片雲の風に誘はれて−入退院の記−その3

                    御池杣人

 

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず・・・・・・ 芭蕉『おくのほそ道』

 

      (1)

 肺への転移が判明したのは2006年の末だった。膀胱内への再発の可能性はデータ上高いことは重々承知していた。だから3ケ月ごとの膀胱内視鏡検査を受けて、今回も異常なしの結果に、日頃の節制が効果をあげているのかもと喜んでいた。ところが、半年ごとに行うCT検査で、肺に転移していることが判明するとは。

 これは全く僕の想定外だった。なんの自覚症状もない。よく歩き、よく食べて、よく笑って、「爪もみ療法」をおこたらず、健康的な日々であるように努力してきたのに。

 あらたに肺に別の腫瘍ができたのかもしれない。しかし、その影を見ると丸い球状になっている。丸い形状になっている腫瘍は転移の可能性が高いという。とりあえずそのことを確かめるために検査入院をすることに。

 医学は進歩しているんだな。今は肺の中まで内視鏡が入るという。開腹せずに膀胱の中の様子もわかる。肺の中も。ただし、この気管支鏡検査は、なんせ、喉から奥深くカメラを入れていくという想像するだに怖そうな検査である。

 1月16日から18日まで入院。17日に検査。

 検査はかなり患者の側の努力も必要。まず喉へ麻酔を。次いで、少しずつ喉の奥へ内視鏡を入れていく。その際、同時にさらに奥へ麻酔を少しずつ注入しながら−である。思わず咳き込んだりする。「我慢してください。もうすぐ楽になりますから」という励ましを頼りに、「うううっ」とこらえる。堪える。画面がうっすらと見えるような。かなり肺の奥にまで届いているよう。X線透視を見ながら肺組織の断片を採取するため、腫瘍らしきものにめがけてつんつんと触っているような変な感触あり。

 どれだけの時間が経過したか夢中で覚えがない。「終わりました」の声にほっとする。

 

 1月29日、検査結果。肺組織の断片が残念ながら採取できず、転移か否かは確定できなかった。しかし、きわめて疑わしいことは確か。主治医によれば、泌尿器科でのこうしたケースの場合(尿管から転移)、抗ガン剤の化学療法を行う、最低2クール(1クール約1カ月)を行い、治療の様子を見ながらすすめていくことになる、という。

 学年末の諸課題を一方であわただしくこなす。職場に大きな負担をかけることについて申し訳なく思いつつ、職場には事情を話し、学生諸君にも残念な事情を話して、入院の準備をすすめる。

 入院前、息子と鈴鹿・藤原山麓を歩く。セツブンソウに逢いたかったからだ。小群落ながら、暖かな陽を浴びて春の訪れを静かに告げていた。

 又、息子がつきあってくれて、作務衣を買いに松阪屋へ。副作用で脱毛する可能性が高いことはわかっていた。己の意志に反して毛が抜けていくならば、どうせならそれにふさわしいファッションを用意しておこう、ということ。坊主頭になるならば、作務衣を常用してみようか。どうせしんどい入院生活。せめて服装だけでも遊びたい。作務衣をあらたに購入するならば、本格的な藍染めのそれにしよう。山本萠の詩にあった「藍」※がいい。そんなものどこで売っているか知らない。まあ、松阪屋ならばあるだろうと、呉服売り場へ。果たして「しばらくお待ちください」と少し待たされたけれど、あった−。少々高価ではあったが、即購入。

 入院前、学生諸君としばしの別れを惜しみ惜しまれつつ、いろんな話しをした。毛が抜けて坊主になるから、帽子がいるかもと語っていたら、M嬢が「私がつくってあげる」と。「ありがとうな。あの坊さんがしている帽子(芭蕉なんかがしていたような)がいい」とたわけたことをリクエストしていた。これでファッションの準備は整った。

 

※    藍

                              山本萠

いい風合いになっていますね 越後の絣/目を細めて ひとは言った

 

水をくぐって/水のようなものをくぐらせて/抜けてきた/織られた布は まとわれることで/振り捨てていくのか 流していくのか/もうこんなに あえかだ/透けたひびきだ

 

さらされたものの 潔い痩せ/痩せながら光を織り込んでゆく 風合い

 

藍が 自らを忘れるほどに/私は 私を忘れるほどに

 

くぐってきたか/風とも水とも みまがう流れの漂泊のなかを

                『山本萠詩集 草の瞳』(書肆夢ゝ・2006・7)

 

     (2)

 2月12日に入院。長期になるため結構荷物が多く、息子が病院玄関まで付き添ってくれた。

 主治医からの検査・治療についての説明は以下のようであった。

1 病名−転移性肺腫瘍の疑い。原発巣としては尿管癌を疑います。

2 症状−無症状。気管支鏡および画像所見より転移性のものを疑います。

3 検査・治療等の必要性−−全身化学療法を行います。腫瘍細胞を減少させ、予後の改善を期待します。

4 検査・治療の具体的内容、施行日と治療に必要な期間−2007年2月17日から、今回の化学療法を行う予定です。4種類の薬剤を投与します。一回のコースで約1カ月が必要です。副作用の出現する時期がある程度予想できるため、問題がなければ副作用の少ない期間を家で過ごすことが出来ます。今後何コース行うか、もしくは薬剤の変更を行うかはその治療効果、副作用等により変わります。治療効果が乏しい場合は、化学療法を中断することもあります。

5 検査・治療にともなう合併症の有無とその危険性等−化学療法による副作用は重篤なものから軽いものまで様々です。個人差も非常に大きいです。副作用対策として様々な薬剤が開発されてきており、今回の治療でも制吐剤等の対策を行います。以下に副作用の代表的なものをあげます。

  貧血、血小板減少、白血球減少、腎機能障害、肝機能障害、神経毒性、消化管症状 脱毛、アレルギー、電解質異常、ホルモン異常、皮膚障害、心毒性、肺障害、粘膜障害、発熱等々

6 検査・治療を受けなかった場合の経過予想と予後−化学療法が奏功する可能性は40〜50%と報告されています。行わなかった場合と予後が変わらない場合もありえます。しかし奏功した場合は生命予後の改善が期待できます。

7 他にとりうる検査・治療の有無−現在のところ、尿管癌に由来の転移性肺腫瘍にたいする治療は全身化学療法以外にはないと考えられます。手術や放射線療法では転移を含めたすべての腫瘍細胞に対する治療は不可能です。また化学療法にもいくつかの薬剤の組み合わせがあり、今回は最もよく行われている薬剤で行います。

8 当院での検査・治療の実績−当院では年間数例の同化学療法を行っています。

 

 専門的なことはわからないが、「化学療法が奏功する可能性は40〜50%と報告されています。行わなかった場合と予後が変わらない場合もありえます」とあるように、副作用も加えたしんどい思いをしたとしても、効果があるか否かは50%以下。だが、この間僕は現代医学に身を委ねることを決意してきた。「奏功した場合は生命予後の改善が期待できます」という可能性を疑わず、その可能性にかけてみよう。

 

※  基本はこうだが、これではかっこよすぎる。

 まず転移の重さにうちのめされそうになる。もうこれまでかも。だけどまだしたいこと、やりたいことがあるなあ。この間の大きな手術をすべて託し、命をあずけてきた主治医が「現在のところ、尿管癌に由来の転移性肺腫瘍にたいする治療は全身化学療法以外にはないと考えられます。手術や放射線療法では転移を含めたすべての腫瘍細胞に対する治療は不可能です」とおっしゃるのだ。しかも、「化学療法が奏功する可能性は40〜50%と報告されています」というように、「奏功」(「完治」ではない表現に注意)の可能性も半分以下。この事実に圧倒される。もはやこれまでか。

