地下街の掌話  *手のひらの小説*


          その一
     服の裾

「お母さん、本当に大丈夫?」
 娘は電話で、同じ問いを何度繰り返しただろう。そのたびミツはまた同じ答えを繰り返す。
「大丈夫よ。分らなかったら、人に聞けば良いんだから」
 孫娘が始めての赤ん坊を産んだ。ミツにとっては初めてのひ孫だ。一日でも早く顔を見たかった。
 だが娘は家で孫娘と赤ん坊の世話をしているのでとてもミツを迎えには出られない。次の日曜まで待てば娘の連れ合いが迎えに来るといったが、ミツはとてもそれまで待てなかった。
 娘の家まではJRを下りてから地下鉄に乗り換えなければならない。その乗換えをミツの娘は不安がっているのだ。
「地下街はややこしいから。案内板はあるけど、お母さんに見えるかしら」
「大丈夫。田舎で道聞く人がいないというなら困るけど、地下街は人だらけだというじゃないの。お父さんと二度ほど通った事があるし」
 それに私はカンがいいほうだ、とミツは思う。初めての場所でも方角は結構当てられる。
 ミツは乳の出がよくなると思い、餅を十個ばかり買い求めて手提げに入れ出かけた。
 三月も終りとはいえ風の冷たい日だったが、電車の中は暑いぐらいで、襟巻きをとり迷った末にコートの下に着込んできたチョッキも脱いだ。
 向かいの席の若い男が、座席でごそごそしているミツを何だか心配そうに見つめてくる。

                                    一

 暑いもんだからと手で顔を仰ぐしぐさをすると、彼はかすかにほほえんで照れくさげにそっぽを向いてしまった。電車の中には赤ん坊を抱いた人もいて、ミツはまたそれに見とれる。
孫娘の子もこの夏にはあの子ぐらいになって、ひとりごとを言ったり、誰彼となくニコニコと笑いかけるのだろう。
「あんなに大きくなったら、私にはとても抱けないわね」
 ミツはすっかり肉の落ちた自分の腕をさすって思う。でも産まれたばかりの今ならまだ抱けるだろう。赤ん坊を抱く形に腕をまるめて、ミツは顔をほころばせる。ひ孫ができている事さえ知らず、この世から旅立ってしまった自分の連れ合いのことを考えると申し訳ない気がしてきて、ミツは心の中で手を合わせていた。
 電車が駅に入った。
 ミツは脱いだチョッキを忘れそうになりあわてて取りに戻ったりしたもので、JRの駅を出て地下街に入ったときはすっかり息が上がっていた。
 とりあえず立ち止まり、あたりを見回す。広い地下街を水のように勢いよく人が流れていく。水ならまだ低い方へ向かって一斉に流れるが、人の流れはそうはいかない。入り乱れて混ざり合い、どこかに吸い込まれていくかと思えば、巣を壊された蟻のようにわらわらと湧いて出る。ずっと見ていると気味が悪いほどだ。
 その中で立ち止ってしまったミツは、障害物であるらしく何度か突き当たられそうになり、あわてて少し人通りのゆるやかな端の方へ避難した。それからやっと娘が送ってくれた地図のことを思い出し手提げに手を入れた。

                                    二

 見つからず散々袋の中をかきまわし、とうとうその場に座り込んで探していると、通りかかった子供が立ち止ってじろじろ見る。
 微笑みかけるとそばにいた母親がじゃけんに手を引いて通り過ぎた。少し気分が落ち込んだが、地図は見つけた。なくしてはいけないと思って財布に入れたのを思い出したのだ。
 大きな字で乗り換えの地下鉄の線の名前と、駅の名前が書いてある。JRの駅からそこへ行くまでの地図も書いてある。
 地図を見てあたりを見回して、ミツは目をしかめる。
「JRの駅を出て地下街に入ったら、まず左に曲がる。角に本屋がある」
「私、どっちからきたのかしら」
 人にぶつかりそうになってあわてて端の方に寄ったので、ミツは方角が分からなくなっていた。本屋を探すがどの店もいろんな色の物がごちゃごちゃと積まれていて、ここから見ると何の店か分からない。
 そばまで行ってみようと立ち上がり、なるべく人に当たらないように注意しながら、一番近くの店に行ってみるとそこは薬局だった。その隣は洋服屋だ。その隣はケーキ屋でその隣は…。
「目が回ってしまうわ。こういう時はうろうろせず人に聞かなくちゃ」
 ミツは通り過ぎる人を呼び止めようとしたが、すみませんと声をかけた時にはその人はもう背中を向けて三歩ぶんも四歩ぶんも先に行っていて、ふりかえりもしない。そこで薬局へ入っていって、店員の女の子に聞いた。

