海へと向かう


 信号が変わった。
 いっとき静まり返った交差点のまんなかを、カンラカンラカンカンとにぎやかな音をたてて、あき缶がころがっていく。信号待ちしていたぼくは、ぼうっとそれを見ていた。そこは広い自動車道と、住宅街の中に入る細い道が二本交わっている交差点だ。あき缶は自動車が止まってシンとした交差点の真ん中を堂々と通りぬけ、細い道に入ってもまだ転がり続けていた。
 信号が変わって、ぼくは横断歩道をゆっくり渡り始めた。学校のある方向に行こうとして、ふと気になり缶のころがっていった道をながめた。あき缶はまだ転がっていた。その道はくだり坂でもなく、風もほとんどふいていない。なのに、その勢いはおとろえない。
 カンラカンラ、カンカンカン
 何かにぶつかったのか、大きく飛びはね弾んで、先の道を左に曲がって見えなくなった。いくらなんでもおかしいと、ぼくは思い始めた。風がふいているにしても、坂道であるとしても、ただのあき缶が自力で道を曲がるわけがない。
 ぼくは少しまよったが、あき缶の後を追っていった。にぎやかな音をたてて転がっていく缶は、後ろからくるぼくに気づいたみたいに速度をゆるめた。ようすをうかがうように、しばらくゴロゴロと転がっていたが、追いついたぼくの足もとでとうとう止まった。

                                    一

 ぼくはしばらく、それを見下ろしていた。 どこから見ても、まったく普通の清涼飲料水のあき缶だった。つま先でつついてみた。缶はからっぽの音をたてて転がり、すぐに止まった。
「何だ。つまんない」
 ぼくはその缶を思い切りふんづけてつぶすと、すぐそばの家の庭に蹴りこんだ。
 いや、蹴りこんだつもりだった。急に強い風が吹いたのだろうか。あき缶は庭に入らず、その隣の家との境に落ちた。別にどうあっても庭に放り込みたいわけなどなかったから、そのまま行ってしまおうとした。そのぼくの耳にまた聞こえてきたのだ。
 カンカンカンラカラカラ
 へしゃげた缶があんな音をたてるはずがない。だが確かにあの缶の落ちたあたりから音がする。
 ぼくは家と家の間の、体ひとつがかろうじて通り抜けられる幅の路地をのぞきこんだ。その路地は少し先で階段になっている。その階段をさっきの缶が登っていく。
 見間違いじゃなかった。踏んづけてつぶしたはずのあき缶がきれいに元の形になって、いい音をたてて登っていくのだ。
 あき缶は階段を登りきって、見えなくなった。ぼくは走った。階段を二段飛ばしで駆け上った。急な階段だった。登りきったぼくは、自分のいる場所に気づいて胸をつかれた。

                                    二

 そこは川の土手だった。小さい頃に、よく遊びにきた場所だ。もう何年も来ないので、こんな所であることさえ忘れていた。水の流れている場所はそんなに幅はないけれど、ひろい河原があるので向こう岸ははるかに遠い。あき缶は河川敷公園の石のベンチの上にいて、下流の方を向いていた。
 ぼくはそうっと近づいた。そして隣に腰をおろした。
 踏切の鐘の音が聞こえてきた。近くに電車の線路はないから、どこか遠くから風に運ばれてきた音だ。風をさえぎる物もない場所で、まだ缶はまっすぐに立っている。     
 この缶はどうしてここに来たかったんだろうと、ぼくは思った。階段を逆上るなんて不自然な事までして。
「別にここに来たかったわけじゃないよ」
 妙にくぐもった声がした。
 自分で勝手に移動するあき缶なら、あるいはしゃべる事だってするかもしれない。でも相手が心の中で思った事まで読み取るなんて。
 気味悪さで、ぼくは思わずベンチから腰を浮かせた。
 その時ぼくの足の下でガサガサと草をふみつぶす音がして、ベンチの下から何かが這い出てきた。
 子供だった。やせて目の大きな少年だ。まだ四・ 五才くらいに見える。どこかで会った子のような気がした。それともよく知っている誰かに似ているだけだろうか。

                                    三

「ひとつ目がいないから、探しにきただけだ」 
「ひとつ目って…?」
「ぼくの馬だよ」
「馬? 君は自分の馬なんか持っているの」
「ぼくはひとつ目と約束したんだ」
 目の前の男の子は、涙をこらえるように唇を堅く引き結ぶ。
「一緒に海に行こうって」
「海に行ってどうするんだ。まだ泳ぐには早すぎるのに」
「海の遠くを見るの。海と空の合わさった所がどんなになっているか見たいの」
 男の子は遠い目をする。強い風が下流から吹きつけた。ぼくは顔の前に腕を上げて、風をさえぎった。カランと軽い音がして、ベンチの上のあき缶が倒れたようだ。腕をおろすと、男の子の姿がなかった。
  爆音が聞こえ見上げると、音を後ろに残して飛行機が海へ向かっていた。ここからは見えないけれど、確かにあの方向にある海へと飛んで行く。
父が遠い国へと行ってしまったのは、たぶんあの便でだ。もうまる二年も顔を見ない。でもいずれは帰ってくるのだと、きのうまで信じていた。だってぼくの家の納戸には、父の描いた絵がまだそのまま残されているから。

