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メッセージ
ルカの福音書第2章のクリスマス物語を初めて読んだ時、まだ神を信じていなかった私はこれを意外と感じました。
もしクリスチャンたちが言うように、神が人として紀元一世紀二千年前の世界に来たというなら、その舞台は大帝国ローマの都かと思われるのに、予想ははずれ小さな国ユダヤの小さな町ベツレヘム。父母は高貴な家の出身かというと、まったくそうではなく、名もなき夫婦ヨセフとマリア。産声を上げた場所は人間の家ですらなく、家畜のための飼い葉おけの中。
神が人となったというのに、奇跡も起きなければ、人々の歓迎の声もない。救い主誕生というなら、もっと輝かしい出来事のはずではと思っていた私は、最初のクリスマスが余りにも平凡で、みすぼらしいのに躓いたことを思い出します。
この福音書を録したルカは歴史家であったとも言われます。ですから、キリスト誕生の時世界では一体何が起こっていたのかを記録しました。キリスト誕生が本当に歴史の中に起こった出来事であることを伝えるためです。
2:1〜5「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋もあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」
しかし、です。これを読みますと、ルカの目的はキリスト誕生が歴史の事実であることを伝えることだけ、ではなかったように思われます。
皇帝アウグストから地方総督クレニオへ。その命令によってゾロゾロ移動する群衆へ。その群衆の中の名もないヨセフとマリヤへ。カメラのレンズを絞るように焦点は大から小へ、都から村へ、皇帝から庶民へ。下へ下へとレンズは絞られてゆき、最後に焦点が当てられたのは飼い葉おけに眠る赤ん坊でした。神様の御計画は、最初からこの世の底辺を目指していた、というメッセージがここに聞こえてきます。
この宇宙の造り主の神、太陽を空に浮かべ、美しい四季を造りだす偉大な神。また、人間の心の奥底まで見通す聖なる神。そんな神が、もしもこの地球という星に人となって来たりたもうとしたなら、どんな風に、どんな姿で、どんな所に来られると、皆さまは思いますでしょうか。
まず、天地の主なのですから、たとえ、人間の形で来られるとしても世界一力ある王の姿で来られるのではと想像されます。それなのに、実際は赤ん坊の姿であらわれたという意外さです。
次に、全能の神ですから、赤ん坊で生まれるにしても普通とは違い、何か奇跡的な能力を持って生まれるのでは、とも思われます。あのお釈迦様はマヤ夫人という高貴な女性から生まれ、誕生の時からその姿は輝いており、生まれて七歩歩くや「天上天下唯我独尊」と凄いことを口にしたとの伝説があります。しかし、イエス様の場合、そんなスーパーマンのようなしるしも伝説も、何一つありませんでした。
また、誕生の場所としたら、大きな国の宮殿に生まれるのではと予測されるでしょう。しかし、それが何と動物の飼い葉という汚れた場所、人間に仕える動物のための食べ物入れであったという意外さ、不思議さです。
ことの真相は、人間が頭で考える予測を全部ひっくりかえすものでした。世界を創造した神なら王として来ることも、奇跡的な能力を備えた子どもとして誕生することも、身分の高い両親のもとに生まれることも、世界一の王宮のベッドに眠るのを選ぶことも出来たのに、実際に選ばれたのは普通の赤ん坊の姿、平凡で貧しい家、人間に使われる家畜の飼い葉だったのです。
大宇宙の創造主が、私たち人間の仲間となってくださった。これだけでもありがたいことなのに、この世の上ではなく下に、強い者富める者の側にではなく、弱き者貧しい者のそばに、とことん底辺に来てくださったということ。この神さまの信じられないようなへりくだりを確かめたルカは、こう伝えています。
2:6,7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
それにしても、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」という言葉は悲痛です。宿屋には身重のマリヤがいる場所がなかった。このマリヤに対する無情は、キリストに対する世の人の無情に通じています。
神様は人を愛し、約束通り人となったというのに、人間は歓迎の声ひとつあげず、無関心で無情というひどさ。一体、誰がこんな状況を予想したことでしょう。
こうして二千年前の最初のクリスマスを心に思い浮かべながら、私たちこの事実の中に物語られている神様の恵みを汲み取ってゆきたいのです。
まず、第一はなぜ赤ん坊の姿だったのか、ということです。なぜ、この世の王や偉人の姿ではなかったのでしょうか。その秘密の鍵はイエス様御自身のお言葉にありました。
マタイ18:3「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には入れません。」
マタイ19:14「天の御国はこのような者たち(子どもたち)の国なのです。」
この世では、大人が子どもの模範であるに対して、天国では、子どもが大人の模範となるというイエス様の教えです。
己れの力、己れの知恵、己れの経験を誇らず、ただ信じて頼る姿は、神に対し人のとるべき態度の模範でした。世間では大人になって一人前、社会人の仲間入り。しかし、神様の前では、大人は幼子となって天国に行く、天国人の仲間入りができるのです。
