2011年1月16日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(8)」
−人がひとりでいるのは良くない−
  聖書
創世記2章18〜25節

2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
2:20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
2:21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。


  メッセージ
 「世界の初めの歴史」と名づけた創世記からの学びも今日は第八回目となります。
 まず、この世界全体を神さまが如何にすばらしく整えてくださったかを見た私たちは、神さまの創造の中心に何と私たち人間がいたこと、人間のための世界創造であったことを確認しました。
 次に場面転換。スポットライトが世界全体から人間の歩み、人間の歴史に焦点があてられると、神さまが如何に人間を愛し、祝福されたかということに目が開かれたのです。
 先回は、人間のため特別に備えられた住まい、エデンの園が、至れり尽くせりの神さまの恵みと配慮に満ちていた様子を見てきました。
 中でも、「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(2:15)とあるように、労働の喜び、奉仕の楽しみが人間に与えられたことは印象的でした。
 畑を耕す、作物を実らせる。文字を発明する。物を作る。音楽を作る。音楽を演奏して楽しみ、音楽を聞いて喜ぶ。絵を描き、彫刻を楽しむ。スポーツを喜びとする。産業、芸術、教育等の文化活動は、なるほど人間の独壇場です。
 強いられる労働でなく、自分から願う自由な労働。神さまが造られた世界で奉仕できる幸い。私たちの信じる天地の神は人間の楽しみのため、喜びのため、労働という恵みを与えてくださいました。
 そして、今日の箇所。神さまがもうひとつの恵みを、人間に与えてくださったことを教えています。それは、交わりの喜び、結婚の喜びでした。

2:18〜21「その後、神である主は仰せられた。人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れてこられた。人が、生き物につける名は、みな、それがその名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見当たらなかった。」

 私の個人的感想ですが、もしこの世界に女性が存在しなかったら、と思うとぞっとしますし、寂しく思います。花のない庭、水のかれた池、砂漠のような味気ない世界。女性のもつふくよかさ、暖かさ、可愛らしさ、美しさ、華やかさは、男性がどう逆立ちしても、補い得ないものでしょう。
 ギリシャ神話では、火を獲得した人間を恐れた神々が、人間の世界に災いの元を与えますが、これが何と女でした。ギリシャの神々は女を造り、これに美しい声と姿を与え、目も綾な衣装で飾り、男たちをひきつけるようにし、その上、犬のような恥知らずな心とずるがしこい性質とを女に吹き込んでおいた、というのです。これが最初の女、有名なパンドラでした。
 しかし、聖書の神さまが最初の人アダムに与えたのは、災いのもとどころか祝福のもと、アダムを愛し、仕え、助ける、「助け手」としての女性だったのです。
 ここで助け手と聞いて、神さまは男性の補助として女性を造ったのか、女性は男性より劣る者として造られたのか、と不満を感じる人がいるかもしれません。しかし、聖書を見ると、神さまご自身が人の助け手、民の助け手と呼ばれています。つまり、助け手たる女性は男性と対等、いや対等どころか大いに敬われるべき存在として造られた、ということになるでしょう。
 しかも、神さまの取った方法は用意周到、人間の自由意志を重んじるものでした。すなわち、すべての家畜と野の獣、それに空の鳥をアダムの所に連れてくると、それらが対等な友としては物足りない存在であることを覚えさせ、もっと親しく、深く交わることのできる女性を心から願うよう、導かれたのです。
 人は生き物に名をつけた、とあります。名をつけるとは、人間が生き物を治めることと、生き物たちを親しく知ることを意味していました。
 アダムさんは、神さまが連れてきた生き物たちに名をつけ、親しく知るうちに、ひとつのことに気がついたのでしょう。「神さまの造られた生き物はみなすばらしい。しかし、彼らとは語り合うことばがない。喜び、悲しみ、楽しみ、そうした感情を分かち合うことが十分出来ない。人間のことばで語り合い、心の深い思いを分かち合うことの出来る友がいればよいのに。それも、自分にない賜物を持っている友、お互いの賜物でふたりの関係を豊かに出来るような友がいてくれたらなあ。」という風に。
 男性アダムの心の願いを通して、女性エバを出現させる。何と人格的な聖書の神さまらしいやり方か、と感心させられます。オスとメスとに造られた動物は本能でくっつくもの、しかし、人間は思い、願い、自由意志に導かれ、人格的に出会い、交わる。
 こうして、待望の女性創造となります。

2:22、23「そこで神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れてこられた。すると人は言った。これこそ、今や、私の骨からの骨。私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