                                    三

「あのう、本屋はどこにありますか?」
 女の子は親切だった。いったん店を出て、手を引いてちゃんと本屋の前まで連れていってくれたのだ。
 かわいい子だ、とミツは薬局へ戻る女の子を見つめた。孫娘に似ている。
 ミツは本屋の角を左に曲がった。これでもう安心だと思った。あとはまっすぐに歩けば右に駅が見えるはず。
 ミツは歩いた。十分ばかり歩いたと思うが駅はない。そのうち外へ出る階段があり、ほかに行き場がなくなってしまった。右にあるはずの駅を見逃したのだと思って引き返したが駅は見つからずもとの本屋にも戻れなかった。まっすぐ戻ったつもりなのにどこかで曲がってしまったのかと、次の角を左に曲がり何だか人通りのない細い通路のようなところに出てしまって、ミツは途方にくれた。
 足も疲れたし、道を聞こうにも誰も通らない。
「お父さん、私迷子になっちゃった」
 通路に座り込んで、ミツは年甲斐もなく泣きそうになっていた。その時通路に足音が響いた。革靴の音だ。
 ゆっくりとした足音がミツの前を通り過ぎる。よく磨きこんだ茶色の革靴が目に入った。その革靴の主はミツの前を通り過ぎて歩いていこうとしていた。
「あのう、すみません。私、道に迷ってしまって」
 ミツはあわてて立ち上がり、後姿を追った。灰色の薄いしまのある背広、連れ合いも同じような背広を持っていたと追いながらミツは思った。

                                    四

「地下鉄に乗り換えたくて。駅の場所が分からないんです」
 その人は少し歩幅をゆるめた。ミツの目の前に背広の裾があった。ミツは思わず、それをつかんだ。
 いつかこの地下街を歩いた時あまりの人の多さにうろうろするミツに、ほらここをつかめとミツの連れ合いは服の裾を指した。今の若い人のように手をつなぐのは恥ずかしかったのだろう。それを思い出して、ミツの胸は高鳴った。
 この人は背もうちのお父さんと同じ位だ、とミツは思った。どんな人か顔を見たく思ったけれど、昔から小柄だったミツは年取ってさらに小さくなっている。その人の顔を見ようと思うと立ち止って背中を伸ばさないと見えず、歩きながらでは無理だった。その人はゆっくりと歩いてくれているのだろうけど、ミツは小走りになっている。
 あの時もそうだった、とミツは思い出した。
 ミツは小走りで連れ合いの後を追っていた。もうちょっとゆっくり歩いてと、ミツは言えなかった。そう言えば連れ合いはきっと、ミツに難儀をさせて気づかなかった自分を悔やむに違いなかったから。だからミツは息を抑えて、服の裾を引っぱり過ぎないように気をつけて彼の後を追っていた。
 今もその人の服の裾を、しわにならないよう気をつけてつまみ後を追う。そして角を曲がる時にミツは懐かしい匂いをかいだ。
 樟脳の匂いだ。今時こんな匂いをさせている人はそうはいない。ミツは鼻をひくひくさせた。この人の背広から匂うのだろうか。

                                    五

 胸がまたおかしいくらい高鳴った。
「お父さんも背広なんか一年に一回ほどしか着なかったから…」
 ミツの目にはその背広しか見えない。地下街のどこをどうやって歩いていったのか、いつの間にか再び人通りの多い通りに戻っていて、あんなに迷っていたのが不思議なようにすぐに駅が見えた。
「ああ、よかった」
 ほっとしてつかんでいた服の裾を離し、お礼を言おうと背筋を伸ばした。だが今まですぐそばにいたはずの灰色の背広の主は、もうどこにも見当たらなかった。


