ハナさんとまんじゅう


 夕方の五時、電話が鳴った。さとしはてっきり自分にだと思って、ヘイヘイとふざけた返事をして取ったら知らない人だった。
「森崎さんのお宅でしょうか。こちら、ナゴミノサトと申しますが…」
 さとしは黙ってお母さんに受話器を差し出した。最初は一オクターブ高いよそゆきの声で話していたお母さんのようすが途中から変わってきた。
 時々私には分かりかねますが、なんて変にていねいな物言いしてるけど、不機嫌なのが分かる。
セールスだったのと聞くと、お母さんはううんと首をふって考え込んでしまった。そのようすがいつものお母さんらしくないので、さとしはわが家の平和も今夜で終わりかと、深刻な気分になった。
 お父さんが仕事から帰ってきて、あのねえさっき電話が、とお母さんが話し出した時、さとしは体中が耳になった。
「和みの里っていうとこ、知ってる? そこのなんとかっていうおばあさんが危篤だって言うのよ」
「なんだ、そのなんとかっていうばあさんって」
「森崎なんとかっていうのよ。うちにそんな親戚いるの? 九十七歳ですって。電話番号聞いたから、あなた電話してみてよ」

                                    一

 お母さんの書いたメモを見て、電話をしたお父さんはしばらくハァーとかウゥーとかイャーとかしかしゃべらなかった。おでこにびっちりあせをかき、それをごしごしこすって最後にやっとまともにしゃべった。
「実はですね、去年にうちの父が急死しまして、私は何も聞いてないものでさっぱり分からないのですよ。急にうちが身元引受人だからと言われましてもね。いきなりのことだし。少し考えさせてください」
 電話を切ったお父さんに、お母さんはかみつくようにして言った。
「ねえねえ。どういうことなの。そのおばあさんってどこの誰よ。本当に身内なの」
 お父さんはテーブルの上の麦茶のコップを持って立ち上がった。
「よし、今から家族会議だ。各自、飲み物を持って居間に集合。今から三分後に開会する。時間厳守」
 家族ったって、さとしと両親の三人きりだ。人間でなくてもいいなら、金魚三匹もいるけど。
「電話では知らないと言ったけれど、実はずっと昔にちらっと聞いたことがあるんだ」
 今の今までほとんど忘れていたんだけどな、とお父さんは話しだした。
 どうやらその人は去年に亡くなったおじいちゃんの叔母さんにあたる人らしい。
 聞けば聞くほどこんがらがってくるけど、さとしのひいおじいちゃんの妹になるんだそうだ。
「そんな人がまだ生きてたの?」
 お母さんはおどろきのあまり、失礼なことを口走った。

                                    二

「それでその人は、うちのほかに身内がいないの?」
「一度も結婚しなかった人だと聞いた。会ったことがないし、名前も知らないんだ。うちの父だって、おそらく長い間会いにも行ってなかったと思うよ」
 お父さんとお母さんは、フゥーとため息をついた。
「どんなおばあちゃんかなぁ。九十七歳ってどんなだろう」
「さとし、のんきなこと言ってんじゃないわよ」
「でもさ、九十七歳だよ。ぼくより八十七年もたくさん生きてるんだ」
「そうだな。九十七歳ってどんなかなぁ」
「あなたまで、やめてよ」
「だっておれだって、九十七歳なんて年寄りを見たことがないぜ。親父は七十二歳だったし、おふくろなんか六十代で亡くなったんだ。親戚にもそんな年寄り、一人もいないし」
「テレビとかでなら見たよ。それから酒屋のおばあちゃんも年寄りだ」
「酒屋のおばあちゃんはまだ七十代だぞ。たしか」
「もう、あなたたちったら信じらんない」
とお母さんは言って、怒っているのかと思うとクスクス笑っている。
「とりあえず、もう一度電話してみる。どんなようすか、よく聞いてみるわ。それからどうするか決めましょう」

