裏返し


 小道があった。
 片側は大きな工場のブロック塀、もう片側は空き地だ。小道はゆるくカーブして、広い道ともう一つの広い道とをつないでいる。近くの小学校の通学路であり、工場で働く人達の近道でもあった。
 三月の初めとはいえ、このところにわかに日ざしは春めいてふりそそいでいる。
 ベビーカーを押した若い母親がやって来た。
「ナンナンよ。ねえ、ナンナンよぅ」
 おしゃべりがやっとできるようになったばかりらしい赤んぼうが、身をよじって母親を見上げた。
「ねえ、ナンナン。ナンナン」
 母親が返事もしないでベビーカーを押し続けるので、赤んぼうは泣き声をあげた。母親は適当にあいづちをうち、立ち止まりもしない。
「ナンナン、ちょうだい。ナンナン」
 赤んぼうは、足をばたつかせ泣きわめき始めた。
 追い越していく人が振り返って見るので、母親はしかたなく赤んぼうが指さす方に目をこらした。
「ああ、何だ。あれはネコよ。ニャンニャンでしょ」
「ちょうだい! ちょうだいよぅ!」

                                    一

 ひどくしゃくりあげながら、赤んぼうは一生懸命に怒っている。
「だめ。あれはきたないの。ポイしてあるんだから。もっときれいなの、お店で買おうね」
 母親はベビーカーを押し、小道を通り抜けて行った。その母親と入れ違って、老婆が小道にさしかかった。
 足が悪いらしくつらそうに引きずって、肩で息をしつつゆっくり歩いて来る。
「おおや、まあ!」
 老婆はすぐに捨てネコ に気づいた。
「まあ、まだひと月にもなってやしないねぇ。おまえ、まだ母さんのおっぱいしか知らない顔してるもの」
 老婆はしゃがみこみ、やせたひざの上に子ネコ をだきあげた。
 体の大きさも重さも、ふっくらふくれたおまんじゅうくらいしかない子ネコ は、こきざみにふるえている。細い足をつっぱり、暖かいにおいのする老婆のわきの下にもぐりこもうと、努力しだす。おさえられない体のふるえのせいで、ただでさえたよりない足がふらふらと少しも定まらなかった。
「おうおう」
 老婆はほろほろと顔をゆるめた。ふしくれだった手で、子ネコ の背をなぜた。ふくふくと毛が立ったその背中は何とも暖かい。
「ごめんね。つれて帰ってやりたいけどね」

                                    二

 それができないわけが、たしかに老婆にはあるようだ。服から子ネコ を引きはがしながら、老婆はなみだをためている。
「がまんしておいで。きっとすぐにだれかが拾ってくれるよ。わたしなんかよりずっといい人が」
 老婆は自分自身にそう言い聞かせ、歩き出す。
 子ネコ は見えているのかそうでないのか、遠ざかっていくまるい背中に向かって鳴き声をあげた。こんな小さな体のどこから出るのかと思うくらい、遠くまでとどく声だった。休むことなく、一時間以上も鳴きつづけた。そしてとうとう疲れて声がとぎれ、子ネコ は自分でも気づかぬまま眠りに落ちていた。
 しばらくは小道を通るものもなく、ひっそりと日ざしがそこにたまっている。
 やがてにぎやかな笑い声と入り乱れる足音に、やっと子ネコ は目をさました。子ネコ は細い首をのばし、薄もも色のハナ先を上にあげて母ネコ を探した。もうすっかりおなかがすいている。いっときだってがまんできない。
 子ネコ はまたせわしく鳴きだした。
「あれ? 何の声だ?」
「ネコ だよ。おい、来て見ろよ」
 小学三年か四年かというくらいの年の男の子が三人、あき地の中をのぞきこむ。中の一人が手をのばして子ネコ を引きずり出した。

                                    二

「小せぇの。まるでねずみだな」
「かわいくないな。この顔見てみろよ」
「おい、こいつポケットにだって入るぞ」
 ひざこぞうがキズだらけの子が、子ネコ のおなかをつかんだ。子ネコ はもがいて、細い足をつっぱった。やわらかなツメが男の子の指に白いすじをつけた。
「あっ、こいつ。引っかきやがった」
 男の子は腹立ちまぎれに子ネコ を地面に投げ落とした。幸いにも落ちたところは、やわらかに積った枯れ草の上だった。
「まるでカエルみたいだ」
「ねずみか、カエルかどっちだ」
「カエルなら泳げる。ためしてみよう」
「どこで」
「この先の川で」
 男の子がまた子ネコ に手をのばした時だ。
「ちょっとあんたたち、何してんの」

                                    三

 その男の子達と同じ年くらいの女の子達があらわれた。男の子を押しのけて、子ネコ を見つける。
「きゃ、ネコ じゃない」
「いゃあん、かわいい!」
 五・ 六人も連れ立っている。しかもその中の何人かは男の子達より体が大きい。
「だかせて、ねえ」
「わたしにも。いやぁ、かわいい。小さな足」
 男の子達は、たじたじと後ずさりして行ってしまった。
「わたし、ほしいな。連れて帰るわ」
「えっ、でもあんたんとこアパートじゃない」
「だいじょうぶ、となりだって犬を飼ってるもの」
「いいな、またわたしにもだかせてくれる?」
「いいわよ」
「ねえ、何て名前にするの」
 子ネコ は女の子のうでの中で、もみくちゃにされながらまだ鳴きつづけていた。 
 いっときたって、日も暮れかけた。工場から帰るおとなの群れもとぎれ、小道はまたひっそりとする。

