床下の空


 サヤは床下の収納庫をのぞいた。何かを出そうと思ったのでなく、のぞいただけ。だってそこは、お母さんしか開けない場所で、サヤは中に何が入ってるかさえ知らなかった。
 少しだけ開けてのぞいてみたけど、真っ暗で何も見えない。もっと大きく開けようとしたら、後ろから来たねこのシルベスタがするりと中に入りこんでしまった。
 ふさふさした白いしっぽが、パサリとゆれて最後に消える。
「シルベスタ! 出ておいで」
 ヌァーンとシルベスタの声が、遠ざかっていった。 
「大変だ。つかまえなきゃ」
 収納庫の中に頭を入れると、暗やみの中にチカチカ光る小さな点がいっぱい見えた。まるで星みたいだ。きっとキッチンの蛍光灯の光が床板のすきまからもれて、あんなに光るのだろう。
「シルベスタ! どこなの」
 シルベスタが見えなくなった。サヤはもっと身を乗り出した。収納庫はどうしたわけかキッチンの床下だけでなく、もっと遠くまで広がっている。その全体に、チカチカとまたたく光があった。
「あれ? 本当の星みたい。知ってる星がある。オリオン座の三つ星、大犬座のシリウス」
 どうして床の下に空があるんだろうと、サヤは何度か目をこすって見直した。そしてもっと身を乗り出した。

                                    一

 星のような光しか目に入らなくなり、サヤは地面に寝ころがって空を見上げているような気分になった。それはとてもきみょうな感じで、めまいがした。
 シルベスタを見つけた。
 シルベスタは宙に浮いているように見えた。泳ぐみたいに少し短い四本の足を、いっしょうけんめい動かせている。サヤの方に白いおなかを見せて、少しずつ遠ざかっていく。
「シルベスタ、待って」
 うっかり手をはなしたので、サヤは頭から収納庫の中に落ちてしまった。だのにどこにも頭をぶつけなかった。 海の中にいるってこんな感じかなとサヤは思った。息は苦しくなかっ たけれど体は宙に浮いていた。
 こんな所にお母さんは何を入れるのだろう。底のない収納庫に入れた物なんか、もう二度と取り出せないのに。
 シルベスタのまねをして手足をバタバタすると、体が動き出した。体の向きは変わってないのに、いつのまにか上と下が入れかわってしまった。
 見あげると上にシルベスタがいる。星のような光も今は頭の上に見え、こうして見るとやっぱりあれは星だった。
「シルベスタ、帰っておいで」

                                    二

 シルベスタはちゃんと返事をし、ちらっとサヤを見おろした。でもシルベスタはずっと上の方にいて、止まってサヤを待つつもりはなさそうだ。        
「どこまで行くのよ。何しに行くの」
 ヌワァとなき、シルベスタはしっぽをフサリとふった。
 シルベスタは外国のねこと日本ねこの雑種で、サヤより七才も年上、もう十七才になる。ねこにしたらすごいおばあさんだ。とちゅうでつかれておぼれてしまわないかと、サヤは心配した。
 でもここは水の中ではないから、おぼれることはない。そしてここは空中でもなく、床下でもない。いったいここはどこなんだろう。
 ふと下を見おろすと、テレビの画面くらいのあかりがぽつんと見えた。そのあかりの中に見えるのは、どうやらキッチンの天井だ。
 だってその中で光っているのは、お母さんがお気に入りの、チューリップの形したペンダント・ ランプだったから。
「天井が下にあるなんてどういうこと」
 どうやらサヤは、とても変な所に入りこんでしまったらしい。帰れなくなったらこまる、とサヤは思った。
「シルベスタ、おいで。もう帰ろうよ」

