月宮殿のカギ


 おじいさんが一人、公園の植え込みのへりにすわっていた。メグムがそばの図書館で本を返して、またちがう本を借りて出てきた時もまだそこにいた。
 心細そうに体をまるめて、すわりこんでいる。やせた腕を上げて、だれかをよぶように顔の前でゆらゆらとふった。
「おじいさん、どうかしたの」
 自分が呼ばれているのかと思ってメグムが声をかけると、おじいさんはうれしそうに立ち上がった。
「おお、ヒサシ、待ってたんだ」
「ぼくはヒサシじゃないよ」
 おじいさんはメグムの手をにぎり、さあ行こうと歩きだした。
「人まちがいだってば」
 おじいさんは耳がよく聞こえないのかもしれなかった。ひっしでふりほどこうとするメグムの手に、おじいさんの指はますます強くくいこんでくる。
「ねえ、おじいさん。人まちがいだよ!」
 メグムは大声を出した。あいにくと人通りがなく、だれも助けてくれそうにない。
 本当なら今日は、メグムはお父さんとプラネタリウムに行くはずだった。
                                    一

 なのにお父さんはそのことをすっかり忘れていて、仕事の予定を入れてしまっていた。
 春休みが終わっちゃうよと、メグムは半泣きでたのんだのに、ごめんごめんを連発しながらやっぱり会社に行ってしまった。
 今日は春休み最後の日曜だというのに、メグムはくやしくてならない。 おまけにそのせいでこんな災難に会ったのだ。
「ぼくはヒサシじゃないって!」
 おじいさんはやっと立ち止まると、ふしぎそうな顔でメグムの手をはなした。そのとたんに、メグムのことをわすれてしまったらしい。せっせっと今来た道を引き返していく。
 おじいさんが行く方向にメグムの家はあったので、しかたなく後をついて行く形になった。
 すると次の交差点で、おじいさんはぼうっとつっ立っていた。
「おじいさん、道にまよったの?」
 メグムはおそるおそる、声をかけた。
「カギがないんだ」
 おじいさんは小さな声でつぶやくと、上着のポケットをさぐった。
「ない。ほら」

                                    二

 おじいさんはズボンも、上着の内ポケットまでも手を入れて調べた。上着をめくって下に着ているポロシャツの胸のポケットも、ていねいにうらがえして見せた。
「ほら、何にもない。こまった」
 心底こまったふうに青ざめた顔で、おじいさんは何度もくりかえしポケットをさぐる。
「どうにもならん。ああ、カギがないんじゃなあ」
「どこのカギなの。出てくる時に持っていたの?」
 おじいさんはそれには答えず、メグムのかかえていた本に指をのばしてそれにさわった。
 それはさっきメグムが図書館で、借りてきたばかりの本だ。宇宙のことを書いた本で、表紙には月の写真が一面にのっている。
「ゲッ、ゲッキュウデン」
 おじいさんは月のあばたもようを指さした。
「ゲッキュウデンだ。ここのカギ」
「何なの。ゲッキュウデンって」
「月、月だ。月の宮殿だ」
 ふと情ない顔になって、おじいさんはまたポケットをさぐりだした。

                                    三

「カギ、ないんだった。こまった」
「月の宮殿の? そこのカギがないの?」
 おじいさんは、空を見上げた。メグムもつられて見上げた。午後の青空には、月の影さえ見当たらない。
「おじいさん。月に宮殿なんかないんだよ」
 メグムは図書館の本を、開いて見せた。あなぼこだらけの月の写真。静かの海、雲の海と名前だけは美しいけどかわいた星だ。
 月の海は地球のとはちがって、水は一てきもない。流れ広がった黒い色の溶岩でできているからだ。
 おじいさんは、雲の海のそばのクレーターを指さした。クレーターは隕石が月面にぶつかった時にできたあなだ。
「ここだ、宮殿のある場所」
 そう言いながら、おじいさんの手はまたポケットをさぐりだしていた。すじのうきでたやせた指を、メグムは見ていた。
 おじいさんはその指で、十センチばかりの長さを示してみせた。
「このくらいだ」
「何が?」
                                    四

