スギタニ村の不思議


「この町、なんか変だ」
 引っ越して三日目の夕方に、耕一は言った。
「変って、どこが」
 父さんはけげんな顔を上げる。
「急にだれもいなくなるんだ」
 父さんは夕食のおかずに買ってきたコロッケのつつみを開けた。耕一は皿を差し出しながらくり返して言った。
「本当に、だれもかもいないんだ」
「だれもかもとは、大げさじゃないか」
「今日の昼間、お店の人までいなかったんだ。店の戸も開けたままなのに」
「そりゃあたまにはお店をほったらかして、出かけたりしたくもなるさ」
「でもね、道も家もシンとして気味悪いんだ」
 皿にコロッケを盛る父さんの手が止まった。少し考える顔をして、耕一を見ている。

                                    一

 耕一親子が引っ越してきたD町は、海沿いの都市から出ている電車に乗って、ほぼ三十分かかった。
その町の駅のあたりは、今まで住んでいた都会とあんまり変わらない。でも耕一たちが住む事になった家は、駅からバスで二十分、そこから歩いてさらに二十分かかる所にあった。築三十年はたとうかというくらい、古い平屋だった。こんな所に家が、とおどろくくらい山と山の合間の小さな集落の中の一軒だ。地図の上ではD町の一部なのに、ここは町はずれからもまだ遠い。
 D町の人たちは、ここをスギタニ村と呼んでいた。昔のままのその呼び名が、しっくり似合うような場所だった。
 耕一はこの夏に十一歳になった。今年の夏は引越し準備で、いつものようにプール通いもできなかった。でも夏休みはまだ半分以上も残っている。
「転勤だと言われた時はあわてたが、いなか暮らしもいいもんだ。前の会社に通うより、道がすいていてずいぶん楽だった」
 マイカー通勤の父さんは、うれしそうに言った。
「転勤一日目だから、遅刻しないよう早めに出たろう? 着いたらまだ会社が開いていなかった」
「あのね、聞いて。本当に人っ子一人見あたらなかったんだってば。変だと思わない?」
 耕一はまだ、言っている。
「ここは都会とは何もかもちがう。人が少ないんだ。都会では百人住んでいた広さに、ここではたったの二人だぞ」
                                    二

「でもね、朝にはいたんだ。畑におじさんがいたり、道をおばさんが歩いていたり。お昼をすぎたら、急にだれもいなくなった」
「そりゃあ、一日中散歩もしてられない。畑仕事だって休憩ぐらい取らなきゃ、体が持たないだろう。昼寝でもしてたんじゃないか」
「みんなで、いっしょに昼寝するの?」
「ここの風習かもしれない。何時から何時までは昼寝すべしと昔から決まってるとか」
「お昼から夕方までも寝るの」
 一日中、村の全部の人たちを見張ってたわけじゃないだろうと、父さんが笑う。
「ほとんど一日庭にいたんだよ、ぼく。自転車みがいてたんだ。それからおかしいなと思って、広い道まで行ってみた」
「よし、わかった。日曜日にはいっしょに買い物に行こう。電車に乗って、デパートまで行こうか。デパートなら人がうじゃうじゃいる」
「父さん、もしかしてぼくがさびしがってると思ってるの?」
「いや、そぅいうわけじゃ」
「父さん、ぼくは一人でもだいじょうぶ。前の家でも一人でやってたろう」

                                    三

「でも向こうでは、隣のおばさんがいたじゃないか」
 隣のおばさんのことを思い出して、耕一は少し鼻の中が痛くなった。引っ越し前は学校から帰ると、毎日隣の家ですごしていた。隣のおばさんは、耕一が赤ちゃんのころからずっとかわいがってくれている。おやつも出してくれたし、宿題も見てくれた。父さんの帰りが遅い日などは、そのまま隣で寝てしまう事もあった。
 耕一は目をそらして、窓の外をながめた。外は真っ暗で、何のあかりも見えない。
「前の家と、ここはちがいすぎるぞ。小学校も遠いしな」
 学校はD町の駅の近くにあり、新学期からバス通学することになっている。
「バス停まで二十分も歩かなきゃならんし」
「自転車ならすぐだよ」
 そう考えると少し楽しみでさえある。引越し前は学校まで歩いて三分だった。便利な事もあったけど、おもしろくない事も多い。学校の帰り道でどこに寄ったとか、こんな物を見たとかじまんする友達が、耕一はいつもうらやましかったからだ。
 
