箱の掌話  *手のひらの小説*

          その一
     プレゼント


 四時限目が終わった。チャイムが鳴ると同時に紀恵は、行くよと里緒奈に声をかけた。何か大事な相談があると言って、ユキに呼び出されていたのだ。二年に進級したときユキだけクラスが別になったので、今までみたいに教室で昼ごはんを食べながらしゃべるということができなくなって、不便なことこの上ない。
「待って、待ってよ。一口だけでも食べさせて」
 里緒奈は通学カバンから袋を出して、そのなかにごそごそと手を入れている。
「三時間目からめちゃめちゃお腹がすいてるの。もう一分だってがまんできない」
「なんで三時間目が終わった時に食べとかないの」
 もたもたしている里緒奈を置いて、紀恵はさっさと教室を出て行く。
 中庭の藤棚の下にあるベンチに座った。ユキはもうとっくに来ていて、二分遅刻と言い放つ。
 サンドイッチをくわえたままやってきた里緒奈は、飲むものを買えなかったと、横目で紀恵をにらんだ。紀恵は、口開けなと言い里緒奈の方に水まき用のホース先を向けた。水道の栓を開けるふりをして、ユキを振り返る。
「ねぇ、止めないの?」
「私、大事な相談があると言ったでしょ。まじめに聞く気あるの?」

                                    一

 口にサンドイッチをくわえたままじたばたしている里緒奈に、ミルクコーヒーのペットボトルを差し出した。
「ほら、里緒奈。後で二百円返してよ」
「これ、百五十円でしょ」
「貸し賃が入ってるの」
 いい風が通った。花の時期は蜂が飛びかって物騒なこのベンチは、今は落ち着いていい日陰を抱えこんでいる。
「で、大事な相談って何さ?」
「そんなわざとらしく、心配そうな顔しないでよ」
 ユキは脇に置いていた小さな手提げから、片手に少し余るくらいの大きさの小箱を取り出した。細かな赤いバラが一面にプリントされた包装紙に包まれている。
「なあに、私にくれるの?」
 里緒奈がすぐに手を差し出す。
「これはね、私が上原君からもらったの。相談って言うのはそれなのよ」
 紀恵がその箱を受け取り、手の中でくるくる回した。
「あんた、まだ開けてないの」

                                    二

「だってあの子から物をもらう理由がないもの」
「上原君ってユキと同じクラスの?」
 里緒奈が箱を受け取り、紀恵と同じようにひっくり返してしみじみ裏をながめる。
「名前、書いてないわよ」
「普通は書かないでしょ」
「上原直人って名前だったっけ。本当にあいつ? 生徒会長に立候補して、一票しか入らなかったっていうあの変なやつ?」
「そう。選挙演説で延々とUFOの話をしたあの上原直人」
 里緒奈から箱を返されたユキは、それをベンチの空いた場所に置いた。
「へぇ、ユキって上原君とつきあってたの」
「ちがうわよ。やめてよ里緒奈、変な事言うの」
 ユキは身震いし、ベンチの上の箱からお尻をずらしてさらに遠ざかる。
「聞かせてよ。いったいどういう状況でもらったのか」
「野次馬根性やめてね、紀恵。人事だと思っておもしろがるのは」
 ユキは傍らに置いた箱から、さらにじりじりと腰をずらした。

                                    三

「なんか気味わるいのよ。この箱」
 ユキの言うのには、二日前に図書室で渡されたらしい。
 図書委員であるユキは当番に当たった日、放課後図書室で本の整理をする。返却された本を抱えて、所定の本棚に片付けようとしていた。いつの間にか後ろにいた上原直人は、ユキの腕に積んだ本の上にこの箱をぽんと置いて、そのまま何も言わずに去って行ったというのだ。
「黙って置いていったんなら、あんたにくれたとは限らないよね」
「そうよ、あんたの友達の里緒奈さんに渡してくれと言うつもりかも」
 じゃもらって、とユキが箱を里緒奈の方に押しやる。
「中身によってはもらってもいいんだけど。まず、ユキ。自分で開けてみてよ」
 真剣な顔で、ユキは首を横に振る。
「ねぇ、あんたたち。中身を予想してよ。そのために呼んだのよ」
「上原君はユキが好きなのよ。このプレゼントだけじゃなく、彼は今までいろんなアプローチをしてこなかった?」
「ない」
「ユキは鈍感だからね」

