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手の中のホタル
花火が上がり出した。祭りはこれからクライマックスを迎えるところだ。町を練り歩いたいくつもの踊りの列は、城あとの下にあるグラウンドに流れこんで、巨大な踊りの輪になりゆれ動いている。小さな城下町の祭りは観光客めあてに、年ごとに派手になっていく。
「まだ帰りとうないね」
ツグミと多美は何度かその言葉を交わし会った。おもしろいのはこれからだ。なのに学校の決まりで、八時には帰宅する事となっている。もう十分程しか余裕はなかった。
ツグミと多美は小学校の三年からずっと同じクラスで、よほど縁があるのかこの春中学に進学しても、また同じクラスになった。ふたごと言われるほど、どこに行くのも一緒のなかよしだ。今日の祭りも、まだ日が暮れる前から待ち合わせて出てきた。
「さっき見世物小屋の前に、うちのクラスの佐々木さんたちがおったの見た?」
多美がツグミを振り返って言った。佐々木奈津子ほか五人くらいのグループはクラスで目立ってはなやかな女生徒たちだった。今日はその中に、知らない男の子たちも幾人か混じっていた。
「今から入る気やろか。今からやと、絶対八時には帰られへんのにな」
多美は非難がましく言う。そこには少しねたましい気持ちも混ざっているのが、ツグミにも感じられる。
「あの人らな、いろんなうわさあるのん知ってる?」
一 |
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多美はうわさ話にくわしい。いつも一緒にいるツグミの、知らないうわさをいくつも知っていた。
「何、教えて。わたし、あんまり知らんの」
「となり町にワルのたまり場があってな。そこにいるのを見た人がいるのやて。真夜中にやで」
ツグミはそこで佐々木さんを見た人の事を考えた。真夜中にワルのたまり場の付近にいたその人は、いったい誰だろう。
誰にそのうわさを聞いたのか、とたずねようとしてツグミが口を開きかけると「あっ、ちょっと待っといて」と、多美が急に足を止めた。
「妹におみやげ買うていくわ」
そう言いながらもう、ヨーヨーつりの店の前にしゃがみこんでいる。多美には年のはなれた幼い妹がいた。妹のことを話す時、多美はまるで母親のような顔になった。
「今日も連れてってくれ言うて泣くんよ。そやけど途中で寝てしまうに決まっとるからな。気づかれんように出てくるの、苦労したんよ」
紙のつりヒモを手にとると、多美はすぐに子供の顔に返って夢中になった。ツグミは手持ちぶさたに、そのそばに突っ立っていた。
「せえへんのやったら、のけよ!」
二 |
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一つ二つ年下らしい男の子たちの三人づれが来て、ツグミを押しのけた。いやもおうもない言い方でくやしくて涙ぐみそうになり、ツグミはそこから離れた。
夜店の並んだ通りは昼間のようににぎやかだが、一歩それた横道は真っ暗で今の時間をいやでも思い知らされる。
「多美ちゃん、早う終わるとええのに。八時になってしまう」
ツグミが一人気をもんでいると、暗がりから口笛が聞こえた。横道を入った所の塀に、もたれている人がいる。自分を呼んだのではないだろうと思って、ツグミはにぎやかな通りの方を見たが、他に誰もその口笛に答える人はなかった。
「ツグミちゃん。ツグミちゃん」
どこかで聞いた声だと思った。明りがとどかないので、顔が見えない。
「おいでよ。ええもん、あげる」
塀から体を起こしたので、暗がりから頭が出て見えた。赤茶色の髪が、肩までたれている。それだけ見て、だれだか分かった。ツグミの家の近所の松田ショウだ。今年に高校生になったばかりだから、ツグミとは三つちがいである。
