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羽枕
ガチョウ
道の角を曲がったら、それがいた。
まっ白な首を伸ばし私を見て、キェッ! と大きな声をあげた。
けたたましい声だった。私は思わずたじたじと後ずさった。
「何、鳥?」
普通に街中で見かけるような鳥ではない。
一瞬白鳥かと思ったが、少し小ぶりである。
キェッ!とまたそれがわめいて、しかもあきらかに敵意をこめて、バサッと羽を広げた。
そうすると結構な大きさだ。そいつは首をつきだし、私を突こうとした。
ひっと身を引くとその分相手は追いつめて来る。とうとう後ろを見せて、私は駆け出した。体の大きさの割に足は短いので、そんなに早くは走れないだろうと、高をくくっていた。曲がり角まで走って、ちらっと後ろを見たら、離れてはいるがあきらめずまだ私を追って来る。あわてて角を曲がり、どこかに隠れ場所はないかと首をめぐらしてみる。
まわりは高い生け垣をめぐらした民家で、いきなり飛びこむには気が引ける街並みである。しかたなしに走り続けていると、鳥も角をまがって私の後ろ姿を見つけたらしく、けたたましい叫び声をあげた。きりがない。
あきらめて足を止めた。
一 |
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「どうして私を追いかけるのか、聞いてみよう」
話が通じる相手なのかどうかわからなかったが、私もそう若くはない。これ以上走り続けるのは無理だろう。
立ちどまった私を見て、鳥も少し手前で止まった。、よそ見してるんだかこっちの様子をうかがってるんだか、わからないがそこで長い首をあちこちに回している。
私はじっくりと相手をながめた。
白い羽毛はなめらかで美しい。くちばしの上にちいさなコブがある。アヒルのようにも見えるが、それにしては体も大きく首が長い。
そうだ。思いだした。ガチョウだ。
ネットでフォアグラを調べていたら、画像が出てきた。七歳年下の妹がなまいきにもフォアグラを食べたと言うので、どんなものなのかと調べたのだ。
私の頭の中が読めたのか、あるいは雰囲気で感じ取ったのか、目の前のガチョウがきゅうに怯えた目つきをした。
「家に帰りなさい。今すぐ!」
私はきっぱりと、そう言い渡した。
ガチョウはフン、と人を小馬鹿にした顔をした。こいつはフォアグラを食べたことがないと、判断したに違いない。
あんまり生意気だと思わず手を挙げた私に、ひときわ大声で、ギェーッと叫んだ。
二 |
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そのあまりの迫力に、私は太刀打ちできなかった。
すばやく身をひるがえし走り始めるはずが、足がもつれた。不格好に片足で二・三歩飛び跳ねて、何とか態勢を持ちなおした。思いがけない早さで、ガチョウはくちばしをつきだしてくる。
もうだめだ。追いつかれる。
切羽詰まった時、ふいに生け垣が途切れた。
迷っている間もないのでそこへ駆け込む。
格子戸の玄関がある。鍵がかかっていたらもうそこで私の運命は尽きる。
手をかけた。開いた。
そこに飛びこみ、格子戸を閉めた。間一髪だ。ガチョウの鼻先、いやくちばしの先で戸は閉ざされた。戸を両手で押さえたまま、口から飛び出そうな心臓を呑み込む。
しばらく息を殺していたが、外は何の気配もない。あきらめて帰って行ったのだろうか。
戸を押さえていた手を離してみる。
おそるおそる、指一本分くらい格子戸を開けてみた。何事も起こらないので、もう少し開けようとしたとたん、
キェーッ
もうなりふりかまってはいられない。靴を脱ぐ間もなく私は板間にあがりこみ、奥へ続く廊下を走った。
三 |
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長い廊下だった。両側は襖がぴったりと閉じられている。人の気配はない。スニーカーをはいたままの足音が、ダンダンダンと響き渡る。さすがにまずい、と思い走りながらそれを脱いだ。
ひとしきり走りぬいて、立ちどまった。
なんて長い廊下だ。まだ終わりがない。振り返り、耳を澄ましてみた。ガチョウの叫び声は聞こえない。
今さらながら、自分の今のありさまに気づいてうろたえた。他人の家だ。さすがに靴は脱いだが、玄関から結構な長さを土足で走った。ここの家の人が現れたら、何と言い訳したらよいのだろう。
