蛇谷探検記 

  茨川奥の蛇谷銀山については一時日本の全生産量の七割に及んだと書かれているものもある。七割と言えば大変なシェアであり、全国的に名が知られてしかるべきである。

 ところが全国的な知名度は殆ど無く、地元の人さえ知らないことが多い。銀山で有名なのは半田、院内、生野、佐渡などだが、一番有名なのは何と言っても島根の石見(いわみ)銀山である。1309年に大内氏によって発見された。本格的に採掘されたのは1500年代半ばで、最盛期はそれ以降約百年間。 家康の家臣であった大久保長安が初代銀山奉行になってから、佐渡の金山と共に徳川幕府の財政に莫大な富をもたらした。

 七割の話は眉唾だろうが、ともかく蛇谷の銀山跡を見たくて行ってみる事にした。この谷は以前下降に使った事があるが、銀山のあったとされる左俣は未見である。5月中旬に車で茨川林道に入った。茨川へ入るにはノタノ坂越、または治田峠越が礼儀と心得るが、本日は第一課題として焼野に用があるので車で失礼する草が生い茂る集落跡

 焼野とは折戸トンネル手前の茶屋川左岸台地付近である。 滋賀県出身のエッセイスト山本素石は「完本・逃げろツチノコ」の中で昭和三十六年この地でツチノコが捕獲された事を述べている。 ここは昔茨川家屋の屋根葺き用の萱場であったが、今はアスファルトで固められている。僅かに隙間から生えているススキが当時を偲ばせる。私はそこに車を停め、現場となった炭窯を探したが発見できなかった。斜面を登っていくとカモシカが逃げていった。適当な場所で朝買ってきたスルメをちぎってコンロで燃やした。ツチノコはタンパク質の焦げる匂いに寄って来ると書いてあったからである。こちらも少し切れ端を戴きながら待っているとハエが寄ってきた。その数は次第に増しエラい事になってきた。私は閉口してその場を逃げ出した。ここは帰りに寄るとしよう。

 鉱石屑茨川への道すがら、野犬捕りの檻のようなものを見つけた。すわツチノコ捕獲器かと、車を停める。野猿捕獲器と書いてある。駆除ではなく発信機をつけて生態調査をするので、猿が掛かっていたら連絡をくれと書かれている。お気の毒だがこんなものに掛かる猿はいないだろう。

 第二の課題は茨川全景写真の撮影だ。私の手元に廃村前のモノクロ全景写真がある。この撮影現場を探しだして、同じアングルの写真を撮って比較したいのだ。 対岸の小沢をしばらく登って尾根に取り付き、まず間違いないというポイントを見つけた。しかし密林に覆われて写真にならない。トラバースしたり木に登ったりしたが無駄であった。多分当時この斜面は伐採されていたのだろう。銀鉱石?

 本題である銀山跡の探索にかかる。釣り用の長靴に履き替えて茶屋川を蛇谷出合まで1時間弱、ちんたら歩く。出合から蛇谷に入る。水流は本流と等分である。道跡はあったり無かったり。この奥でたくさんの山師が働いていたとはとても思えない。

 P758手前石組みのある右岸台地で昼食をとった。ここは飯場跡と推定される。この手前には溶けた鉱石の屑が散乱していた。700m位のところで銀山のあったと聞く左俣へ入る。水流はだんだん細くなり、滝を攀じると左側の岩盤が露出していた。 仔細に見るときらきら光っている。これが銀鉱石なのか?坑道は発見できず。カケラをザックに放り込んだ。穴を掘らず表面の岩を崩していったのだろうか。

 ついでに強引に斜面を登って25000図にある758mの標高点に登ってみた。手前のコルに古い道型があり、これを下りると小谷に出た。岩の穴から蛙の声が無気味に響く。下方に炭窯の他に四角い石積みもあった。更に下ると先ほどの飯場跡に出た。この辺り一帯にも鉱石屑が散乱していた。鉱山が有った事は確実だろうが、この小さな谷からは昔の賑わいを想像することはできなかった。四角い石組み

 帰りに寄った焼野ではスルメの残骸に蟻がたかっていた。茨川の元住人はツチノコの話など聞いた事が無いということだった。