小さい時、二人はよく一緒に遊んだ。ツグミはショウの行く所、どこへでもついていった。
三 |
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一度五キロはなれたとなり町までついていったことがある。どうして二人だけでそんな遠い所まで行 たのかわからない。ツグミはまだ学校に上がる前だっ た。とちゅうで歩けなくなり、おぶっ てもらった覚えがある。他のことは何も覚えていないのに、ショウの背中から間近く見たいがぐり頭の汗のつぶが、今もまざまざとツグミの目に浮かぶ。
会っても声もかけずに通り過ぎるようになったのは、いつの頃からだったろうとツグミは思った。この頃は実際、姿さえ見かけなかった。きのう、母親からショウのうわさを聞いたばかりだったので、髪の毛だけでショウだと分かったのだ。
『ショウ君な、高校に入ってから不良になったな。赤い髪の毛しとる。夜おそくまで町をうろついてるらしいで。ツグミ、気ぃつけや』
何に気ぃつけるんと、ツグミが聞くと母は決まってるやないと声を高くした。
『近よったらあかん。話しかけられても相手にせんのや。幼なじみゆうて、気ぃゆるしたらあかんでぇ』
あの時、ツグミは腹を立てた。ショウのために、何か母に言い返したく思った。なのに今間近にショウを見て、警戒心で足がすくんでいる。
ツグミは振り返って多美の姿を探した。人ごみにまぎれて見つからなかった。
「ほら、あげる。両手を合わせて丸うして。ぼくがしとるみたいに」
四 |
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ツグミのそばに近づいてきたショウは、自分の手を上げて見せた。思わず知らずまねをすると、ショウは自分の手を少し開いて見せた。やせた手のひらに、青白い光がともっていた。ホタルだ た。
「ここに来る途中の、田んぼの畦で見つけた。まだ、この町にもおるんやね。何年ぶりやろう。ホタルなんか見るの」
ホタルはツグミの手の中に移って、一瞬光を弱め、それからさらに強く光った。
ツグミはホタルに見入った。横目でそっとショウの肩にたれた赤い髪の毛にも見入った。その長く伸びた髪のせいで、昔のショウとは別人のように見えた。
両手が自由になったショウは、だぶだぶの半ズボンのポケットからタバコを出し、くわえている。
なれた手つきで火をつけると、白い煙りを吐き出した。
自分とたいして年の違わない者が、タバコを吸う現場を見るのは初めてだった。ツグミは息を飲んで立ち尽くすばかりだ。
それを見てショウはフッと口のはじでわらい、赤い髪をバサッとふり上げた。鳥が翼を広げた時の音のようだった。空に飛びたったのではないかと思うくらい、ショウは忽然と姿を消した。
彼は佐々木さんたちと見世物小屋に入るのではないかと、突然にツグミは思った。ショウと彼女がお互いに知り合いであるという、確信などなかったのにもかかわらず。
五 |
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長い髪の毛の巻きついた顔で生きたヘビを口にする女や、牛の手足を持つ男やらのはでな看板が目に浮かんだ。呼び込みの口上はせっぱつまって、今すぐに中に飛び込まねば一生の不覚をとるのではないかと人の気持ちをあせらせる。
( ショウは入り口で、吸いかけのタバコを捨て踏みにじるのだろう。佐々木さんはおそかったやないのと、ショウの腕に自分の腕をからめて見世物小屋に引きずりこむ。小屋の暗がりに入りこんだとたんに、佐々木さんの顔は変化しだすのだ。眉は細く吊り上がり、目は金色の光をおびて、唇は血の色に大きく裂ける。ショウは小屋の中の何か、ツグミのいる場所からは見えない何か、に気をとられていて佐々木さんの顔の変化に気づいていない。どんどんと奥へ奥へと入りこんでいく。
ショウちゃん!