靴を手でぶらさげて、廊下を戻る。まっすぐ走って来たのだから、まっすぐ戻れば玄関に着くだろう。
ところが行っても行っても、玄関には行きつかない。
ふぃに廊下が途絶えた。そんなはずはない。 まっすぐに来たのだから、まっすぐにもどれば玄関にもどれるはずだ。
だがどうしようもない。目の前には板戸があって、そこを開けない限り、どこにも行けないのだから。
開けた。
そこは広い板間で、暖かな湯気と食欲をそそる出汁(だし)の匂いが充満している。
「あら、いらっしゃいましたね」
「あっ、ごめんなさい」
反射的にそう返答している。
「勝手にお宅におじゃましてしまって。追われていて逃げ場がなくて…」
何に追われていたのか言いもしないのに、私の前にあらわれた老婆は「大変でしたねぇ」と私を憐れんだ。
四 |
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「ささ、どうぞこちらへ」と私を板間の続きの座敷に誘った。
そこには立派な箱膳が据えられている。
手に持ったままのスニーカーを上着のポケットに無理やり押し込み、私はふらふと膳の前に座った。この匂いにはあらがえない。
それでも少しは残っていた正気が、箸を持とうとする私の手を押しとどめる。
「でも、あの、こんな事をしていただくわけには…」
老婆はのけぞらんばかりに驚いて、手を口にあてる。
「なんて事をおっしゃるの! 召しあがっていただかないことには、こっちが困ります。こんな年寄りを、苛めないでくださいまし。ささ」と茶碗に山盛りに飯を盛り付ける。
手渡されたそれを思わず受け取り、私は膳の上をながめた。湯気のあがる汁椀、魚は濃い目の味付けに煮詰められ、小鉢には香りのいい青菜のお浸し、根菜類の煮物はじっくりと芯まで出汁(だし)を含み、そう珍しくはない一品一品ながら、思うさま手をかけて仕立てられている。耐えられず箸を持った。
次から次へと口に入れる。
茶碗がからになったら、まさかの早業で老婆が新しく盛り付けた茶碗を私に渡す。
それはただの食事ではなかった。
格闘技と言ってもいいぐらいだ。息があがり、汗が吹き出た。
私には息を継ぐことさえ許されない。腰が引けて、とうとう座敷の壁に追い詰められた。
五 |
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箸さえ奪い去られて、老婆に口をこじ開けられる。
「ささ、もっともっと。まだまだでございます」
詰め込まれた飯は、胃袋を埋めて、食道にもぎちぎちに詰まり、顎をあげて固まった私に向かって、
キェーッ
とすぐそばで、ガチョウが雄たけびをあげた。
ニワトリ
コツコツコツ、という音が長い間聞こえている。うとうとしながら、聞いていた。
そう大きい音でもないので、無視してもう少し眠ろうと思う。
外はもうすっかり明るい。
しかし、しつこい。音はとぎれない。気になりだすといらいらしてくる。眠れそうにない。
私はあきらめて、掛け布団をはねのける。
音の出所を突き止めるべく、耳をすませて 窓に近づく。カーテンを勢いよく引き開けた。
窓ガラスの向こうにいるのは、雄鶏。
六 |
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くちばしで窓ガラスを今しも突こうとするところだ。
「ちょっと、やめなさいよ」
私は平手でガラスをたたいた。
雄鶏は首をわずかに横に向けて、私とまともに目を合わす。
何と不遜な目つき。小馬鹿にしたふうにクチバシをしゃくる。
「なによ、それ。外に出てこいってこと?」
雄鶏はクチバシをふりたてて、またガラスを突こうとする。
「「やめて! ガラスに傷が突く!」
私は玄関から外に出ようとして、ふと傘立てから大きな傘を一本引き抜いた。たかが鶏、怖いわけではないが、あちらにはクチバシがある。私には何も身を守る物がないので、傘の一本くらい持って行っても卑怯ではないだろう。
顔を合わしたとたんに、雄鶏は言う。
「いつまで、寝ているつもりだ」
「いつまでって…」
「俺は五時過ぎに時を告げた。ちゃんと聞いていたか」
雄鶏は真っ赤なトサカをより赤くして、怒鳴った。
「その態度は,なんだ。俺をたかが鶏だとバカにしているのだろう」
「そんなことは…」
七 |
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「俺が毎朝、どんなに精魂込めて時を告げていると思う? せめてその時間くらい正座して、最初から最後まで聞くのが筋ではないのか」