 あくる日、耕一は自分の仕事を大いそぎですませた。耕一の仕事は家の中のそうじだ。父さんは食事の用意、せんたくは共同責任、と去年の春に二人で決めた。早く出かけたかったので、居間にだけ掃除機をかける。

                                    四

 今日は村の中を探検するつもりだった。 前の学校の友だち、真也を呼ぶ前にこのあたりの道ぐらいはしっかりおぼえておかないと。
 夏休みになったら一緒にキャンプに行こうと、去年から真也と約束していた。だのに突然の引越しで、それどころではなくなってしまった。くやしがる真也に、夏休みの間にきっとこっちに呼んでやると約束してきたのだ。何しろ毎日がキャンプみたいな、いなかに引っ越してきたのだから。
 家の前の広い庭から、車一台がやっと通れる幅の道に出る。平らな土地が少ないので、ここの田や畑はゆるやかな斜面そのままにかたむいていた。道だって少しななめになって、隣の家の庭先を通る。隣と言っても、都会で言うそれとはだいぶちがう。一番近い家と言うのが正しい。
 耕一は通りすがりに隣の家をのぞいた。塀も何もないので、戸が開いていると縁側の奥の座敷まで見える。よく風の通りそうなその座敷に、おばあさんがすわっていた。きのう父さんと引越しのあいさつに行った時も、ああやってちんまりとすわっていた。

「今日引っ越してきた、佐野といいます」
 きのう、父さんはずいぶんとよそいきの声を出した。おばあさんはそんな父さんをそっくり返って見上げニコニコした。耕一はその顔に見とれた。しわにうもれて、目も口もどれがどれかわからなかった。

                                    五

「これは息子の耕一です。よろしくお願いします」
「はいはい、おかげさまで。わたしはいたって元気でおります」
「それはそれは。あの、わたしは明日から仕事に出ますもので、この子が一人になります。それで何かと……」
「はい、いつも若く見られます。八十歳くらいですかと、言われたこともあります」
 おばあさんははずかしそうに身をすくめ、クックッとわらった。どうやらおばあさんは耳がよく聞こえないらしかった。父さんは遠くにいる人を呼ぶように、口に手をあてて大声を出した。
「あのーですねっ! 聞こえてますか?」
「いえいえ、どういたしまして」
「わたしはですねっ。ゴミの日をですねっ。お聞きしたいんですっ」
「あら、まあ。お恥ずかしい」
「いえ、そうじゃなくって。そのどこに出すかだとかっ」
 耕一がはずかしくなり父さんを後ろからつついた時、家の裏からおじいさんが出てきた。
 ずいぶん小がらな人で、おばあさんより若そうに見えた。
「ばあさんは耳が遠いんで」
 おじいさんはてれくさそうに笑うと頭を下げた。

                                    六

「目も悪いんで、何もかもぼゃあとしか見えんのです」
 背が低い上にやせているので、耕一より小さく見えた。細いとがった顔の中で鼻と口は小さいのに、目だけがくるんと大きい。
「引っ越してみえられた方だね。山のきわの年造さんの家に」
 あの家がもとは年造さんの家だったのかどうかは知らなかったが、そうですと父さんはほっとした顔になった。おじいさんはおばあさんのそばにより、肩に手をかけて耕一たちの家を指さした。それだけですべてを飲みこんだのか、おばあさんは大きくうなずいた。
「まあ、おかげさまでありがたいこと。あの家もさぞかし喜んでいることでしょう」

 きのうのことを思い出して、耕一はクスクス笑う。
「父さんったら、あんな大声出してさ。きっとこの村の人、みんな聞いてたよね」
 セミが耕一のすぐそばの木に飛んできて、鳴き始めた。このあたりのセミは人間がこわくないようだ。平気で手の届きそうな所にとまっている。
 去年真也と二人でセミを探して公園めぐりをした事を、耕一は思い出す。一日かかっても弱ったアブラゼミ一匹しかとれなかった。ここなら手でだってつかまえられそうだ。めずらしいセミだってきっといるだろう。