ツグミは叫ぶ。後を追って見世物小屋に足を踏み入れる。だがもう、ショウの姿はどこにもない。真 暗闇で足もとも見えない。
ツグミは思いついて、丸くした両手をわずかに開き頭上にかかげた。ホタルの頼りなげな光でも、ここでは充分ツグミの手を暗闇の中に浮かばせて見せる。その手は花のように、闇の中でうす青く輝いて開いた。
見て! ショウちゃん。これが目印、出口への目印や。
六 |
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ツグミはその場で手をかかげたまま、闇に向かって叫んだ。それ以上闇の中に踏みこむ勇気はなかった。)
「どうしたん、ツグミ。またぼうっとしてる」
多美は手に、色とりどりのヨーヨーを三つもさげていた。ツグミはあわてて、両手を体の陰にした。
多美は気づいたふうもなく、「もう八時やに。急がな」と先に立った。おそくなったのは多美のせいなのに、ひとことの弁解もない。
暗いけど近道だからと、多美は町中をはずれた。小川ぞいの小道だ。車も通らない。多美の家はツグミの家より手前にある。送って行こうかと、多美がふりむいた。ツグミは両手を体の陰にしたまま、首を横にふった。
「いいよ。すぐそこやもん」
両手を胸の所で抱くようにしてながめた。指をすかして、青白い光が呼吸するように点滅している。少しづつ手を開いて、夜空にかざしてみた。その手が花のようには見えないことに気づいて、ツグミは少しがっかりした。
「はよ、行き」
指に止まったホタルに、ツグミは声に出して言った。フッと息をはきかけると、やっとホタルは飛んだ。からっぽの手のひらをながめて、ツグミは悔やんだ。手の中にあったふんわりと暖かかな何かまで、飛んでいってしまったようだ。最初からホタルなど受け取らなければよかったと、ツグミはそのことまで悔やんでいた。
七 |
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両手を丸めたままなら、ショウは見世物小屋にも入れないだろうに。
ドンドドンドン! 鈍い響きにふりかえると、花火が空の半分をふさいでいた。
次にショ ウに会ったのはそれから四ヶ月も後の事、冬休みに入る前の寒い朝だった。その日、朝起きてカーテンを開けると庭の木々 さえうすい影にしか見えなかっ た。濃い霧が一面に、たちこめていたのだ。
「ぬれるでぇ。カッパ着ていきや」
学校鞄を持って玄関に立つツグミに、母親はくりかえして言った。
「ええって。帰りに荷物になる」
ツグミも何度目かの、同じ言葉で返事をした。回りを山に取り囲まれたこの町は、冬になると始終濃い霧がわいた。そんな日は昼間になるとカラリと晴れ上がるのだが、学校まで十分ばかりの道のりを歩くと、紺サージの制服はじっとりしめってしまう。
それでも帰りに余分な荷物を持つよりはましだった。
いつものとおり久美の家に誘いによると、「熱出しとるで、休ませるわな」と、玄関に久美の母親の声が飛んできた。合間に三つになる久美の妹の泣き声が聞こえ、物の落ちる音、父親らしいどなり声、それをなだめる年よりの声も聞こえる。
八 |
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こんな活気のある中で暮らしている多美のことを、ツグミはうらやましく思った。
六つ違いのたった一人の兄が遠くの大学に行ってから、ツグミの家はよけいにひっそりとしている。母が寂しさをふり払うようにわざと大声で話しするのが、かえって空々しく家の中を空虚にする。
数メー トル先の物がかすんで見える程、その日の霧は一段と濃かった。ライトをつけた車がゆっくりと姿を現し、またそろそろと消えていった。いつもなら登校する学生たちや、自転車で駅まで急ぐ人たちでひっきりなしのこの道が、今日はどうしたことか誰も通らない。
ツグミは手首の時計を何度か見た。いつもより少し早かった。久美の出てくるのを待たなくてもよか たので、その分早いのだろう。
銀行の角を曲がった時、前を行く人影に気づいた。ショウだった。赤茶色にまだらに染まった髪の毛ですぐに分かった。だが彼は、電車でふた駅むこうにある高校に通っている。駅とは反対方向に向かうこの道を、歩いているはずはなかった。紺色のブレザーと灰色のズボンは、学校の制服らしいが、通学鞄は持ってはいない。
いったい、どこに行くんだろう。
ツグミは歩調をゆるめ、気づかれない程度に間をとってショ ウの後ろ姿を見つめた。
ショウはまたやせたみたいだと、ツグミは思った。背ばかり伸びて、長い手足をもてあましているようだ。
