2011年1月2日
礼拝メッセージ


「御言葉と生きる人生」
  聖書
詩篇1篇1〜6節

1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。


  メッセージ
 新たな一年が始まりました。2011年の最初の聖日礼拝です。今日、皆様と確認したいことは一つ。聖書を読むこと。聖書に親しむことは、私たちにとって非常に重要であるということ。お伝えしたいことは、一つ。聖書を読みましょう、というそれだけです。説教開始20秒ですが、これが結論となります。聖書を読むことを目標に一年歩みたい。この一年、今まで以上に聖書を読む教会として、四日市教会の歩みを送ることが出来たら、どれほど幸いかと思います。
 ところで皆様は、今まで聖書全体を、何回位読んできたでしょうか。1日1章読むと、3年で聖書全体を読むことになります。1日3章だと、約1年です。
 私は牧師家庭に生まれましたので、小さいときから聖書を読むことの大切さを教えられてきました。それでも、継続して読めた時期は少なく、読もうと決心してもすぐに挫折。楽しく読める時もありましたが、聖書を読んでも砂を噛んでいるように感じることも多かったです。
 そのような私ですが、神学校である先生に出会ってから、聖書を読むことが楽しくなりました。正直言いますと、いつも楽しい。いつも感動するというわけにはいきません。それでも、その先生に会う前と、会った後では、大きな違いがあります。
 その先生に教えて頂いた中で、特に大切なことは二つあります。
 一つは、速いペースで、聖書を一回読み通してみるということです。それをすると、聖書が全体として、どのような書物なのか、実感が出てくるというのです。聖書全体がどのような書物か、一回でも味わうと、それ以降は、比較的読みやすくなると教えられました。実際やってみまして、私はその通りと感じています。速いペースで聖書を読み通すことを、一回もされたことのない方は、一日10章が適量と教えられましたので、挑戦してみることをお勧めいたします。
 先生から教えられたもう一つのことは、聖書はどこでも、いつでも読めるということです。聖書はどこでもいつでも読める。当たり前のことです。しかし、私はそれまで、聖書を読むというのは、落ち着いて、一人静かに読むものと考えていました。朝、夜のだいたい決まった時間に聖書を開き、じっくりと読むこと。それが聖書を読むことと、考えていたわけです。ところが、その先生は、暇があると、聖書を読むのです。ちょっとした時間でも、聖書を開くのです。危険なのであまりお勧め出来ませんが、車で信号待ちをしている時も、聖書を読んでいるそうです。どのような場所でも、どれほど短い時間でも、聖書を読むことは出来るということです。私たちも、絶えず聖書を読むことに挑戦したいと思います。

 今日のテーマは聖書を読むこと。このテーマに相応しいと考えまして、詩篇1篇を開きました。
詩篇1篇1節〜6節
 「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者はさばきの中に立ちおおせず、罪人は正しい者のつどいに立てない。まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」

 この詩篇は、義人と悪人の対比がなされるもの。1節〜3節まで、幸いだと言われる義人は、水路のそばに植わった木と表現されるのに対して、4節〜5節の悪者は、風が吹き飛ばすもみがらと表現されます。
 私たちの前には二つの道。幸いな者として、水路のそばの木として生きていくか。それとも悪者として、もみがらとして生きていくか。木か、もみがらか、の詩篇です。

 さて、1節をもう一度お読みします。
詩篇1篇1節
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」

 1節〜3節まで、幸いな人の姿が記されます。「幸いなことよ。」この第一声は、こないだまで読み進めていた山上の説教の冒頭、八つの祝福の言葉に通じていて、喜ばしいことです。キリストは、幸いな者の姿を八つに分けて表現されていましたが、今日は更に別な表現がされているところ。
 「歩まず」「立たず」「着かず」。詩篇1篇で語られる幸いな人の姿は、まず否定形で語られる。「いいですか、幸いな人とは、悪から遠ざかる人。悪者の道を歩まず、立たず、着かない。それこそ、幸いなのですよ」、と教えられます。自分の歩みは、どのようなものか。考える必要があります。
 それにしても、「歩まず」「立たず」「着かず」という言葉が、入念に考えられた順序で配列されているのにお気づきでしょうか。歩いていたのが立ち止まり、立っていたのがついには座りこむ。一人の人間が、徐々に悪に染まっていく様が描かれています。人はまず悪のはかりごとに歩みだします。歩いているうちは、まだ逃れることが出来る状態。しかし、動いていた足は、立ち止まり、ついには座り込んでしまう。小さな悪から始まり、次第にひどくなる様。徐々に罪の深みにはまっていく様が描き出されているところです。
 もし今、悪の道、罪の最中にあることを自覚するならば、すぐさま離れるように。そのままでは、よりひどい状態に引きずり込まれると聞こえます。