「カギ」
 メグムも指で、同じくらいの長さを作ってみた。
「ねえ。扉のカギがもし見つかったとしても、どうやってその宮殿まで行くの。スペースシャトルにでも乗るの」
 おじいさんはしばらくメグムの顔を見つめて口をもごもごしていたが、そのうちぷいと顔をそらせてまたせっせと歩きだした。もしかするとおじいさんは、スペースシャトルを知らないのかもしれないと、メグムは思った。
 おじいさん、と追いかけて今度はメグムの方から手をにぎった。
「アポロなら知ってる? 昔、人間はアポロ十一号で月に行ったんだ。この本にもそのことが書いてあるんだよ」
 メグムは図書館の本を、おじいさんの方に開いて見せた。宇宙服を着た人が、月の地面に旗を立てているところの絵がのっている。 おじいさんはその本よりも、メグムの方をしげしげとながめた。
「おまえはヒサシじゃないな。ヒサシはもう少し大きいし、そんなでかい目でじろじろ人を見つめたりしなかった」
「ぼくは村野メグム。背は大きい方なんだけど。ぼく、今度五年になるんだよ」
「わたしは木村…、木村ヒサシ。いや、ヒサシは息子の名前だ。あいつは、どこに行ったんだろう。迷子になったんだろうか」
 おじいさんは不安そうにきょときょとした。
「大変だ。どこに行ったんだろう。かわいそうに、泣いているだろうなぁ。早く探さないと」

                                    五

「ヒサシさんを?」
「ヒサシ? ちがう、ムメさんだ。そう言ったろうが。ムメさんがいないんだ」
「おじいさん、何言ってるのかわからないよ。ムメさんてだれだよ」
 おじいさんはメグムの手をしっかりとにぎりなおして、早足で交差点を右に曲がる。町の西を流れる大川の方向だ。メグムの家と反対の方向だったが、メグムはさからわずについて行った。
「ねえ、おじいさん。月宮殿て何なの。そこのカギ、どうしておじいさんは持ってたの」
「ムメさんは、こわがっていた。だれかが月宮殿のカギをねらっていると言っていた」
「月宮殿のカギって、ムメさんていう人のなの? ムメさんは、どこにいるの」
「今、ムメさんはいない。魚屋は娘がつれていったと言う。けれどそれはうそだ。娘はもう何年もムメさんに会いに来ない。ムメさんとけんかしてから、一度も来ていない」
 堤防の下の道に出た。日のあたる斜面のあちこちに、タンポポがボタンで止めつけたように地面のすぐ近くで開いている。菜の花は所々で、黄色い雲のようにかたまって咲いていた。
 メグムはおじいさんと、立ち止まってしばらくそのやさしい斜面をながめた。
「悪党が娘にばけて、ムメさんをさらっていったんだ。ムメさんはわたしといっしょに、月宮殿に行こうと言っていたのに」

                                    六

「ねえ、月宮殿ていったい何なの」
  「その宮殿は、天井がかすむほど高い。その中ではほしいものは何でも手に入る。記憶であろうと、時間でさえも」
 おじいさんの話し方はきれぎれで、ことばはかたかったけれど、声はしだいにおだやかになってきていた。 「中はどんななの。何があるの」
「柱はひとかかえもあって、その中にあらゆる色が見える。ねじりんぼうのアメみたいに、いろんな色がぐるぐる巻いている。床は金色だ。あまりにまぶしいので、下をむいて歩けない。宮殿に住む仙女たちは、だから目を閉じて宙を飛ぶんだ。飛びながら歌うように物語る。聞いたこともない大きな海と、たくさんの命の物語だ」
 センニョって何だろうと、メグムは考えた。
「仙女は女の仙人のこと」
 まるでメグムの心の中が見えたように、おじいさんは言った。うっすらと笑顔さえ浮かべている。
「仙女は朝の冷たい霧や、うすい夕もやを食べる。だから体のどこもかしこもすきとおるようだ。軽くて風が吹くと浮き上がる。羽なんかなくても飛べる」
「それって何なの。昔話みたいなもの? 月には霧も夕もやもないし、風だってないんだよ。水も、空気もないんだから。ねえ、この本見て。風がないから月に立てた旗は、形よく開いて固定したって書いてある」