十字路に来た。ショウはまっすぐに歩いて行く。
九 |
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ツグミは立ち止まって迷った。学校へ行くには右に曲がらなければならない。でも十分ばかりまわり道をしても、遅刻しないだけの時間の余裕はあった。
ツグミはシ ウの後をついて行った。小さい頃の二人そのままだ。ツグミの事を気にもかけず先に行くショウ、見失うまいと小走りになるツグミ。毎朝ショウの家まで行くのは、幼い頃のツグミの日課だった。いつも自分の家のように、くったくなく家に上がりこんで遊んだ。ショウが外に出れば、どこへでもついていった。ショウはすぐに同年輩の男の子たちと遊ぶ方がおもしろくなり、ツグミの存在など忘れて走り回る。その後をツグミはいつも、必死で追いかけていた。
かわいそうな程だったよと、ツグミの母親はよく思い出して言っていた。泣きもしないで、ショウを見失うまいと必死で走っていたそうだ。
シ ウの母親を、ツグミはかすかに覚えている。髪の毛をたばねもせずに、娘みたいに背中にたらしていた。子供にお愛想する人ではなく、毎日のように遊びに行っていたのに口をきいた覚えがない。
ショウの母親は今はいない。ツグミにははっきりとした記憶はないが、ずいぶん前に亡くなったのだと思う。ショウは、父親と二人きりの生活を長く続けていた。
自動車の警笛におどろかされて我にかえった時、いつのまにか町はずれにまで来ている事に気づいた。ツグミはうろたえて足を止めた。家並がまばらになり、霧は風に吹きはらわれて、遠ざかっていくシ ウの後ろ姿がはっきりと見える。ショウはいったい、どこに行くつもりなのだろう。
十 |
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ここから田ばかりの見晴らしのいい道をしばらく行くと、山あいのくねって続く上り坂になり、家さえとぎれる寂しい道になる。となり町の集落が見えるまでは、四・ 五十分は歩かなくてはならない。
ツグミは向きを変え、道を戻った。
振り返りたい気持ちを押さえて走りだした。鞄がカタカタと鳴り、ショウが気づいたのではないかと思うと顔がほてった。学校には何とか遅刻しないですんだが、その日は一日中霧の中に消えていくショウの背中が、頭から消えなかった。
ショウはほかの男の子たちとまるで違うと、ツグミは思う。いっそう伸びた、あの赤い髪の毛のせいだろうか。あるいは深い霧のせいでもあったろうか。何か人間離れした力でもそなえていそうな、あるいはもともと人間でさえもないのかもしれない。
( 山あいにはまだ深い霧が残っている。逃げ場のない霧はただよいゆれて、ショウをつつむ。何のために? もちろん彼の姿をかくすためだ。ショウには、だれにも見られてはならない秘密があるにちがいなかった。
ショウは道をはずれて、けもの道のような所に入る。木がおおいかぶさっ て、ショウの後を行くツグミの行く手をはばむ。ショウの後ろ姿が遠ざかる。とてもついて行くことができない。
ツグミは途方にくれて立ちつくす。幼い時にできたことが、どうして今はできないのだろうか。
十一 |
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そこではたと思いあたる。幼い時に戻ればいい。ツグミは念じる。全力をあげて、念じる。
四才のツグミは、近所のショウちゃんが大好きだった。
ショウちゃんはかけっこにしても、すもうにしても木登りにしても、誰より早くうまかった。同年輩の誰よりも背が高く、大きな手をしていた。やわらかな少し鼻にかかった声で話した。小さい頃のショウの事を一つ一つ思い出していると、めまいがしてまわりの景色がぐらっと動く。
ツグミは地面に手をついて、閉じた目をそっと開いてみる。するとさっき、顔の所まで伸びて行く手をはばんでいた木々がない。
見上げるとそれは頭の上で、どうやらツグミは四才の頃の身長になっているらしい。ツグミは走りだす。これならきっと、ショウに追いつけるだろう。)
「ツグミ!」
ツグミの母親が少し怒ったような声を出した。
なんやのんと返事して、ツグミは振り返っ た。
「なんやのんやあらへん。いつまでそこにいるつもりや。いいかげんに靴脱いで上がったらどないや」
母親の言葉にツグミはやっと自分の今いる所がどこか気づく。学校から帰って、玄関に腰をおろし、靴を脱ごうとしたその瞬間のまましばらく動きが止まっていたらしい。
十二 |