                                    七

 真也と二人で過ごせる日のことを想像すると、うれしくて顔がゆるむ。
 そんな事を考えていると、ついぼうっとしていて左右を見わたしもしないで広い道に出てしまった。でもその通りは、まるで裏庭のように静まりかえっていた。道の真ん中にトンボが止まっていたぐらいだ。
 その道ぞいに、普通の家より玄関のガラス戸が二倍広いだけの小さな店がある。食料品からトイレットペーパーまで置いてあった。何でも置いてあるから、店の名前はナンデモ屋というらしい。表のガラス戸にちゃんとそう書いてあるから、まちがいない。
 そのガラス戸を開けて少し太ったおばさんが出てきた。耕一に向かってニッコリし、すぐにまた店の中に消えた。まるで耕一に笑いかけるためだけに出てきたみたいだ。
 道を横切って少し歩くと川がある。川幅はせいぜい三メートル、大きな岩がごろごろしている。いなかの川だからきっと泳げるぞ、と耕一の父さんは言っていた。でもここではとうていむりだ。ひざあたりまでの深さしかない。下流まで行けば、もう少し深い所があるかもしれない。
 川ぞいにしばらく歩いた。今日は暑い日だ。
 耕一はぼうしを取って、流れる汗をふいた。風がヒヤッとして気持ちがいい。川をのぞきこむと水の中にも風が走ってるみたいに、細い影がシュッシュッとすごい速さで動いている。
「今度の日曜、デパートより釣りがいいな。真也が来たら、セミ取りして釣りして、キャンプだ。いそがしいぞ」

                                    八

 いつのまにか日が高くなってきていて、うでがジリジリとこげそうになる。
 のどがかわいてきて、耕一は来た道をもどって行った。広い道に出ると急に強い風が山からおりてきた。なぜかセミがいっせいに鳴きやんだ。
 静かだ。耳の下を流れる血の音が聞こえるくらい。耕一は思わず、その場で立ちすくむ。
 まるで広い野原に一人きり取り残されたような感じがする。きのうもたしか、そんな感じがした。
 人が少ないからだと父さんは言ったけれど、耕一にはどうもそのせいだけじゃない気がする。通りだけじゃなく、ならんだ家の中にも人のいる感じがしない。
「でもさっき、ナンデモ屋にはおばさんがいた」
 耕一は店まで走った。ガラス戸を開けて声をかけたが返事がない。自分で大きな冷蔵庫を開けて、ペットボトルを取り出した。それはまだ入れたばかりなのか冷えていない。耕一はもっと奥に手を入れたが、奥のも冷えていなかった。
「こんにちは。おばさん」
 もう一度声をかけたが、やっぱり返事がなかった。耕一は店の奥にかかっているカーテンを少しめくって、中をのぞいた。目がなれていないせいか真っ暗で何も見えない。家の中で犬でも飼っているのか、何だか動物くさい。

                                    九

「おばさん。いませんか」
 もう一度声をかけると、どこかで返事が聞こえた。何かが落ちた音がし、せわしく戸を開ける音がし、バタバタと足音がする。
 やっと出てきたおばさんは、髪の毛や顔をなぜ回して落ち着かない。
 父さんの言うように、やっぱり昼寝してたのかもしれない。
「ジュースがほしいんだけど、冷蔵庫のはどれも冷えてないみたい」
「ご・ごめんね。朝は電気を入れてたんだけど、つかれたのでちょっと休んでたの」
 自分が休むのに、いちいち冷蔵庫の電気まで止めるんだろうか。
「おばさんとこに、犬いるの?」
「どうして? わたしは、犬は大きらい」
 じゃ、いったいへやの中で、何を飼っているんだろう。おばさんの腕についた何本かの茶色い毛は、ネコのにしては太すぎるみたい。
「ジュース、いいや。冷えてないなら」
 そう言い訳し、耕一は後ずさりして店を出るといちもくさんに家まで走った。

                                    十

 帰って来た父さんは大笑いした。
「やっぱり、笑うと思った」
 耕一はため息をついた。
「悪かった。日曜になったら、一日おまえとつきあうよ。この村をすみからすみまで探検して、スギタニ村の秘密を探ろう」
「日曜までなんて待ってられないよ」
 父さんの飼ってきた夕食のおかずを見て、耕一はついうんざりした声を出した。
「父さん、きのうはコロッケで今日はミンチカツ?」
「おまえが好きだと思ったんだ。日曜にはちゃんと料理する」
 耕一はたしかにミンチカツが大好物だ。だから、父さんの分のミンチカツにまで手を出した。しょげかえっていた父さんが、とくいげにふんぞりかえった。
「ほらみろ、うまいだろうが。駅前で評判の肉屋だ。そこの特大ミンチカツなんだぞ」
 
