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ほのか園のチャトゥ
その一 ヒゲのタケさん
「チャトゥ、チャトゥ。どこだぁい」
あっ、誰かがぼくを呼んでいる。あの声はヒゲのタケさんだ。
ぼくは日当たりのいい出窓から飛び降りて、走った。ヒゲのタケさんの部屋は、洗面所のそばの一人部屋だ。
ほのか園でいつもきちんとぼくにごはんをくれるのは、タケさんとおハナさんのふたり。他の人も時々は残り物の魚なんかくれるけど、ぼく用のフードを買ってくれて毎日きちんとご飯をくれるのはこの二人だけだ。
ほのか園には五十人ほどの人たちが住んでいる。ほとんどは女の人で、男の人は八人しかいない。ぼくを入れると九人。でもタケさんがぼくはその中に入らないと言った。
なぜなら、ぼくは猫だからそうだ。ぼくは自分と、タケさんやおハナさんのどこが違うのかよく分からない。確かにタケさんやおハナさんはぼくのようには走れないし、高い所に飛び上がれない。でもそれは、ぼくが猫でタケさんたちがそうでないからじゃない。
タケさんは七十五歳、おハナさんは九十三歳、ぼくはまだ一歳にもならない。あたりまえだろう。
一 |
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今日、タケさんは何だかニコニコしている。
何かおいしいものでも食べたの? と口の匂いをかいだら、タケさんはウハウハ笑った。
「チャトゥに隠れてなにも食べたりなんかしてないよ」
ブラシしてやろう、とタケさんはぼくをひざの上に抱き上げた。
「今日はお客さんが来るんだ。きれいにしておかないとな」
ぼくはブラシが好きだ。でも首をしてもらうときだけ。背中は嫌だ。おなかはもっと嫌。
タケさんは逃げようとするぼくの首を押さえつけて、すみからすみまでていねいにブラシをかけた。
お客さんて何? 誰か来るの?
ぼくはちょっと心配になって、今度はタケさんの鼻のにおいをかぐ。いつもと同じにおいだ。
タケさんはぼくの頭を指でぐりぐりした。
ぼくはうれしくなって、ぐるぐる言った。
「チャトゥはここにいる?」
部屋の入り口におハナさんが来た。おハナさんは車がついた椅子に乗っている。ベッドで寝ている時以外は、どこへ行くときでもそうだ。
「チャトゥは朝ごはんをちゃんと食べた?」
二 |
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「この頃よく食べる。この間買ってきてもらったフードがもうちょっとしかないんだ」
「あたしんとこにあるよ。新製品だよ。小魚が入っていておいしそうだよ」
「じゃあ夕ご飯はおハナさんにもらうんだよ、チャトゥ。うちは午後からお客が来るしな」
誰が来るの、とおハナさんは部屋に入ってきた。
娘だよ、とタケさんは今まで見たことがないような顔で笑った。
「二十年ぶりだ。もう顔も忘れてしまった」
「そんな長い間、会いに来てくれなかったの。薄情な娘だねぇ」
タケさんは口をへの字に曲げて、ぼくをひざからおろした。
「いろいろあるさ。おハナさんには分からないよ。あんたは毎週三人もの娘がかわりばんこに面会に来てくれるもんな」
タケさんは杖をとって立ち上がる。タケさんは右手と右足がうまく動かない。一歩を踏み出すのに時間がかかる。
「かわりばんこに来て、それぞれ金をせびって行くんだよ。あなたのひ孫が結婚するとか、やしゃごが産まれたとか、理由にはことかかないわさ。何しろ孫は十二人。ひ孫は十人いるからね。やしゃごは三人に増えたよ」
タケさんが黙ってしまったので、おハナさんは具合悪そうにして、ぼくを手招きした。
三 |
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「チャトゥ、お散歩に行こう」
おハナさんの車の椅子について廊下を歩いた。
「チャトゥ」「チャトゥ」
長椅子に腰掛けていたおばあさんたちが、声をかけてくる。ぼくは一人ひとりの足にすりよって、挨拶する。それから大あわてでおハナさんの後を追う。
長い廊下は片側が中庭に面していて明るい。
ぼくはより道をして大きなガラス窓から庭を眺める。いくら見ても見あきない。木には鳥が来るし、草むらには虫がいる。
「チャトゥ、行くよ」
おハナさんが振り返って呼ぶと、また大あわてで追いかける。
どうしてあんなにおもしろい外を見ないんだろう、とぼくはおハナさんの背中を見て思った。廊下なんてただ歩いてたって、おもしろいことはありゃしないのに。年をとると外を見たくなくなるのかな。ぼくは向こうから来たミヤさんに話しかける。
ねぇ、ミヤさんはどう?