                                    三

 聞こえているはずなのに、シルベスタはもう下を見なかった。このごろぐうたら寝てばかりいたのに、どこにあんな元気があったんだろう。シルベスタは少しも休まず、どんどん星にむかって飛んでいく。サヤも必死になって追いかけていると、キッチンのあかりはどんどん遠のき、やがて小さな点になった。これ以上先へ行ったら、本当に帰れなくなるとサヤは思っ た。
「ほっぽいて、帰っちゃうからね」   
 おいていけるわけはないのに、おどしてみた。だのにシルベスタは止まらない。何とか追いつこうと必死で手足を動かしていたら、すっかりくたびれてちょっと休みたくなった。でも本当に休んだら、大変なことになってしまった。どうやら体が落ちていきだしたらしい。最初は落ちていることさえ気づかなかった。下を見おろしてからこわくなりだした。キッチンのあかりが、すごい早さでどんどん大きく見えてきたからだ。
「お母さんの大事なペンダント・ランプを割ってしまうかもしれない。それよりわたしの体の方が先に割れる!」
 こわくて目を開けていられなかった。今すぐにもガッチャンと割れる音がしそうで目だけでなく、耳までふさいだ。なのに何かにすくいとられるように、ふわっと落ちてどこも痛くない。おそるおそる目を開けると、大きな丸い物の上に体が乗っかっていた。
 真ん丸ではなかった。ちょっと上からおさえてつぶした感じだ。うすい茶色で一面にクルミのカラみたいなもようがあった。

                                    四

 よく見ようして首をあげたらすべり落ちそうになって、サヤはあわてた。どこもつかまる所がなかったのだ。
「ほーら、ここ、ここ」
 サヤのおなかの下で、突然そんな声がした。
 指先に力を入れてすべらないようにしながら、そっとおなかを浮かせて下を見ると、そこにはちょうど体が入るくらいのあなが開いていた。
「落ちてしまう前に、おまえ入ってくるんだ」
 中がどうなっているのかわからなくて気味悪かったけど、下に落ちて体が粉みじんになるよりましだ。サヤは少しずつ体をずらして、何とかそのあなの中に入りこんだ。
 するりと、やわらかないすの上に落ちた。落ちたというより、いすの方からむかえにきてくれたような感じがした。
 その中は天井もかべも床もまるく、その全体が白く光っていた。前のかべは全面がガラス窓らしく外のようすが見えている。
 サヤの右横にいただれかが、音もたてずに手の下のキーボードをたたくと、ガラス窓には数字がいっぱいにあらわれて横に流れた。窓と見えたのは、どうやらスクリーンみたいな物らしい。
 サヤはあらためて、横にすわる人を見た。 人ではなかった。巨大アリだった。

                                    五

 全身真っ黒で、頭の上には触覚があった。ただ足は二本しかなかったし、人間みたいにちゃんと腰かけてはいたけど。
「おまえ、あの窓から来た?」
 画面はいつのまにか変わって、サヤの家のキッチンの天井が写っていた。
 どう返事していいものか決めかねてサヤがあいまいにうなづくと、その巨大アリはすごい早さでまたキーボードをたたいた。画面にいくつかの点と線が走り、読み取れないほどの早さで数字が消えたりついたりした。
「あんな勢いで帰ったらだめ。着陸する時は、スピードを落とさねば。送ってやろう。おれ、着陸は自信ある」
 サヤはうなずきかけて、ブンブンと首を横にふった。
「だめ。まだ帰れないの。シルベスタを、うちのねこだけど、つかまえなくちゃ」
 ふうんと巨大アリはつぶやいて、ふいにサヤの前に右手を差し出した。
「おれ、ルイ・スタート。おれの自家用船スィート・ウォルナッツへようこそ」
 ルイがまたキーボードをたたきだしたのをいいことに、サヤはそっと彼のようすをぬすみ見た。
 ルイの背たけはサヤより頭の分だけ大きく、飛行船の天井にとどくくらいあった。胸やおしりの部分はサヤの三倍くらいもはばがある。この飛行船は二人乗りらしいけど、少しせまくるしかった。ルイがくるっと首をまわせば、サヤの頭はすぐその下だ。

