ある老人の思い出・甲津畑鉱山   06.09

 

 中島氏の「近江鈴鹿の鉱山の歴史」の新版が出て、ぼちぼち読み返している。そんなとき、ひょんなことからあるご老人が向山鉱山にいたという話を耳にした。名前をFさんといい、なんと私と同じ地区に住んでおられる。灯台下暗し、まさかご近所にそんな人があるとは思いもしなかった。息子さん(といっても私より年上)はよく知っているが、おじいさんとはあまり話をしたことがなかった。ちょうど台風で山行を中止した日曜日、ご自宅へ資料を持って伺った。

 Fさんは大正14年生まれで、あの奥村光信氏と同い年になる。この年に生まれた人の特権は昭和の年数と、自分の年齢がシンクロしていたことである。しかし平成の世になって早18年、もはや特権はない。だが私の中では今年は昭和81年である。即座に81歳と分かる。それにしてはお元気で、芸術家の岡本太郎に似た顔は艶々して血色がいい。趣味のゴルフも現役というお元気さ。

 Fさんの父親(明治20年生)は兵庫県の生野銀山で働く技師だったが、甲津畑の鉱山に所長として赴任した。Fさんは体調を崩し、昭和12〜14年ごろ父親の飯場で静養していたということだ。飯場といっても所長は一軒家に住んでいたらしい。昭和12年ならFさんは12歳の子供である。この事実をもってして、現在聞き取りから鉱山の調査をするのは困難だということが分かる。現役で労働していた人は、もはや殆どが鬼籍の人だろう。

 結論から言えばFさんから聞けたのはちょっとした思い出話ぐらいで、資料的価値のある事実は聞けなかった。しかし専門家でもない私にはそれで充分だ。70年も昔の話で、当時小学生だったことを思えば当然のことであろう。Fさんは177頁の古川伝吉さんの写真にまず注目し 「びっくりした、懐かしいなあ。わしらは子供やったからデンキさん、デンキさんと言うとった。この人や村木という人は、うちの親父が育てたんや」 と言われた。

  甲津畑の鉱山は大正時代に国位、高昌、御池と相次いで衰退し、向山鉱山は比較的新しい時期に最盛期を迎えた。それはFさんが山中で静養した時期と重なる。鉱山主は佐野育三、湯の山の杉屋も出資していた。
 掘った鉱石を選別して、クズは谷へ落としたという。良質な鉱石は俵に詰めて、甲津畑の人々が背で担ぎ下ろした。アルバイトか本業になっていたか知らないが、日当が良くて田畑が荒れたと中島本にある。強い人はカマス2俵(約110キロ)を担ぎ、子供のFさんは目を丸くしたという。

 お盆には鉱山の人も含めて甲津畑で盛大に盆踊りが行われた。Fさんは日ごろ米や野菜を飯場に運んでいた娘さんたちに、坊や坊やと可愛がられたそうだ。そのなかで特に綺麗だったのはお静さんと八重さんだったそうな。様々な鉱山関係者の名前を忘れて首をひねっていたFさんも、このときばかりはすらすらと名前が出た。少年とはいえ男が「きれいなおねえさん」に弱いのは今も昔も同じこと。ただFさんは今も自身で車を運転してガールフレンドの所へ通われる豪傑である。

 父親に連れられ杉峠の向こう(東側)にも時々行ったが、すでに施設はなく石垣だけだったという。中島本によれば御池・高昌鉱山は大正10年ごろ衰退と書いてあるので当然だろう。ただこのあたりに学校があったと父親に教えられたそうだ。念のため拡大した25000図を持参したが、やはりここだと指し示すことは不可能だった。ただ、一つの村とも言えるほどの施設は消滅していたが、昭和に入っても鉱山業務は細々と行われていたようだ。向山鉱山は鉱石を掘り出して運ぶだけだったが、御池鉱山には溶鉱炉があった。そこで円盤状の半製品にして甲津畑に運んだことは中島本のとおり。

念仏ハゲの写真も懐かしそうにご覧になり、湯ノ山から御池鉱山に行くときはここを横切ったそうだ。これは去年だったか、私もたどってみた。武平から雨乞岳の登山道を行き、七人山のコルを向こうへ越えるのだ。御池鉱山から直接杉峠にも行ける。

 私が現在の杉峠の写真をお見せしたら、あの杉は信玄の馬つなぎと言っていたとおっしゃる。これは初耳だと思ったが、中島本183頁に聞き取りの話として「甲斐信の杉」として出ていた。ただし杉峠の杉とは明記しておらず、雨乞谷の近くとある。それにしても信玄が千種街道を通った史実があるのだろうか。信玄は三方ヶ原の上洛戦で家康に圧勝の後、三河野田城で病を発し、信長と戦うことなく引き返したはずだ。当然近江から伊勢へ侵入している訳がない。

 昭和15年にフジキリ谷の水力発電所が完成し、中島本にはこの発電所の責任者として福田という名が登場する。この人はFさんの話によれば現菰野町千種の人で、千種発電所にも関係した電気屋さんとのこと。向山にも電気が通じて削岩機が使用されるようになった。作業効率は飛躍的に上がり、すぐ掘りつくしてしまうようになったという。福田と言う技師ばかりではなく、現在の菰野町からもたくさん労働力が入っていたという話だ。この頃Fさんはすでに静養を終えて鉱山を離れていたが、時折り様子を見に行っていた。

 昭和16年、日本は太平洋戦争に突入し、Fさんは八日市の飛行隊に入隊した。終戦は永源寺小学校の講堂で迎えたが、突然の解散に戸惑ったという。混乱で鉄道も動いていない中、どうやって帰ろうかと思案し、勝手知ったる千種街道を思い出した。知り合いのいる甲津畑を訪ね、宮地さんという家で弁当を作ってもらって朝7時頃出発した。杉峠を越え、愛知川を渡り、根の平峠から朝明へ。自宅へ着いたのは夕方6時ごろだったという。

 私もケーブルテレビの番組で朝明〜甲津畑を歩いたが、通しで歩くとうんざりするほど長い。甲津畑と書いたが実際は集落奥の林道までで、あとはTV局の車に乗せてもらった。三重県側も当然ながら自宅から朝明(10km以上)までマイカーである。これらを全部徒歩となると、やはりそれくらいの時間はかかるだろう。

 鉱山閉鎖で、父親が金山神社から引き上げてきた御神体があるというので見せてもらった。御神体と聞いてちょっと緊張したが、一枚の紙切れだった。神話時代の神様のような人が右手に槌、左手に灯明を持っている(写真参照)。金山毘古命尊影とあるのは印刷された活字である。当時欧米の列強に追いつけ追い越せと言う時流に乗って鉱業が奨励され、東京で印刷された「御神体」が全国の鉱山に散ったのではないかと推察する。

 現在登山者が目にするものは、まさに「つわものどもが夢の跡」である。杉峠の東に数百人が居住したなどというのは夢、幻の物語と思える。比較的新しい向山鉱山でさえ石垣は苔生し、ボタ山に木が生え、栄華の痕跡は殆どない。ただ黙して語らぬ巨木の並木だけが総てを見てきたことだろう。