                                    七

「おまえは、本ばかり開いている」
 メグムはしぶしぶ、本を閉じた。
「月宮殿に行くと体のどこも痛くなくなる」
「月に行ったって、痛いのは治らないよ」
「本に、そう書いてあるのか」
「そんなの、あたりまえだよ」
「行ってみもしないのに、わかるもんか」
 おじいさんは不服そうにせかせかと先を急ぎ、何かにつまづいてよろけた。メグムはあわててかけより、腕をささえた。おじいさんはまたメグムの手をふりきり、歩こうとして顔をしかめた。
「どこか痛むの、おじいさん」
「ああ、どこもかしこも痛い。痛みってものは、どうやら人間の体より重いらしい。そのせいでわしの体は、土の中にめりこみそうになる。月宮殿ならなあ。わしだって、仙女みたいに飛べるぞ。痛みなんか、地面に置き去りだ」
「月の重力は地球の六分の一ほどしかないんだ。ほら見て、ここにそう書いてあるから」
 メグムはまた本を開こうとし、おかしくなってきてクスクスわらった。
 おじいさんはふいにうつむいて、目をしばしばさせた。

                                    八

「ムメさんも、足が痛い。だいじょうぶかと、通りがかった人がやさしく聞くんだ。なのにムメさんは腹を立てる。わたしの痛さがどんなものかもわからないくせに。若いあんたの足と、とりかえっこでもしてくれる気ならいい。そうでないなら気安く声などかけないでくれ!」
 おじいさんは自分がムメさんであるように、だれもいない方を向いてどなった。
「ムメさんは、本当はとても気持のやさしい人なんだ。だれにたいしても、どなりつけたりするような人ではなかったのに」
 おじいさんは、くちびるをふるわせた。
「ムメさんは月宮殿に行きたがっていた。だれかのことをうらんだり、ねたんだりするのはもううんざりだと。そうだとも、わしだってそうだ」
 おじいさんはあっと声をあげて、なきそうな顔になった。
「わたしを残して、ムメさんは行ってしまったんだろうか」
 あたりにはひざくらいまでしかない木の垣根でかこまれた小さな庭と、そしてどれも同じ形の平屋が何軒もならんでいる。古い町営住宅だった。おじいさんはその中の一軒に、さっさと入っていく。
 そこが自分の家かと思っていたら、おじいさんはいきなり玄関のすりガラスの引き戸をたたき始めた。
   「ムメさん! ムメさん!」

                                    九

 すごいいきおいでたたくので、もし関係ない人の家だったらと思いメグムはあわてた。
「おじいさん、やめてよ。やめてったら」
 おじいさんの目はつりあがり、大声でムメさんを呼ぶたびに口からツバがとんだ。ひとしきり玄関の戸をたたくと、今度は庭づたいに窓の下に行き、そこの閉まった雨戸もたたく。
「ムメさん! ムメさん!」
 メグムは足がふるえてきた。おじいさんがこわくなってきて、にげたくなった。
 庭の外に出ようとした時、あわてて植木バチをけとばしてしまった。何も植わっていないようにみえるそのハチは、ごろんところんでその下に何かが光った。
「おじいさん、カギ!」
 メグムはカギを拾い上げた。指でこするとこびりついた土が落ちて、それは少しくすんだ金色の光をはなった。
 メグムの家のカギのように軽いうすっぺらな物ではなく、すかしもようのかざりがついたそれはずしりと手の中で重かった。
「すごい! 宝箱のカギみたいだ」
 メグムの声に、おじいさんは雨戸をたたく手を止めた。
「それだ、それ。月宮殿のカギ」

                                    十

 道がさわがしくなった。なにごとかと、近所の人が見に出てきたらしい。
 庭をのぞきこんだおばさんがここ、ここ、と道の方にむかってみんなを呼んだ。
「早くかくせ。か、かくせ」
 おじいさんはせきこむように声をあげた。メグムがなんとかそのカギをポケットに入れた時、せまい庭に三人のおばさんが入りこんできた。
「木村さん。だいじょうぶかい?」
「心配したのよ。魚屋さんがようすが変だったって言うから」
 おじいさんはだまりこくって、おばさんをおしのけ道へ出た。おばさんたちはワイワイとその後を追いかける。
 おじいさんはそれきりメグムを見もせずに、ムメさんの家のとなりに入って行った。どうやらそこがおじいさんの家のようだ。
「役所の福祉課に連絡したらどうかしら」と、メガネのおばさんが小声で言った。
「もう一人ぐらしはあぶないよ。火事でも出されたら大変じゃない。そうとうボケがきてるみたいだもの」
 少しふとったおばさんは、その通りいったいに聞こえるほど大声で言った。
 メグムはポケットの中のカギをにぎりしめて、おばさんたちの間にわりこんだ。