                                    六

 人間みたいにしゃべるんだから、いきなり女の子にかみつくなんてまねはしないと思うけど、とサヤはルイの口のあたりを見た。しげしげとながめたが、どこに口があるのかはわからなかった。
「で、おまえは?」
 とっさに何を聞かれているのかわからなくて、サヤは顔が熱くなった。
「おまえの名前聞いてんだ」
「わたし、サヤ。カツラギサヤです」
「ふうん。で、そのねこは?」
「ねこはシルベスタ」
「名前じゃなくて、聞いてんのはどっちの方へ飛んでったのかってこと」
「あの、たぶん三つ星の方。オリオン座の三つ星。知ってます?」
 ルイはムッとしたらしかった。
「あたりまえ。ここらあたりうちの庭みたいなもの」
 スィート・ ウォルナッツは急発進した。前の画面には外の星空が写っている。その中にはっきり三つ星が見えた。
 ルイの操縦はうまいとは言えない。何度もいきなり急ブレーキをかけるので、サヤは首がガクガクした。

                                    七

「なんで急に止まるの。何かあったの」
 ルイはため息をつき、首の所をかいた。
「あーあ、やっぱりぬいでしまうっ」
 ルイの頭が後ろにガクンと落ちたので、サヤは悲鳴をあげた。
「ひどい声だ。耳がキンキンする」
 頭がもげたアリの体の中に、ちいさな頭がもうひとつあった。その頭の横からするりと細い腕がのび、もごもごしていたかと思うとぺしゃんこになった黒い体を後ろにほうり投げた。するととなりのいすにすわっているのは、サヤよりいくぶん小さくさえあるふつうの男の子だった。ミルクコ ーヒーみたいな色の髪の毛を、くしゃくしゃにかきまわして、その子はホッと息をついた。
「飛行服は便利だけど、どうもきらいだ。ちゃんと動けない」
「あれって服なの」
「ママは操縦する時、ぜったいに着ろと言うけど。あれ着てると、どんなことがあってもケガしないから。ためしたことないけど、核ばくはつでもへいきだって」  
「まさか」
「おれ、今まで三十回くらい事故した。そのうち一度だって、すりキズひとつ作らなかった。でも言っとくけどその事故の原因、ぜったいあの飛行服のせいと思う」

                                    八

 サヤは飛行服をぬいで、ずいぶん小さくなったルイをこそっ と横目でながめた。体にぴったりとした青いつなぎの服を着て、腰のベルトには何に使うのか見当もつかない道具をぶらぶらといっぱいつり下げている。
 どうやら中にはおもちゃもまじっているようだ。
 どう見ても、ルイはサヤより年下にしか見えない。こんな小さな子に操縦させるなんてまちがってる、とサヤは思った。事故の原因はきっと、飛行服のせいばかりじゃない。今のこの操縦のしかたを見ていると。
「ヤッ ホホホーイ」
 いすがしっかりささえてくれなかったら、サヤはスィート・ ウォルナッツのかべをつきやぶって、はるか後ろにおきざりにされたかしれない。奥歯を思い切りかんでないと、頭の皮まではがれて後ろに飛んでしまいそうだ。
「も・っ・と、ゆ・っ・く・り・飛・ん・で」
「ヤッホホホホーイ」
 一直線に飛ぶかと思えば、急に百八十度向きを変えた。
「方向、まちがったの」
「まちがってない。シルベスタを見つけた。きっとあれだ。白いねこだろ。ほら」
 ルイはスピードを落とし、わき目もふらず足を動かせているシルベスタとならんだ。
「よかった。ありがとうルイ」

                                    九

 ルイがキーボードをたたくと、飛行船の天井が丸く開いた。サヤはあわててそこから体を乗り出した。
「シルベスタ。さあ、おうちに帰ろう」 
 手をのばしてギュッとだきしめたが、なんだかようすが変だった。まるでぬいぐるみみたいに、体全体からくたくたっと力がぬけていく。どうしたんだろうと顔をのぞくと、シルベスタはうす目を開けていた。その黄色の目に光がなかった。どこも見ていない目だった。深いあなでものぞきこんだ時のように、背中が冷たくなる。 サヤは悲鳴をあげて、シルベスタをはなした。
 するといっときの間をおいて、シルベスタは足をひくつかせ、首をそろっとあげて動きだした。五秒もたたないうちに、何ごともなかったようにまた泳ぎ始めている。
「どうしたんだ。おまえのその声、おれどうもがまんできない。もっと低い音、出せないか」
「何よ。えらそうに」         
 サヤはいすの上で、ひざをかかえて小さくなった。ふるえてくる体がおさえられなかった。
「シルベスタ。わたしのシルベスタがどうにかなっちゃったのよ」         
「きっとシルベスタ、おまえをからかったんだ」
「おまえって呼ぶのやめてよ。わたしより小さいくせに」 
 ルイは口をとがらせてうつむいたが、すぐにまたキーボードをたたき始めた。

