出した。
「こんな所で何してんだ、つかさ君」
 見た顔だった。知っている人だと気づいて、ぼくは思わず顔がニヤニヤした。なぜだかホッとしていた。
 その人は、ぼくの家の近くのパン屋さんだった。そう、お父さんの釣り仲間の。
「おじさんこそ、どうしてここにいるの」
「つかさ君は知らなかったのか。ここもおじさんの店だ」
                                   十二

 おじさんは、店の入り口のガラス戸に書かれた金文字を指差した。
 『くまのはちみつパン』という飾り文字は、こりすぎていて読みにくかった。
 家の近くのパン屋と同じだ。
 おじさんはぼくに何も聞かなかった。店の横に止めてあった車に乗せてくれて、それから今朝通ってきた道を、ゆっくりと逆にたどり始めた。
「おじさん、ぼくはだれだと思う?」
 おじさんは前を向いたまま、鼻歌まじりに答えた。
「君は田村つかさ、ぼくの親友のひとり息子だ」

 学校に戻ると、隣にすわった子がごめんなと言った。
「朝、背中をたたいたことまだ怒ってる?」
 のりとハサミ持ってきたかと聞いた子だ。ぼくは首を横にふって、それからその子にも聞いてみた。 
「ぼくをだれだか知ってる?」
「もちろんさ。つかさじゃないか。お前いつも笑ってるのに、今朝は怒ってたみたいだからびっくりした」
 ぼくはほかのみんなにも聞いてみたくなった。

                                   十三

 おさげの子や、ムクや、ムクのおばさん。それから隣町で会ったおまわりさん、ペット屋の人、まぁちゃんにも聞いてみたい。『ぼくをだれだと思う?』って。
 みんなの答えるぼくは、同じところもあり違うところもあるかもしれない。でもそのどれもがまちがいなくぼく。
「ぼくだって怒る時もあるよ」
 ぼくはその子の名前を思い出して言った。
「みのる君でも、まじめな時があるようにさ」








                                    十


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