「チャトゥ、お散歩のつきそいがんばって。よろしくね」
四 |
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長い髪の毛をひとつに結んだミヤさんは忙しそうに行き過ぎる。
ミヤさんはタケさんやおハナさんと違ってここには住んでいない。朝に来て夕方に帰っていく。時々、泊まることもあるけど。
でもタケさんやおハナさんと違って、いつもせわしなく行ったり来たりしている。
遊ぼうとチャトゥが言うと、いつも後でねと言われる。でもぼくはミヤさんがとっても好きだ。だからたまにいたずらの度が過ぎてしかられると、ロビーのテレビの裏に隠れて目をつむる。目をつむると、悲しい自分も見えなくなるかと思って。
さんざん遊んで昼寝もして、夕方になった。
おなかがすいてきて、タケさんの部屋に行った。今日はおハナさんにもらえと言われたことを忘れていた。
タケさんの部屋には誰かがいた。背の高い女の人だ。タケさんは何かしゃべりたそうに口をもごもごしていたが、その女の人が窓の外を眺めていて振り返らないので、あきらめてうつむいた。静かなのにおちつかなかった。
廊下でおハナさんの声がし、ぼくは部屋を出て行こうとした。その時やっと女の人は振り向き、ぼくを見た。
「あら、こんなところに猫がいる」
五 |
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その人はしゃがみこんで、指でぼくの頭をぐりぐりした。なぜだろう。タケさんと同じやり方だ。
「チャトゥ、っていうんだ。ここの老人ホームで飼っている猫だよ」
タケさんが、その人に言った。
「変な名前ね」
「本当はチャトラだよ。茶色のトラ猫だから。入れ歯がなくてしゃべりにくい人がチャトゥと呼んでから、いつのまにかみんながそう呼ぶようになった」
「かわいい」
女の人はしゃがんでぼくをぎゅっと抱きしめ、それから思い切りよく立ち上がると部屋を出て行こうとした。戸口まで来て振り向かないまま、「あなたの孫娘が、赤ちゃんを産むわ」とぽつんと言った。
タケさんが、息をのむ音が聞こえた気がした。
「あの子も私と同じことをしたのよ。不思議ね。あなたは二十年前に私を家から追い出したけど、私はそうしなかったわ。でももう少しで、あなたと同じことをするところだった」
ぼくはタケさんのそばに行き、そのふるえる手に体を押しつけた。
「帰るわ。今度来た時に、チャトゥに猫じゃらしを持ってきてあげる」
その晩タケさんはベッドのふとんに頭までくるまって、夕食を食べなかった。ぼくも夕食を食べそこねてしまった。タケさんのそばから離れられなかったのだ。
六 |
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その二 初雪の降った日
朝起きて一番に中庭のようすを見に行って、ぼくは立ちすくんだ。中庭がきのうとはすっかりようすがちがっている。明るくてまぶしい。
木も草も植木鉢もなくなって、白く光るやわらかい物で一面おおわれている。
ぼくはタケさんのベッドにすっ飛んでいき、大きく開いたままの口に手を突っ込んだ。
「チャトゥ、何するんだ」
もがもがとあえいだあげく、ぼくの手を口から吐き出し、タケさんは起き上がった。
タケさん、中庭が変だよ。見て見て。
ぼくが言うと、タケさんは布団から出て外を見た。
「ほう、初雪だ。何だか静かだと思った」
タケさんの後を付いて回って、「なに? なに?」としつこく聞くと、振り返ってタケさんは笑った。
「チャトゥは知りたがりだな。雪、さわってみたいか?」