                                    十

「シルベスタは病気かもしれない。医者を呼んでこよう。おれ、いい医者知ってる」
 郵便局とか信号とか、そんな目印になるものはここには何もない。星はグリーンピースか一番大きく見えるのでもソフトボールくらいで、うっすらと光っている。なのにルイにははっきりと行く方向がわかるらしく、少しもまよわないで走り抜けていく。
 シルベスタとどんどんはなれてしまうと、思ってサヤは落ち着かなかった。ちゃんともとの場所にもどれる? と聞こうとしたら、ルイはふいに大声をあげた。
「ヘーイ。見つけた。天下一の名医、ドク・バラバ!」  
 どう見ても柄のないカサだが、やはりこれも飛行船なのだろう。上から三分の一くらいがパクッと開いて、真っ白の大きなカエルみたいなのが顔を出した。
「あれも、飛行服なの? カエル型のもあるの」
 ルイは返事をしないでわらいだした。近づいてみて、なぜルイがそんなにわらったのかわかった。ドク・バラバは色白の、少し太ったふつうのおじさんでしかなかった。ほとんど毛のない頭に、大きなメガネを乗せていた。
「やれやれルイ。また事故ったのかな。まさか今度は飛行服を着ていなかったのではあるまいな」
 バラバは飛行船から体を乗り出した元気なルイを見て、ニッとわらった。歯のない大きな口を開けて。
「やっぱりカエルよ」
 サヤは少し感心した。ドク・バラバがあんまり見事にカエルに似て見えたから。

                                   十一

 ルイはサヤを飛行船の外に引っぱり上げた。
「ほら、自分で言え。バラバに治せないケガや病気は、この世にはないんだ。ぜったい、だいじょうぶ」
「シルベスタが、うちのねこがね、さわるとクタッてなるの。お願い、何とかして」
 ほほう、とバラバがカサ型の飛行船から身を乗り出した。         
「変わった病気だ。ぜひとも診てみたいもんだ」
 バラバをつれてもどった時、シルベスタはさっきと何ひとつ変わらない顔をして、足を動かせていた。
 頭のメガネを鼻の上におろして、バラバはおもちゃのラッ パのようなものを取り出した。どうやらそれは聴診器らしかった。
 バラバは飛行船を、泳ぎ続けるシルベスタのすぐ下を飛ばせた。体にはふれないように気をつけながら、シルベスタの胸に聴診器をあてた。あてたとたんに、ため息をついて首をふった。
「心の臓が止まっておる」
「だって、足が動いているのに。さっきは名前を呼ぶと、ちゃんと返事までしたのよ」
「これはもう、わしの出る幕ではなさそうだな」
 バラバは、聴診器をかたづけてしまった。
「ルイ、このねこはもう、わしの手のとどく場所より遠くに行ってしまった。この先はミス・セビリアにたのむよりしょうがない」

                                   十二

 ドク・バラバはそう言うなり、さっさと帰ってしまっ たのでサヤは本気で腹を立てた。
「ルイ。あの人、本当に名医なの。やぶ医者じゃない?」
「もちろん名医だ。おれの飛行船、何度も直してもらった。スィート・ ウォルナッツ見たろ。今まで事故した回数、キズがある。バラバはそのキズをただ消すんじゃ なく、もように残してきれいに直した。クルミみたいですてきだろ」
「直したのは飛行船なの? あんたじゃなくて?」
「だっておれ、今まで何度も事故したけど、ちゃんと飛行服着てた。だから、ケガしてない」
「だからそういう問題じゃなくて。ドク・バラバは人間を治す医者じゃないの?」
「人間もねこも飛行船も治す。決まってる。バラバに治せないものはないんだ」
「でもシルベスタは治せない」
「シルベスタはもう、遠くに行ってしまったからだ」
「いやだ! そんなこと」
 お母さんが出かけてても、シルベスタはいつも家にいた。しかられて泣いているといつのまにかそばに来て、足だか背中だかにぴったり体をおしつけて、いつまでもそのままでいてくれた。真っ白でふわふわの、優しいシルベスタ。