 あくる日もやっぱり、急にぽっかりと人影が消えた。きのうよりもおとといよりも、時間が早い。まだやっと、朝の九時を回ったばかりだった。気のせいなんかじゃない。この村中に、人のいる感じがしない。

                                    十一

 村の人がみんないなくなる理由を、耕一は考えてみた。何かの集まりがあって、町に行った。でなければ、山からクマかなんかが出てきて避難した。
「ぼく一人を置いて?」
 じっとしていられなくて、耕一は家を出て走った。ナンデモ屋は店の中の電気も消えている。
 後ろを何かが走った気がしてふりむくと、向かいの家の生垣の中に、大きなトンボが入っていった。だれかが走ってくる足音を聞いたように思い耳をすます。でもそれは鳥の羽音だ。大きなカラスがおりてきて、よたよたと道を横ぎっていく。チラッと耕一の方を見て、グゲェと鳴いた。
「どうなってるんだよ、この村」
 耕一はトンボが入って行った生垣の中をのぞいた。庭はたった今そうじが終わったばかりのように、土にほうきではいたすじが見える。玄関の戸はよくしぼらないぞうきんでふいたのか、まだらにぐっしょりぬれている。
 耕一は玄関まで行って、ぬれた戸をながめた。
 でも何か変だ。戸のぬれた所に、白っぽい毛がいっぱいへばりついている。ふきそうじにブラシなんか使うだろうか。
「使うかもしれない」と、耕一は思いなおす。玄関の戸の格子をきれいにするのにブラシは便利かもしれない。
 玄関の戸に手をかけた。もしだれかが出てきたら、ナンデモ屋は今日はお休みですかと聞けばいい。

                                    十二

 格子戸はガタガタ動くのに開かない。カギがかかっているのではなさそうだ。古い戸なので開きにくいだけだ。耕一は両手をかけてふんばった。ギギギィッといやな音をたててきしみ、やっと手が入るだけ開いた。耕一は歯を食いしばって、もっと力をこめた。向こうで押さえていただれかがあきらめたように、急に戸が動いた。
 バンッ! 大きな音がした。そのとたんに目の前を何かが落ちた。白いほこりがまい上がり、耕一は口をおさえて顔をそむけた。ひび割れたセメントのたたきに、ごっそりと落ちたのは壁土だ。
 だれだ! とどなる人もいない。ちっともしずまらないほこりの向こうに、耕一は見た。
あなのあいた屋根から光がさしこみ、中のようすがすみからすみまで見わたせる。
 ざしきのたたみはみんな上げられ、すみにたてかけられていて、そこでくさり始めている。床下からのびたひょろ長い草。ななめになってぶら下がる開き戸、雨水のあとだらけの押入れのふすま、切れたクモの巣がかすかにゆれている。
 耕一はその家から走り出て、その隣へも行ってみた。ここの戸はすんなりと開いた。中は暗い。開けたとたん、暗闇の中を何かが走った。何か白い小さい物。
「うわっ!」
 耕一はあわてて戸を閉める。その隣の家で物音がした。何かをひっくり返すような音。きっと人間じゃないと思ったから、見たくはなかった。でもその家の戸は最初から開いていた。

                                    十三

 通りすがりにいやでも中が見える。ぼろぼろに破れた障子戸がはずれてかたむいている。床から伸びる大きくなりすぎたたけのこが、何だかゆれているみたいだ。
「人間なんか一人もいないんだ」
 耕一はぶるぶるふるえながらつぶやいた。
どの家も、何年も前に人間に捨てられた家ばかりだ。
 じゃあ、朝方にこのあたりにいた人たちはいったいどこに住んでいたんだろう。あれは人間じゃなかったのか。ゆうれいだろうか。
 耕一は自分の家に向かって、必死で走った。
「だからぼくが、ここは変だと言ったんだ。父さんに電話して、帰ってきてもらおう」
 風でぼうしが飛ぶのにもかまわず、耕一は走った。隣の家も走りすぎようとしたが、目のすみにちらと写った人影に気づいて立ち止まった。
 おばあさんだ。おばあさんが庭の木かげで、つえによりかかって、ぼんやりと顔を空に向けている。石をふんで近づく耕一の方を見もしない。おばあさんのまん前まで行くと、やっと気がついたようすで「あれあれ」とやさしい声をあげた。
「だぁれ。おじいさんじゃないね。ああ、隣の坊だ。当たったでしょう」