タケさんは窓を開けて手を伸ばし、近くの枝の上に乗っていた雪を取って、ぼくの鼻先に持ってきた。匂いをかごうと首をのばしたら、ぼくの鼻にポフッとそれを押しつける。
七 |
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ひやっ、なんだこれ。
ぼくは飛んで逃げる。ロビーのテレビの陰にかくれて、それから鼻先をなめてみる。うん? なんだか冷やっこくておいしい。
テレビの裏から顔を出すと、ハナさんが笑っている。
「初めてだものね。びっくりするわよ。かわいそうに、タケさんたら」
「経験、経験。いろんなことを経験して大人になるんだ」
タケさんがそう言うと、車椅子で通りかかった男の人がフン、と鼻で笑った。
「たかがネコごときに、経験だと」
ぼくが苦手な人だ。この間新しく入ってきたばかりの人、マサシさんとミヤさんが呼んでいた。
「ネコごとき、だと!」
「相手にしないでよ、タケさん」
横からおハナさんが止めてくれたのでよかったけれど、タケさんは手に持った杖を振り上げかけていた。
「こんな所にネコを入れるなんて非常識だ。園長に文句を言ってやる」
「ちょっと待って。あんた。ここに来てまだ三日しかたってないじゃないの。何も知らないくせによけいなこと言わないでよ」
八 |
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今度はおハナさんが怒り出した。
声を聞いてサノさんが走ってきた。この人はミヤさんと同じ、ここで働いている人。背の高い男の人だ。
「ハナさん。ほら、サンルームで手芸クラブが始まりますよ。今日は何を作るんでしたっけ?」
「あんた、自分で材料買ってきたって言ったわよ。松ぼっくりでクリスマスツリーを作るんでしょうが。近頃忘れっぽいわね。年のせいじゃない?」
ハナさんは大げさにため息をついて、サンルームに向かって車椅子をこぎ始める。
「ハナさん、ひどいな。ぼくはまだ三十歳になったばかりですよ」
サノさんは苦笑しながら、ぼくに目配せしてささやく。
「チャトゥ、覚えておくんだ。女の人の怒りを沈める方法、その一。こっちがバカになること。経験だよ」
マサシさんが小さい声で、「本当にバカなくせに」と言った。ぼくはサノさんに聞こえないといいなと思った。
マサシさんはまわりに誰もいなくなると、口を閉じた。車椅子の上で頭をたれ背を丸めて、ウウ、ウウとうなった。どこか痛いのかと思ったので、ぼくは恐る恐る近づいてその顔をのぞきこんだ。すると急にマサシさんが
目を開けてぼくにどなった。
「畜生め! 俺に近づくな。それ以上こっちに来ると首をひねりあげるぞ!」
九 |
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大きな声に部屋にいたタケさんが飛んで来る。
「こいつ! チャトゥに何かしたらおれが許さんぞ」
「タケさん!」
サノさんがあわてて戻ってくる。
ぼくは急いで逃げ出す。タケさんもサノさんも怖い。大きな声だ。ぼくは大きな声は大嫌い。サンルームまで走っていくと、おハナさんがいて抱いてくれた。
「だいじょうぶよ。私がいるわ、チャトゥ」
ぼくはおハナさんのわきの下に頭をつっこむ。ぼくは自分を産んでくれたひとの事はほとんど覚えていなかったが、おハナさんは母さんみたいだと思う。おハナさんがかんにんしてちょうだいと言うまで、そのひざの上で眠る。これ以上安心な場所は他にはないと思えるからだ。
雪は午前中降り続いたが、そのうち雨になったらあっという間に庭はいつもの庭になってしまった。それがどうしてなのかぼくには全然分からなくて、何度も中庭を見に行った。
ねぇ、雪はどこ?