「そんな、無茶な」
「無茶なことは断じてない! 以前から思ってはいたが、だいたいおまえは態度が悪い。鶏をバカにしている。そんな小さな脳みそのくせに、とか考えているだろう。分かっているんだ」
自分の言葉にますます気が高ぶり、雄鶏は足で激しく地面を蹴立てる。鋭い爪だ。武器はクチバシだけじゃなかった。
土が飛び散る。私の足が土塊にまみれる。
「ちょっと、やめてよ。あんた、被害妄想じゃないの?」
「俺は被害者などではない。そんなもんでは決してない。おまえの目つきは気に入らん。
俺を弱者のように見るな」
「一体、何よ。何が気に入らないの。どうしてほしいの」
雄鶏は突如、羽ばたいた。そうだった。鶏は飛べるのだ。私は傘を開いて防ごうとした。
開いた傘の上に、雄鶏は難なく飛び乗って私の後ろへと降りた。
雄鶏は胸をそらせ、玄関の戸口で振り返り私を見る
「俺は今から、自分が受けて当然の報酬を要求する」
「報酬って何の?」
八 |
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「俺は毎朝、休むことなく夜明けを告げてきた。俺は自分の家族を外敵から守り、おまえのために家族に卵を提供させてきた」
それらに対して、お前は報酬を支払ったか、と雄鶏は言い放つ。
「餌をあげてるでしょ。雨風をしのげる小屋も作ったし」
「餌!」
雄鶏は今や後ろにひっくり返るのではと危ぶむほどそっくり返っている。
「あんな、不味いもの。しかも毎日毎日、メニューは変わらず、品数も増えない」
雄鶏がクチバシを開いて詰め寄って来たので、私はあわてて、傘で雄鶏をさえぎった。
「しかも、あの住居。小屋とお前は言ったが、ひどいもんだ。風は吹き込む、雨は洩る」
「それは、認めるわ。すぐに修繕を…」
「ケッコー、ケッコー。もうそんな必要はない。俺は今から、ここに住む」
「えっ、ここって」
「ちゃんと寝場所を整えてから、家族を呼ぶ。
もうおまえはここに入れない。どこかよそに行くんだな」
なんて理不尽な、と私は胸の中でつぶやく。
言っても無駄だと悟ったからだ。
雄鶏は玄関の中に入り、戸を閉めた。
九 |
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えっ? あいつ戸が閉められるんだ。手もないのに。
おまけにカチリと鍵をかける音がした。まさかと戸を引っ張ってみたが、開かない。
「ちょっと、あんたいったい何様のつもり!」
まともに相手になってはいけない。相手はたかが鶏なのだ。そう思って、何度も深呼吸をする。
家の周りを一周し、どこか入れるところがないかと確かめた。さっきまで眠っていたので、どこの窓も開けていない。時々かけ忘れる裏口の戸も、今日はしっかり鍵がかかっている。
寝室の窓からこそっとのぞいて見ると、雄鶏は私の布団の上でくつろいでいた。おまけに台所を漁ったらしく、枕元に駄菓子の袋が引きちぎられている。
それを見て、私は思わず腹の虫が鳴った。
ゆっくり寝ていたので、朝食もまだだし、もう昼近い時刻だと思うので、空腹なのはあたりまえだ。
困った。
窓ガラスを割って、中に入ることも考えた。 だが、その後の始末がやっかいだ。割れたガラスの片づけもいやだが、新しく入れ直してもらう手配も面倒くさい。
何かいい方法がないだろうか。ううむ、と私は考え込む。しかし、空腹すぎて脳に血が回らない。とにかく何か腹に入れなければ。
家の裏の畑に何かなかったかと、行ってみる。
そこでしばし、日頃の不精をくやむ事になった。
十 |
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雑草にまみれた畑には、やせ細ったネギと虫食いだらけの青菜だけしかない。
「そうだ。あそこなら滋養たっぷりな物が!」
思いついていそいそと鶏小屋に向かう。
小屋には雌鶏が三羽、藁床にうずくまるもの、空の餌箱を突っつくもの。雄鶏の不在にも気づかない様子で、くつろいでいる。
「ちょっと、失礼」
私は小屋の掛金をはずす。はずしながら雄鶏はどうやってここから外に出たのかと考える。
だが、玄関の戸を閉めたり、鍵もかけたりするあいつのことだ。こんなちゃちな掛金なぞお茶の子才々だろう。
私は雌鶏を押しのけ、藁床をさぐる。
あれ? 卵がない?
