座敷おばば


「ほら、また道草食う。チップったら」
 何メートルか猛ダッシュしたかと思うと突然ピタッと足を止め、香織さんの愛犬チップは来た道を振り返った。四本の足は、引き綱に抵抗して思い切りふんばっている。耳がピンと突っ立ち、しっぽはためらいがちにかすかにゆれている。
「どうしたん。何か、いてるの?」
 もしかしたらオス犬のにおいでもするのかもしれない。香織さんはそう思って、もう体のどこにも子犬らしさのなくなってしまっ たチップを見た。
 そうだとしたら、やっかいだ。見るからにスケベったらしい顔つきのオス犬に、散歩の初めから終りまでつけまわされたことがある。チップもその犬は気にくわなかったと見え、不安そうに何度もグゥグゥうなるのだが、そのオス犬は『まあまあ、そんなにこわがらんでもいいがな。何にもせぇへんて』とよだれをたらしながら、しつっこく後をついてきた。 その犬の鼻先がチップに近づくたび、香織さんの方が全身鳥はだ立った。走って逃げるとよけいに追いかけてくると思い、精一杯急ぎ足で歩きながら冷や汗たらたらだっ た。
「さあ、行こ。チップ!」
 香織さんは少々手荒に、引き綱を引いた。
「まぁまぁ、いやがってるがな。どないしたん。ん? 行きとおないんか」

                                    一

 角を曲がってあらわれたのは、オス犬ではなかった。やせて小柄なおばあさんで、幼い子供に話しかけるような口調で、チッ プに手を差し延べた。普段よっぽど愛情に飢えているのかと思うくらいのあまえ声で、チップはそのおばあさんにしがみついている。
「あっ、すいません。服が汚れます。チップ、これ、やめなさい言うのに」
「かまへん、かまへん。わたしのポケットの中が気になるのやろ」
 おばあさんは腰に巻いたエプロンのポケットに、手を入れた。           
「わたしいつもここにいい物入れとるからな。子供も犬も一緒、わたしに会うたらポケットに手ぇ入れよる」
 ほら今日は何が入っとるかなと、チップに向かってあやすように言い、おばあさんはポケットに手を入れた。
「あら、昆布飴やがな。こんなん、あんた食べますか」
 チップはなおも息絶え絶えのありさまで、鼻をならしている。紙をむいてもらうとにおいさえかがずに、ひとのみした。愛犬のあまりのあさましさに、顔を赤らめていた香織さんにまで、おばあさんは昆布飴を差し出した。
「いつももうちっと、ええもんが入ってんねんやけどな。おきらいか」
 いえいえ、と香織さんはいくつかの昆布飴を手に受けた。
「喜んでもろうてもらえたら、わたしらそれだけでうれしいのや。何にも見返り望んでいるわけやない。そやのにこの頃の若いおくさんはな、わたしが子供にお菓子をやるのをいやがりよる」

                                    二

 へぇ何でですやろねと口先で言いながら、香織さんは手の中の昆布飴を見た。それはポケットの中の、ちりゴミにまみれていた。
「やらんといてくれ、言うてくるんやで。そんなん言うてもなぁ、子供はわたしの顔見たら、走ってきてポケットに手入れるんやもん。子供はええなぁ、罪のうて。ええ、あんたもやで。罪ないもんなぁ。わたし、犬は大好きや」
 おばあさんは自分のあごをなめまわしているチップの、頭をだきしめた。あんたというのは、むろんチップの事だ。
 香織さんは気づかれない程度に引き綱を手に巻いて、チップを自分の方に引きよせた。
「あんたはんは、お子さんは?」
「まだ…。欲しいんですけどね。今のところこの犬が子供のかわりで、ほんまに世話がやけるんです」
 香織さんは強情に綱を引っ 張るチップを、横目でにらんで苦笑いした。
「おばあさんは、今おひとりでいらっしゃるんですか」
「そうや。あのな、この先の四軒長屋の左から三番目やったかな。いや、ちゃうちゃう。二軒目やった」      
 忘れっぽうなってなぁ、何しろ七百年も生きとると、とおばあさんは笑う。 
ハハハ……と、香織さんはお愛想に笑う。このあたりの人はすぐに百円のことを百万円と言ったりする。じゃこのおばあさんは七十か、でももっと年寄りに見えた。