                                    三

「ぼくんちね、すごい年寄りのおばあさんがいることがきのう分かったんだ」
 さとしはあくる日に学校で、隣の席ののりゆきに言った。ちょっと自慢ぽい言い方だったかもしれない。のりゆきはふうん、とたいして興味もなさそうな返事をした。
「それがね、おばあちゃん危篤なんだって」
「じゃあ、学校休んで会いにいくんだ」
 さとしはそれを聞いて、ちょっと得意になった。
「遠いから、たぶん飛行機で行くと思うよ」
「飛行機かぁ、あれけっこう退屈するぜ。まあでも国内なら、たいした時間じゃないからな」
 そうだった。のりゆきは去年の夏休みにアメリカに遊びに行ったんだった。本場のディズニーランドの話を、いやというほど聞かされたことをさとしは思い出した。
「お母さん、いつ行くの?」
 学校から帰ってすぐにさとしが聞くと、どこへ? とお母さんはとぼけた返事をする。
「電話しなかったの? ほら、危篤のおばあさん……」
 お母さんはわざととぼけたのではなく、本当に忘れていたようだ。きのうはあんなに大騒ぎしていたのに。
「今日は出かけなきゃならなかったし、電話する間がなかったのよ。そうね、今からしてみるわ」
 さとしが電話のそばまで椅子を運んですわると、お母さんはいやねぇと本当に怒った。
「後で教えてあげるから、あっちへ行って」

                                    四

 そう言われても気になってしょうがないさとしは、そっとお母さんの後ろにしのびよった。でもお母さんはほとんどエエとか、ハイとかしかしゃべらなかった。とても長い電話だった。
 終わった後、お母さんはあまりよくないみたいだわと言ったきり、くわしいことは何も言ってくれない。ちゃんと話してくれたのは、お父さんが帰ってきてからだった。
 『和みの里』という老人ホームにいるその人は、森崎ハナさんという。今は九十七歳だが、来月には九十八歳になる。数年前からほとんど寝たきりで、一人で座ることもできない。ご飯は何とか自分で食べていたが、一週間ほど前から食べなくなった。むりやり口に入れても吐き出してしまう。点滴しようとしても、針を引き抜く。このままでは無事に九十八歳を迎えられそうもない。
 ということなの、と、お母さんは言った。
「それで見舞いに来いと、和みの里の人は言うのか」
「いいえ、そんなことは何も言わないの。ただその人は、ハナさんという人のことを話してくれただけ」
「そのうち言うさ。決まってる。亡くなったら亡くなったで、遺体を引き取れ。払ってなかった金を払え」
 あなた! とお母さんはお父さんの袖を引っぱった。さとしの前よ、と口の形が言っている。
「見たことも聞いたこともないばあさんなんだ。急に親戚だなんて言われたってこまるよな、さとし」
「ぼく、のりゆきに自慢したんだ」
 ええっ! とお父さんもお母さんも目をむいた。
「いったい、何を自慢したんだ」

                                    五

「飛行機に乗って、おばあさんに会いに行くって。だってぼく、飛行機に乗ったことないんだもん」
「あんなもんに乗ったって、何の自慢にもならんさ」
とお父さんは言い、お母さんはそうねぇと考え込んだ。でもお父さんとはちがうことを考えていたみたいで、のりゆき君はアメリカまで行ったんだもんね、と言う。
 それからも何度か、お母さんは和みの里に電話した。もし行けなかったらどうなるのかとか。行かなかったならだろうと、さとしは思ったけど。払うべきお金があるのだろうかとかいうことまで、念入りに聞いていた。
 和みの里はおじいちゃんの生まれ故郷にある。さとしの家からだと、飛行機で一時間とちょっとかかり、電車だと八時間くらいかかる。
 なにぶん遠いことだし、身元引受人だったおじいちゃんも亡くなってることだし、むりならしかたがないと和みの里の人は言ったそうだ。ハナさんというおばあちゃんは産婆さん、赤ちゃんが産まれるときに手伝う人らしい、だったそうで貯金はけっこう持っているので支払いの心配はないらしい。お母さんはちょっとうれしそうにそれをお父さんに報告して、変な期待はするなよなとお父さんに言われていた。
 のりゆきに自慢することがふえた、とさとしは思った。突然お金持ちの親戚が遺産を残してくれるなんて、テレビのドラマみたいだ。
 お金の心配がなくなったせいかもしれないけど、和みの里をおとずれる計画はそれから着々と決まっていった。
 何しろお母さんはせっかく遠いところに行くのに、老人ホームだけでは交通費がもったいないと思ったらしい。