                                    四

「紀恵ほどじゃないつもりよ」
「私の予想、聞いてよ。上原君はずっと前からユキの事が好きだったのね」
「ひゃあ、やったね。ユキ、おめでとう」
「生徒会長に立候補したのも、別に生徒会長になりたかったからじゃないの。すべてはユキのためよ。あれはユキだけに向けたメッセージだったの。だってどう考えてもあんな選挙演説ってないでしょう。彼は自分が強く念じたらUFOが呼べるって言ってたでしょう。UFOってユキのことだったのよ。彼は自分が強く念じたら、きっとあなたに通じると思ってたの。票が一票しか入らなかった時、もちろんその一票は自分が入れた票よ、彼はずいぶん落ち込んだと思うわ。ユキに自分の思いが伝わらなかった事がはっきりしたからよ。そこで今度は別の方法を考えついたの」
「上原君は里緒奈を選ぶべきだったね。あんたなら分かってくれたのに」
「彼が考えついた新しい方法がこのプレゼントよ。何だと思う? 惚れ薬よ。彼はその材料を集めるために東奔西走したの」
「惚れ薬! おまけに東奔西走! 近頃なんか奇妙な物に凝ってるね、里緒菜」
「ふふん、まあね。あんたたち、惚れ薬の材料が何か知ってる?」
「聞いたことある。オットセイのあそことかだよね」

                                    五

「いやね、紀恵ったら。朝鮮人参とかじゃないの」
「本当かどうかは知らないけど、いろんな材料があるらしいのよ。上原君が選んだのは鹿の角、ハンミョウって虫の粉、極めつけはヒキガエルの粘液」
 ユキは身震いし、ますますその箱から遠ざかる。紀恵は手をたたいて笑い転げる。
「いいね。里緒奈は近頃、みがきがかかってきたよ」
「ハンミョウは割と手に入りやすかった。標本からくすねたからよ。彼の近所に虫オタクの男の子がいるの。ハンミョウってね、きれいな色の虫なのよ。どうしたのユキ、顔色良くないわよ」
「上原君はその虫を砕いて粉にしたの。それから鹿の角。これは簡単だったわ。彼の叔父さんのうちに剥製の鹿の首があったのよ。叔父さんが席をはずした時に、こそっとナイフで削り取ったのよ。ほんの少しだもの、まあ気づかれなかったでしょう。一番てこずったのはヒキガエルね。まず見つけるのが大変。上原君は毎日、空き地の中を這いずり回った。近くで見つからないとちょっと遠出までしたぐらい。苦労してやっと捕らえた。でも今度はどうやってその粘液を取ればいいのかが分からなかったの。悩んだあげく、がまの油売りの口上を思い出した。以前テレビでやってたわ。見た?」
「見ないけど知ってるよ。鏡張りの箱の中に入れるんだ」
「そうそう。がまは自分の姿の醜さに脂汗を流すんですって。上原君はその方法を試してみたの」
 里緒奈は顔をしかめているユキの方を見もしない。

                                    六

「そしたら確かにヒキガエルの体からにじみ出る物があってね。上原君はそれを大切に定規でこそげとって、鹿の角とハンミョウの粉を練り混ぜたの。そのままではうまくユキの口には入れられないから、チョコレートを買ってきて溶かしその中に。さあ、この中にあるのがそれよ。ユキ、どうするの。本当かどうかは食べてみれば分かるわ」
「里緒奈にあげる」
「ちょっと待って。私の予想も聞いてよ」
 紀恵がひざを乗り出す。
「確かに里緒奈の予想は奇抜だけど、私の予想の方がずっとおもしろいと思うな」
「言ってごらんなさい。私のよりつまんなかったら、罰ゲーム。惚れ薬入りのチョコ を食べるのよ」
「彼が自分の左手が時々奇妙に感じにつるような気がしだしたのは、二年に進級してすぐだった。何もしないでぼうっとしている時など、左手の小指がつんつんと引っぱられるような感じがする」

