老後の夢

 老後と言っても、凡人のことゆえまだ20年以上は働かねばなるまい。大橋巨泉のような生き方がうらやましい。私の夢はちっぽけなものである。仕事をリタイアしたら、愛知川のほとりに庵を結んで仙人暮らしをするのである。

 場所はどうかな、上水晶出合付近もいいし、上谷尻か北谷尻の平坦地もいいな。でも谷尻谷ではちと寂しいし、補給に骨が折れるな。杉峠下の鉱山跡あたりがいいか。

 勝手に小屋を建てると多分どこかしらんの当局に叱られるやろか?でも折衝次第でどうにかなるでしょ。ログハウスなどはダメである。杉皮と萱葺き屋根の炭焼きの人達が寝泊りした小屋風で、二間に四間ぐらいのものを建てる。全部土間では寒いから、半分は板張りの床にして囲炉裏を作りたい。小屋の周囲の一畝ばかりを畑にして、ジャガイモと高原野菜を作り、木の実山菜などで八割方自給自足とする。タンパク質はイワナで補う。

 小屋(山本素石:画)そうして春から晩秋まで晴耕雨読、あるいは晴釣雨書、の生活を送るのである。家財道具はあまり持ち込まない。書物と若干の筆記用具、鉈と鋸と鍬、釣り道具と炊事用品ぐらいあればよい。あとドラム缶の風呂。

 ラジオや携帯電話、無線機などは持ち込まない。パソコンなどもっての他である。コンセントが無くてもノート型ならソーラーパネルで使えるだろうが、そんなバカなことはしない。だいたいパソコンなど相手にしていると人間がいじけてくる。あげくに電磁波で脳をやられて、このような駄文を書くようになるのがオチである。

 退屈したら、雨乞岳方面へ行く登山者にちょっかいを出す。だいたい鈴鹿へ来るのはシルバー寸前の人ばかりで、平日などオバちゃんの独壇場である。それでも夜目、遠目、山の中で錯覚して「お嬢さんがた、ちょっとオラっちへ寄って一服してかないかい」と誘い込んで「この頃下界の様子はどうかね?」なんて仙人ヅラして話すのである。

 週末に本物のお嬢さん方が通ろうものなら、イワナの塩焼きと熊笹茶など用意して熱心に誘う。そのうちあそこは変なジジイが出没するからと、登山道が変更になるかもしれない。

 営業小屋のようなことはしない。あくまでリタイア後の遊びであるから働いてはダメである。でも山友達が来たら、泊まってもらおう。イワナの焼枯らしを立てた囲炉裏を囲んで雑談に夜更かしするのも悪くない。それでも大方の夜はたった一人で寝るのである。

 耳鳴りがするほどの静けさと、降るような星空の夜は孤独感もひとしおであろう。そんな夜はランプでも灯して詩を書くか。歌を詠むのもいいだろう。全身を神経にして書き物に没頭していると、とんとんと戸を叩く音がする。不審に思って戸を開けると、そこには絶世の美女が・・・。眉につばを付けてよく見ると着物の裾から尻尾が覗いている。狐や狸が人を化かすと言うのは本当らしい。実際に姿を変える訳ではなく、たぶん催眠をかける未知の波動を出すのであろう。

 たまには下界へ物資の補給に下りることになる。家へ寄ったついでに孫(その頃にはいるはずである)を連れ出し「爺ちゃんがいいところへ連れてってあげよう」と言って、手を引いて雨乞岳へ登るのである。ヘロヘロになって着いた頂上にあるのは、笹と土だけ。孫は落胆して二度と着いてこない。笹と土だけの場所で満足する登山者と言うのは何と安上がりな人種であろうか。

 さすがに冬は雪に埋もれて自給もままならず、家へ帰って孫の遊び相手でもするより致し方ない。それでも月に二回ぐらいは、食料を持ち込んで泊まりに来る。イブネ辺りでスノーシューかスキー遊びをするのも基地があるから気楽である。

 このような日が本当に来るか分からないが、とりあえず明日の仕事頑張ろう。一番心配なのは神崎川に林道が開通することである。そのような愚挙が成った場合は、私のささやかな夢も雲散霧消してしまう。