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鏡の掌話 *手のひらの小説*
その一 ミラーハウス
「浩太、鏡を見てごらん。口のまわりに牛乳のひげができているわよ」と、お母さんが言った。
洗面所の鏡を見ると上唇にぐるっとヒゲができていた。手に水をつけてごしごしこする。とれた。
ぼくは用心深く鏡をながめる。右手の指であかんべぇをしてみる。 ほら、やっぱり変だ。鏡の中のあいつは左手であかんべぇをしている。
今年の夏休みまでは、ぼくはそれを当たり前だと思っていた。
夏休みにいなかのおじいちゃんが連れていってくれた遊園地は、山道をぐるぐると、三十分以上も車で走ったところにあった。近所の公園と変わらないくらいの小さな遊園地だった。一周するだけのちゃちなジェットコースターと、作り物のサルが運転手の電車だけがどうやら遊園地らしい乗り物だ。後はデパートの屋上や、公園にありそうなコインを入れてガタガタ動くパトカーや消防車。三年生になったぼくには、ちょっと幼稚すぎる。
ちょっとがっかりして遊園地の中をぶらぶら歩いていると、三角の屋根の小さな建物を見つけた。おばけやしきかと思ったら、ニ ラーハウスと書いてある。おじいちゃんにニ ラーって何と聞いたら、しばらく考えてあれはミラーだ。一本棒が取れているんだ、と教えてくれた。
おじいちゃんは外で待っているというので、ぼくは一人で入る事にした。
キップ売り場のおばさんはぼくが渡した二百円を手元の箱にポンと放り込んで、「気をつけるのよ」と言った。
一 |
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何に気をつけるのかわからなくておそるおそる中に入っていくぼくに、おばさんは手を前に出して歩かなきゃだめ、とどなった。
それを早く言ってくれればよかったんだ。入ってすぐに、ぼくはおでこを思い切りぶつけてしまった。横は鏡でぼくが写っている。鏡の中のぼくも頭をさすっていた。
今度は気をつけて、手でさぐりながら歩いた。回りを見渡すと、たった今入ってきた入り口が見え、そのすぐそばに出口も見えた。
なんだ簡単じゃん、とぼくは思った。出口におじいちゃんが見えないかと思って背伸びしたり、手を振ったりしていると、ずっと遠くの方で何かが動いている。僕のほかに誰かいるのかと思ったら、遠くで動いているのはぼくの手だった。ぼくは右手を上げてふってみる。鏡の中の手は左手だ。それはあたりまえだ。鏡なんだから。ちょっと体をずらすと消えたり、一部分だけが見えたり。
ミラーハウスって鏡ばかりかと思っていた。中にガラスの壁も混じっているのでよけいにわけが分からなくなる。おかしくって、一人で笑った。
クスクス、クックッ、クスクス、クッ
ぼくは口を押さえて笑い声をのみこんだ。今、だれかの声が混じって聞こえた。後ろから聞こえる。振り向くと、そこにはぼくがいて手を口に当てている。
二 |
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なんだ。ただ鏡にぼくが写っているだけじゃないか。でも変だな。たった今、ぼくはそこを通ってきたはずだ。それに今、確かに笑い声が重なって聞こえた。
ぼくは何だか嫌な気分になって、通ってきた通路を少し戻ってみようと思った。回りの壁を手でさぐってみる。
「あれ? たった今、ここを通ってきたはずなのに」
でもどこにも開いている所はなかった。ぼくの回りは鏡の壁で囲まれている。前の鏡に写っているぼくは、少し不安な顔をして、手をのばしている。その後ろに写っているぼくの背中も、横向きの格好も本当にこれぼく? と疑いたくなるくらいびくついていてみっともない。こんなところ、だれかに見られたらちょっとはずかしい。
そう思ったら、クスッと誰かが笑った。 ふり向くと鏡の中のぼくはこっちを向いていて、自分の口に当てた手をあわててはずした。ぎょっとしてまばたきすると、やっぱりそれは何と言うこともない鏡でぼくと同じようにびっくりしてこっちを見ている。
「気のせいかな」思わずひとりごとを言うと、そいつは「気のせいだよ」と言った。
ぼくは自分の耳をごしごしこすった。そら耳って言うんだよな、こういうこと。