 神経系統の病気ね、とユキが真面目な顔で言う。
「最初はたいして気にしなかった。ちょっとパソコンをやりすぎたかな、と思ったぐらい。でもそれがどんどんひどくなってきた。授業中ノートをとっている時でも、ノートを押さえた左手がひくひくと引っぱられてずれるし、昼に弁当を食べている時などふいにキュッと左手が引かれて、弁当箱を落としそうになるし。いったいどうしたんだろう、病気だろうかと上原君は心配になってきた。

                                    七

 でもしょっちゅうそうなるわけではなく、時々急になるので医者が信じてくれるだろうか、気のせいだと言われるのではないかと思えて、結局はしばらくがまんしていた。その頃に生徒会長の立候補の受付が始まった。最初は自分が立候補するなんて考えもしなかった。ある休み時間中にクラスでその話が出て、うちのクラスでも誰か立候補すればいいのに、と言った子がいた」
「ちょっと、待って。何で…」
「そう、思い当たる節があるね。あんたよ、ユキ。上原君は自分の席から振り向いてあんたを見た」
「彼の左手の小指はその時、今までになく強く引っぱられていたんだ。あんたの方に。彼は気がついた。自分の小指を引っぱっていたのはあの子だとね。自分の小指とあの子の小指は結ばれているんだとね。上原君は生徒会長に立候補した。何だかそうしなければならないような気がしたから。でもそのうち選挙活動を始める段になって、彼は怖くなってきた。自分にそぐわないことをしているという思いで、気持ちがいっときも休まらない。いっそ候補を取り消そうかと思い決めると、痛いほど小指が引かれた。そして悲惨な選挙演説、開票結果。こうなることは分かっていた。なのにぼくをここまで引きずったのはこの小指だ。何とかしないとこの先も小指は自分をとんでもないことに引き込むだろう。どうすればいいか。悩んだあげく結論を出した」
「どんな結論?」
 里緒奈が、首をすくめながらも聞く。

                                    八

「何だか聞きたくないような気がするけど」
と、ユキも言う。
「小指に結ばれた紐を断ち切ろうとしたんだよ、彼は。でも見えない紐だからね。結局それしか方法がなかったんだね。気の毒に」
「どういうこと?」
「切ったんだよ。見えない紐じゃなく、自分の小指を」
「もう! 紀恵の話はいつもその方向に行くのね」
「わざとじゃないよ。そうなるより他はないんだもん。だからその箱の中には彼の…」
 ユキも里緒奈も声にならない悲鳴をあげて、ベンチから立ち上がる。紀恵はしれっとした顔で、問題の箱を持ち上げる。
「ほら、持ってみな。この重さ。間違いなく小指の重さだね。ユキ、間違ってもこの箱を彼に返しちゃだめだよ。そんなことしたら、彼は今度、あんたの小指も切りにかかる」
 てっきり怒ると思ったユキは、悄然としてベンチに腰をおろした。
「上原君は私を憎んでいると思う。立候補の事だけど、紀恵の言うとおりなの。どうして知ってるのか聞きたいわ」

                                    九

 ユキは顔をあげて、紀恵を見つめた。
「私が言い出したの。別に上原君に向かって言ったわけじゃないけど。私がそう言った事で、クラスの男の子たちがおもしろがって彼を担ぎ出したのよ。上原君は嫌だと言えなかった。選挙演説の野次はひどかったわね。彼を担ぎ出した連中が先頭に立って野次ってた。なのに上原君はがんばったと思うわ。私は彼の演説は一生懸命に聞いたのよ。それに入った一票は彼自身が入れたものではないわ。私が入れたの」
 風が通った。紀恵と里緒奈は息を止めて風を受けた
「里緒奈、きのう上原君と何か話してたでしょう。見てたのよ、私。彼は私が嫌いなものは何かって聞いたんじゃない? 言ったでしょう。白状しなさい」
「うん。言った。だから虫だって言った。それも特に長い虫、足のいっぱいあるやつが特にって」
「ほら、やっぱりね。なのに、惚れ薬だなんて。私を傷つけまいとした?」
 ユキはベンチに置かれた箱を見つめ、かすかに身震いした。
「この箱の中にはいっぱい虫が入ってる。私の予想はこれよ。そして、たぶん正解」
「でもね、ユキ。私は確かに虫だって言ったけど、彼はあなたが嫌いな物が何かって聞いたんじゃないのよ」
「どういうことよ。里緒奈」
 紀恵が怖い顔をして詰め寄ると、里緒奈はうなだれた。