 しかし、この間、学生諸君には病気に限らず、人生上の諸問題について「たとえわずかでも可能性があるならばそれにかけよ」−といろんな機会にかっこよく言ってきたではないか。ならば無条件にそうすべきだろう。ましてや奏功するのは40〜50%の可能性がある。半分近くもあるといえる。それはわかってはいる。入院のため、今の仕事をバタバタとかたずけているうちは気がまぎれる。けれど、なにかの折にやはり弱気になったりもする。がんに関する本をいろいろ読む。鎌田實『がんに負けない、あきらめないコツ』(朝日新聞社)の末尾−「がんに負けないための発想の転換七カ条−がんにならない、再発させない、再発しても負けないためのコツ」を何度も読む。

 

  第一条  闘い方を変幻自在にしよう

  第二条  「がんばれない」時、自分をダメ人間と思わない

  第三条  つながりのなかでがんと闘う

  第四条  希望を持ち続ける

  第五条  笑う

  第六条  逃げない。がんと向き合うこと

  第七条  ささやかな日々の営みをていねいに行う

 

 そうか、がんばらなくてもいい。だけど、前を見て生きる。これはそんなにたやすいことではないかもしれない。この精神を僕の言葉でわかりやすく、今回の入院・荒療治にのぞむにあたってのモットーにしたい。

 あれこれ考えて覚悟の文句が浮かんだ。

 

荒療治を受けるにあたっての覚悟

  1)なるようになるの精神

   2)何のこれしきの精神

 

 この二つの統一でいこう。なんども言い聞かせる。

 1)について−人知を超えたこと、努力を超えた世界がいくらでもある。現代科学は何百年後の日食の始まる時間を秒単位でいいあてることはできても、まだ明日の天気さえ100%正確に予想することさえできない。なるようになるし、ならぬようにしかならぬのだ。この意味で「ケ・セラ・セラ」は名曲だ。

 2)について−これは、山の友、葉里麻呂が以前の入院の時に贈ってくれた言葉。第3回ミルキーあんぱん御池岳吟行(2003年)での僕の作品の一節からとってくれた。

 

本歌  浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき

                                     参議等

    センブリを 噛むと胃の腹 しぶけれど 甘いカマツカ 何のこれしき

                                    御池杣人

現代語訳

 センブリを口に含み、噛むと口の中だけでなく、胃やおなかまでもが「にが−、しぶ−」となってしまう。たえられぬほどの渋み・苦み。しかし、先程枝からとって食したカマツカの赤い実の、かすかに甘いリンゴのような味を思い浮かべれば、何のこれくらいの苦さ、渋さかと我慢できることよ。

 

管理人解説

 かなりミルキーあんぱん色の濃い作品である。桃屋豆腐色といってもよい。やはり作者には食べ物の歌がよく似合う。漢方に使用されるセンブリは相当苦いらしく,「笑っていいとも」ではセンブリ茶が罰ゲームに使用されている。

 「人の恋しき」を「何のこれしき」に変えてしまう発想は、こじんまりした常識人には逆立ちしてもできない力わざである。(HP『鈴鹿樹林の回廊』管理人ハリマオ「鈴鹿百人一首」コーナー

 

 ミルキーあんぱん吟行でつくった強引な「力わざ」の戯れ歌が、人生上の大問題において、己に言い聞かせるモットーになるとは面白いことよ。入院中のしんどい時も、これを執筆している今も、この二つの覚悟「1)なるようになる 2)なんのこれしき」を己に言い聞かせて生きている。

 

          (3)

  主治医からはまずは2クール(1クール約1カ月)が必要であると言われていた。副作用は個人差があり、なんとも言えないけれど、多くの場合、嘔吐と脱毛、さらには骨髄抑制による白血球の減少などが予想されると。

 結果として3クール実施した。入院期間は以下のとおり。

 

 第1クール−2月12日(月)〜3月12日(月)

 第2クール−3月22日(木)〜4月14日(土)

 第3クール−4月18日(水)〜5月12日(土)

 

 起床は6時半、朝食8時、午前中医師の回診、昼食12時、夕食18時、面会は20時まで、21時半に消灯、という規則正しい日々。

 今回の場合の化学療法はおよそ次のスケジュールとなる。

 入院−採血、肺機能検査、胸部レントゲン、腎機能などの検査、評価

 点滴開始−1日目(1)メソトレキセート投入

      2日目(2)エクザール (3)アドリアシン (4)ランダ を投入

       持続点滴  尿のチェック

       食事可能となれば、点滴終了

   副作用があれば治療

        15日、22日目 (1)を投与

        28日で1回分の終了

      適宜採血検査

  およそこんなスケジュール。まず、二日間かけて抗ガン剤を投与される。初日は副作用は

  きつくない。第1クール時、2日目の投与が終了して夕食をいただいた後、嘔吐。

  この嘔吐感、食欲不振が副作用としては最もしんどい中身だった。

  3回ともただ凌ぐ日々が続く。第3クール時は、少しなれてきたので、わずかながら食事

  を口に入れようとしたが、即嘔吐。無駄な抵抗はやめて、しんどさが通りすぎていくのを

  やり過ごすことに努めた。じっとベッドの中でただ耐え忍ぶ。何もせずに凌ぐこと。この

  ことがいかに大切かはじめてわかった。相手が凶暴であれば、無駄な抵抗はしない。ただ

  耐えて、凌ぐこと。そんな闘い方も大切と。

   今回の3カ月は、簡単に言えば、抗ガン剤を投入して、強烈な副作用をいかに凌ぎ、そこ

  から蘇っていくか、その3カ月であったともいえよう。

 

   ここを凌ぎきる(凌ぎきるまでのプロセスがまたドラマチック)と、今度は気力が蘇っ

  ていくことを実感できる日々。そのメルクマールは、まずは食欲。次いで読書の気力。

  次いでお見舞いの手紙への返事を書くこと。ペンをもつには気力が必要とよくわかった。

  これを3回繰り返したことになる。

 今一つ難題は、白血球減少による感染の予防だった。風邪をひくと肺炎になる可能性高く、医師や看護師さんからマスクとうがい、手洗いの励行をと。あまりフラフラ歩き回らないことも言い渡されていた。将来、放浪する身としては、このフラフラ歩き回れないこともしんどい中身であった(結局、うがい、マスク、手洗いをしっかりしながら、院内をフラフラ歩き回った)。

 

   (4)

 以下は思いつくまま。

 

 1  食べることについて

 

 このように、まずは食欲がいかに生きる上での基本なのかを痛感した。

 あれほど「僕は雑食で病院食がおいしい、何度も噛みしめるとキャベツはキャベツの味がするんだ」と言っていたにもかかわらず、投入後2〜3日は、一切食べ物を受け付けず、同室の患者さんの食事が届くだけで(匂いを嗅ぐだけで)吐き気。食べ物のことを考えずにじっとベッドで凌ぐ。投入後約一週間は、メインは「食」をめぐっての日々。「食欲」とは煎じ詰めれば「生きる力」そのものなのだ。まったく食欲がなく、しんどさがただ通りすぎていくのをじっと待つ時間。おなかがすくということは、実は大変なこと。

