我生何処来 去而何処之―入院・手術を前に

                          2005・4   御池杣人

 

我生何処来 去而何処之

これはこの間惹きつけられてやまぬ良寛の詩の一節である。(我が生 何処より来たり 去って いずこにか之(ゆ)く)と読もうか。中野孝次の訳では「自分のいのちはどこから来て 去ってどこへ行こうとしているのか」となる。

教育は人間発達という途方もなく大きな問題を直接対象とする人間的営みである。人間発達はいうまでもなく人間(個)の生成・発展・消滅の全過程を意味する。ということは教育は人間発達を対象としている以上、その重要な内容として生成・発展の問題だけでなく、「生と死の問題」を避けることはできないということとなる。

生活指導は生き方の指導といわれてきた。それはこんな時代にあっても、豊かに生きていこうというエールを、伸びてやまぬ若い身と心、幼い身と心に送り続けることである。

集団づくりは連帯と共同の世界を子どもたちと創造することを通して、実はこのエールを送り続けることに他ならない。

まったく予期していなかったことだが、我が身にも「生と死の問題」に直面することとなった。60年近く生きておれば当然のことであるが、この我が身に「生と死の問題」がふりかかってくるとは。

恥ずかしながら心の準備はまったくできていなかった。友には「僕たちには物理的距離など問題ではない」などと生きるエールを送ってきたつもりであったのに、みっともないことであった。しかし、その友から今度は僕にも「仲間たちはどんなときでもそばにいます」というエールが届いた。これは心に沁みた。

この、我が心に沁みる度合いに応じて、僕の友へのエールの意味を改めて自覚できたのだった。

ということは、子どもたちに豊かに生きようとエールを送り続けることは、そのエールが必ず自己に届くということなのだ。

子どもたちに豊かに生きようぜとエールを送り続けよう。それは期せずして、まさかのときに自己に返ってくる。そうでなければ偽りのエールだ。

良寛のこの詩の結びは、随縁且従容(なるがままにまかせてゆったりとした気持ちで、この束の間の人生を生きようー中野)となっている。

僕はこの精神で僕の「生と死の問題」に立ち向かっていこうと思いを新たにしている。

 

 

ありがたく生かされよう入・退院の記

                    2005・6・13

 石垣りんの詩の一節に以下がある。

 

木が

何年も

何十年も

立ちつづけているということに

驚嘆するまでに

私は四十年以上生きてきた

四十年以上生きてきて、石垣りんは木の立ち続けるという命のありように驚嘆している。五十をとうの昔に超えた僕は、りんの詩に触発されてもまだ「あ〜そうなんだ」という気づきの域にとどまり、驚嘆までいかぬ未熟さ。

二〇〇五年五月二日、入院二日前。鞍掛峠から焼尾山へシャクナゲを見に歩く。急な登りながら一歩一歩が何かいとおしい。今年の花はことのほかまぶしくてならぬ。対岸の御池岳の姿を眺めながら、イワカガミの群落に囲まれて一人あんぱん。写真「シャクナゲ・雨上がり」はまさにそのときの僕の心模様。山本萠さんには「シャクナゲが泣き笑いしているようでしたね」と看破されてしまった。帰路、立ち寄ったカフエ・アタントの店長との会話もどこか僕は泣き笑いしていたかもしれない。

五月四日、生まれてはじめて入院。やさしいカミさんが病院まで付き添ってくれる。考えてみればカミさんに付き添われてどこかへ行くことははじめてかも。

今日でタバコをやめると決意。一服心をこめて吸ってから、入院時必要な、ちょっとした荷物を持って出発。

もうバタバタはしない。現代医学に身も心も委ねると決めた。そうは言っても、山の仲間の「どんな時でも仲間はそばにいます」「何のこれしきの心意気で」等の励まし、教え子たちの「ちゃんと戻ってきて、私たちの成長を見ないと許さないからね」などの励ましが身に沁みる。

五月六日、手術。カミさんと息子に見送られて手術室へ。全身麻酔ゆえ何も覚えていない。かなりの長時間の手術となったよう。気がつけば、目の前にカミさんと息子の顔。何かしゃべった記憶あり。カミさんによれば「普段でも頭のネジが一本はずれていて、何を言っているかわからへんのに、全身麻酔後はネジがはずれっぱなしだったよ」とのこと。

全身にいっぱい管をつけながら、集中治療室や病室で手厚い看護の下、うつらうつらと過ごす。

ぼーとした意識下、「どうやらもうしばらくは生きていていいよということかな。何かうれしいなあ」と思ったような。座位よし、歩行よしと日々すこしずつだけれど着実に回復の気配。