でも続けて鏡の中のぼくが「ミラーハウスなんてかんたんじゃん、ってさっき言ってたじゃないか。さっさと出口まで行ったら?」と言ったので、ぼくはあまりにおどろいて後ずさりし、ころびそうになった。
「おまえは誰だ」
三 |
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せいいっぱい強気で言うと、まったく同じ口調で「おまえじゃないか」と言う。
「本当にぼくかどうかテストするぞ」
「やってみれば」と、いやみっぽく笑う。ぼくはあんな笑い方をしたことがない。たぶん。
お母さんの名前や、学校の先生のクセ、一番大事にしているおもちゃは何かとか、いろんな質問をしたけど鏡の中のぼくは全部正しく答えた。だから今度は変なダンスをしてやった。向こうのぼくは一生懸命まねをした。
とても疲れてきてあっちこっちだるくなってきた。
いつものぼくなら、もうやめたというところだ。
でもその時、鏡の中のあいつがほっとした顔をした。きっともうやめるんだな、と思ったんだ。
それでくやしくなって、しつこく続けた。顔も思いっきり変な顔をした。もう一回やってみろって言われたって、ぜったいできないくらいとんでもない顔をした。
ハッハッハッ
とうとう鏡の中のぼくは、マネをやめて笑い出した。
ヒィヒィヒィ
「やめろよ。そんなばかばかしいこと、ぼくはできない」
勝った!
四 |
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「じゃあね」と鏡の中のぼくは言って、ぼくに後姿を見せて遠ざかっていく。
ずっと遠くに行って見えなくなってしまうまで、ぼくは鏡の中を見ていた。
「おおい」と呼んでみた。もう帰ってこないつもりだろうか。ぼくは何だか取り返しのつかない事をしたようで、ドキドキしながらミラーハウスを出た。もうどこにもぼくの姿が写らない鏡の壁を見ながら。
ぼくはそれから歯をみがく時も、鏡を見ないようにしていた。どこかの店の前でも、ガラスがある所ではなるべく顔をそむけていた。
鏡の中のぼくが本当にいなくなっていて、何も写っていなかったらどうしようと思って、それが怖かった。
こんなにまっすぐ鏡を見たのはあの時以来だ。
「浩太、よく鏡を見た?」と、お母さんが言う。
夏休みの事を思い出していたぼくはあわてて顔を上げて、返事をした。
「見たよ」
「ヒゲが生えてたでしょ」
「うん、ぼくは右手で口を拭いたのに、あいつは左手でふいたよ」
あいつはちゃんと帰ってきてくれていた。
そして「もうやめた」なんて言わずに、ぼくのマネをしてくれている。
五 |
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その二
姫鏡台
祖母が小さな鏡台をくれたのは、私が十一歳の時だった。それはずいぶん古い物だったけれど、大事に使われていたらしく塗りもはげていないし、鏡もくもりなく涼やかだった。落ち着いた赤い色は上品で、二つついた引き出しには桔梗の絵が描いてあって、かわいらしかった。
「私もあんたと同じ年くらいにお母さんからもらったのよ」と祖母はあの時そう言った。
私は七十歳過ぎた祖母、つるの顔に見とれていた。
色白で鼻筋通った祖母は、昔このあたりでおつる小町と呼ばれたそうだ。行き会った人はみな振り返ってみる。
年とったその頃でもそうだったから、若い頃はさぞかしうるさいくらいにもてはやされた事だろう。十三・ 四歳くらいから、縁談が引きも切らずあったそうだ。女優にならないかというお誘い、今で言うとスカウトだろうか、もあったらしい。これは本人の口からでなく、親戚の年寄りから聞いた。
隣家のおばさんは、私の顔を見るたび言ったものだ。
「みっちゃんはおばあちゃんに似なくて残念だったねぇ」
そのたびかたわらで母が辛そうにする。でもその母もおばあちゃんに似た兄は自慢の種だった。
兄は男なんだからあの顔は私にくれればよかったのにと、当時は真剣に考えていた。
その頃私はクラスの男の子たちに《団子》というあだ名をつけられていた。私の鼻が団子鼻だからだ。
六 |