                                    三

 こんな風におしゃべりするのは本当に久し振りと、香織さんは気分が浮き立った。近所の奥さんたちとは、せいぜい挨拶程度のおしゃべりしかしたことがない。会社の同僚だった正彦さんと結婚してから三年住んだアパートを引き払ったのは、去年の暮れだった。この町に来て、もう半年が過ぎたのだ。
 あくる日チップの朝の散歩を終えて、香織さんが一人きりの昼食の用意にかかる頃だった。朝の散歩は通りの向こうの公園をひと回りするだけなので、チップはまだ元気を持て余している。形ばかりの狭い庭で、つながれた鎖の届く精一杯の地面を、走り回っているらしい。ジャラジャラと響く鎖の音が、台所まで響いてくる。
 ふいに玄関のチャイムが鳴った。
 ガスの火を消し、香織さんはあわてて玄関に立った。ドアの外に、どなたと声をかけても答えがない。庭のチップがせわしい息で、飛び跳ねているようだ。
「よしよし、そないに喜んでくれるんかいな。おまえはほんまにええ子やなぁ」
 犬に話しかける声が聞こえた。
 香織さんはドアのカギをはずし、チップに負けずにはしゃいで声をあげた。
「おばあさん! なんでここがわかりましたん?」
「ああ。きのうな、来はった方向から言うてこのあたりやないかと見当つけてな。一軒一軒のぞいてきてたら、この子が見えましたもんやさかい」

                                    四

 おばあさんは胸に飛びついたチップの顔を、両手ではさんでなめられるままになっている。
「わざわざ探して来てくれはったんですか」 
きのうの立ち話が、おばあさんにとっても楽しかったのだと気づいて、香織さんは胸がジワッとうるんだ。
「上がっていってください、おばあさん。お茶でもいれますし」
「えっ、そうか。ほんまに、ええのんか。ほなら、ちょっとおじゃまさしてもらおか」
 吸血鬼とかそういう魔性の者は、その家の者が招きいれさえしなければ、決して入って来れないのだという。香織さんが自分の言った言葉を悔いたのは、その日のうちのことだった。おばあさんは魔性の者ではないとしても、それにごく近い者であったことは間違いがない。
 おばあさんは香織さんがすすめた茶菓子に切れ目なく手を出し、渋茶を三杯飲んだ。居間に置いた香織さんのお手製のクッションにもたれ「この連続ドラマ、毎日見るんや」とテレビをつけた。それが終わったら「このドラマ、見逃したやつや。再放送してくれるなんて、ありがたいこっちゃな」と喜んでチャンネルを変える。最初はニコニコと話につきあっていた香織さんは、三時近くなって空腹に耐えられなくなった。昼食を食べ損ねてしまったままなのだった。
 作りかけていた焼き飯を仕上げ、おばあさんと分け合って食べた。その時はまだ、事は深刻ではない。
 日が暮れて、正彦さんが帰っ てきた。

                                    五

「だれや、あれ」
 居間に座り込んだおばあさんにかるく頭を下げ、正彦さんは台所に香織さんを引っぱりこんだ。
「知らん」
 ふいに香織さんは泣きそうになって、鼻をこすった。
「知らんって、おまえ。いったい、どう言うこっちゃねん」
 香織さんが渋りながら事情を話すと、正彦さんは呆れて目をむいた。
「帰ってくれ、言わんかい」
「一人暮らしのさびしいおばあさんやで。あんた、そんな冷たい事、言えるんやったら言うてみ」
「そら、おまえ。何もストレートに言わんでもええがな。ぼくにまかしとき」
 正彦さんはおばあちゃんっ子で育った人なので、年寄りのあつかいには慣れている。香織さんは少し安心して、正彦さんの後に従った。
「おばあさん。もう外薄暗うなったし足もとが危ないよってに、ぼく送ったるわ。家、どのへんや?」
「いえいえ、結構でっせ。気ぃ使わんといてぇな」 
 おばあさんは投げ出した足を、ボリボリとかく。
「そやけどもうじき七時になるで。おばあさんかて、そろそろ晩の支度もせんといかんやろ」

                                    六

「そうやな。もう、そないになりますか。そう言うたら、おなかが減ってきましたな。こまったな。どないしょう」
「どないしはったんですか」
「いや、私な。あんまり奥さんがええ人やさかい、ついおしゃべりが楽しいて。すっかり腰すえてしもてな」
 おばあさんが腰をあげそうな気配が見えたので、香織さんはひそめていた眉を開いた。
「いや、私な。今日買い物してまへんのや。こまったな。ちょうど、米も切れとったし、何も食べるもんがあらへん。どないしょう」 
 おばあさんはおなかを手でさすりながら、天井をにらんで考えるふりをした。
「そやな。しょうないわな。ここで三時においしい焼飯いただいた事やし。今晩は何も食べんと辛抱しますわ」
「おばあさん。そんな、ごはん抜いたりしたらあきませんわ」
 反射的に口を出した香織さんに、正彦さんは口の形だけでアホと言い袖を引っぱった。
「何やのん」
「何やのんやあらへん」         
「何か急いで作りますし、食べはって…」
 横から何か言おうとする正彦さんを、手で制して香織さんはもう台所に入ろうとしている。