大人は賢ぶります。見栄を張ります。人の眼、世間体を気にします。ちょっとした自分の善行を自慢します。「もう少し努力してから」「もう少し格好をつけてから」「人の眼というものもありますから、もう少し状況を見定めてから」。そう言いながら、神さまの胸に飛び込んで、信頼しきるということができない存在です。
しかし、賢ぶることも、見栄を張ることも、世間体も気にすることも知らない子どもたちの姿、ただ神と親に信頼し、安心して生きる赤ん坊の姿を指し示されると、己の生き方に恥じ入るのです。
「あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には入れません。」幼子たちを模範として、神様の前に正直に生きる者、神様にすべて信頼しきって生きることの喜びを味わう者となりたく思います。
そして、なぜ神様は赤ん坊の姿でこの世に来られたのか、もう一つの理由は、赤ん坊は誰もが恐れずに近づける存在だということです。
私たちの教会には毎年赤ん坊が生まれます。赤ん坊が笑っているのを見ると、誰もが近づきたくなります。泣いているのを見れば、あやしてやりたくなります。難しいことを考えている青年も、世のことに悩む壮年、老年の人も、赤ん坊には勝てません。誰もが近づきやすく、親しみたくなる存在、それが赤ん坊でした。
もし神が人となった時、力ある王や奇跡的な能力を持つスーパーマンのような姿であったら、近づきがたかったことでしょう。また神が聖なる光をのぞかせたなら、私たち罪深い人間は、恐れおののかねばならなかったでしょう。
旧約聖書の昔、神の聖なる栄光を垣間見た預言者イザヤはこう言いました。
イザヤ6:5「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の中に住んでいる。しかも、万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
もし、神が力ある王の姿や聖なるお姿そのままで来られたら、このイザヤの様に人間は近づきがたく感じ、恐れいってしまう。そのことを慮って,私たちが恐れず、気兼ねなく近づき、親しめるように、誰もが微笑んで手を差し伸べられるようにと、神様は赤ん坊の姿をとって来て下さったのです。
私たちはこの一年間、どれ程人となられた神、イエス・キリストに近づいてきたでしょうか。どれ程親しく交わってきたでしょうか。むしろ、イエス様を遠ざけては来なかったか。神が赤ん坊となって来てくださったという恵みを思わず、おざなりのお付き合いしかしてこなかったのではないか。そう振り返り、このクリスマスの時、もう一度キリストに近づく者、キリストと親しく交わる者とされた事の幸いを確かめたいのです。
以上,赤ん坊が私たちの信仰の模範、赤ん坊の救い主が私たち人間と親しく交わりたいと願う神さまのお心の表れ、ということを考えてきました。最後に考えたいのは、神はどうして生まれる場所として飼い葉おけを良しとされたのか、ということです。
飼い葉おけと言って、実際は多くの画家たちが描いたようなキラキラ光る金の飼い葉おけではありません。物言わぬ家畜が大きな口をあけて、えさを食べる黒く汚れた飼い葉桶でした。
偉大な神が人として生まれる時選んだのは、王の宮殿でも、富める人の家でもなく、赤ん坊用の、人間用のベッドですらなく、黙々と人間に仕える家畜がえさを食べる桶の中であったということ。神様は世界で最も汚い所を揺籃とされたのです。
誕生の初めからこの世の底辺を目指した神。最も高き天にいて良いはずなのに、そこを捨て、人間の最低に降りてこられた神。人からの歓迎を求めず、仕えられることも願わず、むしろこの世の下の下、底辺の底辺で、人に仕えることを喜びとし、ついには人の罪のため十字架に死ぬことを選んだ神。
こんな神様がいてくださることの驚き、こんなにも神様に愛されている私たち人間の幸いに心動かされたルカの言葉を、もう一度確認しましょう。
2:6,7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
「人間は上を見て、下を見ない。」というのはルターのことばです。「人間は上を見て、下を見ない。」空を飛ぶ鳥たちは歌を歌うことを喜びとし、不平を呟きません。犬は足を使って野原をはねまわることで満足し、不満を漏らしません。すべての生き物は、神に造られたままの自分を喜び、満ち足りています。
それなのに、人間だけが、神によって尊く造っていただいた自分に飽き足らず、より高く、より上に、より目立って、と肩せりあって生きているのです。
ちょっと人より上に立ったと言っては喜び、下になってしまったと卑屈になる。勝手に裁判官になって、自分よりも上にあると思う人をねたみ、下にあると思う者を見下げる。時には人を蹴落としても上に行こうとして争う。まるでどんぐりの背比べ。実に情けない、愚かな生き方を繰り返しています。
しかし、こんな人間の世の中に、いと高き神が人間の罪の贖いになろうとへりくだって、飼い葉桶の中に赤ん坊として来られました。人間の功名心、高慢に対する戒めです。
神様が人となられたのに、これを閉め出した人間の無関心と無礼は本当にひどいものです。しかし、それにもかかわらず、こんな罪の世に、なお来てくださった神様の熱心。人間の家に迎えられないなら、人間以下の家畜の桶の中にもと生まれて下さった神様の熱心な愛を、今朝私たち心に刻みたいのです。
と同時に、上ばかり見ていた心の眼を下に向け、自分よりも弱い立場にいる人、自分よりも苦しんでいる人々、困難の中にある人々のために仕える生き方を、イエス様に助けていただき、少しでも実践できたらと願って、クリスマスの礼拝をおささげしたいと思います。
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