                                    四

 何枚も、何枚もの海の絵が。
 ぼくは母がいない時、よく納戸にこそっと入り込んで過ごした。父の描く海は、どれも凪いでいる。長い砂浜につながる海も断崖の下の海も、どれも穏やかで優しい。
 父は仕事以外の時間はみんな、このたくさんの絵にそそぎこんだ。たぶん母にはそれが気に入らなかった。
 でもぼくは増えていく納戸の絵を見るのが、好きだった。父と一緒に砂浜に座って、海を眺めているような気がしたからだ。父は遠い国で、新しい海を描いているのだとばかり思っていたのに。
 家には一通も来ないエ アメールを、ぼくはきのう父方の祖父の家で見つけた。写真が入っていて、少し太った父は見知らぬ女の人とソファーに座っていた。そして父のひざで、赤ん坊が眠っていた。 父は笑っていた。
 ぼくや母といる時、父は一度もこんなふうに笑った事がなかった。ぼくは思わずその写真を握りつぶしてしまい、自分のした事を祖父に知られるのが怖くて逃げ出した。父が今まで描いた絵はみんな嘘っぱちだ。あんな静かな海はどこにもない。

「ねえ、ひとつ目を見つけたよ。一緒に海に行かない?」
さっきの少年が、白い馬にまたがっていた。馬は本当にひとつ目で、しかもその目は額の真ん中についていた。

                                    五

 ぼくは恐る恐る馬の首に触れた。それは暖かく、確かに生きてここにいる。ぼくは震えた。嬉しいようであり、怖かった。この馬は、そしておそらく少年も別世界のものだ。一緒に行けば、ぼくはもう帰って来れないかもしれない。でも今のぼくには、どうしてもここに帰ってきたい理由がなかった。父も母も大好きだった祖父までも、ぼくをまるで部外者のように扱う事によって裏切ったのだから。
 馬のひとつ目は、川ぞいを走った。河原が狭くなって走る場所がなくなると、川におりて水面を走った。あまりに早く駆けるので、足が濡れる間もないだろうと思えた。
後ろで水しぶきがパッパッと高くはねあがり、小さな虹がかかった。
 海まで五分とかからなかった。ひとつ目と少年とぼくは、まるでひとつの生き物のようにしっくりと重なって砂浜を走っていた。砂浜は三日月型にカーブして、その先は海に溶け込んでいる。ひとつ目はやっと立ち止まって、海の向こうに首を伸ばした。
「やっぱり」
と、少年は言った。
「海と空の合わさった所は、溶け合っているでしょう。海をずっと行けば空に昇れるよね」
 さあ、と少年はひとつ目の首を軽くたたく。
「待てよ。ぼくは行かない。空になんか昇れるもんか」

                                    六

 今にも走り出そうとするひとつ目の背中から、ぼくは滑り降りた。シャッとひづめが砂を蹴る音がした。海から強い風が吹きつけた。ぼくは両腕を上げて、舞い上がった砂から顔をかばった。
 カラカラカラ
 あき缶がベンチの上を転がり、草むらの中に落ちた。ぼくは腕を下ろして、もとの河川敷公園にいる自分を見た。ベンチから転がり落ちたはずのあき缶は、どこをどう探しても見つからなかった。

 二年前のある夜だった。夕食の後片付けをしているとばかり思っていた母が、いつの間にかテレビに夢中のぼくの後ろに立っていた。
「父さんはしばらく帰ってこないわ。今度はうんと遠くに行ったから」
「遠くって?」
「外国。あっちこっちに行くみたい」
 口調はさりげなかったけれど、後で考えると母のようすは変だった。
指先からじゅうたんの上に、ポタポタと水滴が落ちているのに気にするふうもない。
 でも父が旅行に行くのはいつもの事だし、ぼくはそう心配もしていなかった。
 だけど小学校の卒業式にも、父は帰ってこなかった。電話も、手紙さえも来なかった。

                                    七

 母はぼくに問い詰められるのを恐れるように、夕方から夜十時頃まで、駅前の喫茶店で働き出した。
 ぼくはもう十三歳になる。母はぼくに、父の事をちゃんと話さなければいけないと思う。

 ぼくはその夜、久しぶりに納戸に入った。立てかけられたキャンバスを、ひとつずつ広げてみる。
 こんなにたくさん海ばかり描いて、父は何を形にしたかったんだろう。何を見つけようと思ったんだろう。
 中の一枚に目が止まった。三日月型の砂浜。それは今日、ひとつ目の背中から見た砂浜とよく似ていた。その砂浜に、赤錆びたあき缶が半分ほども埋もれてあるのを見て、ぼくは息が止まりそうになった。
 ここにある絵は何度も繰り返し見たはずなのに、こんなあき缶が描かれているのには気づかなかった。それは真っ白の美しい砂浜に、あまりにもそぐわない物だった。
 あき缶は水平線を見ていた。もちろんそれに目があるならばだけど。その視線の先の空と海の境目に白いものが描かれてある。
 ちょっと見にはカモメのようだ。でもぼくにはわかった。これはきっとひとつ目だ。そしてひとつ目の背中には少年がいて、海から空に昇ろうとしている。
 玄関のドアが開く音がした。母が帰ってきたのだ。いつものぼくなら、知らん顔して一階に降りても行かない。でも今日はそうしない。ぼくは母が話してくれる気になるのを、もう待たないつもりだ。

                                    八

 母はぼくの前に、しわくちゃの写真を置いた。
「私は何とか元に戻れると思っていたの。あなたが気づかないうちに、そうできたらと思っていた。そしたら何もなかったのと同じでしょう。五年もの間の私の苦しみだって、なかった事にしてしまえる。でも母さんのその思いは、結局まわりのすべての人を苦しめただけだった」
 父さんの所に行ってもいいのよ、と母は台所に立ちながら言った。
 ぼくの胸には、さっき見た父の絵があった。海と空と、ひとつ目とあき缶と。ずっと描かれてあったはずなのに、ぼくには見えてなかった物の形。
「ぼくは行かないよ」
 母の背中にそう言った。母は振り向かずに流しに立ち、派手に水音をたてて皿を洗い始めた。





                                    九


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