                                    七

「食べはったら、うちのに送らします」
 正彦さんを無視して、香織さんはせわしなく冷蔵庫を開け閉めした。二人分の肉を一度に、ざく切りした野菜とフライパンに放り込む。油で焼かれた野菜は、香織さんの腹立ちを代弁するように、ジジャッッ、ジジャッとはぜた。何に対してか、こんなにも腹が立つ自分にもっと腹が立ち、香織さんは自分を持て余していた。
 山盛りの野菜いためと、ワカメのスープ、昨日のうちに作りおきしておいたアジの南蛮漬けが、香織さん自身がほれぼれするくらいの手際のよさでテーブルの上に並んだ。
 まあ、ごちそうやなぁ、とおばあさんは子供のようにはしゃいだ。
「こんなごちそう、私もう何年も食べてへん。一人やで、作るのも大儀でなぁ」
 おばあさんはすぐに箸をつかみ、何回か口に運んでから、やっと気づいたように香織さんたちを見上げた。
「あれ? あんたら、食べへんのかいな」
「私ら後で食べますし、おばあさんお先にどうぞ。帰りはるの、あんまり遅うなってもいかんし」
「ほうか。ほんなら遠慮のう」
 やせて小さな顔の中で、口だけが食べ盛りの子供のような勢いで動き初めた。たっぷり二人分の野菜いためは目に見えて減り、まさに遠慮なく御飯のおかわりまでしながら、十分ばかりで食べ終えてしまった。ハァッ、と息をつき、おばあさんはそっくり返った。

                                    八

「ああ、しんど。あわてて食べたもんやさかい、のどにつまりそうやった」
「そんなにあわてんでも、よろしいのに」
「何言うてんねん、香織。もう八時になってしまうぞ」
 ほとんど空になった皿を見て、益々不機嫌になった正彦さんは、もう送っていくつもりで玄関に立っている。よっこらしょっと、おばあさんは立ち上がった。
 やれやれと思っ た香織さんは、最初の時のような優しい気持ちになり、また来てくださいと言いそうになってあわてて自分の口をふさいだ。そんなこと、冗談でも言ったりしてはいけなかった。
 おばあさんは二・ 三歩あるき、急にアタタタ…とうめいた。香織さんの背筋に、冷たい物が走った。
「どうしはったんですか」
「えらいこっちゃがな。ちょっと、トイレ貸してんか。あんまりあわてて、食べたもんやさかい腹具合がおかしぃなった。アタタタ……」
 おばあさんは十分間、トイレから出てこなかった。やっと出てきたと思ったら「おなかが痛うて歩けまへん」とうめく。
 おぶったろか、と正彦さんが背中をむけると「あっ、また出そうや」と、トイレに駆け込む。
 そうこうするうちに、正彦さんはもういい、寝る! とすきっ腹をかかえたまま二階に逃げてしまった。

                                    九

 台所の椅子に腰をかけ、医者か警察かと香織さんが悩んでいると、いつの間にか居間はひっそりしている。もしや一人で帰ってしまったのか、と期待で胸をワクワクさせて見にいくと、おばあさんは香織さんのクッションを枕に、小さく丸めたようになって横たわっていた。まさか、と鼻に手をかざすと、心地よげな寝息がかかる。香織さんは、ヘタヘタとその場にくずおれた。

 それ以来おばあさんは、香織さんの家の居間に居着いた。食べては日がな一日テレビを見、クッションを枕に寝る。通りかかる香織さんをつかまえては、「なああんた、今テレビでなぁ」と、ひとしきりおしゃべりに付き合わす。お人好しにも程があるでと叱られそうな気がして、香織さんは実家の母に相談するのもためらわれた。頼り無い子ぉやと、言われ続けて育った正彦さんにしたところで、三十に手が届く年になってから、自分の権威を落としたくはない。
 だからと言って、もちろん香織さん夫婦は手をこまねいておばあさんが家に居着いてしまうのを、許していたわけではなかった。おばあさんが眠りこんだすきに、そうっと正彦さんが抱きあげて車に乗せ、四軒長屋の左から二軒目の家まで運んでいった。それは香織さんが聞き知ったとおり、おばあさんの家であるはずだった。
 ところがそこには中年夫婦が住んでいて、そんな年よりは見た事もないと言う。物言いの穏やかな、上品な夫婦でうそをついているようには見えなかった。警察に連れていかはったら? とその夫婦は言った。