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「ええ若いもんが、とろとろして。ちゃっちゃっと動きいや」
母親のこごとから逃れようとして、ツグミは言わずでもがなの事を言ってしまう。
「ショウちゃんってたしか、O 市の高校やったよな」
ツグミの言葉に、母親はキッとなって振り向いた。
「何やて」
「別に何でもないよ。今朝、となり町に行く道を歩いてるん見たから。学校はどこやったかなと、思ただけ」
妙に言い訳じみて聞こえ、ツグミは顔を赤らめた。
「あんな子に関わりあわんときや。あれはほんまもんの不良や」
「髪の毛染めてるだけやんか」
「何言うてんねん。髪の毛染めたら、りっぱな不良や」
「お母ちゃんの頭は古い。今どきそんなこと言う人あらへん
「そういうことから、だんだん悪うなっていくのや。子供のころはええ子やったのに、なんであないになったんやろ。やっぱり母ちゃんのしたことがしたことやからな。子供が悪うなるのんも、無理ないわな」
ツグミの母親はあきらかに口がすべったという顔をし、それ以上しゃべろうとはしなかった。
ショウには本当に秘密があった。ツグミは自分の部屋に入って、電灯はつけないまま窓を細目に開けた。
十三 |
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矢のような鋭さで流れこんでくる冷気に、頬がこわばった。ここからは隣の庭の樹木ごしに、ショウの家のあかりがちらちらと見える。夏場だと窓が開けはなってあるので、どうかすると部屋の中まで垣間見える。茶の間らしい明りの中を、時たまショウだか彼の父親だかは見分けられないが、横ぎるのが見えたりする。寒いさなかに窓があいているはずはなかった。雨戸まで閉めたてられて、明りさえさえぎられていた。それでもしばらく、ツグミは窓を開けていた。急に母親が入ってきたりしたら、星座を見ていると言おうと思った。空は痛いほど晴れていて、星は際立って見えた。明日も濃い霧がわくにちがいなかった。
三学期になってから、多美が急にバスケ部に入部した。こんな時期に転部する子はいなかったので、何かわけがあるのだなとツグミは思ってはいた。
「ツグミも入る?」
入部する前に何の相談もなかったうえに、誘うその口調はさほど熱心でない。
「ううん、私はいい」
そう聞いて、多美はあからさまにほっとした顔になった。
「明日から朝練始まるし、家を早う出んならんねん。学校に一緒に行かれへんけど、ごめんな」
急にバスケ部に入ったわけを多美の方から言わないのなら、ツグミは聞きたくもなかった。
十四 |
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だがそれは望まなくても、程なく耳に入ってきた。
多美がバスケ部のだれそれに夢中である事、女子部の練習そっちのけで男子部に見とれている事。誕生日のプレゼントを強引にその子に押しつけた事など、あまり好意的ではない意味合いをこめて伝わってくる。最初はそれを小気味よく聞いていたツグミは、しだいに多美があわれになった。
「鏡を見たことないんとちゃう。ブスのくせしてなぁ」
多美に対するクラスメートの心ない言葉は、ツグミまでも傷つけた。
放課後わざとまわり道をして、体育館のそばを通った。そっと開けた扉からのぞくツグミに、気づく者は一人としてなかった。
ボー ルのはずむ音とシューズのきしむ音が広い体育館の空間を縦横に交差している。新入部員の多美は隅の方でドリブルの練習をしていた。うわさ話のように男子部員の練習に見とれているわけでなかった。
男子部の方に目をやったが、ツグミは多美のうわさの相手を見つける事はできなかった。何十人いてもすぐどの子か分かると聞いていたが、汗を散らして走りまわっている男の子たちは、どれも大差ないありきたりの男の子ばかりだ。
多美はばかだと、ツグミは思った。つまらない男の子のためにブス呼ばわりされるなんて。
もしここにショウがいたら、とツグミはふと思った。
十五 |
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何千人の人ごみの中でも、ショウはだれよりも目立つにちがいなかった。そのことをツグミはひそかに自慢に思い、またその一方でそんな自分をいぶかしく眺めた。
その日の帰り道だ。ツグミがばったりとショウに出くわしたのは。避けようもない細い路地で、ツグミが気づいた時にはもう隠れる場所さえなかった。ツグミは身をかたくして道の端によった。