ぼくは長椅子に座っていた、タケさんの顔を見上げた。するといつの間にかタケさんはいなくなっていて、マサシさんがいた。マサシさんは長椅子の下にいるぼくに気づいていないようだ。
十 |
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ぼくはまた大きな声で怒られるかと思って、怖くなった。見つからないように体を低くして息を殺した。タケさん戻って来ないかな、と思った。でもタケさんが来てまたマサシさんとケンカしても怖い。おハナさんだってけんかするしな。そうだ。ミヤさんが来ればいいのに。
でもどうしたことか、誰も来ない。マサシさんの車椅子も動きそうもない。寝ているのかな。ぼくはおそるおそる長椅子の下から顔を出した。マサシさんはズボンの裾をめくって足をさすっていた。
「痛みますか。傷跡が?」
突然話しかけた人がいて、ぼくもマサシさんもびっくりした。ミヤさんだった。
ぼくはマサシさんがまたどなるかなと思って、身構えた。でもマサシさんは恥ずかしそうに笑っただけだった。
「いや、ずい分昔の傷だから…」
ぼくは長椅子からそろそろとはい出した。
どうやら怖くなさそうだと思ったから。
「交通事故でね」
ミヤさんは何も言わず微笑んでいる。ミヤさんはとてもかわいい。タケさんがいつもそう言うし、ぼくもそう思う。
「もう三十年も前だ。ひどい事故だった。家族はその時死んでしまって、おれはひとりになった」
ミヤさんはうなずくだけで返事をせず、マサシさんの話を聞いていた。
十一 |
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ぼくはミヤさんの笑顔に近づきたくて、マサシさんの車椅子の側にかがんだミヤさんのひざにすがった。
「この子も母親を交通事故で亡くしたんですよ。ほのか園の前の道で。死んでしまった母親のそばで、泣いていました。産まれてふた月もたたない子猫でしたよ」
ミヤさんはぼくの首をなぜている。するとふいに横から違う手が伸びてぼくの背をなぜた。
「やわらかいな。おまえは」
マサシさんの声だった。
その三 クリスマス
ロビーの隅にミヤさんやサノさん、タケさんも集まって何かやっている。大きな箱からいろんな面白そうな物を取り出しては、あれやこれやにぎやかに笑っている。ぼくは自分も仲間に寄せてもらいたくて、大あわてで走っていった。サノさんの背より高い木が立てられた。クンクンしたら、木のにおいがしない。
「チャトゥ、これはクリスマスツリーだ。いたずらするなよ」
サノさんがぼくの顔をのぞきこむ。ミヤさんが笑いながら、箱の中からキラキラするものを取り出した。
十二 |
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「チャトゥの目の色と同じ色でしょ? これはお星さま、ツリーの一番上に飾るの」
お星さま? ぼくは首をかしげる。何だろう、それ。ぼくは知らないことばかりだ。でもそれはとてもきれいだったので、うれしくなる。ぼくの目の色だとミヤさんが言ったので。
それから箱の中からふわふわしたものや、ぶらぶらゆれるものがいっぱい出てきて、ぼくは夢中になった。さわるなって言われたって、がまんできない。だけどクリスマスツリーのそばにはいつも誰かがいた。
でも何度か朝と昼と夜をくり返すと、見あきたらしくツリーのそばにだれもいない時がある。ぼくはそれを待っていた。ずっとロビーの椅子の下で。
今ならだいじょうぶだ。別にわるいことなんかしない。ちょっと近くで見るだけ。
ぼくはツリーの下に行く。手の届く所に丸いものがぶらさがっている。手でさわってみると、プラプラゆれる。それはゆれるとまわりに、光をまき散らす。
上のほうを見上げると、もっとキラキラ光る物がゆっくりと回っている。あれ、さわりたい。
ぼくはおもいきり伸び上がって、手をのばした。その時誰かがやって来た。ぼくはあわててツリーの裏側に回って体を低くした。
やって来たのはノブさんだ。ずいぶんやせた人。おハナさんとかわらないくらいしわしわの顔をしてるのに、ミヤさんみたいにさっさと歩ける。いつもこの建物の中を歩き回っている。椅子にすわるのはご飯の時だけ。
十三 |
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ベッドにいるのは夜、寝ている時だけ。あまりしゃべらないし、笑わない。
ぼくはこの人に会うと、いつも逃げる。だってすぐ前にぼくがいても、どんどん歩いてきて踏まれそうになるから。
すぐに通り過ぎていくだろうと思ったのに、ノブさんはツリーのそばで立ち止まった。何しているのか気になって、ぼくはツリーの陰からそっとのぞいた。
何だかツリーがゆれてる。ノブさんがさわっているんだ。丸い玉をむりやり引きちぎろうとしている。
大変だ! だめだよ。ノブさん。さわっちゃいけないんだよ。
ぼくがそう言うと、ノブさんはうつむいてぼくを見た。
「にゃあん」
ノブさんが言った。初めて声を聞いた。
「にゃあ、にゃあ」