そのとたん足に激痛が走った。
クワックワックワッ
雌鶏たちが私の足のむき出しになった部分にクチバシをつき立てている。
「やめて! ごめん! 痛っ、痛っ!」
クワックワックワッケッケ
十一 |
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アヒル
今日は実に気持ちがいい。すっかり春めいて風もない。
ピクニックに行こうと思いついた。場所はどこでもいい。ゆっくり歩いて、気に入った所でおやつを食べることにしよう。
台所をあさったが、お菓子は切らしていた。
だが昨日友達が持ってきてくれたイチゴがある。ピクニックだしと思って、きれいに洗ってタッパーに詰めた。
帽子をかぶり履きなれた靴をはく。
今日は、実にいい、と外に出てまたそう思う。歩きながら寝てしまいそうな陽気だ。
神社の方へ歩いて行く。神社の手前にはそこそこ大きな池がある。池のほとりでおやつにしてもいいかもしれない。桜の大木が五分咲きだ。優しい色で心が和む。
本当に? と心のどこかがざわめく。
池にアヒルがいたからだ。
だが、何とものどかだ。気持ちよさそうに泳いでいる者もいるし、アヒル小屋のあたりでうろうろしているのもいる。
「かわいいなぁ」
ガチョウとは大違いだ。白い羽は同じだけど体はずっと小さいし、何よりクチバシが愛らしい。目の下に小さなふくらみがあって、幼い子の顔のようだ。
私を見つけた一羽が、なつっこくグワグワ鳴いて近寄って来る。
十二 |
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歩くたびもこっとしたお尻が揺れて、小さな頭はお尻と反対方向に揺れる。
「かわいいー」
タッパーのイチゴを一つ与えてみる。食べるのかなと危ぶんだが、あっという間に呑み込んだ。
グワグワと私にまとわりつく。
何てあいらしい鳥だ。
あらためて、今日は大丈夫だと安心する。
アヒルだし。
池の上を風が走り、水面で太陽の光が粉々になって散らばる。神社まで行くつもりだったが、池の周りを歩こうと思い立った。
一周したら結構な運動になるし、途中にはベンチもあって公園のようになっている。
そこでおやつにしよう、と思う。なんなら、少し昼寝をしてもいいかもしれない。きっとあそこなら、いい夢が見られるだろう。
あまりにいい気持で、歌でも歌いたくなったが、歌詞の断片さえ出て来なかった。
頭の中に浮かぶメロディを適当に口ずさんでいたら、その合間に妙な合いの手が入る。
グワグワグワ グワグワグワ
十三 |
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振り向くと二・三羽のアヒルが後をついて来ていた。
少し不安になるが、考え過ぎだと自分を笑う。なのにいつの間にか早足になっている。
グワグワグワという鳴き声が、大きくなった。
増えている。十羽以上のアヒルがついてくる。しかも私に追いつこうと必死になって、羽を広げて走っている。その姿はやっぱりかわいいが、私の唇のはじがピクピクとふるえだす。
私はとうとう走り出した。後ろの鳴き声はますます大きくなる。きっと数が増えているのだ。
そうだ、と手に持ったタッパーを見る。
あいつらはこれが欲しいのだ。そうでなくてはあんなに必死に追いかけては来ないだろう。
私は走りながらタッパーを開け、中のイチゴを後ろにばらまいた。
だが、とても足らない。あんな少量のイチゴでは。
イチゴが当たらなかったアヒルたちと、あっという間にイチゴを飲み下したアヒルたちは、騒々しく鳴きながらなおも追って来る。
いつの間にか百羽を超えるのではという大集団で、みなが一斉にグワグワグワと鳴くとそのうるささはのどかな風景をかき乱した。
池の水が泡立ち、草木はなびいて、空気さえも渦を巻く。
ああ、やっぱりだ。私は喉の奥から湧いてくる不安を何とか呑み込もうとあえぐ。