        その二
名前のない駅
 
 電車に乗ったときから、啓は眠くてしょうがなかった。眠るつもりなんかないのに、ふと気づくといつの間にかまぶたがふさいでいる。
 きのうちょっと夜更かししたからな、とひざの上からずり落ちそうになった塾のカバンを引っぱり上げる。

                                    六

 今日は四年生になってから行き始めた塾の初めてのテストで、昨夜午前一時まで勉強したのだ。
 中学生の兄がテスト前に徹夜をするのがいつもちょっとうらやましかったので、きのうは大さわぎして母親に夜食まで作ってもらった。
 本当は徹夜をしたかったのだけれど、夜食を食べておなかがいっぱいになったら、眠くて鉛筆がもてなくなってしまった。
 クラブ活動帰りらしい女子高校生がさっきの駅で降りて、車内は急にひっそりしている。あと二駅ぐらいで降りなくてはいけなかったから、啓はずい分がんばって目を開いていたが、どうやら少しの間うたた寝してしまったらしい。ふと気づくと隣に座っていた男の人がいなくなり、向かいにいた啓と同じ位の年の男の子もいなくなり、車内はがらんとしていた。
 どのあたりを走っているのだろうと窓を見ると外は真っ暗だ。まだ日が暮れるはずはない。塾を出たのは三時ごろだった。体をねじって窓を振り返りしみじみと眺めると、暗いはずだ。地下を走っている。
 この路線は塾に行くにも、買い物に行くにもよく利用するので、そらで駅名を言えるほどだ。
「おかしいな。地下になんか入るはずないのに」
 ほんの短い間うとうとしただけのつもりだったのに、すっかり寝入っていたのかもしれない。いつの間にか違う路線に乗り入れてしまったのだ。
「こまったな」
 啓はそわそわした。

                                    七

「次の駅で止まったら降りて、引き返さなくちゃ」
 そう思って待ち構えていたので、列車が速度を落とし始めた時にはもう立ち上がっていて、ドアが開いたとたんにホームに下りていた。啓のほかには誰も降りたようすがない。
「ここどこだろう? 何て駅かな」
 そう言えば、車内アナウンスがなかった気がする。
 啓のいるホームは片側だけにしか線路がなく、反対車線に行くにはどうしたらいいのか分からなかった。聞こうにも長いホームに誰もいない。改札口に行ったらきっと駅員がいるだろうと、啓は思ったのでホームの中ほどにあった階段を下っていった。何だか妙に長い階段だった。
 下っていきながら、啓はふと不安になった。ホームは地下にあったんだから、普通なら登っていくはずだと気づいたのだ。なのにさらに下っていくなんて、いったいこの階段はどこに通じているのだろう。怖くなって引き返したくなった。でも引き返したって、他にどこに行く所がある?
 下りきったそこには、やはり改札口がなかった。そして駅員も、駅員だけでなくたった一人の乗客もいなかった。そこは広い地下街だった。ずらっと店が並んでいるが、今日は休業日なのかどの店もシャッターが下りている。
 シャッターに大きな字で店の名前が書いてある。アルファベットで。
「KOTORIYA ことりや? ペットショップかな」

                                    八

 その隣はそうじや? そうぎやか? その向かいはカラオケ、いやカンオケだ。そしてここは喫茶店? アクムと書いてある。
 啓は頭がくらくらする。きっと寝不足のせいだと思う。
「もう夜中にテスト勉強なんか絶対にしないぞ」と啓は思った。それ以上先の店の名前なんか見たくもない。
「引き返そう」
 見たくないのに見てしまう。一番はしの店の名前。コトリヤ、下に漢字で子取り屋とある。どの店も休業中でよかった。
 啓は階段を走って上がった。降りてきた時以上に長い階段であるような気がした。
 階段の途中で地響きが聞こえた。電車が入ってくる。
「急がなくちゃ。置いてかれる」
 今まで一度もこれほど必死で走ったことがなかった。二段飛ばしで階段を駆け上がり、ホームを走った。電車が止まっている。ドアが開いている。啓は駆け込み、車内に倒れこんだ。
 ドアが閉まった。やれやれ、電車は発車する。