 幸いな人の姿が、まず否定形で語られたのち、今度は積極的な姿が描かれます。
詩篇1篇2節
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

 詩篇1篇が教える、幸いな人。それは、「主のおしえを喜びとし」、神のみことばを昼も夜も口ずさむ者と言われます。幸いな人とは、悪から離れるだけの人ではない。聖書を喜び、聖書に親しむ人。
 この口ずさむという言葉は、思い巡らすとも訳せる言葉です。つまり、幸いな人とは、聖書を読み、思い巡らし、口ずさむ人。それも、昼夜問わず、絶えずそうしている人のことです。悪の道を歩まず、立たず、着かない。その秘訣が、聖書に親しむこと。絶えず、神の言葉を思い巡らし、口ずさむこと、とも読めます。
 この幸いな人の姿が、私たちの憧れの姿。私たちが目指したい姿。絶えず聖書とともに生きる人の姿でした。
 なお、この詩篇1篇を歌った詩人が知っている主の教えとは、旧約聖書までです。私たちは、新約聖書を持っている。旧約聖書の成就、神の一人子が、私たちを救うために何をして下さったのか。その具体的なことを手にしています。ならば、この詩人以上に、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ者でありたいと願います。

 このように、否定形の描写、積極的な描写を経て、この幸いな人を、一つの物で表現されることになります。
詩篇1篇3節
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

 悪の道から遠ざかり、聖書に親しむ幸いな人。その人は、水路のそばに植わった木のようだと描写されます。水路のそばの木。
 日本は年がら年中雨が降り、水が豊かな国です。そのため、どこでも木が育ちます。しかし、聖書が記された舞台、イスラエル地方は、雨季と乾期がはっきりと分かれる土地柄。木が大きく成長するのには、水が必要です。そして幸いな者、主の教えを喜び、絶えず口ずさむ者は、ただの木ではなく、水路のそばに植わった木と表現されるわけです。

 それにしても、3節の最後の言葉は、すごい言葉です。幸いな人。水路のそばに植わった木。その人は、何をしても栄えると歌われる。何をしても栄える。すごい告白です。一見して、悪者が栄えるように見える世。正直者が馬鹿を見る。神の教え通りに生きるより、多少の悪が必要。という声が、外ばかりでなく、自分の内からも聞こえてきそうです。
 だからでしょうか。詩人は、「時が来ると」実がなり、その葉は枯れないと言っていました。「時が来ると」なのです。ひと時は、悪が栄えるように見えることがある。そう思われることがある。しかし、それはひと時のことであって、「時が来ると」実がなり、葉は枯れず、何をしても栄えるのは、聖書に親しむ者。聖書に親しむ者こそ、幸いであり、何をしても栄えるのだと。心地よい宣言です。

 この幸いな人、義人に対比されるのが、続く箇所に出てくる悪人の姿です。
詩篇1篇4節〜5節
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者はさばきの中に立ちおおせず、罪人は正しい者のつどいに立てない。

 義人が、水路のそばに植わった木であるのに対し、悪人は風に吹き飛ばされるもみがらでした。悪人は、実を実らせない木、枯れてしまう木ですらない。もみがらと表現される。中身がなく、少しの風で、散り、跡形もなくなるもの。「木ともみがら」の対比です。
 ところでこの詩篇はもともとへブル語で書かれていますが、ヘブル語で読むと、面白いことが分かります。ヘブル語で「木」とは、「エツ」と発音します。「もみがら」は「モツ」。「エツとモツ」。「木ともみがら」の対比は、韻を踏んでの対比。語呂合わせでの対比でした。詩篇が、「詩」であることの醍醐味です。(この語呂合わせがあるため、水路のそばの木と、枯れた木ではなく、木ともみがらの対比になっているのだと思います。)
 私たちが聖書を読むのは、まずは母国語で。自分の言葉で理解することは大切です。しかし、聖書の中でも、特に詩で書かれている箇所。韻を踏むところなどは、訳された言葉ではどうにも表現できないため、いつかはヘブル語、ギリシャ語で聖書を読むことも、大きな目標の一つとなるでしょう。