何でこんな目に合わなければならないのか。
十四 |
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「もう、逃げるのは嫌だ」
だが振り向いてみたら、アヒルはもはや百羽や二百羽ではなく、千羽? いや一万羽? 池の周囲には東屋らしき建物が一棟あるきりで身を隠す場所はない。
池を離れて寺に向かえばよかったと悔やむ。
もちろん今からでは、遅すぎる。
「あっ!」と私の喉から声が出た。
つまづいた!
血の気が引く。体が宙に浮く。速度が出ていたので、二メートルばかりも体が飛んだ。
地面は長めの草で覆われていたので、衝撃は少し和らいだ。でもしばらくは起き上がれない。何とか膝をついたと思ったら、背中の上に何かが乗った。手を回して振り落とした。
だが次の瞬間一度に背中に重みがのしかかる。
グワグワグワグワ グワグワグワグワ
グワグワグワグワ グワグワグワグワ
グワグワグワグワ グワグワグワグワ
十五 |
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一気に押し寄せてきたアヒルの大群が、みんな私の上に乗って来る。
「ちょっと、ちょっと待って!」
一羽ではあんなにかわいいアヒル。一羽ではあんなに小さいアヒル。こんなに寄ればやっぱり重い。
足にも腰にも背中にも、頭まで乗ってきた。
顔をかばっていた手にも乗った。もう指一本動かせない。
ハト
いつも利用する私鉄の駅だ。
発車時間まではまだ間があるようで、電車のドアは開いている。
私はいつものように、一番後ろの車両に乗った。中にはまだ誰もいない。
手提げカバンから文庫本を取り出す。電車に乗った時に読もうと、楽しみに取っておいた本だ。お尻を動かせて座り心地を確かめ、本を開く。わくわくしている。新しい本は何よりも私をときめかせる。
本の世界に入りこむ直前、どこかでグルグルと音がした。
十六 |
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何の音?
顔を上げると、車内にハトがいる。開けっぱなしのドアから入ってきたらしい。
一羽は私の座席のすぐそばのドアから、もう一羽はこの車両の一番前のドアから、よたよたと入って来た。お菓子のかけらでも探しているのだろう。車内を行ったり来たり、うろうろとせわしない。なかなか出て行く気配がないが、大丈夫だろうかと他人事ながら、気にかかる。ハトたちが電車のダイヤを把握しているとは思えない。
もはや本に集中できず、窓からホームに掲示された発着時間を確かめる。発車まであと二分ばかりあるが、もういいかげん外に出た方がいいのではないだろうか。
前のドアから、客が一人入ってきた。その付近にいたハトは、名残惜し気にぐるぐるとあたりを見まわしながらやっと出ていく。
ところが私の近くにいるやつは、一向に出ていく素振りがない。
「ほら、友だちはもう出て行ったよ」
小さな声で話しかけてみる。ハトは何かくれると勘違いしてそばに来る。
発車時刻まで、もう一分もないだろう。私は焦って、足で追い払う。ハトは私の足を避けて大回りし、さらにドアから離れていった。
電車がプッシューと音を立てる。運転手が乗車したのだ。ハトは気にせず、なおもクチバシで床をこづきながら、うろうろと同じ所を行ったり来たり、出ていく気配がない。
ドアから幾人かの乗客が入ってきた。
十七 |
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めいめいシートに腰をおろして、決められた約束事のようにスマホをのぞき込む。足元のハトに誰も気づかない。
どうして? と私はシートから腰を浮かせる。みんな平気なの? 私が知らないだけでハトが電車に乗るのはありふれた事なの?