                                    九

      その三
セーラー服のホームレス

 彼女らは偶然にも誕生日が近い。里緒菜と紀恵は十一月後半、ユキは十二月の初めでそれぞれの誕生日は十日と離れていない。三人が出合ったのは高校の入学式でそれ以来のつきあい、一緒に誕生日プレゼントを買って交換するのも二回目だ。
 その日誘い合って出かけたのは、新しくできた本屋の品定めのついでに、いいプレゼントが見つかったら買おうね、ぐらいの勢いだった。まだ十一月に入ったばっかりなので、気持ちに余裕がある。
 地下街を里緒菜と紀恵は、キャアキャアとじゃれあいながら歩いていた。ふいに少し後ろにいたユキが二人のカバンを乱暴にぐいと引いた。よろけた紀恵が何よと大声出すのに、ユキはシッと激しく指を立てた。
「一緒に見ちゃだめよ。一人ずつそうっと柱の陰を見て」
 ユキは地下街から駅ビルへの連絡通路を指差す。そこには一人の男がしゃがみこんでいた。たぶん男だろう。顔中ヒゲだらけだったし、体つきもごつかった。そして何より奇妙なのは、その人がセーラー服を着ていることだった。汚れきって形も崩れていたし、脇など破れていたが紛れもなくセーラー服で、もつれた長い毛の下にラインの入った大きな襟が見えた。
 すっごい! と紀恵は興奮した。
「今、私の頭の中はすごい想像の渦だよ」
 今回は文章にしよう、とユキが言い出し、三人とも誕生日プレゼントのことは、頭から飛んでしまった。

                                    十

『その地下街は隅々まで明るい。幅が数メートルある通路は両側が壁だが、所々に奥行きの狭い店やビルの地下への連絡通路もあるので、見える限り誰の姿もないからと言って、気を抜くことは非常に危険だ。ほら今日も自販機の陰に彼がいた。壁にもたれて座っている。
 彼が「うぅー」と低いうなり声を上げ始めると、いつもその通路を利用する人達は、走るようにしてその場から逃げ出す。彼につかまってしまうのは、ふだん余りこの通路を利用しない人達ばかりだ。状況を飲み込めず、ぼうっとしていて彼の餌食になる。
 彼の声は次第に大きくなり、もはやうなり声でなく何か意味のある言葉のようだ。
「さぶいー」と言っている。どうやらそう聞こえる。
「さぶいーさぶいー」そううなりながら、彼はのっそりと身を起こす。
その体は思った以上に大きい。何枚も重ね着をしているので、よけいにかさ高い。一歩歩くたび、その体からは何かが落ちる。古びた衣類のくずか、あるいは地下街の床の塵芥のたぐいか。もっとおぞましい他の何かのようにも思える。
「さぶいー、さぶいー」
 地下鉄の地響きのようなその声を聞くと、背筋に悪寒が走る。肩まで伸びたもじゃもじゃの髪の毛は顔のほうまで侵食していて、いやあれはもちろんヒゲと呼ばれるものだろうが、口のありかもわからない。口があったとして、その声がそこから出ているとは思えない。もっとどこか。

                                   十一

「ギャッー」
 あの体ではそんなに早く動けまいと楽観していたあなた、つかまったね。そう、思ったよりずっと早く彼はあなたに近づける。長く伸びたツメが首筋に伸び、セーラー服を一気にはいでしまった。』
 ねえ、と紀恵がノートから顔を上げた。
「里緒菜、近頃文体変えた?」
「うん、最近読んだホラー小説に影響受けたの」
「里緒奈は影響受けやすいから。落語にはまっていた時は傑作だったわね」
 ユキが言うのに、「そうそう」と紀恵は落語風文体を再現しようとする。
「いいから、早く続きを読んで」
「だって、後はもうたいした事ないよ。おーいとっつあん、地下街の怪人がこともあろうに女子中学生を襲ったらしいねぇ。そんなことは今更おめぇに聞かなくたって知ってらい。近頃あいつセーラー服を着てるってぇじゃねえか」
「ちょっとひどくない、紀恵」
 ノートを奪い返した里緒菜が紀恵をぶとうとする。
「みんなあのホームレスを男だと思っているでしょ。でもあれは女。しかも女子中学生よ」
 ユキは自分のノートを出しながら、自信ありげにほくそ笑む。