                                    十

「ごめんね。悪気はなかったと言っても信じてくれないよね。彼、本当はあなたが好きなものは何かって聞いたの。まさか本気にするとは思ってなかったのよ」
「他の子なら本気にしないよ。でも上原君ならありうるね」
 気の毒そうに紀恵が言った。
 貸して、とふいに里緒奈がプレゼントの箱に手を伸ばした。
「私のせいだから、私がこの箱を開けるわ」 
 やめて! とユキも紀恵も逃げ腰になった。
「開けなくていいじゃん。そのまま捨てちゃおう」
「だめ! 私だってもらった時から捨てたかった。でもできなかったのよ。気持ち悪かったのに、ずっと持ってたのよ」
 思わず大きくなったユキの声が中庭に響いた。三人はギクッとしてあたりを見渡す。
「もしかして、もうチャイム鳴った?」
「やばい、もう授業始まってるよ」
 三人はあわてて立ち上がって、走り出した。
ユキは忘れそうになったプレゼントの箱を取りに戻り、しっかりと抱えて校舎に走りこんだ。

                                    十一

          その二
海底の箱

「海の底に箱があった」
 水槽のガラスごしにギョロリが話しかけてきた。
  私はこの水族館で、掃除の仕事をもう三十年も続けている。ひととおりの仕事を終えると、いつも一番大きい水槽の前のベンチで一服する習慣だった。いつからだろう。ギョロリと話すようになったのは。
 ギョロリという名は私がつけた。彼は鯛の仲間でメダイといい、目がいかにもギョロリとしているからという単純な理由で。
 彼は話好きだった。特に人間の生活に興味があるようで、いろんな事を知りたがった。あまり自分の事は話さなかったが、それは長年の水族館暮らしで、たいしておもしろい話題がなかったせいかもしれない。
 だがその日、彼は自分のことを話そうとしていた。私が自動販売機で買ったコーヒーを飲み終えて、もう帰ろうと立ち上がりかけた時だった。
「へえ、いったい何の箱だい?」
「わからなかった。それまで一度も見たことがないものだった」
 ギョロリは言った。
 その箱は白っぽい銀色で、大きさは一つの辺が自分の体の一・五倍くらいと言ったから一メートル程だろうか。

                                    十二

 ほぼ正方形で一箇所かすかに円形にへこんでいる部分があったが、ほかは滑らかな平面だった。
 魚たちは寄ると触ると箱の話をしたそうだ。自分たちと同じ魚だろうか、とある魚が言えば、違うだろう、動かないし何も食べないと別の魚が言った。どこから来たんだろう、と誰かが問うと、上から落ちてきたと聞いた、と他のものが答えた。
 しばらく突っついたり体をぶつけたりしては、魚たちはそのうち飽きて去っていく。
 するとまた別の魚たちが来て、いったい何者だろうか、どこから来たんだろうと同じような話を繰り返していたそうだ。
 何年もたつうちに箱は次第にまわりの岩や砂と似た色に変わっていった。魚たちはもう銀色に輝いていた箱を思い出すことができず、それは海の底にあってあたりまえの物になっていったのだろう。
 それから何日も、何週間も、何ヶ月も、何年も過ぎた。むろん魚には時間をあらわす言葉がないので、ギョロリは体の大きさが倍になったとか二倍になったとかいう言い方をした。
 ある日魚たちは何か変わった事が起き始めているのを感じた。
 最初に気づいたのは、箱の近くの砂地にもぐっていたカレイだった。何だかいつもより砂が重いとカレイは言った。その近くにいたエビは暑い、湯だってしまうと大あわてで逃げ出した。小さな魚の群れは近くを通ると引き込まれると言って、大回りして箱を避けた。