車内にアナウンスが流れた。
○時○分発○○行、まもなく発車です。
あーっ、ドアが閉まってしまう!
私の心臓が恐怖で縮こまる。心臓だけでなく体まで。
なぜか私は座席の下にいる。上を見あげると人間の足が何本も視界をふさぐ。
ドアの側の席を見て、愕然となった。
何で、私があそこにいるの? 私はここなのに。首を回して、自分を見た私は叫ばずにはいられなかった。
「なんで私がハトなの!」
そんな馬鹿な事、と思うがそのはしから気づいた。ここではどんなことでも起こり得る。
人間がハトになるなんて、日常茶飯事なのだ。
ああっ、ドアが本当に閉まり始めた。今から走ればぎりぎり出れるかもと思う。だが足が思うように動かない。体の割に、足が短すぎる。途中から飛べばいいんだと気づいた。
まっしぐらにドアに向かって羽ばたき、わずかなすき間を通り抜けようとした瞬間に、警告のベルが鳴り響いた。
十八 |
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むろんそれは発車のベルだったのだが、私の頭の中にも警告が鳴り響いたのだ。
電車を降りてどうする? 私の本当の体は電車の中だ。
このままホームに降りて、ハトとして生きていくのか。
いやだ! と叫んだ声はのんきなグルグルという鳴き声になって、車内の誰の注意も引かない。
カラス
いやいや、さすがにカラスはないでしょ、と思ったのに、カラスがいた。
今日は燃えるごみの収集日なので、寝起きの姿のまま集積所まで出てきた。生あくびをのみ込みながら空を見あげる。今日は今にも振り出しそうな曇り空だ。
オアーア とカラスの声がする。
集積所のそばの電柱にいて、私を見おろしている。
オアーア、っておかしいでしょう。カラスはカーカーじゃないの?
十九 |
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でもあのカラスはいつもオアーアと鳴く。
この町に引っ越して来て十数年たつが、そのころからあのカラスはいた。他にあんな鳴き方をするカラスはいないのだから、同じカラスに違いない。
オアーアは、オカーチャンと聞こえる。カラスは賢いから、どこかで聞いた人間の声の口真似をしてるんだろう。
生ごみを出す日もちゃんと把握していて、朝からずっとここで見張っている。人間がいなくなれば降りてきて、ごみをあさるのだ。
「シッ、あっちに行け!」
つやつやとした黒い羽を輝かせて、カラスはあきらかにバカにした目で私を見おろす。
オアーア オアーア
私はかがんで小石を拾うと、カラスに向かって投げようとした。その手を誰かが押さえた。
「ちょっと、奥さん。そんなひどい事は止めてください」
その人はどうやらこの近所に住む年寄りだ。
一度も喋ったことはないが、顔は知っている。年中毛糸の帽子をかぶり、顔には一面に白い髭が生えている。冬なら暖かい事だろうが、あいにく今は初夏だ。見ただけで暑苦しい。
二十 |
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「本当にぶつけやしませんよ。脅かすだけです。それにどうでもいい事ですが、私は奥さんではありません」
「本当にぶつけたら、あなたそれは犯罪ですよ」
えっ、そうなのか。カラスは保護鳥なのか?
