2011年10月2日
礼拝メッセージ


「世界の初めの歴史(23)」
−義人ノアでも−
  聖書
創世記9章18〜29節

9:18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
9:19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。
9:20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。
9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
9:23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
9:24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、
9:25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」
9:26 また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。
9:27 神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」
9:28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。
9:29 ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。


  メッセージ
 まるまる一年間も地上を覆った大洪水。神の審判の大洪水。その神に命じられ、せっせと造った箱舟に乗り込んでノアの一家が大水から救われたのは、ノア601歳の時のことでした。
 箱舟から出て、地上に降り立ったノア一家の目の前で、神は「もう二度と洪水で地上を滅ぼすことはしない。」と約束し、そのしるしとして大空に虹をかけてみせたのです。
 その虹を仰いで、ノアと妻と、三人の息子とそのお嫁さんたちは大安心。「さあ、これから新しい世界でやり直しだ。」とばかり、再出発をはかる。
 以上が先回までの流れでした。今日は改めて、ノアの息子たちのリストが掲げられ、これ以降世界の様々な民族の先祖となる、三人の名前が明記されます。

 9:18、19「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」

 セム、ハム、ヤペテ。私たち日本人には余り馴染みのない名前ですが、セムの子孫はやがてパレスチナ地方に住み、セム語族となります。イスラエル民族がその代表でした。
 また、ハムの子孫たちは、エジプト、エチオピア、リビアなど主に南に向かい、アラブ系、アフリカ系民族の祖となります。最後のヤペテは北に向かい、インド、ヨーロッパ民族の基となりました。
 なお、ここにハムに限って、息子のカナンが紹介されているのは、後でこのカナンが一役演じて、ノア一家にある事件が起こるからです。
 さて、人間生きるためには、先ず食べねばならないということで、ノアが働き始めました。大洪水の後の大地は荒れ果て、痩せていましたから、そんな土地を整理し、耕す作業は、途方もない重労働だったでしょう。
 しかし、大洪水で地上にさばきを下した神は、洪水後改めて、人の住む世界に春夏秋冬の季節を恵んでくださいました。太陽の光と雨を下し、種まきの時と刈り入れの時を与えてくださいました。困難はあっても、農作業は十分可能。食物の収穫を期待できる環境は整えられていたのです。

 9:20「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。」

 既に経験済みの事だったのか。ノアが選んだ仕事はぶどう作りです。しかし、この時ノアは601歳。家族の中で最年長。それなのに、働き盛りの息子たちを率いて、先頭に立って働いた、と読めます。
 大洪水の前には箱舟を作る大工さん。船の上では船乗り兼動物たちの世話をする飼育係。ノアの人生は多彩、苦労の連続でした。
 しかし、「こんなに苦労して働いてきたのだから、あとはお前たち若い者に任せて、わしは現役引退しよう。」等と言わないのが、ノアのノアたる由縁でしょうか。幾つになっても、勤勉で働き者。神さまの約束と守りがあるのだからと、いつも前向きのパイオニアタイプ。それがノアという人であったようです。
 神信仰に熱心で、義人との誉れも高いノアは、しかし、この世の仕事においても、熱心、勤勉、有能だったのでしょう。大洪水後の厳しい環境の中、ついに念願のぶどうを収穫することができました。
 そんなある日のこと。家族揃って、収穫のお祝いをするためだったのでしょうか。息子たちが父親ノアの天幕、即ち家を訪ねてきたその日、彼は思いもかけない大失態を演じてしまったのです。
 昔から、人間は収穫したぶどうをそのまま実を食べるか、ジャムにするか、乾してドライフルーツにするか、ぶどう酒、ワインを作るか、してきました。ひとつの物から、知恵を尽くし、工夫を重ねて、様々な物を作り出す。そうした創造的な文化生産活動は、人間の得意分野でした。
 しかし、人間の作り出した物は、時に人間に道を誤らせます。人間をして、神を忘れさせ、罪に誘い、失態を演じさせることがあります。ノアの場合、自ら造ったぶどう酒で道を誤りました。それが、いつもの自分を忘れさせ、理性を眠らせてしまったのです。

