2011年1月30日
礼拝メッセージ


「キリストとサマリヤの女(2)」
−生ける水を−
  聖書
ヨハネの福音書4章7〜20節

4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」


  メッセージ
 今より約二千年前。サマリヤのスカルという町の近く、ヤコブの井戸でのこと。一人の女性がキリストに会い、人生が変わる。自分自身が変わる経験をする場面。聖書の中でも有名な場面を読み進めているところです。聖書には、キリストに出会った人物は多く記される中、この女性とキリストとのやりとりは分量が多く、また詳細です。女性の心情の変化が見て取れることもあり、必見の箇所です。
 今日は、キリストと女性との会話の中身を見ていきたいと思いますが、まずは前回覚えたことを確認しましょう。

 ここに登場する女性は、曰く付きの女性、町で評判の女性でした。
 ヨハネ4:16〜18
イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 』

 この女性は五人の男と結婚し、しかも今は結婚していない男と一緒に暮らしている。私たちの文化でも評判の良くない話ですが、当時の文化からすると、尚更評判の悪いこと。ふしだらな女。名うての悪女でした。
 一体、この女性に何があったのか。一般的に、結婚し、離婚するというのは大変なこと。身も心も、相当の疲労、傷を負うことになる。それを繰り返したといいます。繰り返せば、繰り返す程、町での評判は悪くなる一方。それでも、結婚し、離婚することが止められず、なんと5回も繰り返した。
 勿論、この女性が一方的に悪いのではなく、夫に先立たれたことや、一方的に離婚状を突き付けられたこともあったかもしれません。同情を寄せるべきところもあったかもしれません。しかし、5回となると、普通ではない。
 この女性も、6回目の結婚には躊躇があったのでしょうか。それでも、結婚生活自体は手に入れたく、結婚せずに同棲している状態となった。しかし想像するに、この女性も初めから望んでこのような状態になったわけではないでしょう。自分で望まなくても、そうなってしまう。上手くいかなくても、何度も同じことを繰り返した人物でした。
 望まなくても、悪い方へ転がる。良くないと思いながらも、繰り返す。どこかで聞いたことのあること。私たちも自分の中に、同じ性質があることを思い出すべきでしょう。現われ方は違うとしても、人間は皆、罪という課題を抱えている。自分ではどうにも出来ない課題を抱えているのです。
 このことが背景にあってのこと。この女性は、人目に触れたくないと思い、町の中にある井戸ではなく、わざわざ町の外にあるヤコブの井戸へ水を汲みにきました。それも、他の人が水を汲みにいかない時間を選んでいます。余程、人目に会いたくない。人生に疲れ切った一人の女性。

 キリストはこの女性に、大切なことを伝えたいと願われた。それも、この女性が心を開いて対面する中で、福音を伝えたいと願われた。そこで、この女性が安心して話せるよう、徹底的に配慮しました。つまり、弟子たちは買い物に出かけ、一人疲れた旅人の姿をとり、井戸で待つのです。それも、「水を下さい」と願うことで、この女性が安心して話せるようにとの心配りです。
 世界を支配する方が、なんと一人の人間のために徹底的に仕えるということ。私たちの神は、罪人を救うために、どこまでも低くなる方。これが前回確認したことです。

 このように、自分ではどうにも出来ない課題を抱えていた女性と、キリストが出会い、会話が始まるのです。最初はキリストが水を下さいと願うところから。

 ヨハネ4:7
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください。』と言われた。

 このキリストの願いに対して、女性は「はい、分かりました。」とは言いません。驚きと同時に、やや皮肉めいた答えを言います。
 ヨハネ4:9
そこで、そのサマリヤの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――

 このやりとりを経て、キリストは本題へと入ります。
 ヨハネ4:10
イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」

 井戸の水を飲ませて欲しいと願ったキリストが、いや、私が水をあげようと言われます。ここでキリストが言う「生ける水」とは、明らかに飲み水のことではないでしょう。身体の渇きを癒す水ではなく、霊的な渇きを癒す水のこと。この後の女性の応答を見ると、女性はすぐに理解してはいないようですが、私たちは、まずここでキリストが言おうとしている意味を押さえておきたいと思います。

 この地方の人は、水と言った時、二つの水がありました。生ける水と死んだ水です。雨季と乾季がはっきり分かれる地方のため、水の確保は非常に重要ですが、水を溜める一つの方法に、ため池を作ることがありました。しかし流れのない水は、腐ります。つまりため池の水は、飲み水にはならない。この飲み水にならない水のことを、死んだ水と呼びました。それに対して、流れている水、湧き水を、生ける水と言う。生ける水とは、飲み水のこと。それはつまり、生きていく上で、どうしも必要なもの。無くてはならないものです。
 ここでキリストは「生ける水」と言いましたが、これは井戸の水のことではなく、霊的な意味で言われた言葉。霊的な渇きを癒す水のことです。そうだとすれば、私たちは、霊的な意味で、生きるために、魂が生きるためには、どうしても必要なものがあるということです。身体にとって水が必要なように、私たちの魂にも必要なものがある。キリストは、それをあげようと言っているわけです。

 それでは、キリストがここで言う「生ける水」とは何でしょうか。私たちの霊が生きるために、どうしても必要なものとは、何でしょうか。私たちにとりどうしても必要なものを「生ける水」と表現することは、イエス様がこの時初めてしたのではなく、旧約聖書でも度々出てきた表現です。そのうちの一つを開いてみたいと思います。
 エレミヤ2:13
「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることの出来ない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」

