2011年1月23日
礼拝メッセージ


「キリストとサマリヤの女(1)」
−低くなる神−
  聖書
ヨハネの福音書4章1〜14節

4:1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、
4:2 ――イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、――
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」


  メッセージ
 私が大学生の時のことです。私が通っていた大学は、学校の教師を養成する大学でしたので、何度か教育実習をする機会がありました。小学校で教育実習をした時のこと。事前に授業の準備を行いましたが、それと同時に準備したことがあります。それは、ポケットモンスターと、遊戯王カードというゲームについての知識を得ること。先輩からのアドバイスで、小学生の流行を知っておくととても良いということでした。実際に教育実習に行き、その知識は、非常に有用でした。教師の資質に、ポケットモンスターと遊戯王カードの知識は関係ないと思いますが、その知識があると児童からは絶大の信頼を得られるのです。
 ポケットモンスターと遊戯王カードの知識は、教育実習の時には有用でしたが、他の場面では使うことが殆どありません。ある時、ある所で有用な知識。一般的に言って、私たちの持っている知識の殆どは、似たようなものです。ある時、ある所では有用ですが、別な場面では使う機会のないものになる。どの時代、どの地域でも有用な知識は、それほど多くありません。毎日、私たちは様々な情報に接しますが、その中で本当に大切なことはどれだけあるでしょうか。自分の人生にとって、本当に大切な知識を得ようとしているでしょうか。
 私たちにとって最も大切な知識。何でしょうか。それは、神様についての知識でしょう。人間の生きる目的は、神を知ること。この地上だけでなく天国でも有効な知識となると、神についての知識に勝るものはないでしょう。皆様は、「神を知る」ことについて、取り組んでいるでしょうか。

 それでは、どのようにしたら、神様のことを知れるのでしょうか。一つの方法は、神様が造った作品。宇宙、地球、動物や植物、私たち人間、あらゆる被造物を見ることです。作品は作者を表すもの。神に造られた物を見る時に、そこに神様の力、知恵、素晴らしさを見出すことが出来ます。もう一つは聖書を読むこと。作品より作者を知ること以上に、言葉を通して神様のことを知ることが出来る。この意味で、私たちが聖書を読むことは、非常に大切なことです。
 更に言いますと、聖書自体がこのように証言していました。

 ヨハネ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 神様がどのようなお方か。それが最も分かるのは、キリストを通してです。また、このような箇所もあります。

 ヨハネ14:8〜9
ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。』

 ピリポというのは、キリストの十二弟子の一人。そのピリポが、「父を、つまり神様を見せて下さい」と言うと、キリストは「私を見たものは、父を、つまり神を見たのです。」と答えます。
 神を知ろうとする時、私たちはイエス・キリストがどのようなお方か。何を成し、何を語ったのか確認することになります。
 以上のことを前口上として、これからしばらくの間、イエス様と、一人の女性のやりとりを見ていきたいと思います。「神を知る」ことを意識しながら、皆様とともに読み進めることを願っています。

 聖書には、キリストと出会った人の記事は、たくさんあります。その中でも、このサマリヤの女性とのやりとりは非常に詳細。段落としてみますと、1節〜42節まであるので、かなりの分量となります。
 この女性とのやりとりの間に、生ける水のことや、礼拝の本質にまつわる話が出てきます。聖書の中心的な教えを聞くことが出来た女性。
 まず覚えておきたいのは、この女性の背景にあるものです。16節〜18節に、このようなやりとりが記されています。

 ヨハネ4:16〜18
イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 』

 この女性は五人の男と結婚し、しかも今は結婚していない男と一緒に暮らしている。当時の文化、社会からすると、非常に評判の悪いこと。ふしだらな女。名うての悪女でした。この場面は、町で有名な不道徳な女とキリストの組み合わせです。不道徳な女と神の子。これ程、似合わない組み合わせはないでしょう。水と油、氷と炭、白と黒、天と地、正と邪。しかし、罪人と救い主と見れば、これ程似つかわしい組み合わせもありません。救い主は罪人を探し、罪人は救い主を求める。
 しかし、想像するに、この女性も初めから望んでこのような状態になったわけではないでしょう。自分で望まなくても、そうなってしまう。上手くいかなくても、何度も同じことを繰り返す。自分では、どうにもならなくなってしまった人物。この女性とキリストが出会うのです。

 ヨハネ4:5〜7
それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください。』と言われた。

 場所はヤコブの井戸。時は六時。キリストがスカルの町に来られた時とあるので、この女性はスカルの町の住人です。
 スカルの町中には、いくつか井戸がありましたが、ヤコブの井戸は、町の外にあります。距離にして、1キロ近く離れている。六時と言うのは直訳で、私たちの時間で言えば昼の十二時のこと。昼間は暑く、井戸に水を汲みに行く人がいない時間帯です。
 スカルの住人が、昼の十二時に、ヤコブの井戸に来た。これは、この女性が、人目を避けていたということです。町中ではなく、町の外のヤコブの井戸へ。それも、他の人が井戸を使わない時間を選んでのこと。労力をかけ、暑さに耐えてでも、人に会いたくなかった。先に確認した、女性の状況。五人の男と結婚し、今は結婚していない男と同棲していることが背景にあるのでしょう。人目を避ける人生。自分の状況を、自分でも責めていた人。自分の責任で道を踏み外したものの、自分ではどうにも出来ない。人生に疲れた人。
 この女性からすると、ヤコブの井戸に人がいたのは、予想外だったでしょう。しかし、そこにいたのは町の人ではなく、旅のユダヤ人。(9節の言葉から、この女性が、イエス様はユダヤ人であることが、判断出来たことが分かります。)自分の素性を知らない人。それに、どうも威厳ある姿というより、疲れ切った様子です。
 女性からすると、わざわざ遠い井戸まで来て、水を汲まずに帰るわけにもいかなかったのでしょう。それで井戸まで来てみたところ。「わたしに水を飲ませて下さい」と声をかけられます。
 「わたしに水を飲ませて下さい。」そう願われた女性は、「はい、分かりました。」とは言いません。驚きと同時に、やや皮肉めいた答えを言います。