                                   十三

 ルイはうつむいて、サヤの方を見なかった。
 シルベスタは今も、ゆるゆると足を動かせ続けている。 そして少しずつ、サヤから遠ざかろうとしている。
「ねえ、ミス・セビリアってだれ? その人なら何とかしてくれるの」
 ルイは顔をあげないまま、キーボードをたたいた。
「セビリアはまじない師だ。天下一の…」
「その人にできないことはないの」
「ああ。一度に三つの星を消したことある。すごかった」
「星なんか消さなくてもいいの。シルベスタを治してくれれば。シルベスタをどうしよう。つれていく?」
「いいけど」
 サヤは迷った。
 つれていきたいけれど、抱くとまたさっきみたいになるのかと思うと、こわくてさわれない。
「またちゃんと、シルベスタの所にもどってこられる?」
「だいじょうぶ。シルベスタがどこに行こうとしているのか、おれわかった」
「どこなの」
「シリウス、死者の守護神がおられる場所」

                                   十四

「わたし、シルベスタをそんな所にぜったい行かせない。ルイ、早くそのまじない師の所につれていって」
 スィート・ ウォ ルナッツのスピードが、さっきほどつらくなかった。あるいはルイの操縦がさっきより、ましになっているのかもしれない。ルイは真剣な顔で前を見ていたし、何度もキーボードをたたきなおした。
 たくさんの星が、間近に見えだしていた。時にはその星に着陸するのかと思うほど、近くを飛んだ。あんまり近いと、星はもう星とは言えないような感じがした。何もいそうにないかわいた星もあれば、地球そっくりに見える星もあった。
「あれがミス・ セビリアの星」
 ルイが指さした。その星はまだドッジボー ルくらいの大きさで、白くかがやいていた。
 スィート・ ウォルナッツは一面の草原の中に着陸した。その草はどれもたけが四・ 五十センチくらいあり、銀色に近い白色をしていた。風がいっときもやむことなく吹いていて、しかもひと吹きごとに向きが変わった。
 ミス・ セビリアの家はその草原の中にあった。大理石のような輝く石が積まれた家で、ピラミッドのような形をしていたが、よく見ると風の向きでその頂点の位置が動いている。
 入り口はどこにもないように見えていたのに、近づくとその前が人型に開いた。それがあんまり不思議だったので、サヤはルイが立ったのとちがう場所に行ってみた。
 するとそこもやはり人型に開いた。開いたそのすぐそばに、背の高い女の人が立っていた。

                                   十五

 真っ黒のすその長い服が、白く光っている石の中で影のように思えた。顔の所は本当に影になっていて、はっきり見えなかった。全身が真っ黒の中で、髪の毛だけが白く長いのを、ぐるぐる巻いて頭にぴったりと止めつけている。
「セビリアに何かご用?」
 サヤはその人を、ここで働いている人かと思っ た。あまりに低いしわがれた声の人だった。
「遠くに行き過ぎてしまったもの、取りもどしたい」
 ルイがあいかわらずそっけないもの言いをして、つっ立っていたサヤをうながしその女の人の後について家の中に入った。
 家の中心の部屋に通された。上を見上げると、動き続けている家の頂点がそのまま見えた。
「遠くに行き過ぎたものは何?」
 その女の人が部屋の真ん中に立って、まとめていた髪の毛をほどいたので、サヤはどうやらこの人がセビリア本人なのだと気づいた。
 髪の毛はすごい量で滝みたいに背中をすべり落ちてゆかにまで広がっている。
「この子のねこ。名前はシルベスタ」
 ぼうっとセビリアに見とれていたサヤのかわりに、ルイが答えた。

