御池杣人
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本歌 ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは 在原業平朝臣
あられふる ラジオも聞かず 御池岳 葉はくれなゐに 雪積もるとは
現代語訳
突然あられが降り出して、登山帽を打つ音がなんとも言えずいい。しかし、寒い。ラジオの天気予報も聞かずにきたむくいか。瞬く間にくれないの美しき落葉に雪が積もっていく。(ああ、それなのにぼくは手袋ももっていなくて、手がかじかんでいた。緑水氏に軍手を世話になる。お粗末じゃ)
管理人解説
今日となってはラジオが少しアナクロであるが、「聞かず」を生かすにはやはりラジオだろう。「神代」と母音も一致している。「からくれなゐに」をそのまま使わずに、「葉はくれなゐに」にした着眼がよい。管理人第三首とかぶるが、人が違えば歌も変わることが分かる。
本歌 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな 和泉式部
あなあらむ この地のほかの 思ひ出は いまひとぼく(一木)の あることもがな
現代語訳
えびちゅ−が遠くから呼んでいる。あった−!と。どうやらその大樹には大きな穴があいているらしい。おかしい。この地で僕が知っている大樹にはたしか穴なぞなかったのでは? 僕の記憶−思い出違いか? そうではないはず。確かにあったはず。だけど自信がなくなるような。ああ、このあたりにもう一つ大きな樹があってほしいものだ。(あった! トチの大樹。うれしい)
管理人解説
和泉式部は作者お気に入りの歌である。「あなあらむ」が置き換えとしてもユーモアとしても秀逸。パロディーはただ駄洒落を並べればよいものではなく、この作品のように当日の状況と照らして意味が通るところが大切である。「ひとぼく」という日本語があるかどうかという疑問は残るが、なかなかの秀歌といえよう。
本歌 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮太夫俊成
余の中よ 道こそなけれ 重ひ! 入る 山の奥にも 馬唖尾異(ばーびー)ぞ無くなる
現代語訳
ああ、余の頭の中は、一本の道もなく、なにをしてるかわからぬ、惑いの日々であることよ。重いのを承知でエイコラと背負って確か山の奥に入ってきたのだが、その馬唖尾異ちゃんはいなくなってしまった。どこへいったのだ。それとも余がぼけたのか。
※この余とは、御池杣人のことではない。葉里某という説もあるが、しかし、金麻某かも破地某かもしれぬ。どこかのくさい某という説が有力のようだ。
管理人解説
この歌は何を言わんとしているのかよく分からないが、求めていたものがいつの間にか雲散霧消して、ついに動機さえ忘れてしまう「惑い」を表現しているのだろうか。
余とは葉里某でないことは確かである。葉里某はチャランポランな人間だが、山へは自分なりの「道」を持って入っている。くさい某も重いのを承知で馬唖尾異ちゃんを背負っているのは惑いではなく、常人にはうかがい知れない「道」なのかも知れぬ。世の中には宇宙人と交信せんとする団体もある。面妖とはいえ犯罪でない限り、広く他人の趣味や道を認める寛容さも必要だろう。
本歌 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ 貞信公
おいら、山 峰のもみぢ葉 友らあらば 今いくたびの ミルキーあんぱん
現代語訳
こうしておいらは今年なんとか元気でありがたいことに御池岳に来ている。あたり一面紅葉黄葉だ。心ゆるせる大切な同人諸氏がずっとおいらの心の中にいるならば、もう何度も何度もミルキーあんぱんの吟行を続けていきたいものよ。
管理人解説
「ミルキーあんぱん」は御池岳吟行の代名詞にならんとしている。いや、もうなったといってよい。これも毎年秀作、珍作を寄せてくれる同人が築き上げたもの。その同人たちと幾たびも吟行を続けていきたいというのは、作者の偽らざる本心であろう。健康への感謝も詠み込まれたすなおな秀歌。