また言った。
ぼくはこまってしまって、目をそらした。ノブさんが何を言ってるのか、ぼくにはちっとも分からないから。
ノブさんはとうとうツリーにぶらさがっていた丸い玉をちぎり取った。それを大事そうに手の中に持って、また歩き出した。いつも口をつぐんで同じ顔ばかりしているのに、何だかちょっと笑いそうな顔をしている。
十四 |
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ぼくだって笑う、と思った。あんなきれいな玉をもらったら、あれで好きなだけ遊べたらなあ。
サノさんが来た。ツリーの下に散らばって落ちている、にせものの葉っぱを見た。じっくりツリーをながめて、ひもだけがぶら下がっているのを見つけた。ぼくがその下にいるのはとっくに見つけている。
「こら!」とサノさんはどなった。
ぼくはとりあえず、はいつくばってごめんなさいのポーズをする。取ったのはぼくじゃないんだけど。
「どうしたの?」
ミヤさんが来た。ぼくはあわてて起き上がるとミヤさんの足元に逃げこんだ。ここなら安心。
「チャトゥをあまやかさないで、ミヤさん」
「この子は何か悪い事をしたのかしら」
「ほら」と、サノさんはツリーにぶら下がったひもを指さした。
ミヤさんはちっとも怒らないで、あらあらと楽しそうに言い、よつんばいになって椅子の下やツリーの後ろを探した。
「でも、どこにもないわ。遠くへころんでいったのかしら」
だからぼくじゃないって。
その時ろうかの向こうからノブさんが歩いてきた。もう一周してきたんだ。
十五 |
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ここの廊下は中庭のまわりをぐるっと回っている。だから歩いても歩いても行き止まりがない。
ぼくは最初のころ、それがふしぎでならなかった。タケさんの部屋の前から走って行って、どんどん走っていくとまたタケさんの部屋の前に着くから。
ぼくはもっと小さいころ、自分の頭が変になったんだと思って、一日中ぐるぐるろうかを走った。今はもう分かってる。だからそんなばかなことはしない。でもノブさんはいつまでたっても分からないみたい。だから今でもずっとろうかを歩いて、止まらない。きっとどこか遠くまで、歩いて行ってるつもりなんだ。
「なんかノブさん、いつもとちがう」
ミヤさんが言った。
「うん、ぼくも思った。うれしそうだ」
「手に持ってるの、もしかして……」
ミヤさんが言うと、サノさんはうんうん、とうなずいた。
「どうしましょう。返してもらいます?」
「もう少し、このままに。だってあんなにいい顔してるもの。もったいない」
「そうですよね」
ぼくはサノさんをにらんだ。
十六 |
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ぼくはどうしてくれるの?
「あっ、ごめん。チャトゥ」
サノさんはぼくの頭をなぜた。
「疑っちゃって」
ぼくはまあ許してやるかと、思った。
だっていつもはなかなかぼくの言ってることを分かってくれないのに、今は一発で分かってくれたから。
でも今度からは気をつけてね。証拠もないのに疑わないでよ。
ああ、いい匂いがする。そろそろお昼ご飯かな。おいしいもの、だれかくれるかな。
その四 枝の鳥
「正月はいいなぁ」
タケさんがしみじみ言う。
いつもより遅い朝ごはんだ。ぼくだけはいつもの時間にすませた。
十七 |
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「タケさん、あけましておめでとうございます。まあ、一杯、どうぞ」
サノさんがやって来て、タケさんの小さなコップに水みたいな物を入れた。なんだろう、あれ。タケさんはうれしそうに笑って、飲んでいる。ぼくがじっと見ていると、タケさんはそれをぼくの口の前に差し出した。
「チャトゥも飲むかい」
「やめなさいよ。チャトゥは未成年よ」
おハナさんが横から言う。
ぼくは小さなコップのにおいをかぐ。何だかいいにおい。舌を出してちろっとなめてみた。
うえっ、変な味だ。
ぼくはあわてて逃げ出す。ソファの下に隠れて、口のまわりをぺろぺろなめた。それから足をなめ、背中もなめた。うわっ、どうしよう。変な気分だ。じっとしていられない。
ぼくは走り出す。ろうかをずっと走ってサンルームに行き、どこにかくれようかときょろきょろする。でもそこには先に誰かがいた。
のっぽのセンジさんだ。サノさんも背が高い。でもセンジさんはサノさんよりもまだ指ひとふし分高い、とおハナさんが言っていた。
「今どきの子ならめずらしくないけど、昔であんなに高い人はちょっといなかった」とおハナさんは言った。
十八 |
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センジさんはサンルームのつきあたりのドアをガチャガチャとゆすぶっていた。ぼくに気づくとシッと口に指を立て、「声をたてるな。敵に気づかれる」と言った。
テキって何?
