東西に走る通り




 近くの小学校から、ミュージック・チャイムが聞こえてきた。風のむきで、音が近づいたり遠のいたりする。
 私が小学校だったころと、その曲名は変わっていない。幼い子がひくようにたどたどしく、ワンテンポおくれるそのメロディ。あれを聞くと今も、早く帰らなくちゃと思う。一刻もむだにできないような気がし、あせって胸がドキドキする。どこへ帰るのかは、いっこうにわからないのに。でも今、胸がさわぐのはあのチャイムのせいばかりじゃない。
 私は病室の窓のそばにより、外をのぞいた。もう来るはずだ。この時間になると毎日通る、小さな白髪頭のおばあさんが。
 ほら、見えた。ひと足ひと足を楽しむようにゆっくりと歩いてくる。リズムをとってでもいるように、軽く首をふっている。
 灰色のワンピースのすそが、風をうけてふくらむ。何のへんてつもない丸首の半そでで、いつ洗濯するのか違う服を着ているのを見たことがなかった。といっても、ちっとも不潔な感じはしないけど。体じゅうが乾ききっていて、汗も砂漠の砂みたいにサラサラと流れるのだろうという気がした。
 この病院の前の通りを少し行くと、郵便局がある。その角を曲がった所に私鉄の駅があるので、勤め帰りの人でそろそろこの通りもにぎやかになっていく。
 だれかに行きあうたびに、おばあさんはニコニコして立ち止まった。ここまで声は聞こえないけれど、小さくすぼまった口もとはどうやら『さようなら』という形に動いている。でも、だれも立ち止まらない。おばあさんの顔さえ見ない。
                                    一
 スーツをすっきり着こなしたお姉さん、Gジャンの似合う背の高い彼、着ぶくれて汗をかいているおばさん、塾のかばんをぶらさげた男の子。おばあさんはとうとう、道ばたの犬にまで頭を下げた。いそいでいるとはとても思えないその犬まで、鼻づらさえ向けなかった。それなのに、おばあさんの笑顔はくもりもしない。後から後から来る人に、あいさつをくり返す。
 どうして、そんなふうに笑っていられるのだろう。私なら自分を無視したみんなを、きっと大嫌いになる。あんまりひどく嫌いになるので、また胸が苦しくなるだろう。
 本当に苦しくなってしまった。あんまり苦しくて、じっとしていられない。私は飛び出るようにして、病室を出た。
 おばあさんに、あんな事はやめさせなければ。やめてもらわなくちゃたまらない。おばあさんの姿は、何年か前の私と重なって見えてしまう。みじめだったあの頃の私。
 だれもかも私をおいてけぼりにして、先に進んで行った。ぐあいはどう? と眉をひそめて声をかけてくれた友達も、一歩病室を出ると私の事なんかきれいさっぱり忘れてしまう。にぎやかに笑いざわめき、友達は新しい教科書をかかえて次々と新しい世界のページをめくる。
 なのに私には、病室の窓しかなかった。チャンネルの変えられないテレビの画面みたいな、そんな窓枠の中の世界だけ。