覚醒しているかどうか、境界線が定かではない日々。ただし傷は痛む。けれどこれも痛み止めを適宜減らしてのこと。もっぱら良寛さんを読んだり、CDで藤原真理のチェロを聞いたりしてうつらうつら。志ん朝の落語も聞いたが、笑ってしまい、傷が痛むのでやめ。

深夜にも若い看護婦(看護士)さんが来てくれる。点滴の具合をチェックしたりして何度も。何とえらい人たちだことよ。「コンドーさーん、どうですか」の明るい声に患者は救われている。

医師の回診。経過を医学的にチェックして総合的に判断しておられるのだろう。「経過は良好ですね」にこれまた患者は救われる。

昼夜関係なしのうつらうつら。おかゆからご飯へと食事も変化。どんなおかずでも、根っからの雑食の僕、毎回、病院食はおいしい。食事をいただくことができる幸。素直に手をあわせていただく。

歩くことをすすめられていたので、歩こうとするが、何せ管だらけの身。点滴や尿道カテーテルなどぞろぞろ引きずっての歩行。全身麻酔は胃、腸、肺などの機能の一時的低下をおこすという。そんな中、排便も自力でできそう。しかし、尿道カテーテルをつけたままの排便にとまどう。術後何日目だったか、最初の排便に我ながら感動。胃も腸もこうして動いている、と。

入院中はいつもうつらうつらのような日々。何度も夜中に目覚めたりした。

病院から東方が望める。新幹線や名鉄電車が間近に通り、工場や下町の様子を昼間はぼーと眺めてもいた。

朝五時頃にロビーに行き、東方を眺めるのがいつしか日課になった。名古屋南の汚いけれど、それでも早朝は美しい明け方の空をじっと眺める、その空が少しずつ劇的に変化して、やがてお日様が顔を出す。かくて早朝の一時間半ほどは、自然の厳粛な営みの中に身を置いていた。この日登場されたばかりの新鮮なお日様の光を真正面から全身に浴びながら、「もう少し生きていていいよ」というどこかからのうれしいメッセージをここでも聞いたような。うれしいな、元気になればまた学生さんたちと勉強できる、人生についてともに悩める、山にも行けるかも。

生死の中の雪ふりしきる

山頭火の名句ー生死(しょうじ)の中の雪ふりしきるーが一瞬心をよぎった。しかし、僕の場合、今は「雪ふりしき」っていない。生死の中の風花の舞ふーというところか。

退院して療養の日々、ひたすら最新の社会科学の文献と山本萠の本を読みふけった。世界・日本の行く末、僕の行く末、あれやこれやと思索する。山の仲間や友、教え子のお見舞いの文を何度も反芻する。

気が向けば近くの公園を散歩。カルガモ親子の姿を眺めていた。

六月、「もうしばらく生きていていいですよ」を精一杯享受させていただこうか。痛みの緩和を待ちながら、おいしいものをバランスよくいただき、よく歩き、引き続きぼーと生きよう、と思いを新たにする。萠さんからは「すぎな茶」、とっちゃんからは「豆」をすすめられていた。たばこはまだ吸いたいときもあるがやめた(ひょっとして僕は多少は意志がつよいのかも?)。すぎな茶やいろんな豆を食しつつ、仕事にぼちぼち復帰することにしよう。医師からは、「復帰OK。今後のことについては、ゆっくり経過を見ながら考えていきましょう」と言われている。

したいことは無数にある。しかし欲張らないでおこう。ただし一つだけ達してみたいことがある。

冒頭に掲げた石垣りんの詩の続き

草が

昼も夜も

その薄く細い葉で

立ちつづけているということに

目をみはるまでに

さらに何年ついやしたろう

ミノコバイモもカタクリもクマガイソウも、立ちつづけて開花するためにどんな妙技を人知れずしているか、僕はやっとわかりかけてきたにすぎない。「目をみはるまで」の域に達するまでにまだまだ何年も修行をしなくっちゃ。

山の友、葉里麻呂によれば、僕は退職後放浪して、放浪中におめぐみを受けたあんぱんを、あまりの空腹ゆえにか一気食いをして、喉につまらせて死ぬことになっている(氏はバナナの皮ですべってころんで)。

その日まで、ありがたく生かされていきたい。それゆえに、心こめて丁寧に生きていきたいものだ。