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男の子たちは私の顔を見ると「まずそうな団子だ」とか「くされ団子」だとか言ってからかった。毎日そう言われていると、よっぽど自分の鼻は醜いにちがいないと思い込んだ。何とか隠す方法はないかと、私は風邪も引いていないのにマスクをかけてみたりした。だがそれはかえって男の子たちを刺激したらしい。新しいゲームを見つけたように喜々として、彼らは競争で私のマスクを奪い取った。
泣いて訴えると、母は笑って言った。
「相手にならないで知らん顔をしてればいいの。泣くからよけいにおもしろがってするのよ」と。でも私は泣くのを我慢できない。泣くと鼻が真っ赤になって、よけいに変になるのに。
だから私は鏡を見るのが嫌いだった。鏡だけでなくぴかぴかに磨かれた座卓や、夜中のガラス窓からさえ目を背けていた。そんな私に祖母は姫鏡台をくれたのだ。
鏡なんかいらないという私に、祖母は自分の子供時代の話をしてくれた。 祖母、つるには子供の頃に園ちゃんというなかよしがいたそうだ。
その子は医者の娘でとてもお金持ちだった。いつもいい着物を着ていた。
ちょうど当時の私と同じ年くらいの事だったらしい。一緒に担任の先生の家に遊びに行った時のことだった。園ちゃんは新しい藤色の着物を着てきた。見とれるほど鮮やかな花柄の着物で、はっとするほど美しかった。つるはその時、普段着の木綿の着物を着ていた。
七 |
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その頃はめったに洋服を着ることはなく、着物が当たり前の生活だった。園ちゃんだけは洋服も日常的に着ていたけど、つるはそれをうらやましいと思ったことはなかった。
でもその着物を見たとき、つるは初めてうらやましく思った。本当にめったに見られないような、きれいな着物だったからだ。
そんなつるの気持ちを先生は感じ取ったのだろうか。帰り際につるの耳に、先生がこそっと言ったそうだ。
『あの着物は園ちゃんにはもったいない。あなたならもっと映えるのに』と。
それを聞いて、つるはとても変な気持ちになった。自分がけなされたわけではないのに、情けなくってその場にいたたまれなかった。友達の園ちゃんを放ったらかしにして家に走って帰り、母親の顔を見たとたんに、何だか涙が出てきてその背にしがみついた。
『いったいどうしたの? 園ちゃんとけんかでもした?』
つるの母は後ろに回した手で、つるを負ぶうようにして笑った。渋るつるをなだめすかして先生の言った言葉を聞いた母は、つるの顔をのぞきこんで言った。
『で、つるは先生に何と言ったの?』
『何も言わない』
『先生の言うとおりだと思った?』
八 |
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つるは首を横に振ったが、母に見つめられてうつむいた。
『でも先生は、きっと私もそう思ってると考えた。そんな感じがした』
つるは自分でもどうして泣けてくるのか分からなかった。だが涙はいつまでも止まらなかった。そんなつるに母はこの鏡台をくれた。鏡なんか見たくないと言うつるに、これは普通の鏡じゃないのと母は言い、その覆いをはずした。
つるは鏡をのぞいた。そこには確かに自分の顔だけど、いつも見るのとはどこか違う自分が写っていた。目も二重だし、鼻筋も通っていたが鏡に写った自分はそんなに美人ではなかった。さんざん泣いた後だったせいかもしれないが、どちらかというと冴えない部類の女の子だった。
「その時に私はちょっとほっとしたの」 と、祖母は私に言った。
「だってそんな私が、園ちゃんよりあの着物が似合うとは思えなかったから」
ふっふっ、と祖母はさも楽しそうに笑った。
「それからも私は何度もこの鏡をのぞいてきたわ。大金持ちの息子から求婚された時も、昔に園ちゃんが着ていたのとそっくりの藤色の着物を見つけた時も」
私はその時、祖母の言った言葉の全部を理解できてはいなかった。ただでさえきれいでないのにますます不美人に写る鏡なんかいらない、と私は言った。すると祖母はまた、若い娘のような声で笑った。
九 |
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「ちがうわ、みっちゃん。これは不美人に写る鏡ではないの。のぞいてみれば分かるわ。ほら」
祖母は姫鏡台の覆いをはずした。
そこには確かに私が写っていた。一重のまぶたの、丸い鼻の、ぷくっとした唇の、でも何だかかわいらしい少女が、確かに私だけど今まで思っていたような自分でない私だった。