 二、三日後、不思議なことに幼い頃や、学生時代に食べたものが何度も夢の中に浮かびだす。吐き気がとまり、しかし、食欲はないけれど、その回復の過程に、そんなことがあるのだろうか。幼い日々の食べもの−まだバラックの下町の商店街の一角にあった揚げ物屋さんの五円のコロッケ、十円のくじらカツ。めったに食べられなかった「花カツ」(店名)の豚カツ(70円?)。十円のお好み焼き。日清のチキンラーメン。学生時代の京都銀閣寺道のカツライス。「ますたに」のラーメン(なんとローカルなことよ)。こんなのばかり浮かんできては、いつしか寝てしまうこともしばしばあった。いずれにせよ、全然食べられないのに、しばらくは考える?ことや、頭に浮かぶことは「食」のことばかり。

 

 カステラ事件

 第一クール時、カステラなら食べられそうな予感。小学校教師T先生やF嬢がお見舞いに来られた時、「カステラが食いたい」と語れば、教育−生活指導の研究会仲間のネットに「カステラを欲しがっている 」が流れ、その研究会とは直接かかわらぬカミさんまでもが「○○先生からカステラの話しきいたよ」と。あまりネットに流れすぎると、「もうカステラは届いているだろう」と遠慮?され、かえって届かぬことがあった。そのたびに僕は「カステラ−! カステラ−!」とわめいていた。あまりに見かねたのか、豊田市からN先生が老舗の出来立てほやほやのカステラを届けて下さった。ありがたし。A先生までもが。ありがたし。Kさんは「食欲がないときはワインじゃ」と栓抜きまでつけて。

 

 病院食

 もともと僕は雑食で、「もったいない」で育ってきた人間。前回までの入院時は、病院の食事もおいしくよく噛んでいただけていた。しかし、今回の副作用は僕の嗜好も変化させた。第一クール時は、何とかごはんを梅干しで少しずついただけるようになったけれど、第二クールからは梅干しさえも全く受け付けず。病院食の味付けも受け付けず。三カ月もじっと入院しておれば、しんどさに加え、単調な病院食は身体が受け付けなくさせているのかも。といってわずかな量しかいただけない。学生がお見舞いにきてくれた時、「タラコが食いたい」と買ってきてもらったり、「イクラが食いたい」「イチゴが五粒食いたい」と駄々をこねたり。

 カミさんにはもっぱら柑橘類を届けてもらった。毎食のデザートに(時にはデザートが主食で)甘夏がおいしかった。第三クール時に、兄夫婦に「お好み焼きが食いたい」と語れば、早速届く。おいしかった。105円のお好み焼き。ありがたくいただいた。

 第3クール時、病院食はおかゆにしても受け付けず、栄養士さんにめん類なら食べられそうと語れば、早速、めん類が届くように。朝はパン。昼,夕はめん類というように。冷しうどんが出た時にはありがたくて心から職員さんに感謝した。セレブ志望の可愛い教え子のお嬢さんにそれにふさわしからぬ「七味とうがらし」を届けてもらったりもした。

 

 2 脱毛

  第1クール時、投入後1週間くらいたった頃だったか、点滴から解放され少しだけ自由な身になって風呂に入ることができた。いい気持ちとゆっくりとひげをそった。そってしまうとテカテカとなり、すぐにはえてくるはずのひげが2〜3日たってもまったく生えてこない。おかしいなと気づく頃、朝起床すれば、枕に大量の毛が。もうしばらく様子をみようと翌朝も大量の毛が。

 ファッションまで用意してきたのに、いざ脱毛を確認するといささかショックであった。自分でバサッと抜けるのを確認するのも耐えられない。まがりなりに60年近い年月をともにしてきた僕の髪だ。幸い、院内に床屋さんがあったので予約して髪がたっぶりあるうちに坊主頭にしてもらう。すけべ心を引きずっていたのか、剃髪ではなく5部刈り頭に。かくて藍染めの作務衣の本格的な出番となった。M嬢の帽子はまだ届いていないが。

 第二クール時に、M嬢が手作りの帽子を届けてくれる。ワンポイントの入った渋い帽子。作務衣にこの帽子、坊主頭がなかなかのもの。点滴がはずれれば、少しは自由がきく。16病棟と26病棟内を(一周約200m)を5周ほど。これは将来の放浪の練習。朝から寝るまでこのファッションで僕は通した。廊下で看護師さんとすれちがう時、「芭蕉さま。いい句はできましたか?」「なかなか、道は険しいのう」と遊んでもらっていた。若い看護師さんには「手打ちそばのおじさんみたい」とも言われた。医師の回診時も、無宗教の僕だけれど思わず手を合わせて受診していた。お医者さんは笑っておられた。

 

 3 御池岳

  病院から天気がよければ 鈴鹿山脈を見ることができる。養老山脈の向こう側に御池岳が見えるとうれしい。今頃どんな花が咲いているのか。雪はまだあるか。かの地のフクジュソウは今年も咲いているだろうか。カタクリは? イワカガミは?

 ミルキーあんぱん吟行の同人諸氏からお見舞いや、山行き記録、写真葉書が届く。葉里麻呂氏、都津茶女氏、金麻呂氏、巴菜女氏、悦女氏、東雲氏、妙女氏、奈月氏、みなさんの届けて下さる世界を眺めながら、遠く御池岳を眺める。80歳を越えた奥師も計氏とともに訪ねて下さった。

 うりぼうの会のメンバーで昨秋、ログの喫茶アタントと御池庵を使って結婚式をあげたY夫妻も。快晴の下、秋風に吹かれながらの式は楽しかった。村の音楽隊の演奏までついて。僕はあやしげな牧師?役。そんな思い出話しも。

 この道の先達、都津茶女は自己の入院・手術の経験をもとに、雪景色の竜ヶ岳の葉書に「とっても苦しい時は、とっても幸せな時。人の優しさしみいる時。今は検査検査でしょうか」とさりげなく。

 花の図鑑『鈴鹿の山で見られる花』(鈴鹿の山 花散策会編 2004・3)発行の中心であった悦女氏の花の写真葉書の多様さに驚く。花の図鑑の作成に情熱をかたむける人とは、日常これほどの花と対面しておられるのかと。

 御池岳のめりこみ中年、真夜中山行き−パッチワーク・ファッションのH川氏はほぼ毎週、鈴鹿御池岳のほかほか写真を花の情報とともに届けてくれた。氏とはかなり具体的に語ることができた−たとえば、「あそこの地のあの花はもう咲くころだ」「あそこのオクチョウウジザクラを写してきてよ」−同人諸氏の花便りを鑑賞しながら、氏と花談義ができた。それはありがたいことであった。しかし、直接僕の眼で花々と対面はできない。これまで毎年必ず対面して、一種僕の心の儀式となっていたのに。ああ、口の平のフクジュソウよ。

 吉田兼好『徒然草』の一節を何度口ずさんだか。

 

 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し・・・・

 

 病院での入院生活はまさに「垂れこめて春の行方知らぬ」日々であった。それを兼好は「なほあはれに情け深し」と言っている。古典は深いのう。

 

4 持ち込んだ本、CD DVD など

 毎度のことながら、良寛、山頭火、山本萠を何冊も枕元に。山頭火はどの句も沁みる。

 

  生死の中の雪ふりしきる

  遠ざかるうしろ姿の夕焼けて

  踏みわける萩よすすきよ

 

 この機会に古典も読んでおこうと、『徒然草』、さらには芭蕉ファッションをモットーにしたので、『おくのほそ道』の再読。『古今和歌集』『万葉集』にも手をのばす。

 病院での読書だ。寝っころがりながら読むことも多いので、文庫本がよろしい。

 もっぱら角川のビキナーズ・クラッシックスのシリーズで。

 『おくのほそ道』の冒頭はこんなに格調の高いものだったのかと再認識し、『古今和歌集』の(読み人知らず)の歌に己のいまと鈴鹿に咲く春の花々を投影させた。

 