                                    十三

 箱に近寄りすぎてその場で動けなくなるエビやカニがいた、とギョロリは言った。
 それを目当てに近づく魚がいたがただの岩だと思い込んでいた物が、銀色に輝き出しているのを見て後ずさりした。
「だがだれも遠くへは逃げなかった。箱のまわりを二重にも三重にも取り囲んで、ただ見守っていた」
 そして最初に箱を見た時のように言い合った。
「自分たちと同じ生き物だろうか、どこから来たんだろう、何をするつもりだろう、ってね」
 箱は今や作りたてのように輝いていて、円形にへこんでいた部分だけ、より濃い色に変化していたとギョロリは言った。みんなが固唾を呑んで見守る中で、その円形部分はますます色が濃くなり、やがて深海の海の底のような闇の色になった。そのまましばらく何の変化もなかったので、ギョロリや他の好奇心旺盛な魚たちは恐る恐る箱に近づいてのぞきこんだ。闇の中に何かが見えた。
「何だったと思う?」
 ギョロリは水槽のガラスの向こうで行ったり来たりしながら私に問いかけたが、私には見当もつかなかった。
「目だった。誰かが向こうからこっちを見ていたんだ」
  暗い面をのぞきこんだギョロ リ自身の目が写っていたんだろうと私は思ったので、そう言った。ギョロリは気分を害したらしく、ますますギョロリと目をむいた。

                                    十四

 箱の中の目は瞬きしたんだ、とギョロリは言った。首を傾げた私に、魚は瞬きなんかしないとギョロリは少しばかり得意げに言った。
「だから魚は何一つ見逃すことがないんだ。君たちと違って」
 ギョロリの話によると、その目は瞬きしただけでなく、ぐるりと目玉を回して海面を見上げたり、あわてて逃げ隠れする海底の生き物たちを目で追いさえした。
 海底を調査するために人間が入っていたのかと私は思った。でも何年もの長い間、沈みっぱなしでいられるわけがない。
 それからどうなったんだ、と私はギョロリに聞いた。瞬きしないで最後まで見届けたんだろうな、と。
「そいつが箱の中から出てきたのは、丸々一昼夜その場所から目に入るものを眺めつくした後の事だった」
 ギョロリは私をじらすようにそこから離れて広い水槽を一周した。やっと戻ってくるとガラス越しに私を見つめた。
「その時には、他の魚たちはもうとっくに飽きてしまっていなくなっていた」
 そいつは、最初は目だけだったとギョロリは言った。目だけがギョロリをじっと見つめて、瞬きをやめた。やがてふと気づくとその目の下にえらがあった。最初はなかったんだからいつの間にかどこかから湧いて出たんだ。
 えっ? と思ってよく見ると、えらの向こうにうろこが見えた。胸ビレが見え背ビレが見え、ヒラッとひるがえると尾ビレが見えた。

                                    十五

「そいつはいつの間にか魚になっていた」
 しかもギョロリとそっくりだったらしい。
 ガラスの向こうで、私を見つめているギョロリの目、大きな目だ。魚のはずなのに瞬きしている。目の下に鼻が見える。顔の大きさの割りに小さくて貧相に見える鼻。鼻の下に口が、あごが。
 もうそれはギョロリではなかった。それは私で、水槽のガラス越しにこっちを見つめてにやりと笑った。そしていつもの私のように掃除道具をまとめ、廊下の電気を消して出て行った。
 私は水槽の中に残された。廊下が暗くなったので水槽のガラスに自分の姿が映った。私はギョロリだった。
 何かしら得体の知れない生き物がどうやって海の底の箱の中から出てきたのか、私は一晩中考えて理解した。あいつは目を合わせるだけで、相手の体だけでなく立場を乗っ取ることができるんだろう。
 明くる日、私の体を取ったあいつはもう仕事に出てこなかった。どこかへ行って、また誰かの体を奪うつもりだろう。