                                   十六

 セビリアはサヤに手をのばして、近くにまねきよせた。間近に見ても、セビリアの顔だちははっきりと見て取れなかった。目は銀色に光るように見え、黄色にも見え、緑っぽくも見える。しわだらけかと思えば、つやつやとみずみずしく、肌はすきとおるほど白いかと思えば、かっ色にかがやいた。
「どうして、シルベスタを取りもどしたいのか言ってごらん」
「わたし、今までずっといっしょだったの。シルベスタと、別れたくないの」
 セビリアの白い髪の毛がフアッと舞い上がって、体のまわりを回った。右へ回って、またもどった。生き物のようにフワフワと動いている。
「変わっていかないものは、何ひとつないんだよ。みんな動くんだ。星さえも」
 セビリアは家の頂点を見上げ、指さした。
「でもわたしなら、止められる。わたしにできないことはないからね」
 耳なりのように聞こえていた風の音が、ぱたっと止まっ た。動き続けていた家の頂点が止まっている。セビリアの髪の毛も静かになって、床にたれた。
 セビリアは両腕をあわせ、止まっ ている家の頂点に向かって高く上げた。髪の毛が両わきに広がっているので、セビリア自身が三角形になって白くかがやいた。その指先に何かが降りてくる。白いフワフワしたもの。
「シルベスタ!」

                                   十七

 遠くからやって来るように、シルベスタの姿はセビリアの指先でしだいに大きくなっていっ た。何もない空間をシルベスタは歩いてきて、サヤの胸にだきとられた。
「シルベスタ帰ってきてくれたのね」
 フワフワした毛に、サヤは顔をうめた。
 ヌアーンとシルベスタは返事をして、首を回しサヤのほおをザリザリとなめた。頭をかいてやると、何度もサヤの手のひらに頭をすりつけてきた。
「なんかシルベスタ、若がえったみたい。このごろ、こんなことしなくなってたの」
「いいだろ。元気になったんだ」
 ルイは言い、自分もシルベスタに手を出した。シルベスタはその手もちらっとなめて、何か興味を引かれたらしく目をかがやかせてサヤの手をすりぬけ下におりた。
 ルイの体の回りをまわって、腰に下がっているものに飛びつこうとしている。
「だめだ。シルベスタ、これはおれのだいじな道具だ」 
 そう言いながらルイは、わざと腰をふってシルベスタをさそっている。
「どうして?」
 サヤはセビリアに向かって言った。

                                   十八

「どうしてシルベスタは若くなったの」
「わたしにできないことはない、と言ったはず。どうして今のシルベスタでなければいけない?」
 セビリアは高くかかげていた腕をおろした。今、セビリアの顔は変化していない。うす青い氷のような目が、サヤを見下ろしていた。
 うすく開いた口には歯がなく、そこから低いわらい声がもれた。
「もうすでに遠くへ行ってしまったシルベスタを、もどしてほしいと言うのか」
 くたっとなったシルベスタを思い出して、サヤはあわてて首を横にふった。セビリアがこわくなり、逃げ出したくなった。顔を合わせていられなくなってうつむくと、いつのまにか足もとにシルベスタがすわりこんでいた。
「シルベスタ、シルベスタ」
 まただき上げて、ほおずりした。さっきは気づかなかったのに、だきしめるとやせて骨ばった体が指にさわった。そう言えばこのごろ、シルベスタはあまりごはんを食べてなかった。キバがぐらぐらしてきているせいだと、おかあさんが言ってたっ け。
「ごめんね、シルベスタ。ちゃんとめんどうみてあげなくて」
 シルベスタは声には出さず、口だけあけて返事した。
「ほら、ほら。シルベスタ、これやる」