春ごとに花の盛りはありなめとあひ見むことは命なりけり

 

 訳にはこうある。「これからも春のたびに花の盛りはきっとあるだろうが、それを見ることは私の命次第なのだなあ」。とりわけ響く歌だった。古今和歌集おそるべし。

 

 まど・みちお『いわずにおれない』(集英社)もよかった。

 

 リンゴを ひとつ/ここに おくと

 

 リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけで/いっぱいだ

 

 リンゴが ひとつ/ここに ある/ほかには/なんにも ない

 

 ああ ここで/あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ

 

 「いま」「ここに」存在すること自体の限りない価値。「ああ ここで/あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ」

 存在自体にまぶしさを感じさせなくなってきている感性の鈍麿を問わねばならぬ。

 

 DVDでは、落語。今回は桂枝雀の全集、三遊亭円楽の全集を持ち込んだ。若き円楽の人情噺「藪入り」「浜野矩随」にほろりとさせられ、枝雀の「宿替え」「代書屋」の「かたつむりさんはえらいなあ」「ポンでーす」「すびばせんね−」の熱演に笑いつつも、これだけのサービス精神で演じることはきついことだったのかもと、枝雀の人生を改めて考えると身につまされ、入院中は中断することにした。

 H氏よりいただいた「お池岳のお池」(僕の道楽本に記した御池岳の池をハイビジョンカメラですべて撮影し、バックミュージックも入れて編集した2巻にわたる労作)も 藪漕ぎの日々、一人初めて池と対面したこと、山仲間とワイワイ遊んでもらったことなど、静かに風に揺れる池の姿の映像から浮かんできて、しみじみと鑑賞できた。

 テープも持ち込んだ。山本萠詩集『草の瞳』(書肆夢ゝ 2006・7)の3度にわたる合評会の模様を録音したテープ。僕も第2回目に出席していたので、己の発言に「ああ、また無内容なことを言っておるなあ」と苦笑しつつ、萠さん自身の朗読「科の実」にまさに耳を傾けた。※

 

 ※この間、彼女は素描集を新たに発刊。タイトルは『福音の蝶』(書肆夢ゝ 2007・5)。「あとがき」の一節を引用する。「・・・線って、気持ちいいなあとしみじみ思った。ことに線には文字のような意味がないことが、新鮮だった。私は文字の持つ意味性がこよなく好きだったが、線はただ線であるということ、疲れている日にはことにそれが救いのように思えた。/画材はクレヨンからいつしか墨へと移り、画帖の白い紙から、ネパールのざらっとして不純物だらけの手漉きの紙へと変わった。墨を用いるときは偶然試したクロモジ(和菓子用の楊枝)がその硬さといい、いろんな部分に墨をつけて使えるので、私の気分にあうようだった。そんな画ともいえない線描に丸六年も熱をあげ、いま、老齢の猫たちの介助をしながら、なおも線の限りなさに憧れている・・・」−墨、エッセイ、写真、詩、朗読、さらに線にあこがれての素描集。爪楊枝(クロモジ)と墨とネパールの紙から、どこか憂いを秘めながら凛として思索を深めていく人間存在の多様な像が登場するとは。彼女のうちからあふれ出る何か。それらを多彩な表現で創造する。その可能性を意欲的に探っていてまぶしいほどだ。

 

 CDはたくさん持っていったが、何度も聴いたのは、藤原真理『チェロ名曲集』、千住真理子『ドルチェ』、天満敦子『祈り』だった。9時半消灯だったので、これらの静かなチェロやバイオリンの演奏を聴いていると、知らぬ間に寝入ってしまったことがしばしばだった。同室のおじさんの強烈なイビキに一晩はまいったが(売店で耳栓を早速購入した)、耳栓を一度も使わず、天満敦子『祈り』をイアホ−ンで聴きながら難を乗り切った。パイプオルガンと天満のバイオリンの荘厳なコラボレ−ションに救われたのだった。

 

 小説も何冊か再読した。沁みたのは壺井栄『二十四の瞳』。教育再生会議等が日本の教育の大切にしてきたことを無茶苦茶に、土足で踏みにじっていくことに怒りをおぼえる日々でもあったが、壺井栄の静かに描く教育のまことの世界にぼろぼろ泣きながら、いまの政府の進める「再生」の名における「教育破壊」の罪深さを改めて考えさせられた。

 金森俊朗『いのちの教科書』(角川文庫)も興味深かった。特に自己の「いのち」を考えざるをえない状況で再読すると、金森の提起する教育の原則がより深く沁みてくる。

 入院中に最も読み返した本に、橋本義昭『校長先生の手、温かい』(朝日新聞出版サービス 2007・1)がある。この本はちょうど僕の第1クール直前に発刊された。

 橋本義昭氏は山本萠さんから「私の本を読んで下さる方の中にこんな校長先生がおられますよ」と紹介された、横浜の小学校の校長先生である。この本は氏が長年の教員生活を終えるにあたって、氏が日々発行してきた「校長室たより」をもとにして、執筆された力作である。僕は氏から送っていただく「校長室たより」から、こんなえげつない時代ゆえに校長先生の激務は相当なものだろう、なのに、なぜこれほど感性豊かな世界で、子どもと響きあっておられるのかいつも考えさせられ、氏の描写する子どもと教師の世界は、僕の教育学研究の大切な視点となっていっていた。氏はこう展開する。

 

 教師の仕事は、子どもたちの存在(いのち)を見続けることだ。子どもたちの存在そのものを限りなく愛おしく思い、生きることに懸命な子どもたちのこころに耳を傾け、子どもたちを認めていくことである。

 

 このように、もともと子どもたちは存在そのものが愛おしいのだ、子どもたち(人間)を信頼していくことだ、という氏の確固とした論に照らせば,子どもや教師をさらに競争させ、見張り、脅して、言うことをきかそうとする、教育再生会議の子どもたち(人間)を信頼できないは貧困な教育観に情けなくなってしまう。

 さらに「第6章」において、氏は山本萠さんと僕とのことについて、「一期一会の出会い」として一つの章にまとめて述べておられる。氏は萠さんとの出会いについて−

 

 ・・私は、校長という仕事をしながら、子どもたちに声をかけ、子どもたちから学んでいる喜びと、急激に変わっていく社会の変化についていくことができないでいる自分を見つめていた。そうしたとき、山本萠さんの講演を記した小さな雑誌を手にし、自分の安易な生き方を逃げずに見つめようと考えた。自分の人間的な信念を大切にして生きているか。自分の夢を大切にしているか。自然やものに対してこころを感じて生きているか。科学文明の安易な取り込みに浸って人間らしい生活をせず、自然の植物や動物に対して傲慢になっていないか。そんなことを考え続けていた。

 なによりも自然の営み、野の花、骨董や人との出会いを、どうしてこんなにも美しい文章で、しかも深く温かく観ることができるのだろうか。萠さんの生き方を考えながら、私の人生もその場限りのものでなく、「一生をどのように生きるか」という生涯の括りで考えるようになった。

 

 ここまで書いてきて、氏はこう見事に結ぶ。圧倒される。

 

 しなやかに強くそして限りなく優しく。私にもこうした生き方ができるのではないか。ゆっくりと、しかもよく観て、丁寧に・・・

 

 また氏は僕のことについて「山歩きと教育」と一節をとって、僕の「道と四季と人間発達」の論を評価して下さっている。こういうことってあるんだ。なんという出会いの不思議さか。ありがたい。