祖母のように何人もの人から思いを寄せられる事はなかったが、年頃になるとただ一人私を好いてくれる人ができた。私には息子ばかり三人産まれ、とうとう娘には恵まれなかった。だからこの鏡台を他の人に譲り渡す機会もなく、今まで持ち続けてきた。 五十歳を過ぎた今、私はふと姫鏡台をのぞいてみる。
長い年月を感じさせず、涼やかなその鏡面。今まで何度も私を安らかな気持ちにしてくれた鏡台。そこに写るのは見慣れた私であるはず。
でもどこか祖母に似ているのに、その時初めて気がついた。
十 |
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その三
倉庫の姿見
美術部の倉庫にその鏡はあった。等身大で縁の木も虫でも食ったのかぼそぼその鏡だ。長年磨かれた事もないらしく、ほこりがうっすらと表面を覆っている。
「新しいの買えばいいのにね」とユキが言う。
「美術部は金がないんだよ。それにしても鏡なんか何に使うの」
「自画像描いたり、デッサンの時体の動きとか形とか見るのに使うの。いつもモデルを使えるわけじゃないもの」
里緒菜がいつになくまじめに紀恵に説明した。絵のことになると彼女は普段は見せない顔をする。
学校は明日から三日間の連休に入る。運動部は連休中も活動していたが、里緒菜の美術部もユキの文芸部も三日間ずっと休みになる。
「どっかに遊びにいく?」
「紀恵の部も休みなの?」
ユキが聞くと紀恵は首をすくめる。
十一 |
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「まあ、休みのような、そうでないような」
何だか大雑把ね、とユキがあきれると新聞部はとてもまじめな部だよ、と紀恵が反論する。
「紀恵が大雑把だと、ユキは言ってるの」
「そう、その突込みがないと里緒菜らしくないよ。よかった。ねえ、明日映画に行こう」
「私はこの三日の間に描きかけの絵を仕上げたいの。だからこうして今、絵を取りに来たんでしょ」
里緒奈は壁に立てかけられたカンバスの中から自分の絵を探している。後ろの二人もその手元を覗き込む。
「里緒奈はどんな絵を描くの? 見せて」
ユキが言うと、里緒奈はしぶる。
「もったいぶらないで見せたら?」
紀恵が奪い取ろうとすると、まだ描きかけだから見ても分からないわよと言う。なるほど、見ても分からなかった。カンバス全体に黄褐色とオレンジ色が丹念に塗りこんであり、その中に遠くの空を思わせる青で、途切れ途切れにいびつな円を描いてある。
「何これ?」
紀恵がカンバスをあっち向けたりこっち向けたりして眺める。
「里緒菜が抽象画を描くなんて思っても見なかったわ」
十二 |
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「どんなの描くと思ってたの? ユキは」
里緒菜が紀恵からカンバスを取り返し、大切そうに布でくるんだ。
「繊細な花束とか描きそうな感じ? ユキ、それは里緒菜を誤解してるよ。里緒奈はまさしくこんな感じ。ぐちゃぐちゃで、意味があるように見せて実はでたらめ」
「決め付けるのは紀恵の悪い癖よ。まだこれは描きかけなんだってば」
「題名はあるの?」
「私の未来」と言って、里緒奈はさすがに恥ずかしかったらしく、自分でプッと吹き出すまねをする。つられて笑いそうになったユキが、ふいにぞくっと首をすくめ右後ろを見た。
ユキは首をすくめて、姿見から目をそらす。
「ああ、びっくりした。鏡だった。誰かが後ろからこっちを見ていると思ったの」
紀恵も里緒菜も鏡を見る。その中に見える三人は、部屋が薄暗いせいか、あるいは鏡が曇っているせいかもしれないが、何だか人間味がない。
「ずっと見ていると、向こうの私が違う動きをしそうで怖いね」
「いやだ、紀恵。そんな事言うから鏡から目が離せないじゃない」
里緒菜が大げさに身震いする。横を向いたとたんに、鏡の中の自分が舌を出しそうだと言うのだ。
十三 |
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「鏡って怖い話によく出てくるよね。割れると七年間不幸に襲われるとか、合わせ鏡をすると死んだ人が見えるとか。寝姿を写すと良くないとか。里緒菜、顔が青いわよ。迷信だからね」