                                   十一

「おばさん。ムメさんて人、どうかしたんですか」
 おばさんたちは口をつぐんで、顔を見合わせた。
「あんた、どこの子。木村さんの何なの」
「図書館の前で出会って…」
「まあ、木村さんたらそんなとこで何してたんでしょう」
「もうわけがわかんないのよ。さっきの顔見た? 別人みたいだったじゃない」
「礼儀正しい、おだやかな方だったのにね」
 一番年が若そうなおばさんは、痛ましそうにおじいさんの家の方を見やった。
「あのう。ムメさんは…」
「ムメさんはきのうたおれられてね。今朝方になくなられたらしいの。さっき娘さんが病院から帰られて、そう言ってらした」
 メグムはカギをにぎった手に力をこめた。
「心臓だよ、たぶん。急だったもの。木村さん、前から少しおかしかったけど、ショックで一度にボケが進んだんだろうね」
 メグムは気がつくと、手にあとが残るくらいきつくカギをにぎりしめていた。

                                   十二

 人のことをやたらにボケボケと言うな、とメグムはおばさんたちにどなってやりたかった。でも声にはならなかった。
 夕方になってからメグムは自転車で、またおじいさんの家の前までやって来た。
 近所のおばさんたちに気づかれないように、玄関をそっとたたいた。返事がないので戸に手をかけて引いたら、カギはかかってなかった。
「おじいさん。いる?」
 上がってこい、と声がした。
 人が二人も立てば身動きもできないようなせまい玄関には、ほこりをあつくかぶったぞうりや女物らしいげたもあった。
 昼間におじいさんがはいていた茶色のくつも、かた方うらを向いたままそこにある。玄関から続くろうかの奥はうすぐらい。メグムはかべを手ですりながら、そろそろとざしきをのぞいた。
 まだ外は明るいのにおじいさんはへやの雨戸をしめきって、電灯もつけずにすわっていた。
「おじいさん、暗くて見えないよ。電気つけてもいい?」
「だめだ。外にあかりがもれる。気づかれてはこまる」
 おじいさんは、シュッとマッチをすった。

                                   十三

 小さな丸いテーブルの上にアキカンが置いてあって、その中にろうそくが立ててあった。おじいさんはそれに火をつける。
 火事を出すわよと言っていた近所のおばさんのことを思い出して、メグムはおそるおそるおじいさんの顔をうかがった。ろうそくのふんわりとした明るさの中で、おじいさんの顔はずいぶんと若く見えた。
「おじいさん、一人なの」
 メグムはへやを見渡した。古びた整理ダンスの上に、小さな仏だんがある。
 ほこりだらけのうす暗いへやの中で、その仏だんの前にかざられた花だけが、別世界のように明るく見えた。
 それは菜の花ばかりの花束で、小さな花びらがいくつかすりきれたたたみの上にまで散っていた。
「カギは無事か」
「あっ、ちゃんと持ってる」
 メグムはポケットから、あわててカギを出した。おじいさんはそれを受け取って、たいせつそうに手につつんで見入った。
「月宮殿のカギだ。ムメさんはさらわれる前に、植木バチの下にかくしたんだな」
 ムメさんを探さなければと、おじいさんは立ちあがった。そのまま玄関に出て行こうとする。
 メグムはあわてた。追いかけていこうとしてまた走りもどり、ろうそくの火をふき消した。

                                   十四

「おじいさん、待って」
 おじいさんがまたとなりの家にむかっているのを見て、メグムは後ろからとりすがった。
「おじいさん、そこにはムメさんはいないよ。ほら昼間いなかっただろ。戸が開かなかったじゃない」
 また近所のおばさんたちが出てきたらやっかいだった。
 メグムはおじいさんの手を引っぱって、大川の堤防の方へ行った。おじいさんはすなおにメグムにしたがって、堤防の上の道に上がった。
 夕ぐれの堤防は寒かった。四月になったとはいっても川風はまだまだ冷たい。
 メグムがふるえるとおじいさんは自分の上着のボタンをはずして、この中にお入りと片側を広げてくれた。
 メグムがためらいながらおじいさんに体をよせると、おじいさんは上着の上からメグムの肩をだいた。かすかにほこりっぽい、日なたのにおいがした。
「どうすれば月宮殿に行けるか、知っているか」
 おじいさんは東の空を指さした。町の低い屋根の上に、なめ残したアメみたいな白くうすい月がもう出ていた。
「満月にカギをかざす。そしてこうとなえる。永久(とわ)なる安らぎの宮、われはそのカギをここに持ちたり。今こそめぐみの地、月の都へわれをいざないたまえ」
「おじいさんはどうしてそんなに月宮殿に行きたいの」