 僕も氏から依頼され、この本に小文「校長先生の手はなぜ温かいか−教育実践のこころ」を寄せた。

 

 橋本校長と子どもたちとのいろんな場面を読みながら、僕の心に思い浮かんでいたのは良寛さんのことであった。

 

 この里に手まりつきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし

 

 荒唐無稽なことかもしれないが、この良寛さんの世界と本書とはどこか通じるものがあるに違いない。良寛さんのこの歌をもとにして、本書と照らしあわすなら、わずかに「この里を」を「校庭」に換えるだけで、次の歌が成立する。まさに本書の世界ではないか。

 

 校庭に手まりつきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし

 

 別に手まりでなくてもいい。サッカーでもボール遊びでも、縄跳びでも。子どもたちの息遣いまでも聞こえてくる本書を拝読しながら、こんな歌を夢に見る。

 日本の校長先生が、校庭で子どもたちと日の暮れるのを惜しむほど遊ぶ−おそらく疲弊の状況におとしこめられている多くの校長先生がこんな心意気を貫けたら−学校は、教育は、大きく前進するだろう。また「早く、早く」と追い立てられている多忙な子どもたちが、日の暮れるのを惜しむほど校庭で校長先生はじめ多くの教師と思い切り遊ぶことができたなら、たったそれだけのことで、どれだけ子どもたちは救われることだろうか。

 

 良寛の歌をもとにして、一種のパロディー化ができるところに、同人葉里麻呂らと「鈴鹿百人一首」で鍛えたオタンチン道が生きていることを感じる。言葉遊びはお遊びの世界だけでなく、真面目な?世界でも有効なのだ。そしてここに書いた中身は我ながら重要なことを書いている。教育再生会議はこうしたのびやかな世界を徹底して奪い去っていく。それは子どもにとっても、教師にとっても大いなる不幸となる。

 

5 早朝のできごと

 眼が覚めてお天気のいい朝は5時にはロビーのソファーに座っていた。お日様の出を鑑賞するために。劇的に東の空の色が変化していく。雲に映える色もダイナミックに変化していく。やがてお日様が顔を出す。あるときは南アルプスの一角から。ああ、こうして一日が始まる。人々は多くまだ寝ている。この静寂が一日の始まり。今日はどんな一日になるか。あれこれ思うひととき。

 長期入院だったから、日の出の位置が静かに変化していくのに気づけ、そのことが不思議な気もした。

 ロビーから新幹線がよく見える。おかげさまで300系、500系、700系の区別がつくようになったけれど、ここから見える姿は16両編成で、150キロはスピードの出ている颯爽とした姿である(さすが日本の大動脈)。ところが、5時過ぎに日の出をみていると、線路上をたった一両の車両がゆるゆると名古屋駅方面へと進んでいくことに気づいた。その車両はヘッドライトを10ほどつけたユニークな姿で(いつも16両編成の颯爽とした姿ばかりを見ているから)トボトボと、あるいはおっちらおっちら言いながら進んでいるようで、ユーモラスでもあった。

 知らなかった。毎朝、5時過ぎにここをおっちらおっちらと通過していたのだ。線路の保全と点検だろうか。まだ新幹線が動き出さない前に、決まって定時に。あれを定時に動かしている人が存在している。そのことを知った時はちょっと感動ものであった。

 ふとナースステーションをみれば、夜勤の看護婦(師)さんが黙々と働いている。まだ朝の5時だ。僕は思わず「ご苦労さまです」と心の中で手を合わせた。

 ゴールデンウィークも僕は全期間入院中だった。外来は休みなので、病院は静かではあるが、当然ながら医師も看護師も勤務。看護師のみならず勤務医のハードさもおほろげながらわかったような。

 「おはようございまーす。今日担当の○○でーす。」

 こうした気持ちよい挨拶から一日が始まる。体温をはかり、血圧をはかり、おしっこ、お通じの問診、日によっては血液検査のための採血など、毎日なにげないことでも多々お世話になった。年配の看護師さんは、時に子育てと仕事の両立の体験を語ってくれたり、4月に看護師になったばかりのホヤホヤさんには、同じくこの4月から学校や幼稚園・保育園に勤務しはじめた教え子たちのホヤホヤ具合を思い浮かべた。点滴をしているときは、真夜中でも必ず状況を把握しに顔を出し、嘔吐感があり凌いでいる時は、背中をさすってくれたり、芭蕉ファッションが似合うと(お世辞だとしても)ほめてもらったり、明るく真摯に職務に励む医療・看護スタッフの姿にどれだけ救われたかわからない。

 早朝、黙々とユーモラスに進んでいくおっちらおっちら車両は、そんなことも考えさせてくれた。

 

 6 お見舞いのありがたさ

 たくさんお見舞いもいただいた。お手紙もいただいた。職場の同僚、研究会仲間、親戚、教え子、山の仲間。心よりありがたく。教え子からは千羽鶴も。アタントさんには霊験あらたかなミネラルウォーター(2リットル×6本×2)もいただいてしまった。さぞ重かったでしょう。

 森崎氏は「心の窓」と題する学童保育実践記録の新たな試みを送ってくれた。その一節。

 

 春休みのある日−/新一年生を歓迎してみんなで緑地へ遠足にいきました。/そして みんなでつくしを探していたら、一年生のなつきが頓狂な声をあげました。/「てんとうむしがぼーっとしとる!」と。/みんなはその表現に爆笑してしまいました。けれどもそれはエネルギッシュななつきが小さな虫の世界と出会った瞬間だったのかもしれません・・・

 

 第3クールの終わり頃だったか。その記録にコメントを赤ペンで入れた。それは体調も回復しつつあり、楽しい作業だった。いつか本にしよう。

 心配をかけているはずのカミさんは、そんな素振りを一切見せることなく、大学づくりの仕事、職場の組合委員長、講演、障害児の親との共同の取り組みなど、自己に課した大道を堂々と前進している。そのこともまことにありがたし。

 そのカミさんがお見舞いの手紙を届けてくれる。

 

 元気になって下さい! まだまだいっぱい聞きたいこと、話したいこと、あるんですよ!

 元気になって下さい!

 

 病院で、先生と仲間と、大学の教室のようにおしゃべりできて、みんなから大きくて強いプラスのエネルギーをもらえた気がします。  

 

 先生には「あんパンを喉に詰まらせて死ぬ」というのが、お似合いです。それ以外の死に方は、みんなが認めませんよ。・・・やっぱり、もう少し、私の心の準備ができてから、先生は旅立ってよ。準備ができたら「もういいよ」って言うから、それまでは、這ってでも生きていて。・・・まだまだ、ネジのはずれた生き方を教えてください。・・・先生、いてくれてありがとうね。

 

 こんな僕にも「まだまだいっぱい聞きたいこと、話したいことがある」と伝えてもらえる。

 多くの諸君がお見舞いにきてくれると、病院が華やぐ。一瞬、ゼミ室みたい。卒業生は僕と語りつつ、同期の仲間とも社会でのあれこれを語っているのかも。

 放浪中にあんパンを喉に詰まらせて死ぬまで僕は「這ってでも生きて」いなければならない。ミルキーあんパンの戯れ言から、そう言ってもらえるだけでありがたい。そして「いてくれてありがとう」は沁み入る。まど・みちおの存在のまぶしさを謳う詩の世界、橋本先生の「子どもたちはいるだけですてき」という教育観・人間観。そうか、こんなネジのはずれた僕でも多少は「いる」だけでもなにかのお役にたてるのかも。

 

    (5)

 