ぼくは首をかしげる。今まで聞いた事がないことばだ。
「おまえは味方か、それとも敵のスパイか?」
センジさんはまた聞きなれないことばを使った。ぼくはこまって首を反対側にかしげた。
「おまえも閉じこめられているのか」
センジさんはドアから手を離し、ろうかのむこうを気にしながらぼくのそばにかがみこんだ。
「どれぐらいだ。おまえはどのくらいここにいる? わしはもう五年もここに閉じ込められているんだ」
センジさんはおおきなため息をついて、背中をかべにつけた。そこから正面にある大きな窓を見る。
「きれいな青空だ。外は気持ちがいいだろうな。ああ、家に帰りたい。おふくろが待っているんだ」
ぼくもセンジさんのそばにすわって、窓の外を見た。木の枝に鳥がいる。鳥はよく知っている。中庭によく来るから。
でも鳥って、あんなに高い木の上に登れるんだ。すごいなぁ。ぼくも登ってみたいな。
外に行ったら登れるかな。
十九 |
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「おまえ、カギをとって来れるか?」
センジさんが言った。
「このドアのカギだ。おまえなら事務所にだって入れるんだろう。とって来いよ。そうしたらおまえも外に連れて行ってやる」
センジさんがぼくにそうささやいた時だった。急に後ろから大きな声がした。
「なぁんだ! こんなとこにいたんですか」
ぼくは息が止まるかと思った。
なのにサノさんはおなかをかかえて笑いころげている。
「見ましたか? センジさん。チャトゥ、五十センチは飛び上がりましたよね」
「ハッハッハッ」
センジさんもわらっている。
「そんなにおどろくなんてチャトゥ、よっぽど悪い事してたんだな」
サノさんのことばに、センジさんもうなずいて「悪だくみしてたんだな」なんて言っている。悪だくみしてたのはセンジさんじゃないか。
「センジさん、今から羽つきするんですよ。ミヤさんとおハナさんと、タケさんもするって。センジさんもどうです?」
二十 |
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「羽つきか。やったことないな」
さっきのセンジさんはどこいったんだ。まるっきり別の人みたい。にこにこして、サノさんについていく。
ぼくもついていこうとして、ふとふりかえった。庭の木の枝で鳥がキィー、と鳴いた。
ぼくをよんだの?
ぼくはたちどまって、鳥を見つめた。鳥は返事をしないで、ばさばさっと羽をひろげ飛んでいった。すごい。鳥ってあんなに高い所まで行けるんだ。ぼくでも行けるかな。
外に行きたいな、とぼくは思った。センジさんにカギを持っていったら、本当にぼくもつれていってくれるだろうか。
その五 入ってはいけない部屋
ぼくには入れない部屋がある。みんなのごはんを作る部屋はもちろんそうで、いつも戸が閉まってるから入ろうと思っても入れない。
そうでなくて開いてるのに入れない部屋がある。
二十一 |
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最初はそんな事は知らなくて、入ろうとしたらすごく怒られた。ふだん大きな声を出した事もないミヤさんさえ、怒ってぼくを追いかけてきた。それが何回か続いて、やっとぼくはその部屋に入ってはいけないんだと知った。
入り口は他の部屋と少しもちがわない。
中もそう変わらないと思う。ただその部屋にいる人はだれも起きて来ない。いつもベッドの中で寝ているようだ。だからぼくはどんな人がいるのか知らない。見たことがないもの。
その部屋の前を通るときは、入り口に近づかないように、ぼくはわざわざ大回りする。
入ろうとしていると思われたらいやだろう。
それなのにどうしてぼくはあの日、中に入ってしまったんだろう。
廊下にはだれもいなかった。今日は女の子のお祭りだと、ミヤさんが言っていた。だからみんな、ロビーに集まっている。女の子じゃないサノさんもタケさんも。
見たこともない人がいっぱいいて、歌をうたっていた。最初はおもしろかったけど、大きな音がするし人がいっぱいいるし、うるさくなったから一人でもどってきたんだ。