                                   十二

「えっ? あんなヒゲ面で?」
 里緒菜が目を向く。手の甲も毛がびっしりだったよ、と紀恵はうれしそうに身を乗り出す。
「いいね、ユキ。おもしろそう。早くノート見せてよ」

『彼女は幼い頃から、通り過ぎた人がわざわざ振り返ってみるほどの美少女だった。父親は県内でも有数の大病院の院長で、申し分なく裕福である。母親と弟二人、みんな仲がよく、生まれてから今まで一度も悲しい思いや辛い目に合った事がなかった。傍目には何と恵まれた子だろうとうらやましがられていた。
 そんな彼女のようすがどうも最近おかしい。どうやらぐっすり眠れていないようで、毎朝なんだかぼうっとしているようだ。学校では落ち着きがなく、授業も集中できないようすで何度も教科書やノートを開いたり閉じたりし、急に鞄の中を探り出したりする。通学時も歩きながら何度も振り返り、時間に余裕があるにもかかわらず走り出したりすることがあった。
 誰が見てもそのようすは異常で、何か悩みがあるのではないか、誰かに脅されているのではないかと、両親や教師や友人たちも心配してそれとなく問いただしてみたが、どうもはっきりした返事がない。どうやら本人にもよく分からないようだった。
 そんな彼女はある日、一人でこの地下街を通った。

                                   十三

 出かける時は友達と一緒だったのだが、途中で気分が悪くなり一人で先に家に帰ろうとしていた。そこで彼に出会った。
 彼は地下街から駅ビルへの連絡通路のわずかな壁の凹みにいる、年取ったホームレ スだった。一メートル以内には絶対に近づきたくないほど醜悪で、健康を損ねているようにも見えた。
 人通りの多い通路の隅で、ダンボールの一枚さえ持たず床にじかに寝ころんでいる。そんな所で彼は、ぐっすりと眠りこけていた。本当に幸せそうに、口をあけて心から安らいでいた。彼女は立ち止り、見とれていた。
 うらやましい、とふいに彼女は思った。彼は失うものを何も持っていないからだ。厳密に言えば命だけは持っていたのだけど、彼はその命さえ後生大事とは思っていないようだった。もし今大地震が来て全てが崩れ落ちたとしたら、この場にいる誰よりも彼は動ぜずにその運命を受け入れるだろう。
 彼女はその時に初めて、自分が何におびえていたか気づいた。彼女は余りにたくさん失いたくない物を持っていすぎたのだ。
「代わって」と、彼女はそのホームレ スに言った。私もあなたのように眠りたいの、と。
 ホームレ スは片目だけを開け、口をゆがめた。たぶん嫌だと言いたかったのだろう。でもそれさえも面倒だったようで、声にはならなかった。神と呼ぶ人もいる超自然的な力の持ち主はそれを肯定と受け取った。』

                                   十四

「わかるわぁ、恵まれすぎているものの悩み」
 里緒菜がため息をつくと、うそばっかりと紀恵がノートを丸めて振り上げる。
「ふざけてないで、紀恵のも見せてよ。ちゃんと書いてきたんでしょうね」
「私、書くの苦手なんだよね。しゃべる方が性に合う。で、何とかこんなふうに書いてみた」
『彼が拾った服を初めて着たのは六年前、仕事も家族も家も失って半年目の秋口だったかな。なにしろ半そでのTシャツ一枚だったのよね。そろそろ肌寒いじゃない。しかたなく門口に出ていたゴミ袋からちょっと借りた。借りたって言うより、まあ黙っていただいちゃったんだけどね。
 青いトレーナーだったんだけど、胸のところに点々と染みがあった。それがね、結構広範囲に広がっていたんだ。どうも気になって、公園の水場で洗ってみたりしたんだけど、取れなかったのね。もう浮浪者なんだから染みぐらい気にしなくても、と思うじゃない。でもその赤黒い染みはどうも嫌な感じだった。
 あまり人に見られたくなかったので、すぐに新しい服を仕入れた。駅前のベンチに忘れてあった、あるいはちょっと置いてあったのかもしれないけど、薄手のパーカーだった。黒色だったので下に着たトレーナーは見えなくなった。
 このパーカーはまだ新しかったので、彼は昔の暮らしにもどった気がしてうれしかったんだ。まだあまり浮浪者という身分に慣れていなかったからね。