                                    十四

「うん」
「遊びに来てくれたの。うれしいねぇ」
「ううん、そうじゃなくて」
 耳が聞こえないおばあさんに、どうやって伝えたらいいかと耕一は考えた。それにいったい何て言うんだ。ここはゆうれい村だって、言うのか。
「いい村でしょう。だってここはみんながなかよしなんだもの。家族みたいに」
「ぼく、父さんに電話するから」
「おかげさまで、坊とももうなかよしだわね」
「おばあさん、この村は変だよ。逃げたほうがいいよ」
 開けはなった家の中で物音がした。耕一の目は強い日ざしでくらんでいて何も見えない。
 何か動くものがいる。ぼんやりと見えてくる。
「あっ、おじいさん」
 よかった、と耕一は力をぬいた。そうだった、おじいさんもいたんだ。
「ねえ、おじいさん。ここはどうなってるの? どうして他にだれもいないの」
 おじいさんは日のあたる所までは出てこないで、小さなため息をついた。

                                   十五

「たのむから、ばあさんはそっとしておいてやってくれんか」
「だって、おじいさん」
「ばあさんはこの村にもう九十六年も住んでいるんだよ。よそへは行きたがらないのでね。わしはばあさんのためにこの村を守ってやりたいんだ」
 おじいさんはゆっくりと、かみしめるように言葉を選ぶ。
「ばあさんのためだけじゃない。この村をなくしたくはないんだよ」
 おじいさんの後ろで、白い長い何かがふわりとゆれた。
「うんと昔この村は、戦に負けて逃げてきた人のかくれ里だったそうだ。ひっそりと身をひそめ、みんながよりそって生きてきた。だがかくれる理由がなくなったか、わすれたかして、みんな出て行ってしまった。それまで一緒に生きてきたものたちのことを置きざりにしてな」
 おじいさんの後ろで、また長いものが動く。
「半年前、見たこともない人間が三人来た。ここにゴルフ場を作りたいと言う。村の両わきの山をけずるんだそうだ。じいさんがあんなに怒ったのを初めて見た。わしはびっくりして、まる一日縁の下にかくれていた」
「ねえ、後ろに何かいる」
 たまりかねて、耕一は口に出した。

                                    十六

 ああこれかとおじいさんはわらい、手にその白い物をつかんだ。
「これはわしのさ。つまりその、わしのしっぽなんだ」
 おじいさんはそろそろと日のあたる所に出てくる。
「みんなも努力したんだ。それはわかっておくれ。わしたちはあんたたちを歓迎していると言ったろう。村をなくさないためには、住む人がいる。住む人が大勢いれば、ゴルフ場はできない。まちがっているかな?」
 暑い日差しにじりじり焼かれながら、耕一のふるえは止まらない。
「だがずっと人間の形でいるのは、思った以上につかれることだった」
 逃げようと思っても、足がいうことをきかなかった。そんな耕一の目の前で、おじいさんの鼻のわきに、まっすぐなヒゲがむずむずと何本かのびる。灰色の髪の毛の間から、三角の耳がムクッと出てくる。
「とてもまる一日は持たないんだ。とくにナンデモ屋のおかみなんかは、自分の力で電気も通すものだから、このごろやつれちまった。あのおかみはこのあたりじゃ有名な、神通力の持ち主なんだがね」
「デンキ?」
「ああ、この村で本当の電気が通っているのはここの家と、坊の所だけなんでな」
 耕一はおじいさんのうでに、白い毛がびっしりはえるのを見た。
「こわがらせるつもりはないんだが」

                                    十七

 おじいさんはもうしわけなさそうに、首をたれた。
「ナンデモ屋さんのおばさんも人間じゃないの?」
「あれはタヌキだ。そのほかのものたちも、みんな昔からここでなかよく暮らしてきた生き物たちだよ」
「おばあさんは?」
「坊たちが来るまでは、村でたった一人の人間だった」
 おじいさんの、いやねこの、話を聞いていたようにだまっていたおばあさんが、手をふっておじいさんを呼んだ。
「おじいさん。今日は夕立がきそうですよ。赤くなったトマトが、いくつかありますか」
 おじいさんがおばあさんの手をにぎって、もう片方の手で軽くたたいた。
「たくさんなっているなら、もいでおかなくちゃ。冷たい雨にあたると皮がはじけてしまいますから」
 おばあさんは耕一の方に顔を向けた。
「ねえ、坊。町の朝市に出せるくらい赤いトマトがあれば、おかしを買ってきてもらいましょう。だからまた、遊びにきてね」
 耕一は、ついうなずいてしまった。でも、今はそれどころじゃない。
 おじいさんと呼んでもいいものかどうかとまよいながら、耕一は言った。何しろ今は、すっかりまるごと大きなネコになっていたからだ。