                                   十九

 ルイが腰のベルトの小さなアミのふくろから、ボールを取り出した。蛍光オレンジ色のスーパーボールだ。
「ありがとうルイ。シルベスタは、スーパーボールが大好きなのよ」
 サヤはボールをゆかにはずませた。
 なのに、シルベスタは見向きもしない。年とったシルベスタに、もどってしまっているのだ。
「このこね、このボールがあるとひとりでいつまでも遊んだのよ。昔だけど。わざわざくわえて二階まで持って上がって、階段をころがり落として遊ぶの」
 ここしばらくシルベスタは、二階にさえ上がろうとしなかった。足がすっかり弱ってしまったからだ。
「昔のシルベスタの方がよかったろう」
 望むならまたもどしてやるぞと、セビリアはサヤをあざけるように笑う。
 サヤはなみだをふきもしないで、セビリアをにらみつけた。セビリアのわらい声は、行き場のない風のようにとだえて消えた。
「もし昔のシルベスタをわたしの所にもどしたら、今のシルベスタはどこに行ってしまうの」
「どこにもいかぬ。存在しなくなるだけのこと」
 じゃあ、今のシルベスタはどうなるのだろう。きのうのシルベスタは? おとといのシルベスタは? 今まで暮らしてきた、シルベスタとの思い出は?

                                   二十

「そんなのいやだ!」
 セビリアはサヤから顔をそむけ、髪の毛をバッサリとふり上げた。長い髪はひとりでによりあわさって、セビリアの頭にきっちりとまきついた。
「止められないものはあるのだよ。どうにもできないことは、あるはずなんだ。だのにわたしには止められる。どんなことでもできてしまう」
 セビリアは悲しげにそう言って、ルイとサヤに手をふった。
「おかえり。早く行っ ておしまい。幸せな子どもたち」
 シルベスタはいなくなっていた。昔のシルベスタも今のシルベスタも。
「シルベスタは自分の行くべき場所へともどっていった」
 セビリアは部屋を出ていきながら、つぶやくように言いすてた。
 草原の中でスィート・ ウォルナッツは、本物のクルミのようにかわいらしくおさまって待っていた。それをしみじみながめてルイは得意そうな顔をしたが、うつむいてだまりこくったサヤを見るともじもじした。
「ごめんサヤ。役にたたなかった」
 サヤはうつむいたまま、首だけ横にふった。
 スイート・ ウォルナッツは、こわれものの山を積んででもいるように、今だかって一度もなかった速度で飛んだ。 

                                  二十一

「シリウスに行く?」
 ルイのことばに、サヤはやっと顔を上げた。
「シリウスに?」
「シルベスタが死者の守護神にちゃんと出会えたかどうか、たしかめに」
 サヤはルイの親切をことわって、あまりシリウスの間近には行かなかった。だからシルベスタの姿は、もう見ることができなかった。
 シリウスがふいに強く青い光をはなった時、ああ今シルベスタが着いたとサヤは思った。それでやっと、その場をはなれることができた。
 キッチンの天井が見える場所まで来て、ルイはサヤに手の中のものを差し出した。それは蛍光オレンジのスーパーボールだった。
「くれるの?」
「うん。持っていけ。シルベスタのこと、いつまでもおぼえてるように」
「ありがとう。わたし、ルイに何もあげるものがないわ」
「おれ、シルベスタの思い出、わけてもらった」
 スィート・ ウォルナッツは、床下収納庫の真下に止まった。

                                  二十二

 真下と言っていいのかどうかわからない。ここでは上と下の区別はなかった。その時によって頭のある方が上になり、足の方が下になる。
 今キッチンの天井は頭の上にあった。サヤはほっとしてスィート・ウォ ルナッツから出て、床下収納庫のふちに手をかけた。はいあがり下を見下ろすと、スィート・ウォルナッツはくるりと宙がえりして遠ざかっていく。 物音に、居間からお母さんが顔を出した。
「サヤ、ここにいたの。探してたのよ」
「どうしたの」
「あのね、シルベスタがね…」
 お母さんは、後のことばをにごす。そして横をむいて、指で目じりをそっとおさえた。
 わかっていたはずなのに、胸が苦しかった。行ってしまっ たシルベスタを見たくなかった。でも見ないといけないのだと自分に言い聞かせた。サヤは手の中のスーパーボールをにぎりしめた。ルイのなまいきな声が耳に残っている。
「ルイに分けてあげられるくらい、シルベスタの思い出がたくさんあってよかった」
 シルベスタ、シルベスタ。ありがとう。一緒にいられてうれしかったよ。さようなら。

                                  二十三


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