 良寛の有名な手紙の一節にこんなのがある。三条大地震(1828年)の折の手紙である。

 

 地震は信(まこと)に大変に候。

 野僧草庵は何事もなく、親類中、死人もなく、めで度存候。

 

うちつけに

 死なば死なずて永(ながら)へて

 かかる憂き目を

 見るが侘しさ

 

 ここまで書いてきて、結びに良寛はすごいことを言っている。

 

 しかし災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。

 死ぬ時節には死ぬがよく候。

 是はこれ災難をのがるる妙法にて候。

 

 まだ凡人の僕にはここまで言い切れない。だけど、何か少しずつわかってきたような気もする。

 「なるようになる」と「なんのこれしき」。

 「なるようになる」は「ならないようにしかならない」ことでもある。この意味で、人間を越えた大きな世界を率直に承認して、それに「任」すこと。「騰々任天真」だ。

 もう一方では「なんのこれしき」という能動的な意志性の世界。それは「這ってでも生きる」ことだろう。

 

 いま、生きている、笑える、食べられるということはどんなにすごいことか。

 この間の荒療治によって、二つあった影が一つは消滅、一つは縮小していった。ありがたいことに一定「功」は「奏」したのだ。

 今後いかなる展開になるかわからないけれど、何気ない日々を丁寧に生きること。よく歩き、笑い、おいしく健康食やニンジン・りんごジュースもいただき、よくお風呂にも入って、「爪もみ療法」も続けつつ、免疫力をつけてチンタラと生きていきたい。

 「なるようになる」「なんのこれしき」と口ずさみながら。

 

    ああ、我もまた 片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず・・・・

 

 

 


 

 「功」は「奏」したのだ・・・色々書いてあったけれども、最後にこう書かれていて安堵する。苦しい治療に耐えてきた甲斐があったのだ。効果のない人も半数以上いることに比べれば御池杣人さんは強運がある。

 

 私は何が怖いかといって病気ほど怖いものはない。大病はしたことはないが、苦しくて長い夜は耐え難い恐怖だった。今までの人生の中で、一番の苦痛は胃カメラを飲んだときである。涙を流して、苦しいから抜いてくれと懇願しようにも、言葉を発することもできないのだ。このような拷問器具は生涯飲まないと固く心に誓った。治療なら我慢もしようが、検査がこのように苦しくては健常者も病気になってしまうだろう。だが経験者に聞けば胃カメラなんぞ大したことはない、大腸検査はもっと苦しいと言う。更にもっともっと苦しい検査や治療はいくらでもあるという。
 だから私は、病気に関する番組などはハナから見ない。ドラマでも手術場面が現れると目をそむける。つまり私は普段、病気から目をそむけているのである。
 そういう訳で、杣人さんの闘病記は本心は読みたくなかった。しかしせっかく頂いたものに目を通さないわけにはいかない。闘病記、しかもガンとなれば返事も茶化して書ける種類のものではない。

 

 いきなり気管支カメラか。気管支と言えば一滴の水、一片の食物でも入ると涙が出るほどむせる場所である。さほどに異物に敏感な器官にカメラとは。これは胃カメラの比ではなく、書いてある通り 「想像するだに怖そうな検査」 である。己のためとはいえ、同情を禁じえない。

 

 そういえば転移を告げられたときの心の動きが書いてないと思った。しかしあとで「まず転移の重さにうちのめされそうになる」との記述。さもあらん。私なら失神して失禁しそうな場面である。しかも苦しい苦しい治療をしても、奏功するのは五割以下。しかも奏功は完治ではない。こう言われれば万一の「覚悟」をせざるを得ないだろう。万一なら覚悟ではないが、ニ分の一なら重大な覚悟である。

 

 嘔吐感、脱毛を伴う苦しい治療に、家族、教え子、同僚、知人、山仲間の励ましを支えに耐える様子は、お涙頂戴や悲壮感はなく、むしろ明るくカラリと描写されている。心の葛藤は察するに余りあるが、泣き言や愚痴は書かれていない。前二回の入院で精神が鍛えられたのであろうか。

 

              「とっても苦しい時は、とっても幸せな時。人の優しさしみいる時」 

 

 とっちゃんも粋なことを書くのう。人の励ましとともに、音楽、落語、随筆、詩歌などにも随分励まされたご様子。励ましや慰め以外にも、芸術文化に没入しているときは気がまぎれる効果もあろう。私の父も何度か入院したが、何の趣味もない人なので、時間が経たないことを大いに嘆き、早く家に帰りたいとばかり言っていた。もし入院したら、治療だろうが他人のイビキだろうが、何でも鑑賞する気にならねばと思う。鑑賞がおかしければ観察や分析である。退屈や無気力は病気にも障る。

 

 杣人さんがサーブを打ち、私がレシーブした「何のこれしき」が闘病のキーワードになるとは。あの当時は互いに想像もつかなかったこと。人生において苦しいのは病気だけではない。私も折々に「何のこれしき」とつぶやくことにしよう。

 

                「いてくれてありがとう」

 

 本当にそうです。杣人さんがいなくなったら鈴鹿登山界もつまらないことになってしまいます。這ってでも、転がってでも、引きずってでも生きていて下さい。お願いします。とりあえず好転おめでとうございます。

 

                                             葉里麻呂


 御池杣人様、闘病記を拝読いたしました。治療が奏効し、ご本復に至られたこと、誠にめでたく、お祝い申し上げます。
本当に、おめでとうございます。 流石は教鞭をとられる杣人様、文章は平易で私にも分かり易く、一気に読むことが出来ました。
しかし、随筆部分の内容は高度で、無教養の私には充分に理解できないところが随所にでてきました。あとで、プリントアウトして
読み返し、完全でないまでも、概要だけは理解できたらと思っております。

 

 話は変わるが、私のお仕えする姫君も、CT検査の結果、肺癌の疑いがあるとのことで、気管支からの内視鏡検査をしたが、
患部の位置が悪く、組織片を採ることができませんでした。そこで内視鏡手術をすることになり、これを実施したところ、
良性だったことが分かり、切られ損という形で終わりました。彼女の場合、2週間余入院した後に退院、その後2ヶ月くらいして、
山に復帰しております。なお、このときに「なるようになる」ならびに「何のこれしき」の考え方を存じていたなら、このように励ますことも出来たのに……と、当時を振り返っております。

 

 杣人様も、もう直ぐ山への復活も可能になられることと拝察、御池岳でお見かけしたときには、お声をかけさせていただきます。それでは、この日が一日も早く参りますことを祈念しつつ、再度、祝意を申し上げます。おめでとうございます。

                              

                                                    三太夫


 私は、数年前より鈴鹿の山の魅力に惹かれ何度も足を運ぶうちに、素敵な出合のご縁をいただき、
また近年の笹枯れに「どうしたんだろう?」とささやかな調査を始めて
いるものです。その担当域が御池岳なんです。
元尾西市の石垣様と偶然二度もお会いし、色々お話していくなかで思い切って近藤様にお手紙を出した所、丁
寧にご返事を頂き恐縮してます。

 

 「入・退院記」を拝読し改めて、申し訳なく思います。 今年は毎月、御池岳の自然を見ようと6月に入ったのですが、
ヒルが靴に上がってきたり、登山道でウルウルしているのに弱気になり帰ってきてしまいました。

今度は、ヒルにも負けないで行くつもりです。

 

  私も入院、胃カメラ(4度)などなど検査の経験もありますが苦手です。 不安で胸が裂けそうなとき、やさしくお声をかけて下さる看護士さんに 何度救われたかしれません。    とにもかくにも、経過良好でおめでとうございます。 きっと、鈴鹿の山々が守ってくださいます!    元気になられ、偶然山でお会いしたいです。(未だ、お顔拝見してません)  

