2011年1月9日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(7)」
−神の恵みは限りなく−
  聖書
創世記2章15〜17節

2:15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」


  メッセージ
 昔ギリシャのアポロン神殿には、骸骨になった死者がある文字を指差すという、何とも不気味なモザイクがあったそうです。それは、「なんじ自身を知れ」というもの。人として知るべき第一のことは人とは死すべき存在だ、との意味でした。
 人は死すべき存在。これは、私たちにとっても自明のことでしょう。しかし、人間はそもそも、元々、初めから、死すべき者だったのでしょうか。
 花は咲いて、散る。散って土のちりになる。同じく、人も生まれては死ぬ。花も人も永遠の存在ではない。こんな風に自然と人生とを重ね合わせてきた私たちは、いつしか死を当然のこと、自然のこと、と思い込みがちです。
 確かに、朝咲いた花が夕べに散る姿や、朝空に上った太陽が夕べには沈む様子を見ても、不自然と考える人はいないでしょう。しかし、人が生まれて死ぬ時には、これを悲しみ、嘆くのはどうしてでしょう。
 私が小学校二年生の時、大変可愛がってくれた祖母が亡くなりました。五十三歳でした。人生ではじめて死者を目の当たりにする。それは、私にとって大きなショックでした。取り返しのつかないことが起こってしまったことを覚え、胸が苦しくなったのです。
 こうした苦痛、悲しみは、本来死ぬべからざる人間が死ぬと言うことのあらわれのように思えます。人間にとって死が異常なことであり、不自然であることのしるし、とも考えられるのではないでしょうか。
 古代エジプトの王様は遺体をミイラにし、永遠に生きること、よみがえることを願い、期待しました。東洋では、鶴は千年、亀は万年といい、鶴亀を長寿の動物として尊びました。不老長寿の薬を求めるお話は、それこそ世界中に広がっています。
 もし、元々人間が死すべき者であったとしたら、何故これほど不老長寿や不死、永遠の世界に憧れてきたのか、との疑問も湧いてきます。
 それに対して今日の聖書、人間は本来死ななくてもよいものだったこと、いや死ななくても良いどころか、神さまとともに永遠に、幸せに生きるべき者として造られたこと、それを、人は神に背いて、自ら死を招いてしまったこと、禁断の木の実を食べることによって、自ら死すべき存在となったことを教える箇所となっています。
 さて、神による天地創造を学んで今日は第七回目。聖書の第一ページ、創世記の一章から、第二ページ、二章四節では、世界全体が創造され、整えられてゆく様子が語られてきました。
 混沌としていた地球に光がさしたのが第一日。水が上下に分かれ、大空が開けたのが第二日。陸と海が分かれ、草や木、花々が芽生えたのが第三日。太陽と月、それに星が空にセットされたのが第四日。第五日には、海に魚群れ、空に鳥舞い、世界は生き物で活気づく。第六日、神は地上に家畜、はうもの、野の獣を創造し、世界は一層豊かないのちが溢れる。そして、最後に人間が創造されて、ついに創造は完成しました。
 二章五節からは場面転換。スポットライトが世界全体から、人間に移ります。人間を中心に、人間の歩み、歴史ということに焦点があてられてゆくことになります。
 そして、人間がいかに造り主の神さまから愛されたか。どれほど、祝福された存在であったか。それは、他の生き物はそのままでしたのに、人間には特別な地域が用意されたことからもわかります。有名なエデンの園でした。