 9:21「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」

 酔って裸になったノア。無様な格好で横たわるノア。酒くさい息を吐きながら、呂律が回らないノア。羞恥心を失い、良心が狂ったような言動を示すノア。
 今までからは、想像もできないようなノアの姿です。義人ノアでも、こんな醜態をさらすことがあるのか。生まれて始めて見る父親の様子に、息子たちは驚き、眼を見張ったことでしょう。私たちも驚いてしまいます。
 勿論、ぶどう酒そのものが悪なのではありません。しかし、これを悪用、乱用することによる問題は、昔も今も、人間社会から絶えていないように思います。
 アルコール過多による健康被害。アルコールによって良心を狂わせた末の暴力に不倫に中毒。それらによる人生崩壊、家庭崩壊。それに他人の命を奪う交通事故の原因の何バーセントかは、アルコールでした。
 勿論、このひとつの失態でノアのこれまでの栄誉を消し去ることは出来ませんし、してはいけないでしょう。あの史上最低最悪の暴虐の時代。神信仰を貫き、義を大切にしたのはノアでした。洪水の前も、洪水の後も、ひとり敢然と神に従い、苦労を重ねてきたその生涯は、尊敬に値します。
 しかし、そんなノアが収穫を終えて、ホッと一安心。気が緩んだのでしょうか。数々の苦労を思い出し、酒に慰めを求めたのでしょうか。深酒は羞恥心を失わせ、酩酊は裸の醜態を恥じる心を取り去りました。ノアにとって、本当に残念なことに、生涯ただひとつの汚点を残してしまったのです。
 アブラハムの優柔不断と嘘。モーセが若き日に犯した、激情に駆られた殺人。情欲の虜となったダビデ王の姦淫。そして、この義人ノアの無様な酔態。聖書はこうした神を信じる人々の失敗、汚点を隠すことなく、正直に描いています。
 人間はだれひとり完全ではない。人間にはみな弱点があり、失敗を犯す存在、皆罪人。改めて、私たちこのことを心に銘記する必要があるでしょう。
 それでは、こんな父親の姿を眼にしてしまった三人の息子たちの反応はどうだったのでしょうか。

 9:22、23「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」

 末っ子のハムは、「父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。父親の無様を告げ口し、言い触らしました。父親を見下し、あざわらい、「さあ、兄さんたちも一緒に見ようじゃないか。いつも威張っている父さんの、あの恥ずかしい格好を。」と、兄弟を罪に誘ったのです。
 それに対して、長男セムと次男ヤペテは、慎み深く父親の裸を見ないようにして近づくと、着物で覆いました。同じ息子でありながら、父に対する対応の何と対照的なことかと思わされます。
 そうしている内に、酔っていたノアが目を覚まします。そして、息子たちが自分になしたことを知ると、夫々の態度に応じたことばを語りました。カナンの父ハムには厳しいことば、セムとヤペテには祝福のことばがもたらしたのです。