                                   十五

「おまえは行きたくないのか」
「行けるのなら、行ってみてもいいけど」
「じゃあ、満月の日に来るんだ。月の出の時刻に。そうだ。堤防のここだぞ。それまでおまえがこのカギを持っているんだ。悪党たちもまさか、おまえが持っているとは思わないからな」
 おじいさんはずっとにぎっていたのでなまあたたかくなったカギを、メグムの手におしつけた。

 満月はそれから三日後だった。月の出の時間には、もうすっかり日が落ちていた。
 友達の家で天体望遠鏡をのぞかせてもらうと言って、メグムは家を出た。いい言いわけだと思った。
 お父さんもお母さんも、メグムがこのごろ月に夢中になっているのを知っている。
 すでに夕焼けのなごりもない西の空に向かって、メグムは自転車を飛ばした。堤防の上の道には、犬の散歩の人さえとっくにいない。街灯がないので、もう足もとも見えないほど暗かった。
 回りを見回すと何かしらこわいものを見そうな気がして、メグムは空から目をはなさなかった。
 東の空はわずかに明るんでいる。だが待っても待っても、月はいっこうにその姿を見せない。
 メグムは心細さで、知らずにふるえていた。
 いったいおじいさんは、どうしてしまったのだろうか。

                                   十六

自分が約束したことをわすれたのか、近所のおばさんたちにつかまってしまったのかもしれない。
 あきらめて帰ろうとメグムが自転車のスタンドをはずした時、おじいさんはいつのまにか後ろにいてヒッソリとした笑い声をたてた。
「ほら、月が出る」
 メグムはドキドキする胸をおさえて、おじいさんの指さす先を見た。
 川向こうの屋根の低い家なみ、そのずっと向こうの山のつらなりから月がはみ出ている。見る間に半分姿をあらわし、やがてきれいな丸になった。
 クレーターにおおわれた、かわききった星にはとても見えない。少し赤みがかった金色にかがやいて、メグムたちの方にしずしずと近づいてくるように見えた。
「カギをこっちに」
 おじいさんはメグムの手のカギを取ると、しっかり手ににぎった。
 おじいさんは、三日前よりいっそうひどくやせて見えた。すっかり姿をあらわした月の光で、ぶしょうヒゲでおおわれたおじいさんの顔は白く、生きている人ではないようだった。
「おじいさん、体のぐあいわるいの?」
「だいじょうぶだ。月宮殿に行きさえすれば何もかもよくなる」
おじいさんはカギを月にかざした。

                                   十七

「永久なる安らぎの宮、われはそのカギをここに持ちたり。今こそめぐみの地、月の都へわれをいざないたまえ」
 カギは月と同じ光をはなち、一瞬息もできないほどの風がふきつけた。メグムは足をふんばって、たおれまいとした。
 気がつくと、あたりに音がなかった。白いもやのようなものがかかっていて、何も見えなかった。
 おじいさんと呼んでみたが、その声は自分の耳にもとどかない。手のとどくところには、何もなかった。それどころかふと気づくと、足の下にも何もなかった。
(だいじょうぶだ。だいじょうぶ)
 メグムの耳には聞こえないけど、まちがいなくおじいさんはメグムにそう伝えていた。
 つかまる物がない、落ちてしまうよ! とメグムはさけんだ。でもやはり声にはならなかった。
(落ちるわけがない。ここは月宮殿だぞ。体は浮いているんだ。ほら、仙女がいる。見えないのか。なんて、美しいんだろう)
 仙女なぞいなかった。宮殿なんかどこにもなかった。
(こわいことなんかない。痛くもないしおなかもすかない。ここなら人をうらやんだり、にくんだりすることはないし、悲しい目に会うこともないんだ)
 おじいさんと、メグムは声にならない声でさけんだ。