「だって私の部屋の鏡、ベッドが写る場所にあるんだもん」
「寝姿を写すとどうなるんだろう」
「それは知らないわ。もしかするとタマシイが抜け出すとか?」
「ありそう、ありそう」
里緒菜は首をすくめて、姿見から目をそらす。
「自分の未来の姿が写るとか。あれは物語だったっけ」
自分の未来なら見てもいいよね、と三人は姿見に向き直る。
それぞれ自分の未来を想像してみない? と里緒菜が言い出した。紀恵は、自分の未来はいやだ、と言い出す。
「そうね。じゃ自分以外の誰かの未来を想像してみましょうよ。誰からする?」
紀恵は里緒菜の未来を語った。
「里緒菜は美大に進学した。結構ハードルの高い学校だったけど、里緒菜は運の強い子だからねみんな祝福したよ。もうこれで里緒菜はただの変人じゃないって事が証明できたし。もしそれで食べていけるような画家にはなれないとしても、美術教師になるって手もあるしね。でも里緒奈は何か違う事を考えてたんだね。入学して一年もたたないうちに里緒奈は休学してフランスに留学しちゃったんだ。休学と言う形をとってはいたけど、もう大学に戻る気がないのは私にだって分かった」
十四 |
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「ひどいわ。他人の未来だと思って」
「まあ、聞きなって。これから良くなるんだから」
紀恵はふざけてつかみかかってくる里緒奈を押し戻す。
「里緒奈はね、フランスに行ってひと月で連絡が取れなくなってしまった。みんな心配したんだよ。強盗に襲われたのか、悪い男にだまされてどこかに売られたんじゃないかって。ところが一年後、大学に一枚の絵が送られてきた。フランスのロワール地方の古城の絵だった」
「ロワールってどこよ」
「黙って聞きなよ、里緒菜。ありふれた題材にもかかわらず、そのユニークさは印象的だった。どこがと聞かれても、私は絵のことはよく分からないから答えられないけどね。そう、ちょうどこの絵みたいな感じ。青だか緑だかを全体に塗りこんだ上に、城が線だけで描かれていて天上の城みたいな不思議な絵。それには《RIO》とサインが入っていた。それから毎月、大学に一枚ずつ絵が送られてくる。それもいろんな場所から。いったい何のつもりだろうと大学の教授たちは頭をかしげた。休学してるけど、何とかこれで単位をくださいと言う事だろうか」
「私はそんなにせこい事しません」
「里緒菜ったら、茶々入れないで」
十五 |
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「そうだよ、どこまでしゃべったか忘れちゃうじゃない」
と言いながら、おそらく紀恵はしゃべりながら次の話を作っているに違いない。
「それとも里緒菜は自分の居場所を絵で教えようとしてるのだろうか。やはり誰かに捕らえられているのかもしれない。心配した家族はその絵をだれかれともなく見せ、これはどこを描いたものでしょうかと聞きまくった。それを見た人の間で次第に《RIO》の絵が評判になり、テレビでも放浪の画家として取り上げられるようになった。身近な人たちは知っていたけど、たいていの人は里緒菜、あんたを知らない。だから噂であんたはひげもじゃのおじさんだったり、
十代の少年だったり、妖艶な美女だったりした。いろんな噂が飛んで、謎がよけいにその絵の評判を高めた。そういう物なのよ。噂って怖いね。その人気に便乗しようといろんな人が出てきて、偽の絵まで出回ったぐらいだもの。すごいね。里緒菜、あんたの未来は」
喜ぶべき? と里緒菜がユキの顔を見る。ユキも首をかしげている。
ユキは紀恵の未来を語る。
「紀恵は念願のマスコミ関係に就職するの。テレビの地方局だけど。そこでいい上司に恵まれるのよ。彼は紀恵にレポーターとしての才能があるのを、一番早く気づいてくれた。彼は今世間で話題になっている放浪の画家《RIO》に目をつけて、ドキュメンタリー番組を紀恵にやらそうとするの」
十六 |
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「おっ、便乗しましたね」