それでふと、その部屋に入ってしまった。
いったん入ってしまったら、もっと中をよく見たくなって、奥まで入った。ここはどのベッドも高い。どんな人がいるのか見てみたいけど、下からでは全然見えない。
二十二 |
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だからぼくは窓のそばにある台の上に飛び乗った。
「おお、トラ子だ」
ベッドの上から声がした。男の人だ。
ぼくはトラ子なんて名前じゃないよ。
「トラ子、こっちにおいで。もっとそばに」
男の人はふとんの中にもぐったままで、ぼくがその人の手がとどくくらい近くに行っても動かなかった。
「本当にトラ子か。いや、ちがうな。トラ子のはずがない」
少しだけ持ち上がっていた頭が、枕の上にトフッと落ちた。
「トラ子はもっとかわいい」
ぼくはムッとしてその男に言った。
タケさんもハナさんもぼくをかわいいって言うよ。ミヤさんだって、そう言うよ。
「ああ、ごめん。君がかわいくないとは言ってない」
あれ、この人はぼくが言ってる事がわかるのかな。
ろうかでだれかの声が聞こえたので、ぼくはあわてて台からおりようとした。
「まだ行かないで、お願いだから」と、男の人が言った。
二十三 |
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「ぼくは動けないんだ。手も足も、首から下はまるでだめだ。思いも寄らない事故でね。首を痛めた」
男の人はぼくから目をそらし、天井をながめて顔をしかめた。布団の下はそこに何もないようにピクとも動かない。
「顔は少し動かせられる。口もきける、耳も聞こえる。それをありがたいと思わなきゃね」
男の人は同じ部屋のほかの三人を目で指した。
「ぼく以外の人はたぶんしゃべれない。いや、しゃべっているのを聞いた事がない。しかも口からごはんを食べれない。管でおなかにじかに栄養食を入れてもらってる。だからぼくは他の三人にくらべると恵まれている。だろう?」
男の人は大きなため息をついた。
「でもなかなかそう思えないんだ。こまった事にね。ぼくがこの人たちとくらべて、若すぎるからだろうか。もう少し年をとったら、ありがたいと思えるのだろうか」
タケさんとどこが違うのかと考えていたぼくは、そこで思い当たった。この人の髪の毛は色がこい。
「でも今日は何だかうれしい。君に会えたから。トラ子のことをいっぱい思い出した。トラ子はいつもぼくの右のわき腹にくっついて眠るんだよ」
男の人はくすぐったそうにわらった。
二十四 |
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「首から下は何の感覚もないはずなのに、今わき腹にトラ子の暖かい重みを感じるんだ。本当にはっきりと。頭だけじゃなくて、体も記憶するんだな」
ろうかからタケさんの声がする。ぼくを呼んでいる。
「チャトゥ! チャトゥ!」
「そうか、それが君の名前なのか。チャトゥか。みんなはいつも何を言ってるんだろうと考えていたんだ」
床に飛び降りようとしたぼくに、その人があわてて言いたした。
「ぼくはリョウ。ここではたぶん君より新入りだ。もう少し元気になったら、きっと部屋から出られる。そうしたらまた君に会えるね」
部屋の外に出たとたんタケさんと目が合った。
「こら! チャトゥ!」
ごめんなさい。
ぼくはそこで床にはいつくばり、目を閉じる。しばらくしてからうす目をあけてタケさんのようすをうかがう。それからごろんとお腹を見せて寝ころがると、タケさんはもうそれ以上怖い顔をしていられず、口もとがゆるんでしまう。
二十五 |
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その六 お花見
何だかみんながそわそわしている。
「お花見だ、お花見だ」
お花見って、何のこと?
朝ごはんを食べた後、いつもすぐにベッドで寝ころぶおハナさんが、今日はさっきからずっと洗面所の鏡の前にいる。
いったい何をしているの?