2:15「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」

 神による人間のための特別待遇、VIPルーム、エデンの園。エデンとは「喜び」「楽しみ」という意味です。
 植物は全地に繁っていましたが、エデンの園には、特に「見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木」が選ばれ、人間のために用意されました。四つの川が園を豊かに潤し、良質の金や輝く宝石も眠っていたといいますから、まさに理想郷、楽園です。
 人間は見て楽しみ、食べて楽しみ、散歩して楽しむ。そこは茨もアザミも生えず、人間を傷つけるものなど、どこにもなかったでしょう。人間は何一つ不自由なく、不愉快なことは味わおうと思っても味わえない恵みに囲まれ、守られていたのです。
 また、神は人をして「そこを耕させ、守らせた」とあるように、エデンでは、労働、奉仕も喜びであった、と考えられます。
 「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。また、「守る」とはまかされた自然を管理することです。人間は産業、芸術、教育など文化を生み出すこと、正しく自然を管理することで、神の栄光をあらわす者となるよう創造されました。
 働くことは神のすばらしさを知ること、神の恵みを味わうこと、神を愛すること。人として生かされている喜びを覚えること。エデンの園で、人間は働くことが楽しくて仕方がなかったに違いありません。それが本来の人間のあり方でした。働くことに苦痛や虚しさが混じるようになったのは、堕落した後のことです。
 無理やり強いられる労働や奉仕でなく、自分から願う自由な労働や奉仕。枯葉のぬくもり、土の香り、小鳥のさえずりに木々のざわめき、美しい夕焼けに恵みの雨。そこにあるすべてのものが神の恵みを覚えさせる世界で働くことのできる幸い。楽しむ労働、奉仕の楽しみの世界です。
 キリスト教以外の、異教の神話では、神々は人間を自分たちのために酷使し、働かせる存在でした。しかし、私たちの信じる天地の神は人間の楽しみのため、喜びのため、労働という恵みを与えてくださった、というのです。
 それだけではありません。人は働くことでお腹が空きます。食欲がわくと食事が楽しくなります。食事の恵みです。

2:16「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。』」

 神さまは「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことか。エデンでは毎日がご馳走のフルコース。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。
 庭仕事で汗を流す。すると風も一層爽やかに感じる。やがて健康な渇きと食欲が体の中からわいて来て、それもまた快い。緑も鮮やかな草地の上に身を横たえて、甘い果物を心ゆくまでもぎ取る。水も滴る果肉を思う存分頬張る。陽が落ちると、神を賛美して、眠りにつく。
 エデンの園での生活を想像すると、何と毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。同時に、今の私たちがエデンの状態から遠く離れ、堕ちてしまったことかを覚えざるを得ません。
 それでは、最初に恵まれたこのような幸いと祝福とを、人間は何故失ってしまったのでしょうか。今日の人間の不幸と悲惨の原因は何か。それはエデンの中央に生えていた一本の木に関する神の命令を、人が破ったことにある、と聖書は語ります。