                                    十八

「おばあさんは知っているの? おじいさんがネコだってこと」
「いいや、本当のじいさんは三ヶ月前になくなったんだが、ばあさんはもっと昔から目も耳もすっかりだめだったのでな。ばあさんはこの村だって、まだ昔のままだと思ってるだろう」
 おじいさんネコは、だまりこんだ耕一を不安そうに見上げた。
「にげださないでいてくれるかな。むりだろうか。わしらはこの三ヶ月、がんばった。外のだれにも、ここにばあさんしかいないということを知られないように。坊たちが協力してくれれば、もっとうまくいくんだが」
 おじいさんネコは、耳をふせうなだれた。

 耕一はだまって、とぼとぼと家にもどった。ざしきにべったり寝ころぶと、タンスの上の写真たてが目に入った。その小さな四角の中で、耕一のお母さんがわらっている。
 母さんが天国に行ってしまってから、二年もたった。母さんの声を思い出すことができないのに気づいて、耕一の目じりになみだがたまった。

「今日はいやにおとなしいんだな」
 父さんが言う。

                                   十九

「ぼくだっていろいろと考える事はあるよ」
「まさか、前の家が恋しくなったとか」
 さりげなくそう言いながら、父さんの目が真剣になっている。
「ねえ、父さん。もし、だよ。ここにさ、この村にゴルフ場ができたらどうなる?」
「急におかしな事を言い出したな」
 父さんはわけがわからなくて、ぽかんとした。ふいに外でガッガッと、にぎやかにカエルが鳴きだした。
「カエルがいなくなるかな」
 父さんはそう言った。
「木がたくさん切られて、虫もいなくなる。山に住んでいたいろんな動物の居場所がなくなる。もっとほかにもあるかな」
「いいこと、ないんだね」
「ひとつくらいはあるかもしれない。大金をはたいて、そんな物を作ろうと思う人がいるんだから」
「たったひとつのいいことのために、いろんないいことをなくすのはばかげてるよ」
「みんな同じものをいいと思えばな」
 耕一は立っていって、窓の外を見た。

                                   二十

 太陽はとっくに山の向こうに消えていたが、村はおだやかにうす明るかった。
「父さん、ずっとここにいようね。ぼく、ここが好きだ」
「何だ、きのうは変な所だって言ってたのに」
「母さんもいたら、きっと言うだろうな。ここが好きだって」
 ほう、としか父さんは言わなかった。二年前から一度も、母さんのことを口にしなかった耕一だった。
 急に窓ガラスを風が鳴らす。耕一が窓を開けると、いっきに濃い山のにおいが部屋中にあふれた。
「父さん、真っ黒な雲が走ってくる!」
 耕一がさけんだ時、村に最初の雨つぶが落ちた。
「おばあさんの、言ったとおりだ!」
「わっ、耕一。窓を閉めるんだ」
 稲光が真昼のように、山の合間の村を浮かび上がらせた。深い緑の中に、道が白く光って見える。その道はおばあさんの家に向かい、広い通りに出て、スギタニ村の家という家を一軒残らずつないでいる。どの家もあき家には見えなかった。おばあさんの心の中にある昔の村のままだった。
『耕一、ご飯よ』
 母さんの声だ。

                                  二十一

 幸一はふりかえらず、窓ガラスにひたいをおしつけて耳をすませた。だがそれっきり、聞こえてはこなかった。
 おそるおそるふりむくと、父さんはビールをついだコップを持ち上げて、乾杯の合図をしている。今日の夕食は、駅前の肉屋で買った特製巨大ハンバーグだ。
「母さんのハンバーグ、おいしかったね」
 耕一がそう言うと、父さんは口いっぱいにほおばったままかすかにうなずいて、もう二年前みたいには泣かなかった。







                                  二十二


本棚に戻す