目も眩むような岩稜の高度感、黒いほどの濃紺の空、這い松と雷鳥、重々たる山並みを見ながらの稜線漫歩。やはり日本アルプスは開放感が違う。それに比べてヤブだらけで何処が山頂やら分からない地味な鈴鹿。時々アルプスや八ヶ岳にいっしょに行く I君に言わせれば「鈴鹿なんてどこがええんや」ということになる。
しかしアルプスと鈴鹿を比較するのは無理がある。鈴鹿に突出したアルピニズムを求める人はいないだろうし低山には低山の魅力があってしかるべきである。
鈴鹿に長年登り続けている人の中には歴史伝承、植物の分布、地質鉱物等をテーマにして研究されている方が多い。昔から近江、伊勢の交通の要衝だった鈴鹿には自然と人間のかかわりにおいて調べ尽くせないほどの興味深い材料があるのだろう。でも鈴鹿に登る人が皆テーマを持っている訳ではないだろう。私もただのほほんと登っているだけである。
何故鈴鹿かといえば近いからである。山には行きたいが誰でも時間もしくは経済的な制約があるだろう。私の場合は両方とも制約がきつい(簡単にいえばビンボーひま無し)のでどうしても鈴鹿へ行くことが多い。じゃあ鈴鹿はアルプスへ行けないときの間に合わせかと言うと、そうでもない気がする。
鈴鹿の魅力といえば二次林や雑木に両側を囲まれた小径だろう。私は鈴鹿山中を縦横にはしる、この廊下のような山径を「樹林の回廊」と呼んでいる。特に愛知川(神崎川)源流から杉峠へ至る道が好きである。白船峠周辺や、腰越峠から青岳に至る道、八風峠直下もなかなかよい。もともと私は鈴鹿でもアルプスでも山さえ入っていればゴキゲンなのであって、その点では高山専門の人より得である。
こういう樹林の中と言うのは、アルプスの開放感に対する表現として閉塞感ではおかしい。何と言うか山の胎内に抱かれている安心感みたいなものである。現代社会でいうところの「癒し」「安らぎ」といったところだろう。静ヶ岳の分岐のあたり(セキオノコバ)で昼寝などするのは最高である。
もうひとつの魅力は太平洋側の低山にしては積雪が多いということだろう。御池岳などは豪雪と言ってもよい。これは日本列島のくびれの部分にあると言うことと、琵琶湖のせいだろう。ゆえに、私はよく知らないが植物相も学術的に貴重らしい。真夏の鈴鹿はいただけないが、冬は大いに遊ばせてもらえる。惜しむらくは厳冬期が短いことである。
私の家からは入道を除いて主要な山が殆ど見える。初冬になると、今日は標高何メートルから上に初雪が降ったというように毎日観察している。啄木も「ふるさとの山はありがたきかな」と詠んだように、やはり鈴鹿には愛着がある。