2:17「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 善悪の知識の木からはとって食べてはならない。所謂禁断の木の実でした。
 英語では、アダムがこれを食べた時、男性の喉仏が出来たということで、喉仏をAdam`s appleというそうです。しかし、聖書に林檎の木とはありません。恐らく、園の真ん中にいのちの木とペアで並んでいた、と言う以外、特に他と変わった所のない木だったでしょう。
 それにしても、何故同じ園の中に、神はこの木を置いたのでしょう。中央に置かれた二本の木のうち、永遠のいのちを表すいのちの木の方は他の木とともに取ること自由でしたのに、どうしてその横にある「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられ、「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されたのでしょうか。
 これについては、様々なことが言われてきましたが、今日は二つのことをお話したいと思います。
 ひとつは、人間が自分の立場をわきまえるためであった、ということです。なるほど、人間は神さま特愛の存在でした。人間は神の創造の中心、文化を創造し、自然を守るという特別な使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。
 しかし、そうであっても、人間は神ではない。神の命令のもとに生きるべき者であることをわきまえよ、ということでしょう。エデンの園で自由を謳歌していた人間。そんな人間も、この善悪の知識の木を見る時、自分は神の被造物のひとつに過ぎないことを覚え、神を畏れよ、と言うメッセージがここに込められていた、と考えられます。
 ふたつ目は、これが人間に何が善で何が悪かを知らせるための木であった、ということです。「これを食べてはならない」と言われているように、これを食べないこと、つまり神さまに信頼し、神のことばに従うことが善、これを食べてしまうこと、すなわち神さまに信頼せず、そのことばに背くことが悪であることを教えている、というのです。
 今、人間は自分が地球の支配者である如く振る舞い、神の造られたよき世界を汚し、平和だった世界を争いと対立で満たしています。神抜きで善悪を考え、判断し、神抜きで正しく行動できる、神抜きで幸せになれると信じる人々で一杯です。
 そのような中にあって、自分は神さまに一切合切をお世話になっている被造物、神のしもべであること、また神に従うことが善であって、幸いの道、神に背き、神から離れることは悪であって、死への道、こうした自覚こそ日々私たちに必要なものではないか、と思わされます。
 それにしても、神さまの禁止命令は余りにも簡単なものでした。禁じられたのはたったの一本です。見るからに好ましく、食べるのに良い何千、何万本の木がある中で、それも誰が見ても分るように園の真ん中に生えている、たったの一本の木からとって食べてはならないという命令。寛容で、子どもにだって分るような、神さまの命令でした。
 それなのに、人間はそれをあえて破ってしまった。サタンにそそのかされ、人間だけが与えられた尊い自由意志を神に背くように用いてしまったのです。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神の恩を忘れ、神を離れ、それが悪と知りながら神抜きの人生を選んでしまった。本当に残念なことです。
 こうして、この世界に死がもたらされた、神とともに永遠に生きるよう創造された人間が死すべき者となった、というのは皆さんご存知の通りです。
 聖書において、死には三つの面があると教えられています。ひとつは、心臓停止、呼吸停止、体がぴくりとも動かない死体と化す、という肉体の死です。
 ふたつめは、霊的な死です。神抜きで生きられる、やっていけると考えること、自分の価値を見失うこと、徹底的な自己中心、愛しあう関係を築けないこと、道徳的な混乱。これ以降、聖書には霊的に死んだ人々の悲惨な人生が何度も登場してきます。
三つ目は、永遠の死。最後まで神抜きで生きた人々が、死後ゆくことになる地獄のことです。
 アウグスチヌスは、少年時代に仲間と他人の家に梨を盗みに忍び込み、どっさりせしめたことを告白し、こう書いています。
 「果実は美しいものでした。けれども、私の魂が欲しがっていたのは、果実そのものではなかった。果実なら、もっと良いものをどっさりと持っていた。だから、あの実をもぎ取った後ひとつも食べることなく、全部投げ捨ててしまいました。・・・あの盗みにおいて、私は何を愛したのでしょう。・・・してはならないことをして喜び、それが楽しいのは、してはならないことだからであるとは、何たることか。」
 それが悪であって、禁じられているから面白いと感じる人間。盗んだものを食べたいと言うよりも盗むことそのものを愛する人間。人間の邪悪さ、人間の自己中心。私たちは、何とエデンから遠く、落ちてしまったことかを思わされます。
 しかし、こうして永遠のいのちを失い、悲惨な死の状態に生きる私たち人間を、神さまはなおも愛し、やがてその限りない恵みをもたらしてくださいました。神の御子が人となってこの世にくだり、自ら罪の呪い、死の呪いを受け、十字架の木に死んでくださったのです。

ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。何故なら、『木にかけられた者はすべてのろわれる。』と書いてあるからです。」

 エデンの園という最高の環境におかれながら、神に背いた人間。あんなにも寛容で、簡単な禁令に背いた恩知らずの人間。そして今に至るまで、神の被造物であることをわきまえず、神抜きで生きようとしている人間。こんな人間のために、神の御子自ら呪われた者となって十字架に死に、代わりに信じる者に永遠のいのちをもたらしてくださるという福音。
 この測り知れない神の恵みを日々心に刻みつつ歩む2011年、神と交わり、神に信頼して生きる永遠のいのちが、どんなにすばらしいものかを証しする2011年としたく思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師