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メッセージ
聖書の中には様々な奇跡が記されています。神様が介入される、特別な場面、特別な出来事です。聖書の至るところに奇跡は記されていますが、特に集中しているのは、出エジプトの時期、預言者が活躍する時期、そしてキリストと弟子たちの時期です。
聖書に記されている奇跡の中には劇的、大迫力のものもあれば、些細と言いますか、日常的なものもあります。出エジプトの際、海が割れ、その間をイスラエルの民が通るという大奇跡もあれば、民が着ていた着物は擦り切れず、足が腫れなかったという奇跡も起こっていました。預言者の時代、祈りに答えた神様が、天から火を下すという場面もあれば、借りた斧を間違って川に落とし困ったために、斧を浮かばせるという奇跡もあります。イエス様の時代、荒れる湖を沈める、五千人の給食、病人の癒しや死人の蘇りという目立つ奇跡もあれば、水がぶどう酒に変わるとか、木が枯れるという、少数しか気づかなかった奇跡もありました。
「奇跡」と聞いて、皆さまは何を思い浮かべるでしょうか。
人によっては、「奇跡」と言っても聖書の場面ではなく、日常生活の様々な場面を思い浮かべる人もいるかもしれません。私たちは、たいした出来事でなくとも、奇跡という言葉をよく口にし、耳にします。テストで期待以上の得点が取れた。今年は無理だと思っていた野球チームが優勝した。いつも遅刻する友人が、今日は遅刻しなかったとか。良し悪しはともかくとして、小さなことでも、自分の予想と違うことが起こると奇跡という言葉が使われています。
聖書の中にも大なり小なり様々な奇跡があり、一般的に奇跡という言葉が使われる場面も合わせれば、非常に多くの奇跡があることになります。「奇跡」と聞いて私たちが思い浮かべる場面も多種多様となって良いでしょう。
それでは、「人類史上最も偉大な奇跡は何か」と問われたら、皆さまは何だと思うでしょうか。私たちの知りうる限りで最も大きな奇跡、大奇跡、奇跡中の奇跡は何か。
私はこれだと思っています。
ヨハネ1章14節
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
ここで「ことば」と言われているのが、何を指すのかということも聖書は述べていました。
ヨハネ1章1節〜3節
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
「ことば」は人となった。それはつまり、この世界をつくり支配している方、神である方が人となった。神が人となる。これがどれ程の出来事であるか。私たちは理解しているでしょうか。無限の方が有限の存在へ。時間を作られた方が、時間の流れる世界へ。全知全能の方が、人となる。私たちの理解を超えた出来事。これに比べれば、海が割れることも、天から火が降ることも、死人が生き返ることも、小さな出来事に感じるところ。最も偉大な奇跡。奇跡中の奇跡とは、この世界のつくり主が人となられたことです。
それでは、なぜこの世界のつくり主である方が、人となったのでしょうか。なぜこの偉大な奇跡が行われたのでしょうか。今日の箇所で、イエス様ご自身がその理由について語っています。
マタイ20章28節a
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、」
神が人となる。それは罪人に仕えるため。仕えられるためではなく、かえって仕えるために人となられた神。私たちの神様は、私たちに仕えるために、人となられた神様だということです。
私たちに仕えるために、神が人となられたことの重さ。ここでイエス様が語られた言葉が、いかに凄いことを語っているのか。私たちは味わっているでしょうか。今日は、このイエス様の言葉に焦点を当てて、私たちの神様がどのような方で、私たちはその方の前でどのように生きるべきなのか考えていきたいと思います。
イエス様がここで、ご自身が人となられた理由を語られたのには、背景があります。どのような場面で語られたのか、確認していきたいと思います。
マタイ20章18節〜19節
「『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』」
キリストは実際に十字架で死に復活する前に、何度かそのことを弟子たちに教えていました。マタイの福音書に沿って言えば、ここは三回目の予告。これまでは、ご自身の死は宣言していましたが、十字架で死ぬとはっきりと言われたのは、ここが初めてです。十字架の死を間近にした、緊迫した真剣な場面。