 9:24〜29「ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。」

 それにしても、兄弟に告げ口をしたのはハムであるはずなのに、ハムの息子カナンが代わりに呪われ、叱られているように見えるのは、何故なのでしょうか。
 これについては、実際にノアの無様な様子を見下し、騒いだのはカナンであったので、カナンが名指しされた、しかし、側にいた父親ハムも同意し、黙っていたため、親子同罪、共同責任を問われたから、と考えられます。
 こうして、カナンは兄弟セムとヤペテのしもべとなり、格別な祝福なく生きていくことになると語られました。
 それに対して、セムには「ほめたたえよ。セムの神、主を」とある通り、主なる神さまと特別に親しい関係に入るという祝福がもたらされます。事実、セム族からは神の選びの民イスラエルが出、聖書、神のことばが託されました。救い主イエス・キリストもこのセム族から出たことは、ご存知の通りです。
 また、「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」とある如く、ヤペテ系のヨーロッパ民族は、やがて人口、領土、経済、いずれにおいても広がり、勢力を拡大しました。「セムの天幕に住む」とは、彼らがセムの神、主なる神の影響を受けることを指し、事実彼らの多くがキリスト教国となり、今日に至っています。
 尤も、このノアのことばは、カナン系のアラブ、アフリカ民族、セム系のイスラエル民族、ヤペテ系のヨーロッパ民族のその後を、完全に預言しているものではありません。
 聖書はカナン人にも敬虔な信仰者がいたことを記していますし、今日アフリカ大陸でキリスト教は大いに盛んとなっています。
 さらに、イスラエル民族にも不敬虔な人々は大勢いましたし、キリストご自身がイスラエルの都で十字架につけられました。また、現在ヨーロッパの多くは、キリスト教国といっても名ばかり、真剣なクリスチャンの数は激減していると言われます。
 私たちがここから学ぶべきは、セムやヤペテが、父親ノアを愛し、尊ぶことを通して、神の霊的、物質的祝福に預かったように、セムとヤペテの行いに倣うことではないでしょうか。
 最後に、今日の箇所から、私たち心に覚えたいことがふたつあります。
 ひとつは、救い主イエス・キリストの必要性です。義人と賞されるノアのような人であっても罪を犯し、失敗をなすということを知り、人間は誰一人完全な者ではありえない、ということを、私たち痛感させられました。
 ノアのように困難に耐え、雄雄しく歩んできた信仰の英雄が、一瞬の気の緩みから、神を離れ、罪の誘惑に陥ってしまったわけですから、まして私たちのような者は、自分の信仰の弱さ、脆さを自覚し、告白する者でなければならないし、日々イエス・キリストの十字架に贖いに頼る者でなければならないと思わされるのです。
 ふたつめは、愛は人の罪を覆うということです。父親の醜態を眼にし、これを騒ぎ立て、告げ口したハムとカナンの態度は、余りにもノアに対する敬意を欠いていました。今まで、ノアに散々世話になり、恩を受けながら、それを仇で返すような態度です。
 しかし、人の失敗を喜ぶという嫌らしい性質、失敗した人を見下し、批判し、騒ぎ立て、そのことで、まるで自分が正義の人になったかのようにいい気になるという心の病気は、誰の中にもあるものの様に思います。
 それに対して、父ノアの弱さを認め、受け入れながら、なおその罪の醜態を着物で覆ったセムとヤペテ兄弟。愛は、失敗を犯した人であっても、決してその人を辱めない、むしろ人として尊び、接する。このことを教えられたいのです。
 姦淫を犯した女性が広場に連れ出された時、人々が口々に「こんな女は」と罵り、汚らわしい者を観るように冷たい視線を向けた時、ただひとり「婦人よ」と語りかけ、敬意をもって接したイエス様。
 ユダヤ社会からつまはじきにされ、人々から見下されていた収税人や罪人とも、親しく、対等に交わり、食卓を囲まれたイエス様。そんなイエス様の姿を思い起こし、私たちこれに従う者となりたいのです。

 Tペテロ4:8「何よりもまず、互いに熱心に愛しあいなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

 私たちはどれ程多くの罪を、また人には言い得ない失敗、失態の数々を、イエス・キリストに覆って頂いてきたことでしょうか。私たちの思いにおける罪、ことばの罪、行いの罪、過去の罪、将来の罪そのすべてを完全に贖いの血で覆い、きよめるために、イエス・キリストが十字架の木に登り、尊い死を遂げてくださったことを、皆様は信じ、感謝しているでしょうか。
 この親しき救い主、私たち罪人を尊い者として接してくださる救い主が、今信じる私たちの心に住み、私たちを助けてくださることに信頼しつつ、人の罪を覆う者として、歩んでいきたいと思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師