                                   十八

 ここには何もないよ。宮殿なんかない。
 おじいさんがハッと息を飲んだけはいを、メグムは感じた。
 また強い風がふきつけてきて、メグムのまわりから白いもやがふきとばされうすれていく。月が見え、星が見え、山が見え、家々の屋根が見えた。
「おじいさん!」
 おじいさんはメグムの足もとに、すわりこんでいた。顔色は月の光のせいではなく、真っ青でひきつっていた。
「おじいさん! おじいさん!」
 おじいさんは、白目をむいていた。メグムはころがるように堤防をかけおりて、一番近い家の戸をたたいた。あの時のおじいさんのように。ムメさんの名前をよんで、戸をたたき続けたおじいさんのように。
「助けて! おじいさんを助けて!」
 その家の人がびっくりして出てきても、まだメグムはさけび続けていた。
 メグムが救急車に乗ったのは、その時がうまれて初めてだった。でもそれに気づいたのは、もっとずっと後になってからのことだ。
 メグムは救急車の中で、おじいさんの顔から目がはなせないでただふるえていた。おじいさんはまだ、あの白いもやにつつまれた何もない世界で一人ぼっちでいるのだ。メグムにはそう思えてしかたがなかった。

                                   十九

 痛くもさびしくもないかもしれない。でもそのかわりきっと、気持ちよかったり楽しかったりすることもないのだ。
 病院のろうかの長いすの上で、さっきからメグムはうとうととしていた。目をさましかけては、またとろとろと眠りに引きこまれた。
「脳こうそくだそうです。ここ、二・三日がヤマだとか。もし持ち直してもマヒが残るし、ことばに障害が出たりするそうです」
 だれか知らない人の声が聞こえた。
「父はいそがしい人でした。日曜日でも日中に家にいたことがなかった。もしかするといそがしいというより、子供がきらいだったのかもしれません。わたしは小さいころ、父にだかれたことも手をつないだ記憶もないのです。母が亡くなった時、もうわたしは父のもとに帰るまいと思いました。父もそう望んでいるのだろうと思っていました」
 メグムは自分のまわりにまた白いもやを見た。あの声が遠のきそうになり、メグムは激しく頭をふってもやをはらいのけようとした。
「それが不思議なのですが、意識のない父の顔を見ていて急に思い出したのです。昔、そうメグム君と同じ年のころ、大川の堤防を父と歩いたことを。少し寒くてふるえるわたしに、父は上着の前を開いてその中にくるんでくれました。すっかりわすれていました。だのに今その時の父のあったかいにおいや、かたい胸の感触まではっきり思い出すんです。今、父の胸をさわってきました。骨の浮き出たあまりにうすい胸でした」

                                   二十

 メグムは、目をさまし始めていた。でもまだ、頭はかすんでいる。
 上着の中にくるんでもらったのはぼくだと、メグムは思った。
 くるんでくれたのはおじいさん、いやお父さんだったろうか。今しゃべっている知らない男の人は、もしかしたらおとなになった自分なのかと、メグムは夢うつつの中で信じかけていた。
「なぜ今になって、急にそんなことを思い出したのか考えていました。あれですよ。あれのせいなんです」
 メグムはうっすらと目を開けた。ろうかにメグムのお父さんが立っている。お父さんと向かい合って立っている男の人が、窓の外を指さしているのが見えた。
 その人はすらっと背が高く、とてもやせていた。髪の毛は半分白く、メグムのお父さんよりずっと年をとっていた。
「あれと言いますと、その、窓ですか?」
 メグムのお父さんは間のぬけたことを言って、自分でもおかしいと思ったらしく首をひねった。
「月ですよ。満月。どういう事情かはおぼえていませんが、その時わたしと父は堤防へ月を見に行ったんです」
 メグムははっきりと目をさまして、起き上がった。
「おじさん、だれ?」

                                  二十一

 おじさんは長いすの前にひざをついて、メグムと向かい合った。
「もしかして、ヒサシさんなの?」
 その人は大きくうなずいた。
「おじいさんと会ってきた? おじいさんはヒサシさんを見た?」
 ヒサシさんは首を横にふった。
 ヒサシさんの肩の向こうに月が見える。山の上に出たばかりの時より、ずっと遠くに小さく見えた。でもその表面には、うっすらと月の海さえ見分けられた。
 メグムのそばに、お父さんはすりよるようにしてすわった。
「寝ててもいいぞ、メグム。お父さんが抱いてつれて帰ってやるから」
 メグムは思わず、くすぐったい思いで首をすくめた。お父さんに抱かれるなんて、アルバムの写真の中以外ではおぼえがなかったからだ。
 メグムは目をつぶった。でも眠らないでいようとした。
 お父さんとヒサシさんの話をもっと聞いていたかったし、お父さんが本当に抱いてくれるのかたしかめたくもあったからだ。だのに十かぞえる間も、起きてはいられなかった。