 眠りから覚め、はじめて対等に、親しく交わることのできる女性エバを見たアダムの告白は感動的です。「これこそ、今や、私の骨からの骨。私の肉からの肉」。ようやく、一心同体になれる者を得た、という喜びの爆発、表れでしょう。
 何だか、26年前神学校のチャペルで結婚式を挙げた時の記憶が蘇って来るような気もします。いや、いついつまでも人生の伴侶に対して持ち続けたい思いでしょう。
 ところで、アダムのあばら骨から女性エバが造られたということについて、以前群馬大学の黒住教授から、こんなお話を伺いました。「あばら骨を取る手術は人体に最も痛みが少ないうえ、あばら骨部分の細胞は一番増殖率が高く、土の塵からアダムを造った神にとって、あばら骨の細胞から女性を造ることの方が、遥かに容易だったはず。この部分からいのちを生み出すと言うのは、医学的に見て理に適っている。」のだそうです。
 神さまの方法は理に適っていることに納得した上で、なお考えたいのは、女性が男性のあばら骨から造られたことの霊的な意味でした。
 これについては、マシュー・ヘンリーという人の解説を聞きたく思います。
 「女はアダムのわき腹から造られた。あたかも、アダムを牛耳るべく彼の頭からは造られなかった。さりとて、彼に踏みつけられるようにと、彼の足から造られたでもなかった。そうではなくて、アダムの胸から造られた。すなわち、彼と同等のものとして、また、彼の腕によってかばわれるように、愛されるように、彼の心臓(ハート)の近くにあるように、と。
 しかも、アダムはと言えば、その強さと美しさとを損なうことのないようにと、一本の内なるあばら骨を失っただけであった。このお陰で彼は自分にふさわしい助け手を得ることになったのである。それは、彼が失ったものを償って、余りあるものであった。」
 私たちは結婚によって確かに失うものがあると思います。自分だけの時間、自分だけの財産、自分だけの自由などです。しかし、それら失ったものを償って、余りあるものを得るのが結婚の交わりでした。
 ところで、ギリシャの哲学者ソクラテスが、「結婚する方がいいでしょうか。それともしないほうが良いでしょうか」と聞かれて、「いずれにせよ、君は後悔するだろう」と答えたというのは有名な話です。
 事実、結婚に関する古今東西の格言には結婚の難しさが物語られていました。「結婚、いかなる羅針盤もかつて航路を発見したことのない荒波。」「結婚せんと欲する者は後悔の道へと進む。 」「結婚とは、発熱で始まり悪寒で終わる熱病。」
 「結婚は鳥カゴのようなものだ。カゴの外の鳥は餌箱をついばみたくて中へ入りたがり、カゴの中の鳥は空を飛びたくて外へ出たがる」「結婚するとき、私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。今考えると、あの時食べておけばよかった。」
 確かに、神を離れた人間は徹底的に自己中心の存在。相手を支配しようとし、相手からは支配されまいとする。結婚もしばしば争い、対立の場となってきました。しかし、神を愛し、神を畏れる者たちの結婚には、失ったものを償って、余りある恵みがあることを覚えたいのです。
 私が四日市教会に来たばかりの頃、新参者の私たち夫婦の交わりのために、と言う意味もあったと感じていますが、ある方の発案で「若いクリスチャンホームの会」がつくられました。
 それを通して、私が感じたのは、四日市教会には愛し合い仕え合う夫婦が多いということ、神さまを尊ぶ家庭を作ろうとつとめる夫婦が本当に沢山いる、ということです。これは四日市教会の霊的な財産、これからも大切にしたい伝統ではないかと思います。
 最後に結びとなります。

2:24,25「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一心同体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。」

 「父母を離れる」とは、父母と断絶したり、父母を捨てたり、と言うことではありません。経済的にも、精神的にも父母に依存していた親子の関係から、夫婦がお互いに信頼し依存しあう関係に進みなさい、ともに神を仰ぐクリスチャンホームを築きなさいとの勧めでした。
 「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」というのは、まだ人間が堕落していない時代の天真爛漫な交わりを思わせます。これを今日に適用するとすれば、相手の強さも弱さも、長所も欠点も、成功も失敗も、すべてを受け入れ、安心できる交わりを築きなさい、との勧めと読むことも出来るでしょう。
 こうして、結婚の起源を教える創世記を読み終えて、私たち考えたいことが二つあります。
 ひとつは、私たちは愛をもって交わる者として創造された、愛し愛され、喜び喜ばれ、祝福し祝福される交わりに生きるよう召されている、ということです。今日の聖句です。

詩篇133:1「見よ。兄弟たちがひとつになってともに住むことは、何というしあわせ、何という楽しさであろう。・・・主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

 旧約のダビデとヨナタンの堅く、麗しい友情。新約の、毎日心をひとつにして教会に集まり、各々の家では喜びと真心を持って食事をしたエルサレム教会。聖書は、私たちにとって交わりが如何に欠かせないものか、交わりの中でこそ、私たちは人として生きる喜びを味わえる存在であることを、教えていました。
 神さまと親しく交わると、人とも親しく交わりたくなる。人とよく交わるために、神さまとよく交わる。神さまとの交わりとともに隣人、兄弟姉妹との交わりも大切にしてゆきたく思います。
 ふたつ目は、私たちはそれぞれの家庭を神の国としてゆく使命がある、ということです。神さまが人間の幸せのために与えてくださった結婚と家庭という恵みは、大いに汚れ、乱されてきました。一夫多妻、男尊女卑、仕えあうよりも支配したり支配されたりの関係、気ままな離婚、エゴをむき出しの対立の場、家庭崩壊。酷い状況です。
 しかし、その様な中にあって、夫婦は本来いかにあるべきか、神を愛し、神を王として従う家庭が如何に幸いなものかを示してゆく。今日、このような証がますます必要でしょう。愛しあう交わりを築くこと、我が家庭をまことの神の国にすること、これを何よりも喜ばれるのが神さまであることを思い、新しい週の歩みに進みたく思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師