登山者を観察する 05.06
山へ登ると獣道でない限り人に会う。いったいこの人たちは何をしに山へ来ているのだろう。運動のためか、遊戯のためか、精神修養のためか、はたまた学問のためなるか。何のためにしても自力で高みへ体を運ぶのだから、大層ご苦労なことである。バスで乗鞍へ登るのとわけが違うのである。平地で何の不足もなく暮らしている人々から見れば、しいて苦痛を求めているとしか思われない所業だ。筆者自身もこのような人種の同類になってしまったことは、千秋の恨事である。
同類と言っても、みな同じ顔をして登っているわけではない。植物学者は取るに足りない違いをあげつらって細分化し、素人の頭痛の種を作る。しかし「わかる」という言葉は「分かる」とも「解かる」とも書く。やはり分解し、分類するところから学問は始まるようだ。登山者においても十把一絡げで語れるものではなく、多様な種が存在することが分かってきた。筆者の乏しい交流の中でさえ、下記のごとくである。
Nさん、Pさん、Tさんは三人併せて核不拡散条約の頭文字になる。まさに爆発的に山に登る。そこにYさんを加えた見目麗しく情けある才媛四人組。彼女たちは一緒に登るわけではないが、3日とあけずにお登りになるところにおいて同類である。山登りに目的があるとすれば、それを達成すれば何度も登る必要がない理屈である。それがなかなかどうして、体が心配になるほど何度もお登りになる。山の目的は虹を捕まえるごとく、追っても追っても逃げていくのだろうか。それとも初めから目的などないのだろうか。
それにしてもあれだけ山に登られるからには大著を著わさないとも限らないのだが、一向にその気配はない。まあ、そんなものは著わさずとも閑居して不善をなすよりは、山に登って頂いているほうが世のためである。これは冷やかしで言っているわけではなく、その気力、体力、情熱には心底畏敬の念を覚える。何の世界でも徹底的にやれば、半端にやっている人には見えないものが見えてくるものである。そのときこそ大著述を期待したい。
近頃の登山者は筆者も含めラジオ、ケータイ、デジカメ、GPS等電池が必要な機械や、ガスコンロのような文明の利器を山へ持ち込む。山川草木、花鳥風月を愛でる登山にしては、安全のためとはいえ、ちと風流に欠ける気もする。そこへいくとアンパンひとつで山へのり込むO氏などは茶人である。茶人ではあるが
霜降れど 芋煮出にけり 我脳裏は ももや思ふと 人のとーふ迄
という三十一文字(みそひともじ)を製造するに至っては、常規をもって律すべからざる奇人と言わねばならない。まあそれはいい。筆者も最近は変人に免疫ができてきて、平兼盛が桃屋の社長に就任しようが大して驚かない。それより昼食にガスを使わないことは、京都議定書の精神を尊重して神妙である。如何に高邁なる精神を宿した条約も、誠実な履行がともなわなければ単なる文字の羅列であり、葉里麻呂の駄文と何ら変わるところはない。
I氏はテントも持たず樹下石上を宿とし、漆黒の闇に獣のまなこ炯々と光るを見て一夜を過ごすという。これぞ風雅の極致を実践する大茶人である。しかし惜しむらくはそれが日常ではなく、余暇である点である。筆者が理想とするのはホームレスだ。狭い日本に寸地尺土を争って塀をめぐらし、例え一寸でも蚕食すれば裁判沙汰になる愚かしき人間社会。故に総てを放棄したホームレスは偉い。偉いが公園にブルーシートなど張って、当局ともめごとを起こしているようなのはまだ半人前と思ってよい。
I氏の山行形態を日常とし、三更月下無我の境地に入る雲水のような日々を送ることができるなら、何時のたれ死んでも不服はない。しかしそれが実践できないのは、つい出来心で妻子を持ったことである。出来心にせよ責任は全うせねばならぬ。「老後の夢」に書いたことさえ実現は困難である。