「あんなに泣いて、あなたを呼んでるではないですか。お母ちゃん、お母ちゃんって」
「いや、でもあれはカラスですから」
年寄りは痩せた顔を曇らせて、呆れたように私を見る。
「自分を慕って泣く我が子に石を投げるなんて、恥ずかしくはないのですか」
朝っぱらから、こんな訳のわからない年寄りにかまってはいられない。
「はいはい、気をつけます」と頭を下げて、家に逃げ帰ることにした。今日は出だしから気分が悪い。カラスのせいだ。
これ以上悲惨な結果にならないように、おとなしく家で過ごす事にしよう。
玄関を入ろうとしたら後ろからいきなり
オアーア オアーアと鳴き声がした。
振り向くとカラスが門柱の上にいる。目が合うとカラスは私の足もとに下りてきた。
近くで見ると、カラスってやつは意外に大きい。クチバシは肉食動物らしく攻撃的で、足の鈎爪も鋭い。
この何日かの恐ろしい経験を思いだして、私はあわてて家に入り、玄関の戸を閉めた。
もちろん鍵もかけて、息をつく。
二十一 |
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窓ガラスを割られるかもと気がつき、雨戸も閉めに行こうとした時、
オアーア オカーア オカーアン
泣き声が何だかさっきと違って聞こえる。
いきなり玄関の戸をダンダンダンと叩く音。
カラスが足で戸を蹴っているのだろうか。
ダンダンダン
「ちょっと、奥さん。雨が降ってきましたよ」
さっきの年寄りの声だ。
「お子さんが雨に濡れます。家に入れてあげなさい」
しつこいので玄関に戻り、「その子はうちの子ではないので…」と言うと、
オカーアン オカーチャン オカーチャン
ダンダンダン
「警察に通報しますよ。あきらかに虐待です」
二十二 |
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オカーアン オカーチャン オカーチャン
私は本当に、カラスの子の母親なのだろうかと思えてきて、思わず玄関の鍵に手をかけた。
手のふるえが止まらない。鍵を開けたらおしまいだ。私はカラスの母になり、耳元でオアーアオアーアと鳴かれながら、世話をすることになる。
そんなばかな。何だってカラス?
私はガバッと跳ね起きて、枕を見た。
「絶対、あんたのせいだ」
まだ夢とうつつの境にいるので、枕に話しかける。
子どもの頃テレビで見たアメリカのホームドラマや、アニメにも出てきた。羽枕をぶつけ合うと、ふわふわの羽毛が部屋中に舞った。
ちょっと憧れた。この町に引っ越してきた時に、近くのホームセンターで千円ぽっちで売っていた。即、買った。
十年近く使っても、ちっともへたらなかった。
カバーは洗ったが、枕自体は洗ったことがない。洗ったらぺちゃんこになって、元に戻らなかったら困ると思ったからだ。
こんなに連続して悪夢を見るなんて、枕の中で何かが起こっているのに違いない。生き物であれ、物であれ長年存在すると何かしらの力を身に着ける。
二十三 |
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私はタンスから裁ちばさみをとり出した。
長い刃先が常夜灯の明かりにきらめく。起きているはずだが、もしかしてまた新しい夢の中に入っているのではないかとちょっと考える。
部屋の明かりを全灯にし、まぶしさに目をしかめながら、思いっきり頬をつねってみた。
間違いなく痛い。
でもこれは証明にはならない。何しろ今までの夢の中で、私は本当に痛かったし苦しかったのだから
疑いだしたら、きりがない。思い切って、枕に刃を当て力を入れた。
ザクッ
私は思わずのけぞる。中はふわふわの羽毛なんかじゃない。白い大きい羽がきちっと並べられて、幾層にも重なっている。いったい何羽ぶんの羽?
はさみの先で突いてみたら、しろい羽の中に茶とグレーと、黒い羽まで見えた。それらはかすかに蠢めいて見える。
声にならない悲鳴をあげて、私はシーツを引きはがし枕をくるみこんだ。それにおおいかぶさって、押さえつける。絶対に羽を外に出してはならない。下でもぞもそと動く気配を感じ、さらに強く押さえつけた。
「どうしよう。ここから動けない」
でもたかが羽でしかない物が動き出すなんて、現実にはないことだ。もしかするとこれも悪夢?
二十四 |