                                   十五

 それにこのパーカーは彼をいっとき、その身分から救ってくれたしね。ポケットに札入れが入っていたから。一瞬ベンチに返しに行こうかと彼はあわてたんだけど、札入れが二つと女物の財布が三つ出てきたので考えを変えた。どうやらパーカーの持ち主もまっとうな身分じゃないと思ったから。それに札入れの一つからは名簿のようなものが出てきて、それが何だか意味ありげな名簿でね。誰もが知っている政治家の名前が何人も書いてあった。
 彼はそれを捨てようとしたけど、あまりどこにでも捨てていいような物に見えなかったので、また札入れにもどしたわけ。
 このパーカーも早く隠さないと、落とし主に見つかるとただではすまない気がしてきて、彼はまたあせって新しい服を探した。
 それに寒かったし。もう十一月になろうとしていたもの。もっと厚手の服が欲しいじゃない。
 ある日の夕暮れに路地から広い道に出ようとした時に、ドン、と鈍い音がした。何だろうとのぞいてみると広い道に出たところに誰かが寝ている。若い男らしい。酒にでも酔っているのかな、と揺り起こしてみたけど動かない。彼は灰色い毛糸のカーディガンを着ていて、それがめくれあがって脱げそうになっている。
「おい、起きないと風邪引くぞ」と、ゆすぶったらカーディガンが脱げてしまった。決してわざと脱がしたわけじゃないんだよ。ちょっと気がとがめたけど、借りるよと声をかけて彼はそれを着てしまった。暖かかった。

                                   十六

 カシミヤかもしれないと彼は思った。カシミヤのセーターなんか手近で見た事もなかったんだけどね。
 次の日昼間によく見ると、カーディガンの背中に車のタイヤの跡があった。でもそんなに目立たない。模様のように見えると彼は思い、しばらくは安心して過ごしていた。
 だがそのうちまたさらに寒くなってきた。
 コートが欲しかったけど、そう都合よく手に入るとは思えないし。
 昼間は日当りのいい公園にいて、夜は風の当たらないものかげに移動する。でもその日はあまり日差しが暖かかったもので、公園のベンチでぐっすり眠ってしまったんだね。目をさますとあたりはすっかり暗くなっちゃっている。何だか面倒になって、ベンチでぐずぐずしていると誰かが公園に入ってきた。トイレの横のくずかごに何か捨てているみたいだ。
 わざわざこんな時間にこっそり捨てに来るなんて、ろくなモンじゃないと思ったけど、その頃になるとすっかり身についた浮浪者の習性が彼を動かしたんだね。
 くずかごには大きな紙袋が捨ててあった。開けてみると紺色の服。どうやらセーラー服らしい。彼は早速着てみる。スカートもはいてみる。ちょっと窮屈だけど暖かい。
 スカートって暖かいもんだな、と彼は思った。やっぱりひだがたくさんあるからかな。
 紙袋をのぞくと、まだ何か入っている。布のバッグ。ノートや何かと一緒にピンクの携帯電話が入っている。

                                   十七

 ノートは捨てるが携帯電話はポケットに入れる。おもしろそうだったので。後でゆっくり見てみよう、と彼は思ったんだ』

 三人はそれぞれふぅーと息を吐いて、図書館の机にひじをついた。
 窓の外でヒヨドリが鋭い声をあげる。
「プレゼント、どうするの」
 里緒菜が言うと、地下街の怪人のせいで買い損ねたもんね、とユキがつぶやく。
「どう? このそれぞれの物語の続きをプレゼントするのは」
「私、これ書くのにきのう午前二時まで寝られなかったの」
 里緒菜がそう言えば、紀恵が私なんか書き損じでノート一冊使い果たしたよと言う。でもユキの話の続きは読みたい、と里緒奈が言えば紀恵のもおもしろそうとユキが言う。
 いつまでも話のつきない三人である。







                                   十八


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