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メッセージ
聖書には神様から私たちに対する命令が、様々記されています。原理原則もあれば、微に入り細に入り具体的なものもある。ある時代、ある地域の人々に対する命令もあれば、どの時代、どの地域の人にもそのまま適応される普遍的な命令もあります。聖書は世界のつくり主から私たちに対する命令の書。
しかし「命令」という言葉は、上官から下士官へ、上司から部下へ、目上の者から目下の者へ下されるもの。その命令に従うことが自分にとって良くない結果を生む場合でも、それに従わないといけない印象があります。実際に神様が私たちに命じられることは、私たちのためのもの。何が危険なのか分からない子どもに、あそこに行ってはいけない、これを触ってはいけないと、親が命じるのに似ています。命令というより、ルール、規準と言った方が良いでしょうか。
もし聖書を知らなければ、何が正しい、何が間違っているのか、自分で決めることになる。自分で善悪を判断するとなると、自分に甘く、他人には厳しい判断を下すでしょう。自分の判断基準も、テレビや雑誌、インターネットの影響を受け、何が正しいのかよく分からなくなると思います。
このように考えると、私たちを愛してやまない神様が、私たちが幸せに生きるために、どのように生きたら良いのか教えて下さっている。この聖書を私たちが手にしていることがどれだけ重要なことか。自分の人生に聖書という規準があることが、どれだけ大きな恵みなのかと気づくのです。
聖書には様々な命令、ルールがあるのですが、その代表は何と言っても「十戒」でしょう。教会に来たことのない人でも、「十戒」という言葉は知っている方が多くいます。1956年に作られた映画、チャールトンヘストン主演の「十戒」は、名作として日本でも有名です。
今日は、礼拝とは何か、私たちは日曜日をどのように用いるべきかを、十戒のうち第四戒に焦点を当てて考えていきたいと思います。まずは第四戒そのものを見る前に、十戒についていくつかのことを確認しておきます。
この十戒はどのような場面で語られたのでしょうか。十戒が教えられたのは、旧約聖書の中でも特筆すべき出来事の一つ、出エジプトと関係がありました。
今より三千年以上前。エジプトで起こったこと。当時のエジプトは近隣諸国に大きな影響を及ぼすことが出来る強国。そのエジプトで奴隷として生活するイスラエルの民が、奴隷から解放され、神様が与えると約束していたカナンの地へと行く。奴隷であったエジプトから出て、約束の地へ入る。これが出エジプトです。実際に出エジプトの出来事が起こる際には、様々な神様の助け、奇跡が行われました。イスラエルの民は、この出来事を通して、真に頼るべき方は誰なのか、体験を通して教えられたのです。
エジプトを出て、約束の地カナンに入る前。その移動途中に与えられたのがこの十戒でした。十戒が教えられる前、神様もこの出来事を確認して語られています。
出エジプト記20章2節
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」
「あなたがたは今まで奴隷でした。自分の願うような生き方を出来ない状況でした。しかし、今は奴隷の家から連れ出されたのです。これからは、あなたの願うように生きられるのです。さあ、どのように生きたら良いのか、教えましょう。」このようにして、十戒は語られました。
実に、この順番が大切です。つまり、「この十戒の生き方をしたら、あなたがたをエジプトから連れ出してあげましょう」ではなかった。「エジプトを連れ出されたあなたがたは、神の民として、このように生きましょう」と教えられた。キリスト教は恵みの宗教。行いが正しいから救うではない。救われた者として、正しい歩みを願うというあり方が、ここにも見出せるのです。
十戒はエジプトから出て、約束の地に入るまでの間に与えられた。それはそうなのですが、聖書を開きますと、二つの箇所に十戒が記されています。一つが今日開いている出エジプト記20章。もう一つは申命記5章です。なぜ二つの箇所に出てくるのか。
出エジプト記の20章というのは、エジプトを出て間もない段階です。そこでモーセを通して神様から十戒が与えられました。それに対して申命記というのは、約束の地カナンに入る直前です。エジプトを出たあと、四十年の荒野での生活を経て、約束の地を前に老モーセが説教をする。その説教の中で、十戒が出てくるのです。そもそも「申命記」という名前は、重ねて命じるという意味でした。このようなわけで、二つの箇所に出てくることは不自然ではないのですが、実は出エジプト記と申命記の十戒には、少しだけ違いがあります。十戒の命令部分は同じなのですが、戒めを守るように言われている理由部分で違いがあるのです。それも私たちが今日確認しようとしている第四戒がそれに当たります。どのように違うのかは、後ほど確認いたします。
もう一つ、十戒のことで覚えておきたいのは、この出エジプトという出来事は、キリストの十字架がどのようなものか指し示す出来事でもありました。「予型」と言いますが、やがて来る救い主が、どのようなことをして下さるのか表す出来事です。
エジプトで奴隷だった者たちが、神様によって救いだされ、約束の地へ入れられる。これは、罪の奴隷である私たちが、神様によって救いだされ、天国へ入れられることを、指し示すものでもありました。
エジプトから救い出された者たちが、神の民として十戒が与えられた。そうだとすれば、キリストの十字架によって罪から救い出された私たちは、神の子として、ますます十戒を守る者でありたいと思うのです。
以上、長い前口上になりましたが、十戒についてのいくつかのことを覚えながら、第四戒に焦点を当てたいと思います。
出エジプト記20章8節
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」
第四戒は「安息日を聖なる日とする。」というものでした。安息日ですが、これはキリストの復活まで土曜日、キリストの復活以後、日曜日となりました。それでは、日曜日を聖なるものとするとは、具体的にどうすることでしょうか。皆様は、この命令を具体的にどのように守るものと考えているでしょうか。
「聖」という言葉は、聖書でいくつかの意味があるように思います。一つは罪による汚れの反対です。つまり、「聖なるものとする」と言うと、汚れたものを聖くするという意味。