 病院の前の通りは東西に走っている。かたむいた太陽の光は足早に行く人々の影を引き伸し、それぞれの夕暮れをいっとき重ね合わせた。
 私は病院の裏口から出、細い路地を抜けて通りに出た。おばあさんはつい先で、自転車に乗ったおじいさんに頭を下げているところだった。
                                    二
 私はすぐに追いついた。
 おばあさんはふり返った。そして、見慣れた笑顔で頭を下げた。
「さようなら、お世話さまでした」
 その何ともやわらかな声の前で、私は自分の言いたかった事が思い出せなくなった。
 突っ立ってしまった私の体すれすれに、スーパー・マーケットのビニール袋を二つもさげた女の人が通る。その人はおばあさんの方を見て、お久し振りと気さくに笑った。おばあさんは、期待に満ちた顔を上げた。あいさつを返そうとして、口さえ開きかけた。
 だが先をこしてしわがれ声を返したのは、おばあさんの後ろから来た人だった。白髪まじりの髪の毛を短くかりこんだ女の人で、威勢よく手をあげてすれちがって行った。風が枯れ葉をまきこんで、その後を追っていく。おばあさんは肩を落として、私と同じようにその光景を見るともなしに見ていた。
 妙だった。私はどこがそんなに奇妙に見えるのか、気づくのに手間取った。
 服だ。おばあさんの半袖のワンピースは、あまりに季節外れだ。
 私は思わず身ぶるいして、あたりを見わたした。街灯がともった通りには、いつのまにか私とおばあさんだけが取り残されている。 
 おばあさんと目が合った。しわにうもれた目に、かすかなほほえみ。ずっと昔から私を見つめていたような、親しげなまなざしだ。
「さようなら」
 おばあさんはこじんまりと頭を下げた。私は思わず、つられるように挨拶を返していた。自分で自分がかわいくなるような、優しい声で。
おばあさんは急に笑顔を引っ込めて、息をついた。
                                    三
「ありがとうねぇ。これでやっと行くことができるよ」
「どこへ…」
 私はかすかな不安にとらわれて、落ち着かなくなった。
 おばあさんはニッと笑って、人差し指を立てる。えっ? と、私は聞き返した。おばあさんは、腕もまっすぐ上にのばした。人差し指の先は天をさしている。
「あたしはね、三ケ月前に寿命がつきたんですよ。朝、着替えてふとんから立ち上がった途端にね。すぐに逝っちまえばよかったのに、なぜか決心がつかなくてねえ。だって八十七年のあたしの人生の終りに、だれ一人として気づかなかったんだもの。まあ、しょうがないって言えばしょうがないけど。そのアパートの部屋の中には、ここ二十年ばかりあたししかいやしなかったんだから」
 ホッホッホッとさもおかしそうに、おばあさんは笑った。
「ぐずぐずしているうちに、きっかけを失っちゃった。どうにもこうにも、行き場がなくなっちゃったの。それって、つらいもんよねえ」     
おばあさんの言い方は、ちっともつらいようには聞こえなかった。
「だからあたしは、自分にこう言い聞かせたのよ。だれかがあたしに挨拶を返してくれたら、その勢いで逝ってしまおうって。一人で生きて一人で死ぬのもそれはそれでいいけれど、最後くらいだれかとさよならを言い合ったって、罰は当たらないじゃない」
 私鉄の駅に電車が入ったのか、郵便局の角から一団の人々が入り込んできた。夢からさめたようにざわめきが戻る。背の高い青年は無遠慮にも平然と、おばあさんの体の中を通り抜けていった。
「さようなら、おじょうさん」
                                    四
 空気にとけるように、おばあさんの影がうすくなる。私はあわてて手をふった。
「さようなら…」
 おばあさんは気づいていなかったんだろうか。自分の姿が普通の人には見えなかったということを。私にしか見えていなかったということを。
 私?
 私はあのおばあさんより先輩になる。二年も前に、私は私の体を失った。十五才だった。私の心臓は生まれつき他人と違っていて、それ以上私を生かしておくことができなかったのだ。
 風が通り過ぎていった。
 私は病院の前の通りにいる、と今さら気づいて胸が高鳴った。窓枠の中の世界であったはずの、通りの中に私はいた。永遠に離れられないのかと思ったあの病室から、あのベッドから私は離れられたのか。
 風が走り抜ける。街路樹の葉を振り落とし、いっきに町の上空へ登りつめた。枯れて飛ぶ葉も風に引きちぎられて飛ぶ葉も、たぶん行き先は同じ所だろう。
 後ろからやってくる私を見たら、おばあさんはどんな顔をするだろう。お先でございましたねえなんて言って、頭を下げるに違いないんだ、あのおばあさんなら。何もかも知っていたような顔で、優しく笑って。







                                    五

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