             

                                                           SASA


 

杣人さん、ご無沙汰しています。

今朝は台風一過の晴天、そよ風の気持ちいい日和です。昨夜寝る前に気付いた闘病記。主人を送り出し、早速拝見しました。

何より嬉しい、病巣の縮小と消滅。苦しい治療に耐えたものへのプレゼントですね。結果を聞きたいが聞けなかっただけに、自分のことのように嬉しくパソコン相手にウルウルでした。

肺への転移を知り、携帯を持つ手が震えたあの日、「この世には神も仏もないのか!」と恨んだけど、今は「神さま、仏さま、ごめんなさい!」です

これから先も治療は続くでしょうが、生き方の下手な私も大好きな「ケ・セラ・セラ」の精神で病気と向き合える事を祈っています。(時々「ケ・セラ・セラ」忘れるのですが)

この一年、自身の病気、娘の難病再発と激動の日々でしたが、ぼちぼち山歩きが出来るようになりました。その節は、何通ものお葉書を頂きありがとうございました。

それに比べ、私の方は筆不精でごめんなさい。

 

この闘病記に登場する教育の話、もっともっと聞きたいです。

杣人さんや妙ちゃんに、子育て真最中に出会えていたならば・・・と、以前から思っていました。

御池を歩き、お話できる日を楽しみにしております。           

                                                   なっきい

 


御池杣人様、闘病記を拝読いたしました。
頑張られた様子が、ひしひしと伝わってまいりました。
第137段
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは
(すべてのことは、始めと終わりこそが趣き深い。嘆き、長い夜を、ひとり苦しみながら明かし、遠く離れた恋人を思いやり、荒れはててしまった住まいに、昔の思い出をなつかしむ、そういうものこそが、ほんとうの恋というのではないか)
恋=「御池岳へのロマン」でしょうか。

私は、ご縁あり、「ミルキーあんぱん」に参加させていただき、
夢を語りながら、次々に実現させている皆様からパワーをいただき、鈴鹿セブンマウンテインを完登するという夢の実現ができました。
夢を実現させる魔法の言葉は、「すべてはうまくいっている!」です。

「御池岳」でお会いできる夢もかなうと信じております。

                                          マレーネ


杣人さま
闘病記、片雲の風に誘はれて・・・
拝見しました。
治療が功を奏してほんとうに良かったです。
「生きている事自体が大切である」「這ってでも生きていて欲しい」
「問いかけた時、うなづいてくれる人が在る幸せ」「みんなの生き方を導いてくれる人がいる幸せ」
本当に良かったです。元気になっていただけて。
私ももう一度、私の周りの人たちに心の中で、同じ問いかけをしてみたい。そして、私自身も「生きていること」の大切さを考えてみようと思う。

                                        itige


 


「片雲の風に誘はれて」に寄せて

「再発」「転移」その言葉は、癌患者にとって、最も聞きたくない言葉である。

癌の手術で入院をしていた時、同じ部屋に再発で入院されている方々がおられた。放射線治療にみえている方、抗癌剤治療でこられている方。

どちらも、辛い治療であった。

私は再発したら、もう入院も治療もしない。そう思わせる世界がそこにはあった。

癌には、確実に効く薬も治療方法もない。

ある意味、病の大方が原因も治療法も解明されていないのではないかと思う。

息子が1歳半で発病した、特発性血小板減少性紫斑病もそうだった。20年程前、原因がわからず発病したその病も、ウイルス感染だという説もあれば自己免疫的によるものだとの説もあったが、その実は分かっていなかった。

難病に指定にされている病だった。発病から6ケ月以内で治癒すれな「急性」、その期間内に治らなかったものは慢性と言われていた。

ほとんどの難病には、治療法がなく対処療法として副腎皮質ホルモンが使われた。

入院中は点滴とともに、通院中は飲み薬として。微調整により血小板が安定する量を決めていく。副作用から考えれば、極力使いたくない薬であり神経を使った。

成長とともに、その病が治癒していったことが、なにより幸いだった。

自分が癌と言う病になって、一番に思ったことは、医者がすべてを決めていくのではないと言う事だった。

医学に詳しいわけでもない自分自身が、今、癌という真っ只中にあって、自分の手術についても治療についても、選択していかねばならないという現実がそこにあった。

医者はあくまでも、医学者としての知識や今の医術について教えてくれる。その中での選択肢を教えてくれるが、それを決めるのは自分自身である。

それは、この病院で手術を受けるのかどうかから始まる。

私の場合も、癌という現実を突き詰められた中で、卵巣への転移は切開腹して見なければ分からないと言われた。

分からない状態の中で、卵巣も両方摘出するのか、もしくは一方でも皮下に一時的に保管するのか、そのまま残すのか。残すことの利点と転移の恐怖、切除することによる女性ホルモンへの影響。相反した現実をふまえた上で、切除するか残すのかの二者選択に迫られる。

子宮・卵巣・お腹の中のリンバ節も50ケほど切除して転移をしていないか追った。

再発したら今度は生きる確率が大きく変わる。遠隔転移は、より命の保証の少ない世界に人をおいやるからだ。

杣人さんの肺の癌の発見が、遠隔転移でないことを祈った。

だからといって、遠隔転移をしたすべての人の命が奪われるというものでない。なぜなら、人知の計り知れない世界があるからだ。

私なら、抗癌治療は避けて民間療法のみの選択をしただろう。抗癌治療は、癌細胞を弱らせると同時に、自らの自己回復力も弱らせてしまう。手術で切除できれば、切除した上で次の手を考えるというのが常套手段である。

肺であることは切除できない可能性があるということでもあり、とても重たい気持ちになった。

人それぞれの選択の中で、杣人さんは抗癌治療に期待をかけられた。僅かでも可能性があれば挑戦する前向きな姿勢によるものだ。そう決められたならば、抗癌治療が功を奏することを、心から祈らずにはいられなかった。

その結果が辛いだけの治療に終わらず、功を奏したということをお聞きし本当によかったと思った。

杣人さんの声は、いつも優しい。

一番励ますべきこの時期に、私は自分の心を病んでいた。人間関係の渦中の人となり自分自身が持ちこたえられない精神状況に追いやられていた。50年余りを生きてきて、こんな人間関係の中で息絶え絶えになるとは思いも寄らないことだった。

電話の向こうから聞こえる、こちらが励ますべき杣人さんの声が、反対にそんな私を励ましてくれる。ほろほろと涙がながれ、この広い世界で、奇遇にも杣人さんと出会えた幸せに胸を詰まらせた。

「私を信じてくれる人がいる。」「私が私であることを認めてくれている人がいる。」「私を応援していてくれる人がいる。」

それが、どれほど人を支えることであるか身にしみて思った。それがどれほどありがたいことであるのか心にしみた。

「出逢えてよかった。」こんな出逢いが、人の心を再び生き返らせてくれるのだと思った。

杣人さん・ハリマオさん、私。それぞれまったく違った人間でありながら、なにかそこに相通ずるものがあると感じるのは私だけかもしれないが。

数年前「竜ケ岳・シロヤシオ幻想に寄せて」の中で
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「傍らに心響ける人ありて 無類の友見る風景を見る」という私の短歌を、杣人さんがこう評してくださった。

