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たいせつな物
「もうこれで本当に、多美はこの世にいなくなってしまうのね」
幸一の叔母は火葬場で、そう言って新たな涙を流した。叔母が駆けつけたのは母の多美が亡くなって三時間後のことだった。
もうすっかり冷たくなっている母の体に触っても、納得できなかったのだろう。何しろ余りに急な事だったから。母はまだ五十半ばで、自分の体を蝕んでいる病に気づかなかった。気がついたときはもうどうしようもなかったのだ。
炉の中に引き込まれていく棺おけを見ながら、幸一はふと昔の事を思い出した。たぶん幸一はまだ十歳ぐらいであったと思う。母は季節の変わり目の衣類整理をしていたから、五月の終わりか、六月の初めぐらいだろうか。幸一が家にいたのだから、休日だったのだろう。
「母さん、昼ごはんは?」
「手が離せないのよ」
母は部屋中に衣装ケースや段ボール箱を広げて、その中に埋れていた。
「戸棚にインスタントラーメンがあったでしょ。悪いけどお昼はそれで済ませて」
「やった!」
幸一は母の作る焼き飯や丼より、ラーメンが食べたかったので小躍りした。
一 |
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台所に行こうとして、大きな段ボール箱の陰にある木の箱が目に付いた。それがあまりにこの間祖父の葬式で見たものと似ていたので、つい口に出た。
「母さん。その箱、棺おけみたいだね」
それはむろん本物の棺おけほど大きくはなく、せいぜい五十センチぐらいの長さの木の箱だった。今から思えば大き目の花瓶でも入っていそうな箱だっ たが、幸一の言葉に母は顔色を変えた。いきなり手元にあった防虫剤の袋を幸一に投げつけると、何てこと言うのよと声を震わせた。普段そんなふうに激しく感情をぶつける事のない人だったので、幸一はショックで胸がつまった。
母はその箱を隠すように手前の段ボール箱を引き寄せ、へんな冗談を言うものではないわと笑顔を作った。
その時はそのまま箱のことは忘れてしまったのだが、それからひと月ほどたった頃の事だ。学校の家庭科の授業で、ボタンがいることになった。
「三個ぐらいあればいいんだ。わざわざ買うなって先生が…」
「押入れの左の隅に針箱があるわ。たぶんその中に入ってると思うんだけど」
もう午後の九時を回っていて、母はテレビドラマに夢中になっていた。幸一はしばらく待ってみたけど、母が探しに行ってくれそうもなかったので、自分で探しに行った。
針箱はすぐに見つかった。取り出そうとしたが何かに引っ かかっていて、なかなか出せなかった。
二 |
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押したり引いたりゆすぶったりしてやっと取り出した時に、押入れの奥にあの箱を見た。棺おけのようなと言って怒られたあの箱だ。
針箱が引っかかっていたのはその箱らしく、押入れの奥で斜めになっている。元通りにしておかないといけないが、その前にちょっと出してみても、と幸一は思った。振り返って耳を澄ますと、居間からテレビの音が聞こえる。まだまだドラマは終わらない。母はテレビの前から動かないだろう。
そうっと箱に手をかけた。思ったより軽い。でも空っぽじゃない。何かが入っている感じはする。
抱えたままちょっとゆすってみる。
ゴトゴトと箱のふちに何かが当たる音がした。固いものだろうけど、音は柔らかい。きっと何かが柔らかい物でくるんであるのだ。
幸一は箱をそうっと下におろし、ふたに手をかけた。開かない。隙間に爪を差し込んで、力を入れた。ふたはそれでもびくともしなかっ た。よく見ると釘付けしてあるのだ。
幸一はまた祖父の葬式の事を思い出した。これじゃ 本当に棺おけみたいじゃないかと思った。
その事があってから二・ 三日後の事だ。父がテレビのニュースを見ていた。古いアパートが写っていた。入り口に青いシートが張られ、たくさんの人がいる。マイクを持った男の人がしゃべっている。
「父さん、何があっ たの?」
三 |
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幸一が聞くと父は恐ろしい女だ、と言った。
「アパートの押入れに赤ん坊の骨を隠してたんだ」
「子供に変な事、言わないでよ」
母が横から口を出す。
「変な事じゃないさ。本当に起こった事だ。どういう神経してるんだろうな。赤ん坊の骨と何年も一緒に暮らしてたんだ」
幸一は顔をしかめた。
「気持ち悪ぅ」
母がテレビのリモコンを取ると、電源を切っ た。
「何するんだよ」
父が怒ると、母は幸一達に背を向けたまま静かな声で言った。
「あの女の人にとって、とても大切なものだったからよ。だから捨てられなかったの。気持ち悪くなんかないわ」
「でも犯罪だぜ」と、父は言った。
「自分で殺していなくてもな」
幸一はその時まだ子供だったにもかかわらず、流しの前に立った母の背中に尋常でないものを感じた。まだ何か母に言おうとする父を止めようとして、とっさに父の手のタバコ を取り上げ、自分の口にくわえた。
四 |
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思惑通り父はそれ以上母を傷つける言葉を口にせず、涙を流して咳き込む幸一の背中をなぜ続けた。
あの時の苦しさが忘れられず、二十歳を過ぎた今でもタバコに手は出さないでいる。
その後数年して、両親は離婚してしまった。
原因の一つはもしかするとあの時、父が言おうとしていた言葉だったかもしれない。父はきっと幸一のいない所で、その言葉を口にしてしまったのだ。
それから一度も父とは会わず、母の葬式にもとうとう来なかった。
「あの箱は、どうなったんだろう」
叔母も、見た事もない親戚も帰ってしまい、幸一は一人で母のマンションに入った。幸一が地方の大学に入学して以来、母は一人でここに住んでいた。
押入れを開けると母の匂いが強く立って、幸一は思わずひるんだ。
「叔母に任せた方がいいんだろうか」
整然と片付けられた押入れを覗いて、できれば見ないで済ましたい思いに駆られる。母は息子に見られたくないんじゃ ないだろうか。
叔母ならもしかすると、母の秘密を知っていたかもしれない。
五 |
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誰の目にも触れないように、始末をつけてくれるかもという気がした。
でも箱の中身が赤ん坊の骨であると決まったわけではないのだ。全ては幸一の思い過ごしかもしれない。ただあの箱が棺おけに似ていたと言うだけで。
針箱を引き出すと、あの箱は昔と同じようにその奥にあった。持ち上げて振ってみた。
何の音もしない。しかも箱のふたを止めつけてあった釘は抜き取られていた。幸一は震える指でふたを開けた。
中はガーゼのような柔らかい布がいっぱいに詰まっていた。さぐってもさぐってもそれ以外の物はなかった。
幸一は箱をひざの中に抱え、執拗に箱の中をかき回しながら、自分でも気づかずに涙を流していた。
いったい何が入っていたのか、そしてそれが今はどこにあるのか、結局分からないままだった。箱の中身が一人息子の自分より大切な物だったんじゃないかと思え、捨てられた子供のように幸一は泣き続けていた。
六 |