「日本に送られてくる絵を手がかりに、その画家を追っていくんだ、とその上司は紀恵に言うの。そして紀恵は自分がフランス語どころか英語もろくにできないのに無鉄砲にも、ただ一人のカメラマンを連れて出かけていったの。どこに行っても日本語とジェスチャーで体当たりする紀恵のレポートは、結構おもしろく人気番組になった。カメラマンも自分自身はテレビに映らないけれど、カメラの動きで紀恵と対話してるような雰囲気でね」
「どんなふうに」
「カメラごとうなずいたり、ふるえたり、踊ったりするの。それがおもしろくて、姿は見えないのに彼の人柄までが愛されたの。旅は数ヶ月に及び、フランスだけでなくイタリア、スペイン、と各国をさまよっていく。絵を追いながらいろんな人と出会い、貴重な体験をしていくの。視聴者も一緒に旅をしているような、作られていない自然な流れで番組は進み、視聴率はそのテレビ開局以来、最高の数字を出した。新聞にも取り上げられたほどよ。番組は全国区でも有名になっていったの。ほら、鏡を見て」
ユキの言葉にほかの二人はつい姿見に目をやる。
「未来の紀恵が写っているでしょう。里緒菜と一緒に。二人は長い放浪の果てに、エジプトの国で出合ったのよ。ピラミッドの上で。絵になりそうでしょ。これ、書き直しなさいよ」
と、ユキは笑いながら里緒菜の持つカンバスを指差した。
十七 |
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里緒奈がユキの未来を語りだした。
「ユキは大学を出て、公務員試験に一発で通り、市役所で働いていた。ある日ユキは偶然、テレビでドキュメンタリー番組に出ている紀恵を見たの。紀恵はフランスにいた。その手には《RIO》という人が描いた絵のコ ピ ーがある」
「紀恵はやっぱり鈍感ね。『RIO』が誰か分からないなんて」
ユキがぼそっと紀恵を茶化す。
「紀恵は薄情だから、私がフランスに行ったことなんかとっくに忘れてるのよ。紀恵はその絵を通り過ぎる人に見せて、この絵はどこを描いたものかと聞いて回っている。言葉ができないので日本語で。分からないなりに親切に教えてくれようとする人もいる。ノンノンと手を振って逃げてしまう人もいる。紀恵はあきらめず、どたどたと走るカメラと一緒に後を追う。画面には写らないけど、どんなカメラマンか想像つくわよね。短足でおなかの出た愛すべき若者なの。きっと一生、紀恵の後をついて行くつもりよ。なんてね」
「ついて来るのはかまわないけど、もう少しかっこいい人にしてくれない?」
「私は紀恵の男の好みはよく知ってるつもり」
「はいはい、おっしゃるとおりです」と、紀恵はわざとらしく恐れ入る。
「黙って聞いて。今はユキの未来よ。私たち三人は大学に入った頃から何となく会わなくなっていたけど、ユキは私が大学を休学して放浪している事も、外国から日本に絵を送り続けている事も知っていた。
十八 |
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紀恵はたぶんそれを知らない。
ユキは昼間はまじめに役所の仕事をしていたけど、夜は別の顔を持っていたのよ。パソコンの中に、スノウというハンドルネームで世界各国にすごい情報網を持っていた。ユキはそれを生かして、テレビ局に情報を送った。匿名で。《RIO》はどうにも場所を特定できないような所の絵を送ってくるので、紀恵の番組は通りすがりの人から聞くぐらいではすぐににっちもさっちも行かなくなってきたけど、ユキの送る情報のおかげでどうやら間違いなく紀恵は《RIO》に迫って行った。そしてクライマックス、紀恵は《RIO》に追いつきピラミッドでの再会シーン。ユキはテレビでそれを見ていた。単なる視聴者として。でも知ってる人は少なかったけど、ピラミッドで再会できるように情報を調節して送ったのはユキだった。ある意味ユキが作った番組だったと言ってもいいくらい。そしてその時からユキは書き始めたの。私たち三人の物語を」
「どんな物語だろうね」
「きっと大雑把な女の子が騒動を引き起こし、変人の女の子がさらに引っ掻き回して収集つかない事態にしてしまう物語よ」
そう茶化しながら、ユキはそうっと後ろの姿見をのぞいている。まるでそこに本当に、未来の自分たちが映っているような気がしていた。
十九 |
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