 山行き、あるいは大きく人生の豊かさとは、まさにこれでないか。「傍ら」の物理的距
離など問題ではない。僕たちにとっての「傍ら」はそんな次元ではない。「心響ける人」
の存在の多様性こそ、僕たちの山行きの、あるいは煎じ詰めれば人生の彩りの豊かさでは
ないか。
 「無類の友見る風景を見る」−花を見ることは実は花に見られること。「無類の友」に
見られ、「風景に見られ」に僕は山行きを続けよう。「心に響ける人」の存在の多様性を
信じて。    
              御池杣人さん(鈴鹿鹿樹林の回廊より)
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まさにこの言葉は、その時期にも私を心から支えてくださるものだったのだ。そのことは、いつまでも私の心から消え去ることは無い。

杣人さんの癌の転移を疑われるこの一大事時に、私は何の力にもなれず、自らの心の行方さえ見据えられずにいた。

今まであれほど多くの励ましをいただきながら、たった一度病院に顔を見せてもらい行ったこと、わずか数枚の写真葉書を送ることしかできなかった自分が、まどろっこしく情けなかった。

けれど、杣人さんには多くの学生の方々、鈴鹿の山の様子を伝えに行ってくださる長谷川さん、ハリマオさん達山仲間、山本萠さん、森崎さん、橋本氏、そしてご家族の方々等、杣人さんが心から愛され、また愛しておられる数え切れない人々がおられる。

何もできない私は、杣人さんが人の輪の大きさと深さに包まれておられる、そのことをほんとうにありがたく嬉しく思った。そういう思いの束が、きっと杣人さんの命を救ってくださると信じて。

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良寛の有名な手紙の一節にこんなのがある。三条大地震(1828年)の折の手紙である。

 地震は信(まこと)に大変に候。
 野僧草庵は何事もなく、親類中、死人もなく、めで度存候。
うちつけに
 死なば死なずて永(ながら)へて
 かかる憂き目を
 見るが侘しさ

 ここまで書いてきて、結びに良寛はすごいことを言っている。

 しかし災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。
 死ぬ時節には死ぬがよく候。
 是はこれ災難をのがるる妙法にて候。
                     (片雲の風に誘われてより)
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災難に会えば、実際にはどれだけあたふたするだろうかと思いますが、私は凡人ながら、良寛の心境と自分の思いが同じ円の中で重なっていることを思います。

私の命が先に絶えても、杣人さんが先にいなくなっちゃ困るのです。杣人さんが生きておられる、そのことが、どれほど私を、そしてまわりの多くの人々を支えてくださっていることであるか。

お勧めの人参りんごジュース、レモンを一緒にジューサーにかけて毎日飲んでくださいね。手のひらが黄色くなるくらいに。

あんなに優しいのに、もっと優しくなりなさいって神様は言うのだろうか。

あんなに慕われているのに、もっともっと慕われるあなたでありなさいって神様が言っているのだろうか。

「一期一会」の出逢いが「かけがえのない出逢い」になるこの世には、そんなあなたが生きていてくださることが必要なのです。

入院の時は多くの人々の応援があり、そのことに支えられて人は大きな困難を乗り越えていく。それは、周りの人々の心が太い束になって、人をささえてくれる時なのだ。

やがて大きな波は去り、それと同時に強く大きく結集していた愛の心は、小さなうねりとなり、やがて小波となり日常にかえる。

人は、日常の中で再び生きていかねばならぬ。

癌という病気は、他人の目には快気したように元気そうに見えても、絶えることなく再発という闇をその裏で抱えている。

日常の中に、再発を抱えながら生きる。

そんな日常の中で、いつも心にかけている、そんな愛のあり方の大切さを感じるのだ。

大きな波を越えるには大きな束になった愛情が必要だけど、それはかえって集まり易い愛情なのかもしれない。

日常の不安を支える愛情は、空気のようにさりげなく当たり前のようにそこにあり、そのくせ何にも変えがたい大切なものであると思う。それは、家族の愛情であったり友の友情であったりする。

そんな愛情を自分が受け続けたいと望むと同時に、そんな愛情を絶えず注ぎ続けたい、そんなことを思う日々です。

あなたのそばにいつづける。あなたへ心を届けつづける。「一人じゃないよ。」そんな絶えることのない励ましの心が、なによりも人を支えると実感しているからです。

生きている限りそこにいつづけることの意味、その時だけでなくいつも心が寄り添えることの意味、いてくれる人のあることの意味を深く感じる人生です。

生きる。

人は生かされる。

                 平成19年8月2日
                       とっちゃん


十分に意は尽きせぬけれど。みなさまへの謝辞。

限りあるいのちの時間このひと日悔いなく過ごさむ山に登りて
           石井明子『山が好き』(1984)
鈴鹿を謳う歌人の第一歌集から、この歌を何度引用しただろうか。それほど僕はこの歌を何度も口ずさみながら歩いてきた。

ぼくの雑文、あれだけの長文を読んでいただけただけでもありがたいのに、わざわざ直接ご返事を下さった、葉里麻呂、三太夫、SASA、なっきい、マレーネ、itige、とっちゃんのみなさま、ありがとうございます。内容が気楽な内容でないだけに感謝大なり。まだご尊顔を拝していない方も含まれさらにありがたし。
阿下喜の歌人からも文届く。いかにも鈴鹿の山を謳い続けてこられた人らしい文に励まされる。
「今後はあせらず静かにおすごしになって、涼しくなりましたら御池岳へ! リハビリは山以外にありませんから」
そうだった。うだうだとなげいているよりも、「リハビリは山以外にありません」という先達の発想―そうだった。この見事さ。改めて女史の歌集を手に取る。

山に賭けて生き来しことに悔いはなしわが青春のひたむきの燃え
     『石井明子歌集 山彩−鈴鹿の山を謳う』(1988)

山にゆくひと日をいのちの糧となす山人生にしくものはなし
山恋ひはつきることなし青春の一途さに似てとどまるを知らず
     『石井明子歌集 千春萬冬−鈴鹿の山を謳う』(2005)

1700回登山は伊達ではなかった。鈴鹿の山々への青春そのものの熱き想い。こうして女史の歌を並べただけでも、その静かな迫力が伝わってくる。しかもすぐさめるような一時の高揚ではない。第一歌集から第四歌集にいたるまでこの想いを一貫して持続しておられるところ、「鈴鹿の山を謳う」というサブタイトルは軽くはない。
そうだった。「山にリハビリにいく」そんな迫力をもって生きていきたし。

またとっちゃんの言うように少なからぬ人の輪の大きさと深さに包まれていることを忘れずに生きていきたし。

何気ない日常をどう生きるか。ぼくの『御池岳・憧』(2004)所収の森崎氏の詩

信じていよう
そこに徹して
生きていよう

ささやかな
日常に
まことの世界が
あると

これをぼくは絶えず口ずさんでいる。そうでないといろいろなことが重なってばたばたしているとつい忘れてしまうから。
「ささやかな 日常にこそ まことがある」と。こう言い聞かせているのは、どうやらぼくだけではなさそうだ。
この短詩の作者森崎氏自身も、「信じていよう」と冒頭に決意を記し、さらにたたみかけるように「そこに徹して 生きていよう」とより強く重ねている。一面ではそれほど自己に言い聞かせないとこの視点を欠落させていくからではなかろうか。

僕自身、今後いかなる展開になるか不明だけれど、山に包んでもらいに、山にリハビリにいけるように基礎体力を鍛えなくっちゃ。

※ここまで書いてきてさらに気づく。都津茶女の突貫少女ぶりも実は見事なるリハビリの実践だったのだと。奈月氏の山再開も、三太夫氏の姫君の山行きも。だから励まされるのだと。
                                      

                                                     御池杣人