ところが、ここでとんでもない願いをしてくる者が現れる。それも直弟子の中からです。
マタイ20章20節〜21節
「そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、『どんな願いですか。』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」
ゼベダイの子たちとは、ヤコブとヨハネのことです。十二弟子の中でも、特に中心的な人物たち。その母が願い出たのです。「二人の息子に高い地位を与えて下さい。その約束を下さい。」と。子ども思いの母が、本人たちの願いとは別に、キリストに願い出たというのならばまだ理解出来ます。しかし、他の福音書と合わせて読むと、ヤコブとヨハネ自身も同じ願いを持っていたことが分かるのです。
ヤコブとヨハネと言えば、あまりの気性の荒さに、キリストにボアネルゲ、雷の子とあだ名をつけられた人たち。その二人が、高い地位に着きたいと願いをする時は、母の背中に隠れていた。普段は気性荒く振る舞うくせに、地位を求める時は母に隠れる。情けないというか、不甲斐無いという。ボアネルゲの名が廃る場面。
この願いに対してイエス様は、いくつかのやりとりを経て答えています。「それは父が備えるのだ」と。ですので、ヤコブとヨハネ兄弟、その母の願いは、願い通りとはなりませんでした。
ところが、二人が抜け駆けして、高い地位を願ったということに、十二弟子の残りの者たちは腹を立てたと言います。
マタイ20章24節
「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」
なぜ腹を立てたのでしょうか。残りの十人も、ヤコブとヨハネ兄弟と同じ思いだったからでしょう。私こそ、イエス様の左か右に座るのに相応しい。座るべきだと考えていた。だから、抜け駆けをしたヤコブ、ヨハネに腹を立てたのです。これが弟子たちの姿。それもイエス様が十字架での死と復活を予告した直後の弟子たちの姿です。
皆様はどのように思われるでしょうか。情けない、恥ずかしい、ひどい体たらくだと思うでしょうか。それとも、私も同じ、この十二人と何ら変わらないと思うでしょうか。
神様から離れた人間。罪人の思いの一つは、自分を高くしたい。人を従え、仕えられる立場に着きたいというもの。仕えるよりも、仕えられたい。どうしても、自分を低くするということが分からない。罪の思いというのは、自分を高く高く、上へ上へと向かわせるのです。いかがでしょうか。自分の心の中に、このような思いはないでしょうか。
これがキリストの弟子たちのうちに起こった姿であるというのが深刻です。彼らはキリストに従っていた者たち。信仰を持った者たちです。その者たちをして、誰が偉いのか、誰の地位が高いのか。誰が仕える者で、誰が仕えられる者なのか。キリストの十字架を目の前にしながら、それよりも自分が大切なのです。信仰の世界でも、これが起こるのです。
私は何年、何十年と教会生活を守った。私は聖書を読むことを欠かさない。祈ることを欠かさない。これだけ奉仕した。これだけ伝道した。そのようにして自分を偉く見せたい。自分で自分を偉いと思いたい。そのような思いが、私たちクリスチャンの心から沸いてくるのです。この時の弟子たちの姿は、私たちの姿でもある。そのように読めます。
このような弟子たちに。このような私たちに、イエス様は何を語られたのか。
マタイ20章25節〜27節
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。』」
十字架での死と復活を宣告した直後に、偉くなりたいと騒ぐ弟子たち。ご自身が徹底的に低くなることを宣言されているのに、仕えられたいと騒ぐ弟子たち。少しも主の心を慮らず傷つけるだけの弟子たち。自分がイエス様の立場であれば、この弟子たちを見捨てても良いと思うところ。しかし、我らが救い主は、これでも弟子たちに懇切丁寧に教えるのです。ありがたいというか、勿体ないというか。