                                    四

 そこへ一人の女の子がやって来た。どうやらさっき子ネコ をだいて帰った子らしい。両手でかかえこむようにしている上着の前が、かすかにふくらんでいる。さんざん泣いた後のように、その子の目はまっ赤だ。
 さっき子ネコ を見つけた場所まで来ると、女の子は上着の前を開いた。そこにはすっかり安心して、女の子のむねにしがみついている子ネコ がいた。女の子の目から、また新しいなみだがこぼれた。
「ごめんね。お母さんがどうしてもだめだって」
 しゃくりあげながら子ネコ をそこに残して、女の子は行ってしまった。子ネコ はまた、鳴くよりしょうがなかった。すぐ暗くなる。まだ春浅い夜を、子ネコ はひとりですごせるだろうか。体中の力をふりしぼり、子ネコ は鳴いた。ごまつぶのような歯がならんだ口をせいいっぱい開けて。
 小さななりにとがったキバがうすやみの中で白く浮いて見える。
 その時ふいにそのキバから、青白く細い光がほとばしり出た。それは暮れきった町の空を、花火が上がる時のような勢いでつらぬいていく。ひと握りほどの小さな者にそんな大それた事ができると、だれが思っただろう。その光はこの世界と、もうひとつの違う世界をへだてる膜の一番薄い部分を引き裂いた。
 私たちの住むこの世界は、わずかな裂け目からくるりと靴下を裏返すようにひっくり返ってしまった。
 私たちの住む世界とそう変わったところのない空き地から、泣き声が聞こえてくる。子ネコ ではない。人間の赤ん坊のようだ。

                                    五

 空き地のそばの小道を子ネコ が通りかかり、後ろから来る母ネコ を呼ぶ。
「お母さん、変な声がする。何かいるよ」
 母ネコ は子ネコ の後ろから草むらの中をのぞきこんだ。
「まあ、人間の赤ん坊よ。捨て子だわ」
「かわいいな。小さいね。ねずみと同じくらいの大きさだけど、この子のほうがぼくは好きだ」
 この世界ではネコ の方が体はずっと大きかった。
「お母さんはねずみがいいわ。おいしいし」
「ぼく、食べようと思って言ってるんじゃないよ。この子、飼いたいんだ」
「だめよ、とんでもないわ。捨て子なんか。ほら、さわっちゃだめ。汚いんだから」
 ネコ の親子は行ってしまった。その後にやって来たのは、白い毛もまだらに抜け落ちた年寄りのネコ だった。
「やれやれ、また捨て子か。かわいそうに。やっとはいはいができるころだな。わしがもっと若かったら育ててやるんだが」となげきながら、よたよたと通りすぎて行く。
 赤ん坊は泣き止んで、指をチュッチュッと音をたててすい始めた。
 それで少しは気がまぎれたようだった。おとなしく寝ころんで、自分の足をおもちゃにしたり、ブウブウよだれをふき出して遊んでいた。だがそのうち、それにも飽きてきたようだ。お腹だってすいているに違いない。

                                    六

 また情けない声で、ああ! ああ! と泣き出した。その声を、目つきの悪いトラネコ に聞かれてしまった。
「何だ。いったい何の声だ。しっぽがむずがゆくなるようだ」
 ガサガサと草むらに鼻をつっこむ。
「ふううん、いいにおいだ。人間の赤んぼうか。よく太ってるな。食ってみたことはないが、うまいだろうか」
 赤んぼうの丸々とした足に、トラネコ は歯をたてた。ヒィッと赤んぼうははげしく泣き出す。小さな体をこわばらせてひきつけるように泣き叫ぶので、恥知らずのトラネコ もさすがに気が引けたようだ。
 舌打ちして、少しばかり心残りなようすながら行ってしまった。
 その後に、小さな三毛ネコ が来た。
「なあに、いったい何の声なの。何が泣いているの」
 おませらしく首をかしげて、三毛ネコ は草むらをのぞいた。
「あら、こんな所に。まあ、何てかわいい!」
 なみだとよだれで汚れた赤んぼうの顔を、三毛ネコ はペロリとなめた。赤んぼうはまだしゃくりあげながら、、くすぐったそうに笑った。
 それを見て三毛ネコ は思わず、赤んぼうの頭をすっぽりとその口の中にくわえこんでしまった。
 かわいくてしょうがなかったからだが、そのおかげでせっかく泣きやんだ赤んぼうをまた泣かせてしまった。

                                    七

「私の友達のクロさんも人間を飼っているの。二人もよ。でもあんたほどかわいくないわ。だってあんたみたいに小さくないもの」
 三毛ネコ は赤んぼうのおなかのところを、そっとくわえた。痛くないように注意して、なかなか上手にくわえたようだ。
「さあ、帰りましょう。みんな、うらやましがるわ。あんたは本当にかわいいもの」
 赤んぼうを口にブラブラとぶらさげて、三毛ネコ は帰っていった。
 三毛ネコ のお母さんが飼ってはだめと言わなければ、そうすれば三毛ネコ はもうここに帰ってこなくてもすむ。そうすれば世界はもうもとには戻らず、そのまま明日になるのだろうか。





                                    八


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