 この聖書の言葉の背景にあるのは、神の民が、聖書の神を捨てて、それ以外のものを頼りに生きようとしたことです。
 神以外のものを神とする。神以外のものを第一とするというのは、湧き水の泉を捨てて、壊れた水ためを掘る行為だと言います。生ける水を捨てて、死んだ水を溜めることも出来ないものを掘る。全く馬鹿げたことですが、神以外のものを神とするのは、それと同じだと言われます。
 サマリヤの女性に当てはめて言えば、あの女性は神様でしか満たすことの出来ない渇きを、結婚で、男性で満たそうとしていた。それが壊れた水ためを掘るかのようなことであることに気付かず、同じことを繰り返す。しかし、あの女性が特別なのではなく、多くの人が同じことをしています。お金に、名誉に、地位に、快楽に、ギャンブルに、お酒に。霊の渇きを覚え求めるが、満たされない。私たちは大丈夫でしょうか。
 聖書のあちらこちらに、生ける水をたとえにしている箇所が出てきますが、つまり「生ける水」とは、神様ご自身のこと。あるいは、神様との関係の回復です。このことを、聖書は「生ける水」と表現することもあれば、永遠のいのち、新しく生まれると表現することもありました。私たちの霊が生きるためにどうしても必要なのは、神様とともにいること。神様と交わることです。

 イエス様はこの「生ける水」をあげようと言っているわけです。しかし、無理矢理にではなく、「神の賜物を知り」「イエスが誰であるか知って」「あなたが求めるなら」です。そこでこれ以降、イエス様は、この女性に「神の賜物」がどのようなもので、「ご自身が誰であるのか」を知らせようとします。
 イエス様の方は、そうなのですが、この段階で女性はキリストの言っていることを、正しく理解することは出来ませんでした。「生ける水」を井戸の水のことと思い、会話が続くのです。
 ヨハネ4:11〜12
彼女は言った。『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。』

 このヤコブの井戸は30m程の深さがありました。何も道具がないと、汲みようがない。見たところ、このユダヤ人は汲む道具を持っていなく、だからこそ、水を飲ませて下さいと願ってきた。それなのに、「生ける水」をくれるという。そうだとすれば、このヤコブの井戸ではないところから、水を調達するのか。私たちは、ヤコブの井戸を使っているが、これよりも、もっと良い井戸があるのか。
 このようなことを考えながら、キリストの言葉に応答した女性。この女性に対して、更にキリストが答えます。

 ヨハネ4:13〜14
イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』

 キリストが与えようとしている「生ける水」を、普通の飲み水と考えている女性に対して、そうではないことの説明です。ヤコブの井戸の水を飲むものは、また渇きます。しかし、キリストの与える「生ける水」は、渇くことのない水。渇ききった魂を潤すことが出来るのは、唯一、このキリストが与えることが出来る水。その水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が沸き出る。明らかに、普通の飲み水の話ではない。

 しかし、この言葉を受けても、まだ女性は分かっていない。無理もないと思うのですが、キリストの言葉を理解しないまま、話しが続くのです。
 ヨハネ4:15
「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」

 イエス様の「渇くことのない水」と聞いて、それが欲しいと願う女性。何しろ、人目を避け、町の外の井戸まで水を汲みに来ていた。女性には負担でした。遠いところに水を汲みにいかなければならないという肉体的な負担。それに、水を汲みに行く度に、人目を避けなければならない現状を再確認する心理的な負担。もし「渇くことのない水」があり、この井戸まで来ないで済むのだとしたら、どれ程助かるか。それで、「もうここまでくみに来なくてもよいように」と、渇くことのない水を求めるのです。
 この女性はキリストの言葉を誤解していました。誤解しているのですが、それでも、キリストに求めたことは良かったのです。私たちの救い主は、求める者を無碍にすることなく、むしろ誤解を解き、正しく求めることが出来るよう導く方。

 この女性が自分の問題の本質を見据え、正しくキリストに求めることが出来るようになるために。そのために、キリストが次の一手を打ちます。
 ヨハネ4:16〜18
イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 』

 キリストが与えようとしている「生ける水」。神との関係の回復。真に神を信頼出来るようになるための命。それこそ、この女性が真に求めるべきものでした。
 この女性が、真に求めるべきものが何か、自分で気付くためには、自分の罪の問題に向き合う必要があった。別な言い方をすると、この女性は、自分の魂が渇ききっていることに気づく必要があったのです。
 そこで、キリストはこの女性が抱えている課題。5回の結婚の後、今は別な男性と同棲していることに焦点を当てるのです。この問題が伏せられたままでは、本当の解決はなく、この女性も、自分が「生ける水」を必要としていることが分からないままになる。

 ここまでキリストとのやりとりが進み、この女性は理解が進みます。
 ヨハネ4:19
「女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。』」

 夫についてのやりとりを経て、この女性は自分の必要性に気付くと同時に、目の前にいる方が、ただの旅人ではないことに気付き始めます。先にキリストのことを「先生」と呼んでいたのが、ここでは「預言者」と呼ぶ。実際には、預言者の主なのですが、少しずつ理解が深まっていく過程が分かります。
 自分の罪を意識し、目の前にいるのが「預言者」だと思った女性は、更に質問を続けるのですが、それは次回以降確認していくことになります。

 以上、今日はキリストとサマリヤの女性のやりとりのうち、前半部分を見てきました。井戸の水を題材に、まことの「生ける水」を与えようとするキリスト。それも、無理矢理にではなく、女性が自分でその必要性を覚え、求めることが出来るように導く救い主。偉大な教師、偉大なカウンセラーの姿。
 最後に皆さまに質問して終わりにしたいと思います。皆さまは、自分が生きていくのに、キリストが下さる「生ける水」が必要であると思っているでしょうか。自分の霊が渇いている。自分の魂が、渇ききっているという自覚はあるでしょうか。キリストが下さる「生ける水」でしか、癒せない渇きがあることを覚え、この救い主に求めて行くことをしたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師