                                    六

電車で一時間ばかり移動して、温泉地に泊まる計画をたてた。お母さんはどう行けば一番安く行けるか何度も交通費の計算をして、そのくせホテルはそこそこいい所でなくちゃなんて言っている。
 お父さんは温泉ばかりが楽しみみたいだ。夕食の料理もいろいろ想像して、その時に飲むお酒の種類を今から決めてたりする。さとしも似たようなものだ。初めて乗る飛行機のことばかり考えていたからだ。
 でも飛行機はさとしが思ってたより、ずっと小さかった。新幹線の車両より、少し大きいぐらいだ。さとしの席は通路側で全然外は見えないし、天候がよかったせいかほとんどゆれることもなく、飛行機に乗っているという実感がわかなかった。のりゆきがさんざん機内食のすごさを自慢していたので、さとしはそれをずいぶん楽しみにしていた。なのにキャンディと飲み物をくばってくれただけで、ほかには何も出なかった。
「あたりまえよ、一時間ばかりしか乗らないのだもの」
と、お母さんは言ったけどさとしは納得がいかなかった。これじゃあ、飛行機に乗った意味がないと思ったのだ。
 さとしがむくれていると、お父さんはこそっとゲップをしながら言った。
「こんなぶっそうな乗り物に、何時間も乗りたいとは思わんね。帰りはぜひ電車にしよう」
 どうやらお父さんは飛行機がきらいなようだ。そう言えばいやにあわててベルトをはずし、ぼくたちをおいてけぼりにして飛行機から出ていった。
 和みの里に行くには、まだここからバスで電車の駅まで四十分、そこからまたちがうバスに乗って一時間ばかりかかるという。
「新幹線の方が早かったんじゃないか」

                                    七

「そんなに飛行機がいやなら、帰りはお父さんだけ電車にするのね。きっと次の日の朝には帰れるわよ」
「さとしもお父さんと電車にしようか」
 帰りの飛行機こそは窓ぎわの席に、と願っているさとしがうんと言うわけがない。
 和みの里はクネクネと続く山道のはてにあった。着いた所は公園のように広々と開けている。芝生のむこうには下の町並みが見え、そのずっと先には海さえかすんでながめられた。
 ふりかえると芝生の中に伸びた広い道の向こう、紅葉し始めたまばらな木々の間に、教会のような赤レンガの建物が建っている。
「あれがそうかしら」
「ちがうだろう。ありゃあ美術館か何かだ」
「でもここに、和みの里って書いてあるよ」
 さとしは先にたって、走っていった。
 案内をしてくれる職員さんに向かって、いい所ですねとおかあさんはしみじみ言う。さとしもおじいちゃんが倒れてから三日だけいた病院みたいな所を想像していたので、まずその広々したろうかにおどろかされた。
 中庭に面した食堂だけはフローリングだったが、ロビーもろうかもサンルームも芝生みたいな青々したじゅうたんがしきつめられている。
 森崎ハナさんはサンルームの手前の部屋にいた。窓ぎわのベッドで、ふとんの上半分だけで用がたりそうな小さなおばあさんだった。
「まちがいなく、森崎家の人だわ」

                                    八

 お母さんはその人が目を閉じているのをいいことに、わりとぶしつけにながめて言った。
「あなたの鼻と同じ鼻だもの」
 お父さんは少し後ろからベッドをのぞきこんで、自分の鼻を指でなぞった。顔のほかの部分より少し大きめで、とちゅうに段がついた鼻はさとしにも受けつがれている。
「ふしぎねぇ」
 思わずお母さんがつぶやいた言葉を、さとしも胸の中でくりかえしている。ついこの前までその存在さえ知らなかった人、でもこの人とお父さん、そしてさとしの間は血というものでつながっている。それがこんなにはっきりとした形で目に見えるなんて。
「森崎さん。目を開けてください。ほら、お身内の方がみえましたよ」
 職員のまだ若い女の人は、ベッドのおばあさんの耳に口をつけるようにして声をかけた。今まで身じろぎもしなかったおばあさんがふっと息をはいた。開いたままでひからびていたくちびるがむぐむぐと動いて、もうひとつ息をふっとはいた。でもまだ目は開かない。
「眠ってるんでしょうか」
 お父さんはおばあさんよりも、職員さんの横顔に見とれている。
「ついさっきまで目を開いてらっしゃいましたよ。今日は幾日だと聞かれましたもの」
「しゃべれるんですか」
 お母さんが意外そうに聞いた。さとしもびっくりした。今にも死にそうな人が、そんなふうにしゃべれるとは思えなかった。
「この頃はあまり口をきかれませんが、もともとおしゃべり好きな人で、お仕事をなさってた頃のお話をよく聞かせてもらいました」
「産婆さんだったそうですね」