「いいですか。人を思い通りに動かすこと。人に仕えられること。それが、地位が高いこと。偉いことだと思っているのでしょう。しかし、それは神を知らない異邦人の考え方です。この世界の作り主を知らず、どのように生きたら良いのか知らない異邦人は、支配し、権力をふるうことこそ、地位があり偉いことだと考えています。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。むしろ地位があり、偉いというのは、皆に仕える者であり、しもべとなること。神無しの考え方、異邦人の考え方に染まるのではなく、神の国の考え方を忘れないように。」と語られるのです。
この世界の考え方とは正反対。逆説的。しかし、これが真の宗教であり、キリスト教です。この言葉を私たち一人一人が本当に受け入れたとしたら、この地にあって大きな影響力を持つ教会となるでしょう。証で聞いたことがあります。教会を訪れた際、スリッパを出してくれた人がいた。後で分かったのは、その人は社会では大変高い地位についている方であること。偉ぶる所か、喜んで下足番をしている姿が非常に印象深く、それ以来教会に通い続けたというものです。似たような証は多くあります。皆で、仕える者となることを目指したいのです。
さて、それではどのようにしたら、私たちは喜んで仕えることを選びとれるのでしょうか。先に確認したように、クリスチャンの中にも、偉くなりたいという思い。それも異邦人の思として、偉くなりたいというものが存在するのです。真面目にクリスチャン生活を続ければ続ける程、その誘惑が強くなるとも言えます。私たちはどうしたら、仕える者となれるのか。それは次のイエス様の言葉を真正面から受け止めることです。
マタイ20章28節
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
神が人となる。その大奇跡を起こしながら、神様は何をしたかったのかと言えば、仕えたかったというのです。仕えるために、人となったのだと。誰に仕えるのでしょうか。私たちです。私たちに仕えるために、世界のつくり主が人となったのです。
どのように仕えるのでしょうか。それは贖いの代価として。自分の命を与える。つまり私たちの身代わりに十字架につく。それ程まで徹底的に仕えるのです。これ以上ないほど、低く低くなって私たちに仕えるというのです。
皆様、今日はこの言葉に真正面しましょう。この言葉を真剣に味わいましょう。この言葉を胸に刻みましょう。世界のつくり主が、私のために、徹底的に低くなり仕えられた。王の王、主の主である方が、私に仕えるというのです。これを信じることが出来るでしょうか。
この聖書の言葉を本気で受け止める時、偉くなりたい、仕えられたいという思いが治まると思います。神様に仕えてもらったのですから、十分なのです。十分過ぎるのです。
「世界をつくり、支配される神が、あなたに仕えるために人となられた。それもあなたの身代わりに十字架で命を落とす。それ程までにあなたに仕えられました。」これが福音の中心です。これを信じられる人は本当に幸いです。
今日の聖句を皆で読みたいと思います。
ピリピ人への手紙2章6節〜8節
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
以上、今日の箇所から、私たちの神様がどのようなお方か。私たちに仕える神であることを確認してきました。最後に一つのことを確認して終わりにしたいと思います。
イエス様は、このマタイ20章28節で、ご自身が仕えるということを、「自分のいのちを与える」と表現しています。「いのちを与える」と。これは、キリストを信じるということが、キリストのいのちを頂くことを意味しているからです。キリストを私の救い主と信じるというのは、キリストのいのちを頂くということです。
神から離れたいのち。罪人のいのちは、自分を偉く見せたい。自分を偉いと思いたい。人を支配し、自分の思い通りに動かしたい。そのように思うしか出来なかった命です。その自己中心的な命を持つ私たちに、キリストはご自分のいのちを与えて下さった。それはつまり、仕えることが出来るいのち。仕えることが喜びとなるいのちを下さったということです。
このように考えていきますと、キリストを信じるとは、仕える者となるように召されたということ。私たちクリスチャンは、仕える者です。徹底的に神様に仕えられた者として、私たち自身も仕える者となる。私たちは、神様に、教会に、家族、友人、知人に、そしてこの世界に仕える者である。キリストのいのちを頂いた者として、仕える者の歩みを全うしていきたいと思います。
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