 ヨハネ4:9
そこで、そのサマリヤの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――

 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は、民族性と宗教性のことで、非常に仲が悪く、交流がありませんでした。ユダヤ人は、余程なことがない限り、サマリヤの町に入ることはしませんでしたし、ユダヤ人からするとサマリヤの女性は汚れているとされていました。ですから、ユダヤ人の男性が、サマリヤ人の女性に声をかけるというのは、考えられないこと。
 このような背景の中で、キリストはサマリヤの女性に声をかけたのです。「水を飲ませて下さい。」と。つまり、キリストには人種や性別、社会的地位に対して差別や偏見がないこと。私たちの神は、人種や性別、地位で差別や偏見を持たない方です。

 しかし、キリストの姿に、そのような意味があることが分かるのは、聖書を読んでいる私たちだからで、この女性には分からないこと。この女性の目に映っていたのは、疲れた旅人。井戸にいながら、水を汲むものがなく、水を欲している人。自分の助けが必要な人。それだけ、でした。
 人目を避けて生きてきた人が、自分の助けが必要な人を前にした時、心のゆとりがでたのでしょうか。会話が始まります。それも、水が下さいという相手に対して、ユダヤ人とサマリヤ人の問題を絡める、皮肉めいた質問で返すのです。つまり、イエス様が一人、疲れて井戸のそばに座り、自分に水を求めてきた。その姿に接して、この女性は心を開いて、イエス様に向き合うことが出来たのです。このような出会いであったから、心を開いて話すことが出来た。この女性に最も適した姿で、イエス様は待っておられたということ。

 このような視点で見て行きますと、この女性が心を開くために、イエス様は入念に配慮していたことが見えてきます。先に確認したように、通常、ユダヤ人はサマリヤ人の町に入ることをしませんでした。しかし、3、4節にはこう書いてありました。

 ヨハネ4:3〜4
主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

 ユダヤからガリラヤに行く時、通常はサマリヤを通りません。別な道もあるのに、何故、サマリヤを通っていかなければならなかったのか。あの女性と会うためでしょう。あの女性と会うには、サマリヤを通る必要があった。
 女性が井戸に来るときにも、イエス様の配慮がみてとれます。

 ヨハネ4:8
弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 もし井戸に多くの男たちがいたとしたら、果たして女性は井戸まで来ることが出来たのか。しかし、弟子たちは前もって、買い物に行っていたのです。一人、疲れた旅人の姿をとり、井戸にいた。だからこそ、この女性はキリストに心を開いて話すことが出来たのです。
 たった一人の女性。それも当時の社会では評判悪く、自分でもそれを自覚し、人目を避ける人生を送っていた人。その一人のために、ここまで心を尽くし、配慮し、この女性が心を開くのを待つ救い主の姿が印象的です。これが私たちの救い主、私たちの神の姿です。

 私たちの神は世界を造った方。王の王です。その方が、一被造物のために、ここまで心を配るというのは、驚愕です。一人の人のために、どこまでも心をかける神。それもです。一人の女性が心を開いて向き合うためならば、その女性が皮肉めいた質問が出来るほど、低くなる方。なんとしてでもこの女性と出会い、最も大切なことを伝えたい。そう思われた救い主は、輝かしい栄光の姿よりも、弱りきった姿をとる。人を救うためならば、どこまでも低くなる神の姿。
 人のためには、どこまでも低くなられる救い主。遜る神様の姿は、聖書のあちらこちらに見られます。羊飼いと出会うために、王宮ではなく、飼葉おけに生まれた救い主。「罪人の客になった。」と罵られると分かっていても、ザアカイと一緒にいたいと願われた救い主。そして、極めつけは、私たちと天国で永遠に過ごすためならば、十字架の死すら選びとる救い主。
 これが私たちの救い主の姿であり、これが私たちの神様の姿でした。最も栄光に富む方が、罪人を救うためならば、どこまでも低くなることを良しとされる。今日は、この低くなる救い主の姿を覚えたいと思います。

 さて、キリストとサマリヤの女性との話はこれで終わりではなく、ここはまだ序の序。ここから本題へと入っていきます。

 ヨハネ4:10〜14
イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』彼女は言った。『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。』イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』

 井戸の水を飲ませて欲しいと願ったキリストが、いや、私が水をあげようと言われます。それも生ける水、決して渇くことがない水、永遠のいのちへの水をあげようと言うのです。疲れた旅人が水を欲している場面から、魂が渇ききった人が、その渇きに気付き、その渇きを潤す生ける水を知るようになる場面へと移っていく。この女性が、キリストとの会話を通して、徐々に自分の問題が明確になり、徐々に目の前にいる方が誰であるのか気づいていく。その心情の変化が、ここまで詳細に記されているのは聖書の中でも珍しく、必見の箇所ですが、詳しくは次回以降に回します。

 以上、今日はキリストとサマリヤの女性とのやりとりより、私たちの救い主は、一人の人間のために、徹底的に気を配り、徹底的に低くなることを良しとされる方であることを見てきました。
 今、私たちが、このように教会にて神を礼拝する者であるというのは、この神様の配慮と導きがあったから。この救い主の遜り、十字架という、想像を絶する低さを選ばれた救い主がいたからであることを、覚え、心から感謝する者でありたいと思います。

 今日の聖句を皆さまと共にお読みして、終わりにしたいと思います。

 コリント人への手紙第二8章9節
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師