                                  二十二

『トワナルヤスラギノ…』
「おじいさん?!」
『イマコソ…メグミノチ、ツキノミヤコヘ』
「おじいさん、まだそこにいるんだね」
『カギガ、カギガナイ、ナインダ』
 そうだ、カギだ。メグムはポケットをさぐった。
「ない。ぼくは持ってない」
 あの時、カギを持っていたのはおじいさんだった。でも救急車に乗った時、おじいさんは持っていなかったと、メグムにははっきり言える。
「きっと堤防だ。あそこに、落としてきたんだ。だれかに拾われる前に、探しに行かなくちゃ」
 メグムはあせって、目をさました。ちゃんと自分の部屋で寝ていた。着替えて台所に入ると、お父さんとお母さんが同時にメグムを見た。
「もっとゆっくり寝てればいいのに。きのう、大変だったんだもの」
 お母さんは心配そうに、メグムの顔をのぞきこんだ。お父さんは新聞の向こうから、おじいさんにはまだ会えないぞと言った。

                                  二十三

「うん、わかってる」
 メグムは朝ごはんを食べるのもそこそこに、堤防に向かった。
 きのうの夜おじいさんがたおれた場所を見るのはこわいだろうと、メグムは思っていた。
 でも今その場所は、まるでちがう場所のようだった。ジョギングをする人や、犬の散歩をする人で町中より人通りが多かったのだ。もうだれかに拾われてしまったかもしれないと、メグムは思った。
 同じ場所を行ったり来たりして探していると、どこかの犬がうれしそうにメグムの後をついてきた。ずいぶんと、人なつっこい犬だった。メグムが探している所へ鼻づらをつっこんでくる。
 最初はおもしろがっていたメグムも、あんまりしつこいのでちょっとじゃまになってきた。
「あっち、いってろ」
 おしのけようとしたら犬はじょうずに身をかわしたので、メグムは堤防の斜面をズリズリと二メートルばかりもすべり落ちた。そのおかげだったが、斜面の草の中で光る物を見つけた。カギだった。
 おそらくきのうメグムが助けを呼ぶために堤防の下の家に走った時、けり落としたのだろう。
 メグムはカギをしっかりとにぎりしめた。きのうの夜のように月にカギをかざして呪文を言えば、きっとおじいさんは帰ってこられるとメグムは思った。
 だがそのうち、メグムの自転車をこぐ足がにぶってきた。

                                  二十四

一番たいせつなことを、わすれていたことに気づいたのだ。
「とわなる安らぎの宮、われはカギを持ちたり。今こそ…月宮殿へわれを、何とかたまえ。何、たまえだっけ」
 メグムはあわてた。月宮殿を開ける呪文、それが言えなくてはどうにもならない。メグムは、自分はもっとちゃんとおぼえていると思っていた。
「とわなる安らぎの宮、われは今カギを。ちがうな。そうだ。ここにだ。ここにカギを持ちたり」
 メグムはゆっくり自転車をこぎながら、何度も口の中でくりかえしつぶやいた。
「今こそ…月宮殿へ、われを、いざないたまえ」
 言えた! と思って、一瞬メグムは有頂天になった。だが何度かくりかえし言ってみると、どこかおかしい。何かたりない気がしてきた。
「たしか今朝の夢の中で、おじいさんが言っていたんだけど…」
 メグムはじっとしてられなくて、午後から病院へ出かけた。病室には面会謝絶のふだがかかっていたけど、ヒサシさんが部屋の斜め前にあるだんらん室にいた。
 花くらい持ってきたらよかったと気づいてメグムがもじもじしていると、ヒサシさんが気づいて手をふった。
「せっかく来てくれたけど、まだ会えないんだよ。下でジュースでも飲まないか」
 病院の一階には喫茶室があった。なかなかしゃれた造りで、町中の喫茶店と錯覚しそうだった。

                                  二十五

 でも中はお見舞いに来た人や、入院している人のつきそいらしい人、患者らしいねまき姿の人がいて、やはりここは病院なんだといやでも思い知らされる。
「メグム君がいなかったら、父は今ごろもうこの世にはいなかったろうな」
 ヒサシさんはコーヒーをすすりながら、しみじみと言った。
「あの時見た満月のことなんか思い出しもしないで、ぼくは父と永遠に別れていたんだろう」
 満月の話が出たので、メグムはヒサシさんに月宮殿のことを聞いてみようと思った。
「ヒサシさん。月宮殿って知ってますか?」
「月の宮殿の月宮殿かい。知っているよ」
 メグムはジュースのストローから口をはなして、身を乗り出した。
「能の演目の一つだよ。能を知ってる? 日本の古典芸能の、それの演目つまり出し物というか、題名というか」
 メグムはがっかりして、すわりなおした。
「もともとは中国の伝説で、月の中の仙女が住むという宮殿だが…」
「それだよ、それ!」
 メグムが突然立ち上がってテーブルをゆらしたので、ヒサシさんはあわててコーヒーカップを持ち上げた。
「おじいさんは、今そこにいるんだ!」