しかし、「聖なるものとする」にはもう一つ大切な意味がありまして、それは「神様のものとする」という意味です。何かを聖なるものとするというのは、それを神様のものとするという意味があります。人が聖なるものとされる場合。それはつまり、その人が神様のものとなるという意味。聖徒、クリスチャンのこと。私たちが持っている物を聖なるものとするならば、それは神様のものとしたという意味。献品です。お金を聖なるものとするなら、そのお金は神様のものとしたという意味。献金。このように考えると、日曜日を聖なる日とするというのは、日曜日を神様のものとする。この一日を、神様のために使う時間とするのです。
パウロの言葉が思い出されるところです。
ガラテヤ2章20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
私たちは、神様に時間をささげる。この一日を神様のものとする。そのような思いを持って、この礼拝に臨んでいるでしょうか。いや、礼拝だけの話ではありません。一日全てを、神様のために使う思いはあるでしょうか。私が生きているのではない。私のうちにおられるキリストが生きているのだと言うほどに、この一日を神様のものとする。そのような生き方をなしたいと願います。
ところで、この命令は私たちに枷をつけるためのものではありません。むしろ、私たちのためのもの。私たちが真に幸せに生きるために与えられたものです。それでは、どうして聖なる日とすることが、私たちのためになるのでしょうか。
その理由が、十戒の第四戒が語られた直後に出てきます。この部分が、先に言いましたように、出エジプト記と、申命記で異なるのですが、まずは出エジプト記から見てみたいと思います。
出エジプト記20章9節〜11節
「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」
なぜ安息日を聖なる日とするのか。一つの理由は神様が世界を創造されたことと関係があります。神様は世界つくられた時、六日で世界を作りました。そうだとすれば、六日のサイクルでも良かったはずです。つまり一週間が六日でも良かったでしょう。ところが、神様は創造の初めから、一日を聖なる日とした。つまり、一週間のサイクルを七日とし、六日は労働のため、一日は神様のために使う日として定められたのです。
このことは、創世記の初めにはっきりと書いてあることでした。
創世記2章3節
「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」
ところで、人間は世界の創造の中で最後につくられました。六日目のそれも最後です。人間はつくられて早々に、七日目を迎える存在。まずは神様との時間、聖なる日を味わう存在としてつくられたのです。
このことは、とても大切なことを教えてくれます。人間はそもそも何のためにつくられたのかということです。私たちがつくられた第一の目的は、神様との時間を喜ぶこと。それを楽しむことでした。
今の私たちが、日曜日を聖なる日とすること。この一日を神様のために使う時間とすることは、私たちがつくられた目的に従って生きることを意味しています。言い換えると、もし私たちが日曜日を聖なる日としない。この一日を神様のために使わないとするなら、それはつくられた目的に沿わないということです。
出エジプト記20章の第四戒は、創造の話を理由に、安息日を聖なる日とすることが語られていました。申命記では、何が理由となっているでしょうか。
申命記5章12節〜15節
「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。――そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」
安息日を聖なる日とすることの、もう一つの意味。それは、奴隷状態から救われた。贖われたからです。これまで、自分がどのように願おうとも、働かされていた。毎日、労働であった。しかし、その状態から贖われたのです。働くのは六日までとし、一日は仕事をしてはならない。神様との時間を取るようにと言われたのです。奴隷ではなく、神の民として生きるように。神の民として生きることを覚えるため、安息日を聖なる日とするよう教えられています。
これもまた重要でした。私たちはエジプトで奴隷生活を送ったことはありません。しかし、罪の奴隷ではありました。何が正しいことか分からず、主にお金のために生きてきた。生きるのにお金は必要です。しかし、お金のために生きるという本末転倒が、度々起こるのです。そのためでしょうか。安息日を聖なる日とすることは、十戒で教えられて以降、聖書で度々出てきます。何度も繰り返し、教えられているのです。罪の奴隷、お金の奴隷として生きるのではなく、神の民として生きる。どうしたら、これを実現出来るのかと言えば、その一つの方法が、日曜日を聖なる日とすること。
自分が奴隷ではなく神の子でることを、頭で理解するだけでなく、実際の生活で実践する。それが、日曜日を聖なる日とする生き方でした。
このように見ていきますと、私たちがつくられたのも、私たちが救われたのも、それが何のためかと言えば、安息日を聖なる日とするため。日曜日を聖なる日とするためと言っても、言い過ぎではないでしょう。私たちにとり、本当に大切な戒め、重要な教えであることが分かります。
私たちは、安息日を聖なる日とする教えについて、今までどれだけ真剣に考え、取り組んできたでしょうか。一週間の初めの日を、神様のものとする。神様におささげする。その時、私たちはこの日曜日を、どのように使うでしょうか。
今日の聖句を皆で読みたいと思います。
ヨハネの手紙第一5章3節
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」
日曜日を聖なる日とすること。それは、神様を愛することの具体的な現われであり、重荷とはならない。むしろそれによって、大きな喜びを得ることを覚えます。この御言葉に励まされながら、日曜日、それぞれ具体的にどのように生きていくのか。皆で真剣に考え、決心したことを実践する。そのような歩みを、皆でしていきたいと思います。
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