だが、ショウは顔を上げさえしなかっ た。ツグミのそばをすりぬけるようにして、通り過ぎていった。
ショウの秘密を、今のツグミは知っている。母親は教えてくれなかったし聞く気もなかったが、近くのスーパーの ジで順番待ちしている時に、前に並んでいた人の立ち話をもれ聞いて知った。ショウの母親は死んだのではなく、どこかの男と駆け落ちした事。もう九年も前の話だそうだ。
立ち話していた中年の主婦たちは、あの人は自分より十も若い男と逃げたとか、今頃はもう捨てられているにちがいないとか、やっかみ半分で話していた。内緒話とはとても思えない声だったので、ツグミはショウがもし近くにいたらと思い気をもんだ。
九年前のショウはわずか七才、ツグミと二人でとなり町まで行ったのはその頃ではなかったろうか。ツグミは、その意味を考えた。
母親はとなり町に逃げたのだろうか。そうだとしたら、ショウはどんな気持ちでとなり町への道をたどったのだろう。ツグミはその時のショウに自分の気持ちを当てはめてみようとして、涙をにじませた。
十六 |
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いたたまれなかった。ショウのために、彼の母親を憎んだ。共に逃げた若い男を、ショウの父をも憎まずにはいられなかった。
ショウと二人で旅立ちたいと、ツグミは思った。
どこか遠くの町に行くのだ。二人して歩いて行くのだ。汚い大人たちなんか、見捨てて行ってしまうのだ。
でも今、ショウは遠ざかる。ツグミに気づきもせずに。ショウは一人で行ってしまうのだ。ツグミを必要とはしないからだ。
ショウは他の誰かと、待ち合わせしているのだろう。だからあんなに急いでいる。すぐそばのツグミにも気づかぬほど。
( この町を出ようと、ショウは言うのだろう。ツグミではないほかの誰かに。
ここは悪意でいっぱいだ。これ以上ここにいたら魂がくさってしまう。見てくれ、とショウは自分の赤い髪をさわる。ぼくの髪はこの町の腐敗度のバロメーターなんだ。赤くなればなるほど、ひどくなる。今プラス十くらいだ。もう限度だ。
この町だけではないわ、となり町もよと相手の女が言う。ショウよりおそらくは十も年上の、髪の長い女だ。
するともう、この星を出るよりしようがないとショウは言う。
十七 |
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本当にいいの、未練はないのねと女が問うと、ショウは口ごもる。何かが胸に引っかかっている。
気づかなかったがどうもこの頃そんな思いで、ショウは後ろを振り向いて見るのだ。誰かがぼくの後を追っかけてくる気がする、とショウは言うだろう。
今まで忘れていたけど、ずっとぼくの後をついてくる誰かがいるんだ、と。)
夕方、パトカーがうるさかった。ツグミは胸騒ぎをおぼえていた。買い物から帰ってきた母親は、ツグミを呼び立てた。
「えらいことや。松田さんちのショウが引っ張られたで」
意味がつかめなくて、ツグミは顔をしかめた。
「さっきのパトカー、ショウを連れてったんや」
母親はショウを何度も呼び捨てにした。ツグミは母親の口からショウの名前が出るたびに、激しい嫌悪で体がふるえた。
その場から逃げ出したいのに、その先が聞きたくて動けなかった。
「たかが髪の毛というが、そこから悪うなるとお母ちゃんが言うたやろ」
得意げな母親を、ツグミは今はっきりと憎んでいた。ショウの母親に対するよりも、もっと強く憎んでいた。
十八 |
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ショウはとなり町の不良グループとつるんで、きのうの夜コンビニエンス・ ストアを襲ったのだという。店員に怪我まで負わせたという。
小さな盆地の冬は、いりくんだ山かげにしつこく残っ ていたが、それもようやく姿を消した。町のあたりはもう桜祭りのにぎわしさもおさまっ て、落ち着いた春が訪れている。
今日はとりわけ静かなと思っ ていたら、雨になっていた。ツグミは家を出て数メートル歩いてから、や とそれに気づいた。霧吹きで吹くような細かな雨だった。すぐに止むかもしれなかった。駅まで五分、電車に乗ってしま たら後はほとんど傘の必要はない。迷ったがやはり傘を取りにもどった。ツグミは傘がすきだった。どんな人ごみの中にいても、傘は一人だけの空間を作ってくれる。深い緑色の傘の下は、海の底みたいに静かだ。
今日は日曜日、二年に進級してから友だちになった可那子と映画を見に行く約束をした。本当は行きたくなかった。可那子は大人びた頭のいい子で、彼女といるとツグミはとても緊張する。