                                    九

「ここからまだ山をいくつかこえた所にある町のご出身なんですが、その町の人間のほとんどは自分が取り上げた子だと、よく言ってらっしゃいましたよ」
 産婆というのは赤ちゃんが産まれるときに世話をする人だということは知っていたが、取り上げるという意味がさとしには分からなかった。お母さんから赤ちゃんを取り上げてどうするのと、さとしはふり返ってお父さんに聞いた。
「お母さんから赤ちゃんを取り上げるんじゃなくてだな。お母さんの体から赤ちゃんを引っぱり出すことを、取り上げると言うんだ」
 あなた! とお母さんがお父さんをにらみつけた。
「変なこと教えないでよ」
「うわっ!」と叫んだのはお母さんにこづかれたお父さんでなく、さとしだった。
ハナさんのベッドの上に置いたさとしの手を、ふいに誰かがつかんだのだ。
「ハナさん!」
 冷たくてかわいた手。強い力でしめつけてくる。ふりはらおうとした。だがやせて筋の浮き出たハナさんの手は、意外に力が強くどうにもならない。
「なんかしゃべってるぞ。シッ、静かに」
 お父さんが身を乗り出す。ハナさんはたしかにさとしを見て何か言っていた。
「兄ちゃんって言ってるみたいだな」
「どうしてぼくが兄ちゃんなんだよ。八十七歳も年下なのに。ねえ、お母さん。何とかしてよ、この手」
「何でだよ。楽しいじゃないか、さとし。ハナさんはひいじいちゃんとお前を間違えてるんだ。顔が似ているのかもな」

                                    十

「きっと、仲のいい兄妹だったのよ」
 お母さんはさっき職員のお姉さんがしたように、ハナさんの耳に口をつけるようにして言った。
「お兄さんは何てお名前なんですか?」
 ハナさんはお母さんがそこにいるのに、初めて気づいたようだった。その後ろのお父さんにも気づいて不安な顔になり、さとしの手を離すと職員のお姉さんを手まねきした。
「この人たちは、ハナさんのお兄さんのお孫さん夫婦とそのお子さんですよ」
 お姉さんの言ったことが聞こえたのかどうか、ハナさんはまじまじとさとしたちをながめ、顔をくしゃくしゃにした。ハナさんが笑っておられるわと言って、お姉さんも花みたいにきれいに笑った。
「この頃、こんなに笑われることがなかったんです。よかったわね。ハナさん。ゆっくりお話してください」
 そう言って、お姉さんは部屋から出て行った。ハナさんのベッドのわきで、さとしたちはどうしていいか分からず立ちつくした。
「何て言おう」
 お父さんは、ハナさんから目をそらした。ハナさんはまだ顔をくしゃくしゃにしたまま、こきざみに首をふっている。
「ハナさん。今、おなかがすいていませんか。私、駅でおいしそうなおまんじゅうを見つけて」
 お母さんはいつの間に買ったのか、かばんから紙づつみを出した。
「さとし、ほら。ハナさんにおまんじゅうをわたして」
「えぇーっ、ぼくが」
「きっと、歯がないわ。おまんじゅう、割ってあげるのよ」