                                  二十六

「何だって!?」
 ヒサシさんは、手の中のカップの存在をわすれた。残っていたコーヒーが、タラタラと受け皿の中に流れた。
 メグムはおじいさんに出会った時の事から、きのうの夜の事まで話した。近所のおばさんが、おじいさんをボケと言ったことまでしゃべってしまった。
 ヒサシさんはその時とてもつらそうな顔をしたが、メグムは夢中でしゃべっていて気づかなかった。
「だからね、カギは見つかったんだけど呪文が思い出せないんだ。とびらを開けないと、おじいさんは帰って来れないと思うんだ」
 ヒサシさんはカップに口をつけては、それがからなのに気づいて下に置くということをさっきから何度もくりかえしている。
「おじいさん、とてもヒサシさんに会いたかったんだと思う。せっかくヒサシさんが来てくれたのに。呪文、思い出せたらなぁ」
「どんな、呪文なんだい」
「『とわなる安らぎの宮、われはそのカギをここに持ちたり。今こそ…』この後がよく思い出せないんだ」
 メグムはくやしそうに、にぎりこぶしをテーブルにおしつけた。
「ありがとう。本当にありがとう」

                                  二十七

 ヒサシさんは、メグムに向かって頭を下げた。
「父の意識がもどらないとしても、それは君が呪文を思い出せないせいだなんて、考えないでほしい。父は君と出会えて、とても喜んでいたと思うんだ。喜んで行ったんだから…。その月宮殿へね。そう思うとぼくの気持ちは少しやすらぐんだ。父にとってもぼくにとっても、君にはいくら感謝してもしたりない」
「おじいさんは最初に会った時、ヒサシさんはまいごになって泣いているから、早く見つけてやらないと、って言ってたんだよ」
「メグミ君」
「…」
「あっ、しつれい。メグム君だった」
「ああ、そうか!!」
 のどにつかえていたものが、すっきりとれたみたいな気持ちだった。
 メグムが興奮してまたテーブルをゆらしたので、ヒサシさんは今度は水の入ったコップをおさえた。
「メグミだ。ヒサシさん、思い出したよ。恵みの地、だ。今こそ恵みの地、月の都へだ」
 その日の夜も、よく晴れていた。月の出の時刻がきのうよりだいぶおそいので、メグムはお父さんといっしょに堤防に来た。とちゅうからヒサシさんも合流した。

                                  二十八

「ああ、どうもこんな時間に」
 よく事情がのみこめないままついてきたお父さんは、ヒサシさんとあいまいなあいさつをかわしている。
 月はまだきれいな真ん丸だった。メグムはポケットからカギを出し、月にかざした。
「『永久なる安らぎの宮、われはそのカギをここに持ちたり。今こそめぐみの地、月の都へわれをいざないたまえ』」
 川下から風がふいた。メグムはドキドキして、待ち受けた。でも白いもやはわいてこなかった。
 メグムはこまって、両脇の二人のおとなを見上げた。二人とも月にみとれていた。
「いい月ですねぇ」
 メグムのお父さんが、しみじみと息をはいた。
「きっとカギは開いたと思うよ」
 ヒサシさんはメグムを見下ろしてほほえんだ。
「父が帰ってきたいと思っていたら、きっともう今ごろベッドの上で、目を開いてるだろう」
 ヒサシさんはメグムの手を力をこめてにぎり、お父さんに手をふると堤防をおりて病院へもどっていった。
 メグムは見送りながら、思わず身ぶるいした。寒いというのではない。体の奥の奥から、細かいふるえが伝わってくる。

                                  二十九

「ほら、この中に入れ」
 メグムのお父さんが、上着の前を開いて目くばせした。メグムはクスクスわらいながら、その上着にくるまれた。
まん丸な月がどこかへの抜け穴みたいに、暗い空の中で輝いていた。









                                                            三十


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