多美とはとうとう違うクラスになってしまったので、この頃めったに顔を合わせない。バスケ部でまだがんばっているらしいと、うわさだけは聞いている。バスケットにがんばっているのではなく、バスケの男子にがんばっているのである。ツグミは多美がうらやましい。クラスの男子や、教師までをもその明晰な頭脳で切り捨てる可那子もうらやましい。
十九 |
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彼女たちは迷いもなく、彼女らしくあり続けるので。
ツグミは自分がどうあれば自分らしいのか分からない。
霧雨でけぶった町は、半年前の冬のある日をふいに思い出させた。深い霧の中に背中を見せるショウを、あの赤い髪の毛を。それから夏祭りの夜ホタルを閉じ込めていた細い指までよみがえらせた。
ショウに関して、しばらくはいろんなうわさが飛び交っていた。聞くまいとしてもいくつかは耳に入った。コンビニ強盗の事件では、彼は単なる見張り役であったこと。となり町の不良におどかされて、逃げられなかったこと。その事実にほっとするより、ツグミはがっかりさえしていた。だれかにおどされて言いなりになるなんて、ショウのすることではなかっ た。
ツグミの好きなショウは、もうこの星のどこにも存在しないのだ。好きな人がいなくなると、ツグミは誰かを憎む気力もなくなったのに気づいた。
事件から半年たって、ショウに関するうわさは下火になった。あの事件以来ショウの家は昼間も雨戸が閉まったままで、ショウはもちろん父親の姿も見かける事がなかった。
今、ショウの家の前を通っていた。ツグミは何も意識しないまま、しばらく避けていたこの道に来ていた。傘を傾け、急ぎ足で通りぬけようとすると、「傘、入れてくれへん?」という声が聞こえた。
ツグミは振り返らなかった。後ろから人がくるようなので、その人に向かってだれかが頼んでいるのだろうと思った。
二十 |
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「傘、入れてくれへん?」
再び後ろで声がし、振り返るとショウがそこにいた。
返事を待たずに、ショウはツグミの手から傘を取り上げた。ツグミの傘は高くかかげられて、緑色の空間は長く上に伸びた。
「私、駅まで行くのやけど」
「それでええよ。ぼくも駅までやから」
ショウの髪の毛は、耳が見える程も短くなっていた。毛先はまだ赤かったが、根元から次第に黒くなっていきつつあった。
髪のバロメーターが示している、とツグミは心の中でつぶやいた。町の腐敗は止まったのだろうか。なのにショウはどこに行くのだろう。
「東京に行くんや」
ツグミの心の中の声を聞いたように、ショウは言った。
「ツグミもいつか、東京においで」
ショウは白い歯を見せてほほえみ、傘をツグミの手にもどした。いつのまにかもう駅だった。傘の柄には、ショウの手のぬくもりが残っている。ツグミは、手をずらして違う位置を持った。
二十一 |
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髪の毛を切ったので、ショウはどこにでもいる普通の男の子でしかなくなっていた。
ショウはもうツグミの幻想の世界にはいない。まちがいなくあれはショウ自身で、しかもツグミの胸をふるわせたショウではなかった。彼は確かな足どりで改札口を通り抜け、振り向いてツグミに手をふった。
可那子は約束の時間に十分おくれた。傘もささずに来たので、Tシャツの肩がしめっていた。霧雨は優しいけれどやはり雨は雨だから、ちゃんと人を濡らす。
可那子はうすい肩をふるわせて、はでなくしゃみをした。ツグミは吹き出し、可那子は照れて今までツグミに見せた事がない表情をした。
私はまだまだこの人のことを知らない、とツグミは思った。あんなに好きだったショウのことさえ、ツグミは本当のところ何ひとつ知らなかったのだ。
「行こう。電車が入ってくる」
ツグミは可奈子の手をにぎって引いた。手をつなぐということをしばらくしていなかったので、こそばゆいような思いがした。手のあわさった所は暖かく、優しかった。
傘の柄をにぎったショウの手は、やはり暖かだったろうとツグミはふと思った。そのぬくもりをわざと避けてしまった、自分の気持ちを胸の中で探った。
去年の夏に手の中にいたホタルは、暖かくはなかった。暖かかったのはそれを手渡したショウの手だったと、ツグミはもう懐かしいようなせつなさであの時のことを思っていた。
二十二 |