タケさんは朝からごそごそとへやのタンスを開け閉めして、ベッドの上に服をならべた。
「どっちがいいかな、チャトゥ」
タケさんがぼくに聞く。
「まだちょっと寒いかもしれないから、こっちの上着の方がいいかな。でもおれはこの白いのが好きなんだ」
ぼくはベッドに飛び乗って、白い服の上に乗り、それを足でもじゃもじゃとかきみだす。
「そうかチャトゥも白いのが好きか。じゃこれにしよう。下に毛糸のチョッキを着れば暖かいだろうし。そうだ、帽子はどこに入れたかな」
二十六 |
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ミヤさんもサノさんも今日はいつもとちがうかっこうをしている。
ぼくは心配になってうろうろする。
どこかに行くの? ぼくはいつもとちがうかっこうをしなくてもいいの?
みんなはぼくが言ってることを聞こうともしない。知らん顔でぞろぞろ玄関の方に行く。
ぼくはあわててついて行く。
ねえねえ、ねえったらぁ。
玄関の外には大きな車が止まっている。
ぼくは車は好きじゃない。あれに乗ると病院に連れて行かれるから。何度か行った事があるんだ。おなかが痛かった時と、足をケガした時。
ぼくは玄関の植木鉢のかげから外を見る。
車にみんなが乗っていく。タケさんもマサシさんも、おハナさんもセンジさんもだ。リョウさんも小さなベッドみたいなものに乗ったまま、車の中に入っていった。
ええっ、みんな行くの。だれもいなくなるの。
ぼくは植木鉢のかげから出て、玄関の開いたままのドアに近づいた。
「あれ? ノブさんは?」
と、大きな車の入り口でミヤさんが言った。
二十七 |
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「まだ乗ってませんよ」と運転手のおじさんが言う。
ミヤさんはあわてて玄関にもどってきて、靴をぬぎすてると廊下を走ってもどった。大きな声で「ノブさん! ノブさん!」と呼んでいる。
ぼくもミヤさんの後を追っかけて行った。
どうしたの? ノブさんがいないの?
「チャトゥも探して」
と、ミヤさんが泣きそうな顔で言う。
「大変、トイレにもいない。部屋にもいない。まさか、外?」
ミヤさんは走って外に出た。ぼくもついて走った。
「サノさん、ノブさんは中にはいないわ。外を探して。まだそんなに遠くには行ってないと思うんだけど」
サノさんも大あわてで、車からおりてきて園の外へ出る道の方へ走った。
ほかの人もみんな表の道の方へ行く。きっとそっちじゃないよって、ぼくが一生懸命に言ってるのに。
ノブさんはほのか園の廊下を、いつも同じ方向に歩くんだ。反対に回ることは一度もない。だとしたら玄関を出たとしても道の方へは行かないと思うんだ。反対の庭に回る道の方だ。
ぼくはそう思ったから、みんなと反対の道を探しに行く事にした。
二十八 |
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ほのか園のかべをぐるっと曲がると、車が見えなくなった。さわいでいるみんなの声も遠くなる。
庭はたくさん木があって、いろんな色の花が咲いている。いつもへやの中から見る庭の中をぼくは歩いていた。
これは何のにおい?
ぼくは立ち止まる。
あれは何の音?
ドコドコドコ ドコドコドコ
こわくなって、ぼくは低い木の下にかくれた。
何だ、ぼくの体の中から聞こえる音だ。
いつかセンジさんと見た大きな木を見つけた。ぼくは木の下に走って行った。
鳥がいるかな。キィーッ、って鳴くやつ。
でも木には何もいない。ここから見えない上の方にいるかもしれない。
ぼくは木にツメをたてる。登れるかな。登れそうだ。
ノブさんを探さなきゃと、ちょっと考える。
でも木の上の方に登ったら、ノブさんがどこにいるかきっと見える。
二十九 |
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見つけたらミヤさんを呼べばいいんだ。
ぼくは登り始めた。むずかしいかなと思ったのに、わりとかんたんだ。ぼくはずんずん登っていく。とっても高い木だ。
上にはきっと、鳥がいるな。
ぼくを見たら、鳥はびっくりするかな。おまえ、こんな所まで来れるのかって。そんならぼくたちはなかまじゃないか、って言うかもしれない。
あっ、ノブさん。見つけた。やっぱりいつものようにぐるぐる回っている。ミヤさーんとぼくは呼ぶ。聞こえたかな。
聞こえたみたいだ。でもノブさんの方じゃなくて、ぼくのいる木に向かって、サノさんが走ってくる。
三十 |
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