          その三
ノブの箱

 ある日ノブは散歩に出た時に、近所の玄関先で大きな段ボール箱をつぶそうとしている人を見た。
「あらもったいない。ちょっと待って」

                                    十六

 思わず声をかけていた。若い奥さんは怪訝な顔をノブに向けた。
「しっかりしたいい箱じゃないの。こんなダンボールはめったにないわ。いらないんだったら私にくださらないかしら」
 若い奥さんに異存のあるわけはなく、ノブの家にまでダンボール箱を運んでくれた。ノブは玄関から居間にまでその段ボール箱を引きずってきてしみじみと眺めた。
「何が入っていたんだろう。電気製品みたいね」
 その箱は縦横とも五十センチ近く、深さはノブのへそ当たりまであった。箱の表面には英語のアルファベットが並んでいて、ノブにはさっぱり中身の想像がつかなかった。
「何を入れようかしら」
 ノブはうきうきして箱の使い道を考えた。
 ノブは子供の頃から空き箱を見ると、矢も立てもたまらず欲しくなる癖があった。
 普通の紙箱はもちろん、カステラの木の箱なんかが手に入ると一日眺め暮らして飽きなかった。
 中に何を入れようか、と想像するのが楽しいのだ。
 子供の頃は闇雲に溜め込んだが大人になるとそうもいかない。この箱はだしの素を入れる、これは豆を入れると言い訳して箱を手に入れたが、実際その用途に使われる箱はほとんどなかった。入れてみると大きすぎたり、ちょっと浅すぎたりとうまくいかず、しばらくあちこちに積んだままほこりをかぶる事になった。

                                    十七

「お父さんの衣類の整理に使おうかしら」
 亡くなった夫の衣類は、なかなか整理する気分になれなくて、まだそのまま洋服ダンスにかけてある。何着もの着古したスーツやネクタイ。どうだろう。深すぎるが、これなら洋服ダンスの中身が全部収まる。だがいっぱいに入れてしまうと、重くて持ち運びができない。
「でもこんな丈夫な箱、つぶすのはもったいないわ」
 絶対に何かいい使い道があるはず、とノブは考えをめぐらす。これが楽しい。
 ノブは箱をのぞきこんだ。箱の底で何かが光ったように見えた。あの若い奥さんが、耳飾りでも落としたんなら大変だ、とノブは思った。
 箱の底に手を伸ばした。届かない。つま先だって手を伸ばしたら、どうした加減かノブは頭から箱の中に落ち込んでしまった。
「あらあら、どうしましょう」
 ノブはしっかりした箱の中で逆さになってもがいた。何とか中で起き上がろうとひざを曲げたら、ますますぴったり体がおさまり、丸まった形のまま動きが取れなくなった。箱が倒れてくれれば何とか這い出る事ができただろうに、居間の座卓のそばに置いた箱はゆらぎもしない。
 最初は驚いて何とかしようともがき続け、誰かを呼ぼうと声さえあげた。

                                    十八

だがそのうちおかしくなってきて、ノブは笑い出した。
「本当に私のためにあつらえたような箱だわ」
 不思議なくらいその箱はノブの体の大きさにぴったりだった。子供の頃からいろんな箱に出会ってきたが、こんなにぴったり収まった箱は初めてだ。
 誰が一番先に私を見つけるかしら、とノブは思った。遠い地で所帯を持っている息子ではないだろう。隣の奥さんだろうか。時々訪ねてくれる郵便局の職員だろうか。
こんなに上手に箱におさまっている私を見てどう思うだろう、と考えるとノブはまたおかしくなって笑った。
 こんなに笑ったのは久しぶりだ。
 箱の中で笑っていると声はくぐもって、吐く息も胸の辺りにたまり、ほっこりと暖かだった。
 こんな事になった原因の光る物の事を思い出して、窮屈な体勢のまま箱の底を探ると指に細い金鎖が引かっかってきた。それは思った通り小さなバラの花がぶら下がった耳飾りだった。
「あの奥さんが探しに来るわ」
 ノブは耳飾りを手の中に握りしめ、また笑った。見つかるのが少し惜しいような気がしていた。
 

                                    十九


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