野暮の総本山としてオートキャンプ場というものがある。山野を切り開きブルドーザーで押し広げ、まず自然を壊滅させておく。そして電気を引き、水道を引き、シャワー室まで作ってしまう。そこへ夜逃げもかくやと思われるほど家財道具を満載したRV車がのり込んできて、一歩も歩かずして施設に横付けする。そしてツーバーナーやチンケなイステーブルセットなど、七つ道具を開陳して食事を作るのである。コンセントがあるのでテレビや扇風機まで持ち込む家族もいる。コテージに至ってはエアコン付きである。
こうした家庭でもできることを、わざわざ車を駆って遠くの山麓でいたすのである。あえてこのような酔狂をやるのは余程の大茶人か、バカかどちらかだろう。たいていは後者であり、こんなものをアウトドアと称するのは愚の骨頂だ。筆者はオートキャンプ三回目にして、この真理を豁然大悟したのである。「三回もやらねば分からなかったのか」と問われれば、一言もない。山に覚醒する以前の話なのでご容赦願いたい。
ちょっと脱線気味になったが、もとより筆者葉里麻呂の文章に線路など敷いてあろうはずもなく、適当にお付き合い願いたい。登山者の話に戻ればH氏の山登りはI氏と少し趣を異にするが、凄まじきことに於いては同列である。金鯱睥睨する大都名古屋に居住し、当日朝9時から所用があるとしよう。そんな日に誰が鈴鹿の山に登ろうと思うだろうか。坊主の髪を結うがごとく無理難題である。ところがこの御仁は敢然として登るのである。
草木も眠る丑三つ時、四周人なく(当然である)、墨を流したような漆黒のコグルミ谷を登る孤高のH氏。その脳裏にはいったい何が去来しているのだろう。常人にはうかがい知れない宇宙の一大哲理が渦巻いているのかも知れぬ。それとも夏のボーナスのうち、カアチャンがいくら小遣いに配分してくれるだろうという大問題を反芻しているのだろうか。何れにしても八つ墓村を思わせる奇怪な行動は、余人の理解を超越して鬼気迫るものがある。
J氏は知る人ぞ知る、知らん人は全然知らんと言うほどの手形コレクターである。そのJ氏が朝7時にコグルミ谷を登っていた折、下山中のH氏と会ったという。猿の末孫同士の歴史的邂逅であった。「猿の末孫」は獣的登山者に奉げる尊称、敬称と御理解願いたい。
T氏は自分の山登りを犠牲にして、ガイドブックやら図鑑やらTV収録やら片っ端から引き受けてしまう。これらはボランティアに近いか、あるいはボランティアそのものである。山文化に対するその献身的精神は見上げたものだが、経済的観念が欠如しているとも言える。T氏がいくら損害を蒙ろうが個人の自由であるからよいとして、問題はとばっちりが筆者にも飛んでくることである。しかしそういう有難いとばっちりは受けておいても、長い人生において何時か生きるものである。
振り込め詐欺をはじめ、どうにかして他人の財産をちょろまかしてやろうという荒んだ世の中だ。同じ地球の表面上にT氏のような人が棲息しているのは愉快である。いずれにしても山登りは腹が減るばかりで、そんな遊戯を好む人種は大なり小なり経済観念に欠けている。すべての苦の種は「所有」という行為から萌芽するのであるが、登山者は本能的にそれが分かっているのかもしれない。
まだまだ面白い例を挙げればきりがないが、疲れたのでこの辺りでやめておく。冒頭に 「筆者自身もこのような人種の同類になってしまったことは、千秋の恨事である」 と書いたが、これは本心であり、本心でない。なんで休日のたびにヘトヘトに疲れるようなことを、強要ではなく我が意思でしてしまうのか。しかとは分からないがヘトヘトになるのは肉体のみで、下界で病んだ精神は山で蘇生するような気がする。肉体にはまことに気の毒で申し訳ないことながら、まだまだ山行きは続くだろう。そしてまた山で出会う個性的な人々を観察しながら、何で登っているのだろうと考え続けるのだ。
注意: 本文中のイニシャルは架空の人物であり、実在する人物に当てはめることは法律で固く禁じられています。