                                    十一

 さとしがおそるおそるハナさんの手にまんじゅうを乗せると、ゆっくりゆっくりその手が動いて、しわだらけの口に向かっていく。さとしたちはみんな息を止めるようにして、そのゆくえを見守った。
 ハナさんの口には、前歯が一本だけ残っていた。歯といっても先がすりへって丸くなり、古い墓石みたいに歯ぐきにつっ立っている。その中に無事にまんじゅうが入って、ムニムニとあごが動き出した時、さとしもお母さんもお父さんも、ホウッと長い息をついた。それから自然に笑えてきた。
「ハナさん、もっと食べて」
 その時、部屋にもどってきた職員のお姉さんが「ワッ!」と大きな声をあげたので、さとしはビクッと手を引っこめた。
「ごめんなさい。いけなかったかしら」
 お母さんはおろおろしている。
「お聞きしてからにすべきでした」
 いつになくまともに、お父さんは頭を深く下げさえしている。
 お姉さんは笑いながら、首を横にふった。
「私こそごめんなさい。あんまりおどろいたので大きな声なんか出して」
 もう三日もお茶のほかはおかゆをひと口ぐらいしか召し上がってなかったのです、とお姉さんは言った。
「いくらすすめても、口を固く閉じられて。私たちもいろんな物をためしたんですよ。アイスクリームやケーキや、チョコレートなんかも。何であれ口に入れていただければと思って。けど、本当にだめだったんですよ」
 お姉さんが涙ぐんでいるように見えたので、さとしまで泣きそうになった。
                                    十二

はずかしくなって、うつむくと残りのまんじゅうを割ってハナさんの手に乗せた。

 その日は予定どおり温泉まで移動し、ホテルで泊まった。紅葉しかけの庭を見ながら入った露天風呂も、次から次へと出てくる食事もすごかったけど、さとしは今日はハナさんが一番すごかったと思った。
 それはお父さんも同じらしく、ごはん中にはしに持ったおかずを、ゆっくりゆっくり口に持っていってあごをムニムニした。そしてハナさんの口の動き方って何だかいいよな、としみじみ言った。
 あくる日はそのまま帰るつもりだったのに、あの後ハナさんがちゃんとごはんを食べたか知りたいとお母さんが言い出したので、もう一度和みの里によった。
「きっと、もりもり食べているわよ」
 お母さんは駅でまたまんじゅうを買った。
お父さんはまんじゅうばかりじゃ芸がないなんてわけの分からないことを言って、せんべいを買った。
「歯がないのにせんべいなんて」
とお母さんに笑われて、おれが食べたいんだと言いはっていた。
 さとしもハナさんはすっかり元気になって、ごはんをいっぱい食べているような気がしていた。でもそううまくはいかなかった。
 ハナさんは目も開けず、手は物のように投げ出されたままだ。去年亡くなったおじいちゃんみたいに、足に点滴の針を入れられていた。
「今日はお茶も入らなくって。もう点滴を引き抜く元気もなさそうですから」
 きのうとはちがう職員さんがそう言って、ハナさんの顔に日があたらないように少しカーテンを引いた。部屋の半分がやさしい影に満たされた。

                                    十三

「おまんじゅう、食べさせてもいいでしょうか」
 お母さんはそう言って、返事も待たずに紙づつみを開いた。
「さとし、手をにぎってあげて。お兄ちゃんだよって言って、おまんじゅうを持たせてあげて」
「いやだよ、そんなの」
 どうして断ったのか、さとしは自分でも分からなかった。でもどうしてもお母さんの言うようにはできなかった。
 お母さんは怒りもせず、自分でまんじゅうを割って、ハナさんの手に持たせようとしたが、その手はふとんの上にパタッと落ちたまま動かなかった。
「だいじょうぶですよ。点滴してますからね。きのう、おまんじゅうをまるまる一個も召し上がられたんでしょ」
 今日の職員さんはお母さんよりも年上らしい人だった。お母さんが持っているまんじゅうのつつみに手をのばして、後で私が差し上げておきますからと言った。
「だいじょうぶですよ。私が食べたりしませんから」
「ああ言われるとかえって、本当にあの人が食べそうな気がするな」
 お父さんは帰りの飛行機でそう言った。さっきからだまりこんでいたお母さんは、やっと笑顔をみせた。
「そうね。あの人ならひと口でまるごと食べちゃいそうだわ」
「今度行った時、ハナさんにたしかめようよ。ちゃんとまんじゅう食べたかって」
 さとしはそう言ったけど、もうたしかめることはできなかった。それから五日後に、和みの里から電話があった。
 ハナさんが亡くなったって。

                                    十四

 ハナさんが以前から望んでいたとおり、葬式は和みの里で行われた。平日だったせいもあり、お父さんが一人で出席した。
「にぎやかだったぞ」
と、お父さんはひとこと言って、お母さんとさとしの前におみやげのまんじゅうを置いた。本当においしいまんじゅうだった。
 その後、さとしは自分の部屋で少し泣いた。


                                    十五


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