子どもの頃から雪が好きだった。まあたいていの子どもは雪が好きだ。私は精神的に子どものままだから、今も雪が好きである。冬になると天気図を見るのが楽しみである。縦縞がびっしり並ぼうものなら狂喜乱舞する。気温が低いと雨が雪に変わるが、素人考えでは雪ではなく氷の粒が降りそうなものである。それが真っ白くてふわふわした雪になるというのは、誠にもって造化の神の心憎いプレゼントである。

 今は昔、多感な年頃に日記なるものをつけていたが、冬には「今日は何センチ積もった」とか「この気圧配置では明日が楽しみだ」などと書かれている。おもいきりバカである。雪の降る晩は窓を開け放して懐中電灯で照らして「なんて綺麗なんだろう」と喜んでいた。まあこれも太平洋側に生まれた呑気さであるが、雪国では「白い悪魔」と言われている。この地(菰野町)でも1995年のクリスマス寒波では、我が家でも60cmの積雪を記録。物置のアルミの支柱がひん曲がり、大屋根のトイが破壊された。夜中に物置の雪降ろしをしながら、音も無く降りしきって量を増していく雪に恐怖を覚えた。なるほど、これが白い悪魔か・・・と身をもって味わった。

 山は雪ぐらいではつぶれないので、早期に根雪が欲しいものだが、年々暖冬で雪も少なくて寂し前尾根い。2000年1月16日に新年会の後、根の平峠へ行ってみたが、地肌剥き出しで一片の雪も無かった。異常などというものではない。さて、21世紀はどうなることやら。中谷宇吉郎博士は「雪は天から送られた手紙である」と言った。学者にしてはロマンチックなことを言わはるなあと思ったが、そうではなく結晶を顕微鏡で見ると生成過程が分かるということらしい。結晶の形も色々あるが、すべて六角形というのも自然の妙である。

 「山と渓谷」2001年1月号に、面白い記事が載っていた。厳冬期に剱や黒部周辺のバリエーションをやっているすごい人の話だが、「槍、穂高は冬でも比較的晴れることが多く、悪天に恵まれないからダメだ」と言うのである。だから荒天の多い北部の剱岳をやるということらしい。悪天に恵まれる・・・とはすごい表現である。そしてこうも言った。「晴れた山頂など充実感が無くてダメだ」と。まるで「我に七難八苦を与えたまえ」と神仏に祈ったという山中鹿之助の現代版である。

 山登り自体が自虐的な行為なので、突き詰めていけばそう考えるのも分からないでもない。不世出の登山家、加藤文太郎も雪を知ってからは、冬しかやらなくなった。土台レベルが違うが、私も吹雪に恵まれ?まつ毛やヨダレを含んだ目だし帽が凍りついてしまう山行をすると展望が得られずとも、ちょっぴり岳人の気分が味わえて嬉しいときがある。アイゼンの爪を食い込ませながらの急登も快感である。昔あったスパイクタイヤで林道を走る快感と同じである。高い山の雪は乾いた粉のようなものでピッケルの石突を刺すとキュッキュッと鳴る。しかし足跡は風が吹くとあっという間に消えてしまうので怖い。

 そうはいっても、いつも吹雪ばかりではたまったものではない。薮がすっかり埋もれた鈴鹿の山で、快晴の日にはしゃぎまくるのも楽しい。枯れ木残らず花が咲いた白銀の世界は幻想的である。冬には登らない人もいるようだが、もったいないことである。雪山は想像するほど寒くないし、冬の方がやさしいルートもある。余計なお世話かもしれないが、経験者に付いて一歩を踏み出せば新しい世界が広がるだろう。