                                    十

迷子の年よりです、と届ければいいだけのことだ。
 だが香織さんは交番の戸口まで来てためらった。おばあさんは車の後ろのシートに横たわり動かない。よっぽどぐっすり眠っているのか、それともすべて聞いていながら狸寝入りを決め込んでいるのか。
「このおばあさん、行くとこなかったらどないなるのやろ」
「そら、どっかの施設にでも入れられるんとちゃうか。何迷てんねん。しょうないやろ」 
 しかたがないことにはちがいなかった。縁もゆかりもない年よりだ。めんどうみる義務はない。
「おばあちゃん、家はどこや。この近くか? 忘れてしもたんか」
 幼い子に話しかけるように、巡査はおばあさんの顔をのぞきこむようにした。
「へえ、ほん近くです。一人でさみしゅう暮らしておりまんねや。せやけど世の中、捨てたもんやおまへんなぁ。おまわりさん、このご夫婦なぁ、ほんまにええお人やで。見ず知らずのわしをなぁ、家に呼んでくれるわ。ごちそうしてくれるわ。こんなええ人が、まだこの世の中にいてると思うと、元気出ますなぁ」

                                   十一

 おばあさんは、声をつまらせ鼻をすすった。 口先だけの言葉とも思えず、香織さんは心が責められて涙ぐんだ。
「無償の愛ちゅうやつですわ、おまわりさん。おかげでわたし、ええ気分にさせてもろた。こんなん、三百年ぶりくらいの幸せや。もう終りかとあきらめかけてたけど、まだわたしこの世で生きられそうやなぁと、思います」
 おばあさんは服のそでで目をふき、コ ホンと咳払いをして立ち上がった。
「さっ、帰ろか。正彦さん、はよいんで寝な、明日の仕事にさしつかえるで」
 あっけにとられる香織さん夫婦を尻目に、おばあさんはさっさと車の後部座席に座り込んでしまった。
 途方に暮れた二人は、巡査の方を振り返った。まだどこかしら幼い顔つきの巡査は、ただぽかんと目を見開いているばかりで、もうそれ以上何かをしてくれそうな様子はない。おばあさんを引きずりだすなんて事ができるわけはなく、すごすごと二人とも、車に乗り込むよりしょうがなかっ た。
 せめてもの抵抗に、香織さん達はおばあさんを無視して生活を続けてみた。居心地が悪くなれば出て行くかもしれないと、期待していた。
 だが、空しく日々が過ぎていくばかりだった。最初は返事のあるなしにかかわらず、おばあさんのおしゃべりは絶え間なく続いていた。それが次第に「ごはん、まだでっか」だけになり、その内食事時になると香織さんの顔を見て、ニコ ニコ 笑うばかりになった。

                                   十二

 そしてあきれたことに、そのまま滞りもなく時は過ぎていった。信じられない事だが、事実そうだったのだ。
 一年後、香織さんは待望の母となった。あきらめかけていただけに、実際その胸に丸々と太った赤ん坊を抱いた時、気が遠くなるほどの充足感を味わった。その愛らしい生き物は、香織さんの目も耳も、手も足も、むろんのこと心も独占する。居間のすみで根がはえたように座り込んでいるおばあさんの事など、思い出す間もなくなった。香織さん夫婦は次第に、おばあさんの存在自体を忘れた。実際その姿も、香織さん達の目には見えなくなっていったらしい。習慣のように食事は三人前作り、だれが食べたという意識のないまま、皿はからになった。二人とも、それを不思議と思わなくなっていた。
 おばあさんは座敷童子のように、居間の隅にひっそりと坐っている。だからほら今も、香織さんの赤ん坊が居間の隅に目をやって、ほやっと他愛ない笑みをもらした。
 庭のチップは部屋の気配に耳をすませ、鼻をせわしく鳴らしている。忙しい香織さんだって時々何かを思いだしそうになって立ち止まる事がある。
「何やったかしら。出産祝いの返し、し忘れたとこでもあったかしらん」
 結局思い出せず、香織さんは掃除機を持ち直す。そしてウィンウィンと小気味よくそれをうならせ、居間の隅もズイズイと吸い込みつくしてしまうのだった。おばあさんはなげく間もあらばこそ、さまざまなちりにうもれてとうとうこの世を見捨てて去ってしまった。それもまた良しとすべきだろうか。世の中はますますせわしく、せちがらく、大事もなくて過ぎていく。

                                   十三


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