 こうして、1節〜3節で、幸いな人、義人の姿。4節〜5節で悪者の姿が描かれ、対比されたのが、最後にもう一度、同じ対比がなされてこの詩篇は閉じられます。
詩篇1篇6節
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

 正しい者の道は神様に覚えられ、悪者の道は滅びうせる。正しい者に対する祝福と、悪者に対する断罪の厳しさは、最後まで変わらず、閉じられる詩篇。義人と悪人の対比が、この詩篇のテーマでした。
 私たちの前に提示される二つの道。水路のそばの木としての人生か。風が吹き飛ばすもみがらの人生か。神様に覚えられる歩みか。滅びにいたる歩みか。

 以上、詩篇1篇を確認してきました。最後に聖書を読む上で、大切な心構えを確認して終わりにしたいと思います。
 今日のテーマは、聖書を読むこと。御言葉と生きる人生が、どれほど幸いなのかということです。聖書を喜びとし、昼も夜も、その教えを思い巡らし、口ずさむ。その人こそ幸いだと歌い上げる詩篇1篇を読んできました。私たちの目指す姿、憧れる姿は、聖書をいつも口ずさむ姿です。
 ただ、聖書に親しむこと、聖書を読み続けるということを、自分の力で成し遂げていると思い込まないように、気をつけたいと思います。もし私たちが聖書を読むことが出来たとしたらそれは大きな恵みを頂いているということです。聖書に対する情熱。字を読むことが出来る能力。母国語の聖書。読むための時間、健康など、全て神様が与えてくださるもの。そのことを忘れないように。
 もし自分の力で聖書を読んでいると考えるならば、聖書を読んだから自分は立派なクリスチャンだと思うことでしょう。私はこれだけ聖書を読んだとふんぞり返り、あの人は全然聖書を読んでいないと見下す思いが沸き出てくる。神様の前で遜ることを教える聖書を読みながら、その結果が高慢になるという皮肉な結果。聖書読みの聖書知らずとなる。
 聖書を読むことは非常に大切。しかし、そのことも神様を信頼しながら。神様の恵みによってなしていることを忘れないように。肝に銘じて、聖書を読む歩みをしていきたいと思います。
 そのためにも、絶えず聖書を読めるように願う者でありたいと思います。聖書を喜ぶことが出来るように。絶えず、思い巡らし、口ずさむことが出来るように。それを神様に願った結果、そのように出来たとしたら、自分の力でなしたとは思わないでしょう。神様がその恵みを下さったことに気づきます。
 詩篇1篇に表された幸いな人の姿を目指したいと思いますが、まずはそれを願うことから、皆でしていきたいと思います。

 とはいえ、このことは、私たちが何もしなくて良いということではありません。神様の恵みによって何かをなすという場合、私たちの取り組みがないということではありません。与えられた力を尽くして、御言葉に取り組むことは、聖書的。敢えて言えば、努力することも信仰です。
 何でもそうですが、初めて取り組むことには抵抗が大きいものです。聖書を継続的に読むことにも、努力が必要です。楽々と聖書に親しめるというのは、よほど経験を積んだ後でないと言えないと思います。
 私たちの毎日は非常に忙しく、私たちの怠惰も凄まじいものがあります。読みたい時だけ、楽しい時だけ聖書を読むとしたら、果たして一年のうちに、どれ位聖書を手にするのでしょうか。聖書を読むことを願い、決心したら、そのために生活を整え、他のやりたいことよりも優先して聖書を読むことに取り組むことが大切です。

 自分の力で聖書を読むのではなく、与えられた力によって聖書を読む。ますます聖書に親しむ教会として、この一年を歩んでいきたいと思います。
 御言葉に親しみ続けた人が、告白した言葉。この言葉を、自分のものとする歩みをしていきたいと思います。今日の聖句です。

詩篇119編103節
「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」


四日市キリスト教会 大竹 護牧師